答え
細かい雪が降りる。積もりもせずに溶けていく。地面に落ちるまでが寿命のようだ。
白い息を吐く。薄れて消える。過去が忘却されていくように。
時間はひたすらに流れ続ける大河であり、己など水面に浮かぶ木の葉のごときものにすぎない。逆らうことなどできるはずもなく、ただ流されるままにあるだけの存在だ。
しかし、それでも。
一欠片でも時を切り取り、一瞬を引き延ばし、遙か未来へと遺すことができたなら。
それは確かにそこに在ったと、証明できたなら。
ささやかでも、世界への反逆と呼ぶにふさわしいのではないか、と。そう思わずにはいられないのだ。
窓の外は暗かった。
夜だ。主の恵みたる暖かな陽が西に落ちきり、闇と静けさに包まれる安らかな時。
―――自分たちの時間だ、と青年は思った。
身を起こす。起こせなかった。身体の痛みを自覚する。軋むような激痛。血が無いのかゾクゾクと寒く、なのに脂汗が滝のように吹き出る。だが青年は己の不具合など慣れたもので、顔もしかめなかった。動くのは諦めて目を閉じ、自分の状態を確認する。
目、見える。
指、動く。
腕、問題なし。
脚、痛みは有り。どこかにぶつけたような。
胴、腹部、胸部に強い痛み。ものすごい力で殴打されたような。
首、筋を違えたような痛み―――。
「―――なんで、生きてる?」
思い出して、素直に疑問で、マストはただ独りごちた。
こうして、冷静になれば嫌でも分かる。いわれの無い抗議。正当性の無い反抗。みっともないかんしゃく。あれはただの八つ当たりだった。
フィオーレには何の非もない。だからあの怒りは当然で、あの問いは必然だ。ならば手心を加えるなどありえない。それを曲げることを彼女は良しとしない。あれは抗うことのできない死だったはずだ。
「落ち着いていますね」
それは、深い呆れの息と共に発せられた。
「歴戦の老兵ですか? あれだけ死にかければ、普通はもう少し何かあるものですが」
響いた声をマストは知っていた。痛む首をぎこちなく動かす。アリシアが部屋に入ってくるところだった。
「あなたが、どうして」
眉をひそめる。よく見れば、マストの記憶に無い部屋だった。人喰い屋敷でもなく、住んでいる借家とも違う。寝台はあるのに生活を想定していない、簡素で小さい部屋。
「昨夜、あの屋敷からあなたを保護しました。ここは我々の詰め所で、仮眠室です。あなたは丸一日眠っていたのですよ」
金髪の女性が内容の一つ一つを区切るように答える。簡潔で分かりやすいが、それでは詳細が見えてこない。
「どうやって邪魔をしたのですか?」
とてもではないが、余人が横から手を出せる状況ではなかった。場所は吹きさらしのテラスだから、外から監視することは可能だっただろう。しかしそれでは遠すぎる。即断で押し入ったとしても、駆けつけるまでに殺されていないはずが無い。
「薄々感じていましたが……あなた、私のことが嫌いでしょう」
アリシアは椅子に腰掛けながら、眉間にしわを寄せた。持っていた水差しでコップに水を注ぐ。
「……べつに、嫌いというわけではありませんが」
言葉選びがまずかったのだろう、とマストは反省する。たしかに、邪魔というのは不適切に違いない。どうやって助けてくれたのですか、と聞くのがスジだ。
けれど、自ら命を投げ捨てたのに、助けてもらったなんて殊勝な気持ちは湧かない。正直、ありがた迷惑だ、という念の方が強かった。
「良いのですけどね。慣れてますから」
良いと言いつつも不満そうに、水を注ぎ終えたコップを差し出そうとし……気づいて、止まった。
「起きられますか?」
「……いえ、無理そうです」
少し身じろぎし、改めて体調を確認してから、マストは答える。少し動こうとしただけで酷く痛む。もしかしたら内臓がおかしくなっているかもしれない。
「仕方がないですね」
アリシアはコップをテーブルに置くと、水差しを持ち―――そのまま、その注ぎ口をマストの口内に突っ込んだ。たまらず、もがっ、とくぐもった悲鳴が上がる。
「人間は食料が無くとも十日は生きていられます。が、水が無くては三日で死にます。それだけ水は重要なのです。あなたはもう丸一日何も口にしていませんので、少しでも飲んでください」
水差しが大きく傾く。水分が勢いよく口内に侵入する。喉にそのまま流れ込む。
「ゲフォッ、ゲハッ―――あがっ!」
勢いよく咳き込んだ衝撃が身体を苛んだ。
「ああ、寝ながら飲むと気管に入りますので、飲み込むときは十分に気をつけて」
アリシアが今さらに忠告する。自分の落ち度に気づいていないのか、子供にでも言い聞かすような調子。マストは痛みに耐えながら、苦りきった視線だけで抗議した。
―――この女、もしかしたら意外と雑なのかもしれない。マストはぶるりと震える。
よくよく考えれば戦場で傭兵団を率いていた人間だ。うわべは清廉かつ品行方正でも、本質的なところで荒っぽいのではないか。だとしたらまずい。戦争を生業としている人間と同じように扱われたら、子供にいじくり回される虫のように、自分の貧弱な身体はあっさりとボロボロになるだろう。
「そう泣きそうな顔をしなくても、大丈夫ですよ。心配しなくても、死にかけた、といったのは状況のことです。怪我はしていますし痛むでしょうが、死ぬようなものではありません。数日もすれば痛みも引くでしょう」
拗ねたような口調には、思うとおりにいかない不満と諦観が見て取れた。
フィオーレは彼女を、ありがた迷惑を結晶化したような人間と言っていた。マストはその評価が間違っていないと確信した。きっと彼女は善意を投げて、好意が返らないことに慣れてしまったのだろう。慣れてしまって、でもそれが何故かは理解できていないのだろう。
この女の善意は致命的に下手なのだ。
「伝言があります」
深いため息を吐いて、アリシアは口を開く。
「私を自殺に使うな、と」
そう吐き捨てた銀髪の女の表情がありありと想像できて、青年は息を呑んだ。
―――なるほど。他者に使役されるなど、彼女が許せるはずがない。
一瞬で理解し、ただただ納得して、瞼を閉じる。
胸の奥が痛んだ。ジクジクと心の臓が腐り落ちるような痛みだった。それに比べれば、身体の痛みなどどうでも良いと思うくらいの。
大切なモノを失った。
「そうですか」
己の呼吸音を数回聴いてから、マストはそれだけを言った。
フィオーレがそう言ったのなら、この怪我では死なない。そんな確信が身体の芯に染みている。
「……彼女は誇り高い」
だから。
なのに。
それに比べて、自分はなんと卑小なことか。