自画像1
「あらん? 遅かったじゃない。やっと帰ってきたわね、マスト」
家に帰ると栗色の髪の背の高い美女が、安物のソファで酒を飲んでいた。だいぶん酔っているのか顔は上気し、ゆったりとした衣装は着崩して肩まではだけている。
「サロウド、頼むからそのしゃべり方はやめてくれ。背筋がぞわぞわする」
そんな美女を汚物でも見るような目で睨み、青年が本気で嫌な顔をする。
「はっはっはー、なんだ。間違えて襲っちゃいそうか? ウエルカムしちゃうか?」
すると美女――否、美女に見えたそれは、がらりと声を変えて快活に笑った。
声変わりした男の声だった。
ゆったりした服装に隠されているが、よく見ればソファで寝転がるその身体は少し骨張っているし、首には小さいのど仏が出ている。
「冗談でもそんなことを言うなよ。僕にそんな趣味はないんだ」
青年――マストは荷物を置くと、女装した友人が酒のつまみにしている干し肉を一切れ奪う。乱暴に噛みしめると、塩気の強い肉の味が口の中に広がった。
「俺だってノンケさぁ。別に相手に贅沢は言わないが、せめて女がいいね。なんでお前みたいな貧相な男と同居せにゃならんのだ」
「金が無いからだろ? だいいち、借り家をシェアしようって言ってきたのは君じゃないか。それに同居してるのは僕だけじゃない。……そういえばグランセンは?」
「あのスケベ野郎ならしばらく夜はいないよ。最近物騒だから、有志で集まって夜の街中見回りするんだそうだ。そんなん兵士どもに任せておけばいいってのに」
「グランセンが?」
「お師匠様の発案らしいぜ。あいつあの師範には頭があがらねぇからなぁ」
「あー、なるほど」
マストはもう一人の同居人の顔と性格を思い浮かべながら、納得する。グランセンという腕利きの槍使いは、自分から有志参加の市街見回りなどに参加する人間ではない。
そこに女が絡むならともかく。
「酒場の噂じゃ、もう二十人近くは行方不明だ。話半分に聞いても十人消えてる。お前もあんまり夜に出歩くんじゃねぇぞ。明日からは暗くなる前に帰ってこい」
「あー……気をつける」
純粋に友人の身を心配する言葉に、マストは指先で頬を掻く。すでに一週間後の夜に約束をしてしまっているのだが、説明が面倒なので言わなかった。
「っと、そうだ。サロウド、君ってたしか鏡を持っていなかったか? 大きいの」
「鏡? 部屋にあるが?」
「使っていないときでいいから、しばらく貸してくれないか?」
「化粧するのか?」
マストは生温い笑みをする。貴族は男でもするらしいが、平民であるマストは化粧なんて一度もしたことがない。
「君と一緒にしないでくれ。自画像を描くんだよ」
「自画像? なんのために」
貴族ではないのに化粧をする習慣のある友人の疑問に、マストは少しだけ考える。
何となくではあるのだが、あの女性の件はあまり口にしたくなかった。
「似顔絵描きやる時に、ちゃんとした肖像画も描けるって書いて置いておこうと思ってね。仕事が来るかもしれないだろ?」
「あー……商売っ気が出てきたか。どんどん芸術家っぽくなくなってくなぁお前」
「うるさい」
絵描きの青年は多少傷ついた表情で文句を言うが、一言より後は続かなかった。自覚はあるのかもしれない。
「ま、金が無ければ仕方ないさね。いいぜ、部屋から持ってけ。俺は朝にだけ使えればいい」
「助かるよ」
部屋に戻ったマストは早速絵を描く準備に取りかかった。一週間という期限はそこまできつくはないが、早めに取りかかるのに越したことはないだろう。
胴板を磨いただけの物ならともかく、平民にとって硝子で加工された鏡は高価な品だ。それなりの大きさがあって歪みも傷もないものは、かなり値段が張る。結婚式などのお祝いに送られるような代物で、貧乏人が手を出せるような代物ではなかった。
そんなものをサロウドがなぜ持っているのかは分からないが、それを借りることができたのは好都合だ。自分の顔を見るのにこれ以上有益なものはない。
窓を開き、部屋に満月の明かりを入れる。簡素な机はちょうど窓際にあったが、やはり光源が足りないので、迷った末にランプを付けることにした。燃料の油は必要経費と思うことにした。
もし割ったりしたら弁償もできないので、万が一倒れてもいいよう、机の中央に厚い布を敷いて、その上に鏡を立てた。
クローゼットの奥から少し古い帆布を取り出し、ナイフで丁寧に斬り裂いた。作り置きしてあった木枠からちょうどいい物を選び、ズレを叩いて修正してから、帆布をしわが寄らないよう慎重に金槌と釘で張る。できあがったキャンバスに薄く膠を塗布する。
鼻につく膠の臭いが、寒くて暗い部屋に充満した。
「……よし」
一連の作業を終え、マストは一つ頷くとキャンパスを部屋の隅に置く。
膠は画布が傷んだり、絵具がにじんだりしないようにする下塗りだ。さらにここから白い塗料で地塗りを行わなければならないが、とりあえずは膠が乾かないとどうしようもない。
乾かすのは時間に任せる以外にはないので、今度は棚から画板を取り出し、木炭を手に取った。ランプを移動させて、机の前に座った。
「自画像か。初めてだ」
鏡を覗き込み、青年は自分の顔を確認する。
「僕、こんな顔をしてるのか」
つぶやいてから、画板の上で木炭を動かし始めた。
安酒を飲みながら固いソファで眠ってしまったらしく、頭はガンガンと痛むわ身体は軋むわ寒さで震えるわで最悪の朝を迎えたサロウドは、部屋に戻って女物の衣装を着替えると、男物の普段着を着込む。寒いので普段より厚着した。
サロウドはリュート弾きだ。レストランや酒場などで音楽を奏でる仕事で、女装は仕事用だった。吟遊詩人は美しい女性の方が受けがいい。
リュートの腕には少なからず自信があり、場を盛り上げる明るい曲もできれば、高級な場所用の落ち着いた曲もできる。一人で弾く時もあれば、何人かで共演することもあり、ここ数年は仕事に困ったことはない。だが最近は物騒なので、夜の仕事は少なかった。
「あー、あったまいてぇ……」
普段なら寝ている時間だが、昨日は早くに寝たので眠気はない。仕事はいつも昼からなので、まだまだ時間はある。
サロウドはしばらくぼーっとしてから、朝食にありつくために出かけるようと決意し、身だしなみを整えようとして、
「あれ?」
鏡がないことに気づく。
「……ああ、そうか。貸したんだ」
アルコールのせいで曖昧な記憶を手繰り寄せ、立ち上がる。二日酔いの上に、あまり朝に強い方ではないため、動きは亀のようにのろのろとしていた。
部屋を出て、廊下の奥の同居人の部屋へ向かう。間にあったもう一人の同居人の部屋には、誰もいないようだった。もう仕事に出たのかもしれないし、そもそも帰っていないのかもしれない。
「マストー、入るぞー」
おざなりにノックしてドアを開ける。とたんに、獣の腐臭のような膠の臭いと、絵具の油の臭いが混ざって襲ってきた。うぷ、と手を口に当て、逆流しそうになる胃液を苦労して押しとどめた。二日酔いの身には、この臭いはきつい。
壁によりかかりだいぶん心が折れそうになりながら、サロウドは部屋を見回す。
サロウドの友人は机の前に座っていた。
毛布にくるまっているが、寝てはいない。木炭と画板を手に持っていて、来客にも気づいていないのか、鏡を前に一心不乱に絵を描いている。
「おいおい、まさか寝てないのか?」
机の上にランプが乗っているのを見て、サロウドは呆れた声を出す。油が切れたのか火はついていないが、それがそこにあるということは、暗いうちもずっと作業していたのだろう。
その声でやっと気づいたのか、マストは振り返った。
「やあ……サロウド、おはよう。……どうしたの?」
「どうしたの……って。鏡をちょっとだけ使いに来たんだよ。俺、朝は使いたいって言ったよな?」
「ああ。そうか、もうそんな時間か。すまない、部屋に返しておくべきだった」
「いや、別に朝になるたびに返しに来なくてもいい。物音で起こされても嫌だし。俺が使いたいときはここに来るから、終わるまでは持っててかまわない。しかし……」
画具の工作道具やら、デッサン用モチーフやら、完成させたまま放置した絵やらでゴチャゴチャした部屋に踏み入る。窓が開いているので、室内の気温は冬の朝のそれだ。サロウドは寒さに腕をさすりながらマストに近寄ると、その手元を覗き込んだ。
「やっぱ上手いのな、お前」
木炭で描かれた絵には、当然のことながら色はついていない。だが細密に描き込まれた線は幾重にも絡み合い、その自画像にまるで生きているかのような質感を与えていた。
「子供の頃からずっと描いてるからね。この程度ならできるさ」
マストはそう口にするが、褒められて嬉しいのか、口角が少しだけ上がっていた。
そんな友人をちらりと見て、そして再度画板に描かれた絵を見て、サロウドは呆れたようにつぶやく。
「けど、これを見て肖像画を頼むやつはいないだろうな」
ピシリ、と絵描きの青年は固まった。
「……なんで?」
唯一と言っていいほどの特技を否定され、自尊心が傷ついたのだろう。しばらくして彼は友人を睨み付け、当然のような疑問を投げる。
「なんでって……」
サロウドは再度友人の顔を見て、それから絵を見る。
寝不足と疲労だろう。目の下に深い隈を刻みやつれているが、なんの執念か瞳だけは爛々と輝く鬼気迫る形相と……それをそっくりそのまま写しとったかのような、見事な絵を。
「……あー、まあうん。お前はそういうやつだよ」
これがもっとおどろおどろしいタイトルを付ける絵画なら、素直にいい絵と評価できるだろう。だが残念なことにこれは自画像であり、これの横に付くのは「肖像画承ります」の文句である。
サロウドは腕を組んでウンウンと頷くと、机の上の鏡を取り上げた。
「悪いがマスト、この鏡はやっぱり明日から貸し出すわ」
「え、それは……」
困る、と続けようとしたマストの額を、サロウドは手にした鏡の裏でコツンと叩く。
「だからとりあえず、今日はこれから一緒に飯喰いに行こうぜ。奢ってやるから。そんでゆっくり寝て、起きたら水浴びでもしろ。そしたらしゃあねぇから、今夜は俺が散髪してやるよ。ぼっさぼさの頭しやがって」
おかんか俺は、とサロウドは思ったが、口にはしなかった。