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絶望の底で


 神の話をしよう。

 それは全知全能なるもの。世界を創造せし主。完全なる唯一。

 故に、其者は知っていたはずだ。

 この惨状を。溢れんばかりの絶望を。光とどかぬ底の底からの嘆きを。

 何も成せず死にゆく者たちを。

 しかし彼の者は救いの手も出さず、ただ見守るのみ。

 血反吐を吐いて苦しむ瀕死の疫病患者が、家族と共に家ごと灼かれるまでだ。それは愛を持ってただただ見守り続ける。

 なぜなら。そう、なぜなら。そうあれかし、だ。

 神はそのようにこの世界を創ったのである。

 丁寧に丁寧に設計したのだ。拷問官が人体をどこまで究明するか、その手順まで理解して。

 それでも神は善である。善でなければならない。そこに疑問を入れてはならない。だって善なる者に創られたのでなければ、われわれはいったい何だというのか。

 おそらくは。きっと、たぶんだけれど。

 我らが全能なる主は、もっと先の先、気の遠くなるほどの未来を見据えているのではないか。

 だからこの苦しみは、絶望は、見渡す限りの死体の原は、全て必要なこと。まったく無駄のない、頂へと続く土台。果ての果てに在る到達点への道標。

 ああ、もう分かるだろう。

 今この時になど価値はない。

 人はすべからく生け贄なのだ。




「星が出たな」

 夜のテラスで、フィオーレは柵に腰掛けて空を見上げていた。マストも視線を上に向けると、たしかに星空が広がっている。

「そうですね。今日はもう、雪の心配はなさそうです」

 そう応えて荷物を置く。イーゼルを立てて描きかけの絵を置き、絵具を用意する。エリサの姿は見えないが、灯りはちゃんと用意してあった。もう屋敷内に戻ったのだろう。

「ふ、いつも通りだな」

 ―――何がいつも通りだというのか。

 フィオーレは薄く笑って柵から身を離すと、優雅な仕草で椅子に座った。たまにではあるが、彼女はこういう細かな、ふとした時に生まれの違いを感じさせることがある。

 一拍の間だけ瞼を閉じて、開く。マストは筆をとった。無駄な挨拶などなく、無駄な雑談から入るのがおきまりの流れだ。彼女は礼節にはあまりうるさくない。むしろ余計として嫌っているふしがある。そして余計よりも退屈が嫌いだった。だから彼女が絵のモデルをしている間、ずっと雑談が続く。

「今日は貴様に来客があったと聞いているが?」

 どうやら、本日の話題はそれからだった。取り次ぎをエリサがしたのだから、彼女が知らぬはずはない。

「アリシア様ですね。特段、大した話はしていませんよ。僕の部屋を覗いたと言っていました」

「貴様の家のか。たしか、二人の友人と住んでいるという」

「そうです。まあ、僕を調べたところで何も出てきませんけどね」

「どうせ、寝台の他には画具くらいしかないのだろう?」

 分かりきったことのように言い当てられ、マストは情けない顔で笑った。

 ―――そうだ。この女は知っていた。

「僕には絵しかないですからね。お金もありませんし」

「あの女もさぞ嘆いたことだろう」

 愉しいイベントを振り返るような面持ちで、フィオーレはその光景に想いを馳せる。

「なにせあれは他者のためだけに生きている。他人を憐れみ、他人の不幸を嘆き、他人のために神へと縋る。そのくせ、根幹のところで他者を理解しない。なにせ己のために生きていないからな、自己のために生きている他者を理解することなどできまい。まさにありがた迷惑を結晶化したような女だ。貴様などは大好物だろうさ。ああ、あれは見所がある。見ていれば退屈だけはせんよ」

 アリシアとは数えるほども会っていないくせに、その評価はじわりと腑に落ちた。

 ありがた迷惑は嬉しいものではないが、結晶化しているのなら美しい。つまり己の周囲にはうっとうしがられるが、傍から見ている者には賞賛されるのだ。そして積み上げられた空虚な喝采の末路があれである。女だてらに傭兵隊の隊長をやっていたのも、この都で担ぎ上げられようとしているのも、おそらくはその性質のせいだろう。

「そうか。まさしく貴様と真逆よな」

 ―――そうとも、この女は見抜く。全て掌の内であるかのように。

「貴様は自分のためだけに生きている。その在り方はあまりにも純粋で、他人など介入する余地がない。しかして他者と関わらずに生きることはできぬから、余計を避けるため上面を繕うことは得意になった。なんと救いようのない。面倒ごとはない代わりに、貴様は誰の側にいても、どこまでも孤独だ」

 フィオーレは機嫌が良いと口の回転が早い。今日だけではなく、昨夜もその前も上機嫌で、途切れること無く会話が続いた。難しい顔をするのはエリサについてくらいであるが、それも大して悩んでいるわけではなく、むしろ困りごとを楽しんでいるきらいすらある。

 そう。彼女は今、楽しんでいる。

 アリシアのことも、エリサのことも、マストについても。

 愉しんで、嘲笑っている。

「…………は」

 思わず笑みが漏れる。青年は筆を置いた。筆先にはまだ絵の具すらついていない。始めてから今まで、何も描けていなかった。

「ん? どうした?」

 語りを止めたフィオーレが訝しむ。マストは答えず、筆の代わりにペインティングナイフを手に取った。油絵の具を盛ったり削ったりと、筆とは違う表現をするための画具だ。長年愛用したもので、絵の具まみれの柄が不格好に修理してあった。

 空虚だった。バカバカしかった。

 テラスから見える夜の街並みは、すべてただのデコボコで。

 冬の夜の寒さは魂まで凍らせる。


 ああ。/まて。

 あの余裕に満ちた顔を。/やめろ。

 曇らせてやりたい。/ダメだ。


 ペインティングナイフを逆手に持つ。頭の中が閃光のように真っ白で。視界が絶望のように真っ暗で。胸の中で赤黒く燃える鋭い何かが暴れ回って。




 ―――壊れ物と言われたのを覚えている。

 なるほど。自分が何を見ても感動しないのなら、何を描いても、誰の心も動かせるはずが無い。




 ああそうだ自分はどうしたって一流にはなれないだって魂がとっくに死んでいる何を見ても心が動かない感動しないただそこにあるものをそのままに受け止めているだけのがらんどうだだから何を描いても誰の心も動かせないちくしょうお前はずっとそうやって無駄な努力お疲れ様と嘲笑って壊れかけの玩具を見るような目で―――。ナイフを心の片隅にほんの少しだけ残って立ちはだかる尊厳めがけて振り降ろした。

「―――答えよ」

 きっとカミサマなんて存在しないのだ、という確信があった。

「このままくびり殺されるがいいか、心臓を抉られるがいいか」

 それでも化け物はいるのだな、とマストは人ごとのように思う。

 首を掴まれていた。持ち上げられ、宙づりになっていた。左手だけでだ。細く白い左手だけで、フィオーレはマストを掴み上げている。なるほどこれは化け物だ。彼女は下から睨み付けてくる。凍り付くほどに残酷な表情。こんな顔が見たいわけじゃなかった。

「……どちらでも、いい」

 声は出た。だから思うままのことを口にする。

「殺してくれ」



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