答え 4
通貨とは何か―――この問いには様々な答えがあるだろう。
市民と貴族では見方も違うはずだし、貴族と王とでもきっと違う。兵士と商人とでも違うだろうし、農民と職人でも違うだろうし、乞食と泥棒とでも違うだろう。
マストにとって、それは二つの意味があった。
持ち運びと保存が簡単で、大抵のモノと交換できる便利な道具。
そして、絵の価値を定める秤だ。
それは価値を量るものであって、それ自体が価値のあるモノではない。だが生きるため振り回されるモノでもある。
「要りません」
寝台にあぐらをかいて膝に頬杖をつき、マストはテーブルに置かれた布袋を拒否した。中身は銀貨と銅貨だろうが、袋の大きさからして少なくない額だろう。
テーブルを挟んで向かいに立つアリシアは、困った顔で説得する。
「これは正当な報酬です。あなたには人相書きを多数描いていただきましたし、そのおかげで山賊の一人を捕らえることができましたから」
マストがこの詰め所に来て五日が経過していた。
どうも案件が溜まっていたらしく、あれから毎日マストは人相書きを依頼され、その全てを書き上げてきた。多くは一般市民に直接引き合わされての作成で、いまいち要領を得ない場合もあったが、それでも技量の許す限り真摯に請け負った。数は覚えていないが、ずいぶんな量をこなしただろう。
だが、それで料金を請求する気など微塵もない。
「協力したのは迷惑をかけているからです。だいたい、ここの治安維持活動は非営利でしょう。このお金はどこから出たんですか?」
「それは……私の懐からですが」
そういえばアリシアは道場を経営していたはずだ。おそらく盛況だろうし、これくらいの金額は用意できるのだろう。
しかし、ならばなおさら理屈が通らない。マストはアリシアに感化されはしたが、アリシア個人に協力したつもりはなかった。
「では受け取れません。非営利団体に協力するなら非営利が基本です」
「たしかに非営利ではありますが、ここの活動は私が私の意思で始めたものです。酔狂や道楽と言っても良いでしょう。ならば必要な資金は私が用意するのが当然。グランセンたちにもわずかですが報酬を渡していますし、あなたにも仕事に見合う額を渡す義務があります」
「ここで傷の手当てをしていただいただけで十分ですよ。僕は感謝しています」
アリシアは本当に不思議なものを見るように、小首をかしげる。そうした仕草はどこか、幼い少女のようにも見えた。
この女性は時に、ひどくアンバランスな印象がある。どこか普通に在るべきものが、欠けているのが透けて見える。細い柱が支える城のようだ。
「なぜ拒むのでしょうか? あって困るものではないでしょう」
純粋な疑問を受け、マストは言葉を詰まらせる。
彼女が戸惑うのも当然だろう。アリシアはマストの部屋を訪れている。金に困っていることは分かっているはずだ。生活のことを考えても、もらえるモノはもらっておくのが得に決まっている。
「……気持ちが悪い」
絞り出すように、マストはそう口にした。そしてそれだけでは足りないと思ったのか、胸の内にわだかまる何かを吐き出すために、言葉を探す。
「僕はただ、できることをしただけです。聞いたままに書いただけ。あれは……芸術と言えるものではありません」
これは線引きの話。
マストにとって、それは挑むものだった。視界に映る光景を、ただ一時の場面を、この世界の欠片を、全霊を込めて画布に写し取る。己の魂を筆に宿らせ、限界の先へと切り拓く。それは戦いにも等しく、全力で向かい合うものなのだ。
独白のようなその言葉を聞いて、アリシアは瞼を閉じた。浸透させるように、数秒。
「……あなたは画家でしたね。ですが、似顔絵もやっていたのでは?」
「あれは副業、口に糊するためのしのぎです。それで大金を稼ぐ気はありません」
はあ、と降参の色濃く、アリシアはため息を吐いた。
「それでは、これを全てとは言いません。銀貨一枚を感謝の意として贈らせてください。それでしたら副業の範囲内でしょう?」
「……まあ、それなら」
折衷案ということになるのだろう。マストは嫌そうな顔で差し出された銀貨を見ていたが、これ以上はアリシアが譲らないだろうと判断し、渋々受け取る。
手の中に収まった銀貨はひやりと冷たく、縁に少しへこみがあった。
「タダでいいと言っても払いたがるだなんて、変わった人ですよね」
仕事の報酬だなんていっているが、結局のところはどうせ、貧乏人に恵んでやる、ということなのだろう。アリシアは善人だ。マストがフィオーレの仕事を受けたのも、喰うに困るほどの窮状では自棄を起こしても仕方ない、などと思ったのかもしれない。
上から目線の情け。そんなものに反発するほどマストは青臭くない。むしろ辛酸を舐めて過ごした日々は、それを利用する強かさと卑屈さを育てている。
だがそれでも、言外にわずかに不満を含ませたのは、相手がアリシアだったが故か。
「精算しておきたいと思いまして」
けれどアリシアは、含みになど気づかない様子で微笑する。
「あなたのおかげで捕らえられた山賊が、先ほどアジトの場所を自白しました。ですのでこれより討伐に向かいます。戦いになりますから、生きて帰れる保証はありません」
マストは二度、三度とまばたきした。
さっき分かったので、今から行く、と。なんとも迅速な話だ。
たしかに、異変に気づいた山賊が逃げてからでは遅い。すばやく行動する必要はあるだろう。だが、それにしても……死ぬかも知れないから身辺整理は今やろう、と即思いついて実行したのは、マストからすれば驚嘆に値する。
これが戦場を知る者とそうでない者の違いだろうか。戦士にとって、死とはやってくるものではない。己の意思で飛び込んで、くぐり抜けるものなのだ。死を覚悟してなお、生きて帰るという決意を胸に剣をとる。それが彼女たちなのだろう―――清々しさすら感じさせるアリシアの微笑みに、マストは否応なしにそう感じてしまった。
「行かない方が良いですよ」
だからこそ、マストは純粋に善意で忠告した。
「領主に任せるべきです。あなたが行っても、また睨まれるだけでしょう? 益も無いのに命を賭けるなんて間違っている」
「領主では時間がかかりすぎます。おそらく二日の準備期間を要し、大勢でノロノロ動いて、もぬけの殻を観光して終わるでしょう。そしてその失敗はもみ消し、情報が間違っていたと糾弾するのがあちらのやり方です」
残念な話だったが、彼女はとうにがんじがらめだった。そしてどうせ行き先はどんずまりでも、今このとき少しでもマシな方を選ぶのがアリシアだ。
「……そうですか。では、せめてお気を付けて」
アリシアは「ありがとうございます」、と嬉しそうに笑んで、それから改めて真面目な表情を作る。
「私が無事に帰還できましたら、また人相書きを頼んでもよろしいでしょうか? 今度は協力ではなく、正式な依頼として」
それは、次の提案。死線を前にして、その先が途絶えていることも知っていて、なおまだ進むという意思。
意固地なまでの決意を前に、マストは少しだけ考え、そして首を横に振った。
「画家としての本業を優先したいので、副業のお約束はできませんね」
アリシアは表情を変えなかった。
彼女はきっと、拒絶されることになれている。彼女を疎む者も、期待する者も、ただ遠巻きにする者も、誰も彼もが視線を向けて、そして協力は拒むのだろう。だって彼女の近くにいれば、巻き込まれても損しかしないとすぐに分かる。
だから彼女は期待しない。
「ですがまあ、暇なときであれば、僕にできる範囲でお受けしましょう」
「本当ですか!?」
その約束にもならないおざなりな承諾に、アリシアは大げさに喜んだ。
「ああ、その言葉だけで士気もいや増すというもの。これならば死毒の壺のような戦場でも、私は決して膝をつかず戦い続けられます」
いくら何でも喜びすぎだろう、とマストは思ったが、同時に。
ああこのひと、きっと幸薄い人生を歩んできたのだろうな、と今さらながらに察した。