欠点 5
廊下を歩く。靴音が響く。屋敷内は広く寒々しいが、屋根と壁があるだけで外よりマシだなどと考えながら、マストは呆とした顔で進んでいた。
理解ができなかったのである。
怖くはないのか? ―――なるほど、たしかにフィオーレは都で噂されている事件に関わっているのかも知れない。少なくともその可能性はあるのだろう。あるいは、己もまた謎の失踪を遂げるのかも知れない。
しかし、それがどうしたというのか。
マストは知っている。命を賭せと言われた最初の夜を忘れてはいない。フィオーレは冷酷な悪意を持つ女性だ。そこに疑いの余地はない。
だが、怖ろしいと思ったことはない。
絵で挑み、酷評を受けながらも依頼を得た。命は賭けたが己の戦場だ。躊躇う理由すらなかった。
フィオーレが何者だろうと、己がどうなろうと、何一つ恐怖はない。
端から、命が惜しいだなんて思っていないのだ。
自分は今、望んでここにいる。絵を描くためにここにいる。ならそれでいい。
だというのに。
勝手に憐れまれ、できもしないのに救うと言われ、待てと捨て置かれた。
余計なお節介。それに尽きる。
―――だというのに、なぜ胸の奥の尖った何かが痛むのか。
「……まあ、いいか」
放っておけばいい。それがマストの結論だった。アリシアが勘違いで何かするにしても、気にする必要がない。勝手にやっていてもらえば良い。
「あれ?」
思わず声が漏れた。廊下を曲がると、中庭へと通じる扉の前、荷物を待避させた場所が視界に入り……そこにエリサがいた。無言でたたずんで、イーゼルの上に置かれた絵を眺めている。
(アリシアの件で自分を呼んだ時から、今までずっとここにいたのだろうか?)
仕事中ではないエリサを見るのは初めてだった。彼女はいつも働いている。だから、その姿にひどく違和感があった。
「マスト様」
声に反応したのだろう。エリサが振り向く。声も表情も、いつも通り感情をあまり感じさせない。
だがそれでも、彼女がここにとどまっているのは、何かが琴線に触れたからだろう。
「もしかして、その絵が気に入りましたか?」
これは好機だ、とマストは思った。今の課題であるエリサとの関係改善には、またとないチャンスである。なにせ普段話すらままならないのに、今回はちゃんと話題があるのだ。なんならあの絵を贈呈してもかまわない。仕事で描いている絵ではないのだし、賄賂になるのなら喜んでプレゼントする。
しかし。
「いいえ。この絵は嫌いです」
はっきりと、エリサはそう言った。
「…………は?」
マストの思考が停止する。目の前が真っ暗になるような、真っ白になるような、そんな感覚だった。
エリサは横目でちらりと絵を見てから、ツカツカと乾いた足音を立て、中庭への扉に近寄る。
「絵について詳しくはありませんが、とても上手なのだとは分かります」
淡々とした声。扉が開け放たれる。冷たい風が屋内に侵入する。エリサは外に出て、粉雪が舞う中庭を見渡す。
「今は冬ですから、花は咲いていません。ですが年を越す種類の手入れしています。枯れたものは抜いていますし、土壌も痩せさせないように工夫しています。別の場所で種や球根を保管していますので、春になれば空いている場所に植えることができます。今年は去年よりも、かなり順調です」
エリサが話している。彼女がこんなにも長く話すのは初めてだ。マストは呆とした頭で、彼女について中庭に出た。いつもの、絵に描いている光景が広がる。
「わたしは、この場所が好きです」
侍女の少女は絵描きの青年へと向き直る。
「あなたは、この場所をどう感じていますか?」
エリサの視線がまっすぐにマストを射貫く。感情の読めない目が、少しだけ細められていた。彼女が怒っているのか、呆れているのか、あるいは怯えているのか。分からないまま、マストはこのとき初めて、彼女の瞳の色が深いブラウンであることに気づいた。
問いは、断頭台の刃のように。
「何も、思うところがないのではありませんか?」
だれもかれもが口を閉ざしていたことを。