自画像2
「似顔絵ってのは少し美形に描くんだろ? なんであんなゾンビみたいなの描くんだよ」
シャキシャキシャキ、と軽快に鋏を操る。慣れているのか、サロウドの手先は話しながらでも迷いがない。
「そりゃあ似顔絵は相手を喜ばすのが第一だからね。でも肖像画は違うよ。その人の今の姿をそのまま絵にするのが重要なんだ」
されるがままになりながらも、マストは不満顔をする。ちゃんと食事をし、しっかり熟睡し、湧かした湯で身体を洗った青年は朝よりも明らかに血色がいい。目の下の隈もとれていた。
「だからって、見た目が最悪のときを描いてどーすんだよ。絵描きってやつは最高の瞬間をそのまま絵で残せるんだぜ? だったらモデルが一番良く見える時を描くのがいいんでないの?」
「……久しぶりだったんだよ。自分の顔見るの。そりゃあ前見たのと違いすぎて、誰だとは思ったけど」
「まあそうだろうな。鏡なんて機会がなければ見ないしな」
サロウドは鋏を操る手を止め、櫛でマストの髪を整える。
それから口を閉じ、先ほどまでよりは慎重に鋏を入れ始めた。
痛んだ髪だ。ざらつく黒髪の長さを揃えながら、サロウドはどんな表情をしていいのか分からなかった。
十分な手入れがされていないのではなく、栄養と休養が足りていない痛み方だ。本業で稼げず炉端の似顔絵描きをやっているのだから、貧乏なのは当然で、あまりまともな食事をしているとも思えない。彼が金払いを渋ったことはなかったが、一緒の家に住んでいるのだから、食事にも困る生活をしているのは容易に想像できた。
そもそも……この都で娯楽で稼ぐというのは、なかなか困難な話なのだ。
国は長らく続いた戦争で疲弊している。
この都は戦地にこそならなかったが、前線に近かった。領民からさまざまなものを巻き上げて出兵していた領主は、疲弊しきって共倒れしたような和平成立後、なんの戦果も得られず帰還した。
現在、この都は金も人も食料も足りない。生きるのに精一杯の平民たちは、腹のふくれない娯楽に財布の紐を締め、細々とした生活に身をやつしている。
だから、マストのような人間は当たり前のように貧している。
しかし、だから絵をやめてまともに働けなんて、サロウドには口にできない。
サロウドも娯楽の提供で生きている。今はなんとかリュートで食えているが、先が保証されているわけではない。
こいつで食えなくなったら、自分はどうするだろう。……そんな妄想をしたら、答えはいつも決まっていた。リュートを抱えてのたれ死ぬのだ。
「よし、終わったぞ」
サロウドは鋏と櫛を置くと、マストに鏡を手渡す。マストは慎重そうにそれを受け取って、そこに映る自分の顔をまじまじと見た。
「……別人だね」
「おう。こうして見ると、お前もそこそこの顔してるよな。線も細いし、ちょっと化粧して着飾ってみるか?」
「女装の趣味はない」
「じゃあ今日はそのまま寝ろ。鏡は明日の朝貸してやる」
「……もう体調は回復したけど?」
マストは不満そうだが、借用する立場だからか強気に出れない。そんな友人をからかうように、サロウドは笑んでみせる。
「お前は焦りすぎだ。隠し事がばれるぞ」
絵描きの青年は、言い訳のしようもないくらい分かりやすく、表情を歪めた。
翌朝から、マストはキャンパスに筆を入れ始めた。
自分の部屋の中だが、窓は開けてあるので十分明るい。この前と同じように机に鏡を置き、その近くにイーゼルを立てる。椅子に座り、筆先を溶いた油絵の具に浸し、白い下地に色を落としていく。
鏡を見れば、自分が自分を見つめている。……それは、不思議な光景ではあった。
マスト・ポート。鏡に映るのはそんな名前の男だ。
昨日散髪したばかりの黒髪に、柔和な印象を与える深緑の瞳。小さめの鼻と、唇の薄い口。輪郭はやせ気味で細く、髭のない顎も細い。少し日に焼けた肌は、外で似顔絵描きをしていたからか。
サロウドはそこそこの顔と言ったが、ひいき目に見ても美形ではないとマストは思う。やはり同じ相手に言われた、貧相な男、というのがしっくり来るだろう。
街を歩いていても、目にとまるような外見ではない。高貴な身分もなければ、何かを成し遂げた英雄でもない。
ただの金の無い絵描き。
そんな、描く価値皆無な人間が今回のモデルである。ちょっとくらい見た目を整えたところで、何が変わるものか。どれほど上手く描いても価値はゼロに決まっている。
それでも、
「特別だぞ。……タダで描いてもらえるなんて、幸運なヤツめ」
鏡の中の男は、少しだけ楽しそうだった。
自己とは特別な存在だ。
それが何者でなくとも、それだけは無視できない唯一のものだ。
それには責任を持たねばならない。それの運命を受け入れなければならない。それの過去を背負い、未来を見据え、今を生きねばならない。
貧相でも、貧乏でも、何も成し遂げていなくても。
絵に縋るしかない哀れな男でも。
それが己であることを、無視することはできない。
そんなことは知っていた。痛すぎるほどに知っていた。寒さも、ひもじさも、大切なものを手放すしかない悲しみも、欲しいものがどうしても手に入らない憤りも、すべてがそれを教えてくれた。
―――僕は、こんなもんだ。
鏡の向こうの男は、それを改めて教えるように笑んでいる。ならば鏡のこっちの男も、同じように笑っているのだろう。
描こう。
この世界に生きるちっぽけな自分をそのままに。
絵を描く幸福を謳歌しよう。
きっと、神はその程度の祝福しか与えてくれないだろうから。