答え 6
神の話をしよう。
主は全知全能。だがそれ故に不完全であると結論づける。
何も、神自らが持てぬほど重い岩を創ることは可能か否か、などといじわる問題をいうわけではない。それ以前の問題で、人にできて神にできぬことがある。
何でもできて、何でも知っているが故に。
概念としては知っているだろう。
いくらでも目にしてきただろう。
だが、己の実感としてそれを胸に宿すことはない。
全知全能の神は、絶望を真には理解できぬのだ。
夜ではあるが、教会の礼拝堂は開いていた。
ここは祈りに訪れる者を拒まない。故に常に門は開け放たれている。
神父か修道女の一人くらいいるかと思ったが、姿は見えなかった。きっと孤児院の方にいるのだろう。戦争の影響で、どこの孤児院も親のいない子供で溢れている。普段誰も来ないような時間にまで、人員を割けるほどの余裕は無いのだろう。
ほんのわずかな月光がステンドグラスを透けて、淡く壇上を照らしている。シンと冷たい空気が凍るようにたたずんで、屋内なのに凍えるような感じた。
いつもよりもなお、空々しい、と感じるのは、もはや愛想も尽きたが故か。
劣化した古い絵の具のように、パリパリと剥がれそうな感覚。ふとした拍子に壊れてしまうような気がして、マストは暗い礼拝堂に入ると、足音を立てないよう移動した。最後列の席に座り、胸の前で手を組んで瞼を閉じる。
静かだった。何の音もしない。
空虚だった。何も祈りたいことが浮かんでこない。
ただ形をまねただけの祈りの姿勢。意味の無い儀式の最も無意義な末路。
神などいない。
そんなことはとうに知っていた。
幽鬼のように立ち上がる。ゆっくりと移動して、奥の扉へと近づく。閉め忘れたのか、普段からそうなのか、鍵はかかっていなかった。立て付けの悪い扉をギィと開け、普段立ち入らない廊下へと不法侵入する。
この教会は何度か描いたことがあった。大きくはないが小さくもなく、鐘楼が高くて見た目が良い。借家から近いこともあり、絵のモチーフとして重宝していた。
記憶を探る。建物のカタチ。開いた窓から見えた屋内。目的地の位置。
階段を見つけ、登る。二階に上がり、さらに上がり、そして梯子に手をかける。
拍子抜けするほどあっけなく、たどり着いてしまった。
鐘楼。教会の天辺の、鐘のある場所。
初めて足を踏み入れたそこは、高くて風があって寒かった。
まさかこんな簡単に登ってしまえるとは思わず、マストは呆れかえった気分でそこからの景色を堪能する。この世情だ。教会はもう少し警戒してもいいと思うなどと、自分の行いを棚に上げて逆に心配になる。
まあ、今の自分には好都合ではあった。面倒が減ったというだけのことではあるが。たまたま一番最初に思いついたのがここだっただけで、ダメなら他に向かったまでの話。
腰ほどの丈の欄干に脚をかけ、細い柱を掴んで身体を持ち上げる。欄干の上に立ち、冷たい風に目を細めながら、胸一杯に空気を吸った。そしてゆっくりと息を吐き出し、下を見る。
やはり高い。
これなら十分死ねるだろう。
「おお、神様」
縁に立ったまま柱から手を離し、マストは踊るように振り返った。鐘があったので、それに語りかける。
「あなたが本当に、どこかにいてくれれば良いのに」
応える者はいない。そんなことは承知だったので、薄く笑った。
「それなら、心置きなく恨める」
笑ったまま、背後に倒れ込むように、あっさりと。
身を投げる。
時間が引き延ばされる感覚。全てがゆっくりと動いて見える一時。ほんの刹那の永遠。これは死んだ、って時にこうなることがあると、かつてのグランセンの話を思い出した。あのときはいつもの眉唾だと相手にしなかった。
自分は壊れている。肉体的にも弱いし、精神的にも欠損している。
贋作を描け、とニズは言った。今になって考えれば、絵だけに心動かされる自分にとって、贋作は確かに最も合っている。彼女もまたそれを知っていた。
あなたを救います、と言ってくれたアリシア。よくよく考えればありがたいことだ。彼女の誇り高い魂には敬意を払いたい。
何も思うところはないのではありませんか、と指摘したエリサ。あの言葉がなければ、いつまでもそれに気づけなかっただろう。
だからお前はダメなんだ、と笑って憎まれ口を叩くサロウド。彼はいつもそうやって、自分を普通へと導こうとしていた。
そして……フィオーレ。彼女にはあわせる顔もなくて。それだけは、ああ、そうだ。
「心残りだ」
仰向けに落ちながら、ぽつりとつぶやく。
視界には夜の空。
満天の星と、弓のような細い月。
なんて綺麗なんだろう、と。心の底から感動した。