答え 5
もう夕暮れ時ではあったが、酒場には他に客がいなかった。今は物騒で、この都では夜に出歩く者はあまりいない。大通りの辺りはまだ多少の賑わいはあるはずだが、こういう少し奥まった小さな店は、開いているだけで珍しい。
「しっかしマストのおごりとはなー。明日は槍でも降るんじゃないか?」
サロウドがケラケラと笑いながらジョッキを軽く掲げたので、マストも自分のジョッキを持ち上げる。寂れた店内に、コン、と木製の容器がぶつかる音が響いた。
ここはマストたちが住む借家の近くで、この辺りでは唯一夜に開く店だった。いつも席は半分も埋まらないが、近所の人間が入れ替わりのように利用するのだそうだ。
「臨時収入があったからね。まあ、たまにはさ」
言いながら、マストは左手に持った銀貨を見せる。この店ならばこれ一枚で、二人で好きなだけ飲み食いしても足りるだろう。
アリシアたちが出立したのを見送って、マストは世話になった詰め所をあとにした。やることも無いのに居座る理由はないからだ。身体はまだ痣が残っていたり、痛む場所もあったが、すでに満足に動けるようようになっていた。
そして、自宅に帰った後にサロウドを誘い、今ここにいる。
「お、それって例の人相書きの報酬だろ? 伝聞なのにめちゃくちゃ似てるって聞いてるぞ」
言ったのはグランセンだろう。
「たまたま人間の顔を書き慣れてただけだよ。あんなの大した仕事じゃない」
「ははは、謙遜すんなよ。世のため人のための仕事だろ? 大したもんだって。つーかお前、それで喰っていけるんじゃないか? この際専属の人相書き屋になるとかどうだ」
「暇なときなら請け負うと言ったけど、本業にする気はないよ」
「はん、相変わらず不器用なこった。そんなだからお前は貧乏なんだ……お、きたきた。これ美味いぞ。喰え喰え」
陽気に笑い飛ばしながら、サロウドは運ばれてきた肉料理をマストに勧める。
適当に切って焼いた肉にソースをぶちまけただけのような、雑な盛り付けの料理。だが見ようによっては野趣溢れると形容できなくもなく、何よりできたての湯気と香りが食欲をそそる。マストが言われるままに一口大のそれを口に運ぶと、ハーブの香りがふわりと口内に広がった。辛めのソースでしっかり味付けされた赤身は予想外に柔らかく、意外なほど整えられた味に目を丸くして咀嚼する。
「これは……たしかに、美味いな。何の肉?」
「羊だよ。羊肉は普通臭いが、これは香草で匂いを消してる。んでソースが辛めだから酒に良く合うんだ」
サロウドは解説しながら、フォークで肉を二切れ刺すと大口を開けて頬張る。美味そうに噛みしめ、エールで流し込んだ。
「くぅぅ、やっぱこれだよな。美味いもんと酒。これが潤いってもんだ。人生にはこれがなくちゃいけねぇよな、そうだろ?」
そうだろ、と言われても、マストは酒を美味いと感じたことがない。苦くて刺激が強いし、酔うとすぐに気持ち悪くなる。そもそも身体が弱いから、深酒すると真面目に命が危うい気がする。
それでも、今日ばかりはマストも飲む。エールがなみなみと注がれたジョッキを持ち上げ、ゴクゴクと勢いよく一気に飲み干すと、カンッとテーブルに叩きつけた。
「うおお? やるなぁマスト。お前そんなにイケるクチだっけ?」
予想外の一気飲みに拍手するサロウド。そんな友人を見て、マストはギリと奥歯を噛みしめた。
あの日から、五日間。それだけあれば当然、思い至る。
「……なあ、君は知っていたんだろう?」
低い声だった。肺腑の底からようやっと絞り出したような。
サロウドはきょとんとして、二、三度まばたきした。
「何の話だ?」
「僕の欠点の話だ」
かぶせるように答えた。とぼけられてなるものか、という確固たる意思でもって、マストは友人を睨み付ける。
その視線の先の彼は落ち着いた仕草で、ふむ、顎に手をやった。きれいに髭を剃ってある肌を撫で、思案顔で。
「……どの欠点の話だ?」
いら、とマストの額に青筋が浮かんだ。
「絵の欠点の話だ」
「ああ、それか。つーか、お前は欠点多すぎだから、そう言ってくれないと分かんだろ」
ようやっと合点がいったというように手をポンと打ち、サロウドは笑いながらエールを一口飲んだ。ゆっくりとした動作でジョッキを置いて……見せつけるように、嫌らしく口端を吊り上げる。
「もちろん。当然」
その答えを聞いて、マストは息を吐いた。
思えば、彼が気づいてないはずはなかった。マストと長年共に住んでいる、一番近い友人だ。そして、彼は芸術家でもある。音楽と絵画ではかなりの違いがあるが、共に芸術に属する以上、根幹は似通っているはずだ。そしてマストの欠点は根幹にある。
彼は知っていて黙っていた。そんなの、少し考えればすぐに分かる。だから……サロウドがそれを偽らなかったのなら、それで怒りはするりと収まった。そもそも理不尽な怒りであったことは、自分でよく分かっていたからだ。
ただ、理由だけは気になる。
「なんで、」
「マスター、酒だ。コイツはエール、オレは一番強いのくれよ」
追求の言葉を遮られ、マストは鼻白む。サロウドは再度ジョッキを掴むと、さっきマストがやって見せたように、一気に飲み干した。ぷはー、と酒気の息を吐き、へらりと笑う。
「しらふで話すことかよ。まったく、だからお前はダメなんだ」
言いながらサロウドはフォークを操り、肉を口に運んだ。ことさらゆっくり味わってから、飲み下す。
長い付き合いだから、マストは分かった。これは思考の間だ。サロウドはただの雑談なら話題に尽きることもないのに、存外に真面目な話をするのが苦手なのである。だからこれは、感情を言葉にするために必要な時間稼ぎ。
「初めて会ったときのこと、覚えてるか?」
サロウドが聞いたので、マストは頷く。
「忘れるはずがない。最悪な事件だった」
「商会の娘さんの騒動は?」
「覚えてるに決まってる」
「大家さんが変わったとき」
「思い出したくないよ」
「難民と教会の衝突」
「あれは僕は何もしてない」
「ハト泥棒」
「その件は助かった」
「グランセンが来たとき」
「うるさかった」
新しい酒と料理が運ばれてくる。店主がテーブルに並べ終わるのを待って、サロウドはコップを持った。
「いろいろあったな」
感慨深げに独りごち、酒をあおる。
「お前、もっと早く死ぬと思ってたぜ」
飾らない本音を吐露する。
「いいや。もしかしたら、死んで欲しかったのかもな」
マストはエールをゴクリとやって、ふうん、と鼻から息を吐いた。
「酷いヤツだな」
「まあな」
サロウドは笑った。乾いた笑いだった。
「このご時世だろ。無名の絵なんて二束三文に決まってる。実は結構な腕持ってるのに、教会が買い取ってくれるような宗教画は描かずに風景や人物ばかり。しかも身体弱いくせに、憑かれたように昼夜問わず描いててさ。ああ、こういうのは早く死ぬな、ならせめて死ぬとこを看取ってやろうって思ってさ。それから何年だっけ? しぶといよなーお前」
酒にちびりと口を付けて、彼は唇を湿らせた。
「せっかく描いた絵は買い叩かれて、いつまでたっても名前は売れず、今日の飯にも困る有様で、よく頑張るぜってさ。お前にゃそのクソみたいな欠点があるから、どうせ売れやしねぇよ、ってさ。そうだろ? 何にも興味持てねぇくせに、自分でいいもんだって思ってもねぇもん描いてるのに、売れるわけがねぇって、ずっと思ってたさ。んで結局ずっと貧乏でさ。なのに、やっと副業始めたと思ったら大して稼ぎにならない似顔絵で、修行も兼ねてとか言い出す始末だろ? ああコイツ、ほんとに頭おかしいんだなって」
テーブルに肘をつき、手の甲に額を乗せて、サロウドは顔を隠す。
「ああ……チクショウ、ってな」
心の底から、悔しそうに。
彼のそんな声を、マストは初めて聞いた。
「……オレはさ。食うに困るのが嫌で、余裕が無きゃいい演奏なんてできねぇって意味わかんねぇ言い訳して、あげく女装までして……それでも、リュートで食えてるんだからってよ。故郷捨てて追いに来た夢、諦めた」
思えばマストの狭い交友関係の中で、彼は一番の特別といえた。住む場所もなかったマストを同居に誘い、ことあるごとにちょっかいをかけ、死にそうになっているところを助け―――いつも、側にいたのだ。ただの友人として。
「……は、諦めたんだ……」
サロウドは嗚咽混じりに、再度言った。
何年も同居人として、友人として、一番近くでマストを見てきた彼は、いったいどんな気持ちだったのだろう。絵を描きながら死ねれば本望として、実際にそうするだろうと周囲にすら思わせるマストの生き様は、どのように映っていたのだろう。
彼は顔を上げない。だから彼がどんな表情をしているのか、マストには分からない。それは、最後の抵抗なのかもしれなかった。
「なあ……お前、人相書きやれよ。本業でさ。あの美人さんの下じゃぁいろいろ面倒だろうが、誰にだって誇れる正義の仕事だろ?」
マストはジョッキから手を離し、テーブルの上で手を組んだ。
決別のように。
「できない。僕は画家以外にはなれない」
「そうかよ。死んじまえ」
吐き捨てるような言葉に得心いって、テーブルに銀貨を置き席を立つ。
彼はどうしようもなくやさしくて。だから教えてくれなかったのだ。