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愛しき君の肖像


「人は死ぬ。あっけなく死ぬ。なぜか。それは命を持つからだ」

 舞台の台本でも朗読するように、声は語る。

「人である以上、終わりは必ず訪れる。寿命、病気、飢餓、事故、殺害、等々と終わり方は様々だ。……だが、過程は違えど行き着く先は全て同じ、死に他ならぬ。収斂の先にある唯一は万人に等しく用意されている」

 当然のことをおさらいするように、とうとうと。静かな夜の下、彼女はつまらなそうに続ける。

「命は脆い。あらゆる方向から終わりに晒されている。そして終わりが来たら死ぬ。―――終わりの結果で、死ぬ。終わりと死は分けて考えなければならぬ。終わりは訪れるもので、死は到るものだからだ」

 言いたいことは分かるが、それに何の意味があるかが理解できない。まるで聖典のようだと感じて、ここが教会の前であることを思い出した。

 ならばこれは託宣か。そんな考えが過ぎってしまい、マストは少し可笑しくなった。

「今、貴様は終わりに到ろうとした。だが死は来ていない」

「あなたが助けてくれたからでしょう、フィオーレ様」

 仰向けに寝転がったまま、マストは彼女の名を呼んだ。

 飛び降りたマストにはいつまでたっても、予想された激突の衝撃も、痛みもなかった。気づけば何もなかったかのように地面に寝転んでいて、夢の中のようにフワフワしていたが、現実であることは理解していた。

 何をされたかなど分かるはずもないが、誰がやったのかは不思議と察することができて。だから、どうやって、なんて。そんな些末などどうでも良かった。マストが飛び降り、フィオーレが助けた。その事実だけが重要だった。

 首を少し巡らせれば、すぐ近くに白いドレスの女が立っている。心底呆れたような目で見下ろしている。

 その、左目が。

「……それ、どうしたんですか?」

 この暗さでも、あまりの違和感で気づいた。フィオーレの左目。この冬の夜風よりもなお冷ややかな瞳が、あの鮮血のような赤から蛍雪の銀に変わっていたのだ。

 問われたフィオーレは、赤と銀のヘテロクロミアを細めて鼻で笑う。

「これか。ふん、貴様がやったのだろう?」

「僕……が?」

 もちろんマストにはなんの覚えも無い。だがもしマストがやったのならば、あの夜だろう。激昂したフィオーレに首を絞められ、吊り上げられたとき、無意識にもがいて彼女を傷つけてしまったのかもしれない。そういえばあのとき、ペインティングナイフは持ったままだったろうか?

 いやしかし、目を傷つけて潰れるならともかく、色が変わるなんて話は聞いたことがない。

「存在証明と媒体依存の話だ。貴様は理解せずとも良い」

 自分の目のことなのに、他人事のようにそう言って。

 フィオーレは弓月を見上げた。

「それより、今宵は貴様のことだ」

 月は断罪の刃のように、妖しく空にあった。教会の天辺に座する十字架は威圧的に見下ろし、風は木の枝葉を不穏にざわめかせる。

 マストは瞼を閉じた。心は静かだった。何を言われても受け入れる気でいた。

「命を賭けろ、と言っただろう。契約した時点で貴様の命は私が握っている。それをどうするかは私が決めることだ。違うか? マスト・ポート」

 それは、その通りだ。マストは呆れるほどあっさり納得してしまう。賭けた以上、賭け品は結果が出るまで胴元の預かりだ。途中で返せなどというのは馬鹿な話だった。彼女がそんな勝手を許すはずがない。

 助けられたのではなく、死ぬことが許されなかった。これはそれだけのことなのだ。

「何も間違いはありません」

 ぐうの音も出ず、ただ肯定するしかない。反論なんて思い浮かばなかったし、何よりこれを否定してはならないと、マストの中の何かが頑なに主張した。

「己が命を賭けておきながら、自ら絶つは甘えだ。違うか、マスト・ポート」

 抉られるようだった。言葉の重みで胸が圧迫されたようで、呼吸が苦しくなる。殴られた方がまだマシだと思った。殴られれば痛むのは身体だけだが、言葉は魂を攻める。

「おっしゃるとおりです」

 絞り出すように答える。

 フィオーレの次の言葉まで、数拍の間があった。

「貴様がもう死にたかろうが、私は知らぬ。だが殺して欲しいなら、手を抜いて描けばいい。その時はその心臓、ためらいなく抉ってやろう」

「え……?」

 思わず、マストは身を起こしてフィオーレを見上げた。今の言い方はまるで、もう一度肖像画を描けと言われているようにしか聞こえなくて、それが信じられなかった。

 彼女は不機嫌そうな顔で、以前とは違う銀の目で、青年を見ていた。

「この間は痛みに我を忘れたが、肖像画の良否が賭の対象である以上、私も貴様が描き終えるまで賭け品に手を出せぬが道理だろう。違うか? マスト・ポート」

 それは、道理だ。

 だが彼女には、律儀にその道理を守る必要が無い。

「僕はあなたに無礼をはたらきました。そちらから契約を破棄されるのには十分なほどの。己の感情にまかせ、あなたに八つ当たりし、完成間近の絵をダメにした罪です。その裁定なくして正しいと頷けません」

 まるで逆だった。裁かれる方が催促している。懇願のようだった。マストはなぜ自分がそんなことをするのか分からなかった。

 フィオーレは応じなかった。

「罰は与えねばならぬ。しかしそれは礼を失したことであって、契約自体には問題無い。私は時間をかけても良いとしていた。完成間近の絵が破損しようが、明確な期限を決定しなかった以上、また書き直せば良しとせねばならぬ。そして契約に関係ない点での罰則は、契約の妨げになってはならぬ」

 その論理には納得できなかった。肖像画を描く契約で、完成間近の絵を契約主への断りなく壊して良いはずがない。少なくとも、契約には問題が無いなんて言い過ぎではないか。

 だが、それを決めるのはマストではなくフィオーレなのだ。

「……それは慈悲では無いのですか?」

「否だ」

 短くきっぱりと、疑いを彼女は否定した。何を勘違いしている、とでも言いたげだった。

 だから、やっと。いまさら、遅すぎたけれど、それでも。

 マストは察することができた。

 五日。あの夜から今日まで、五日あった。その間、彼女が何をしていたのか。それが分かったのだ。

 きっと。彼女は苦悩していた。

「どうしても、欲しいんですね」

 殺されるかな、と思った。

 けれど、帰ってきたのは微笑だった。

「そうだとも。ようやく気づいたか、大ボケめ」

 彼女の笑顔を久しぶりに見た気がした。

 それがすごく綺麗で。

 指が震えた。


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