欠点 2
「不機嫌そうだな」
夜。テラスで雇い主に指摘された絵描きは、渋い顔で黙り込んだ。描き始めてからまだいくばくもたっていないが、この女性は心の揺らぎなどあっさり見抜いてしまったらしい。
マストは深くため息を吐く。人であるかぎり、感情の起伏は仕方無い。が、それを客に見とがめられるようでは話にならない。
「……分かりますか」
「おうとも。なんだ、エリサがそそうでもしたか?」
「いいえ。彼女に不満はありません。とても良い侍女だと思います」
実際、エリサに文句などない。そもそも侍女がいる状況になれていないため、不満のつけようもないのだが。
「では新しい画材が気に入らないか?」
それもない。ロズピエールの品はいつも使っている。絵具ののりも画布の質も、常の通りで問題はない。―――マストがそう伝えると、フィオーレは微笑を浮かべて頷く。
「では、わたしに不満を持っているのだな。雇われの分際で良い度胸だ。いいぞ、陳情を許そう」
「なんでそうなるのですか」
理由を言わなければいつまでも続きそうだったので、マストは正直に事実を口にする。
「……画商に入れてあった師匠の絵が、売れてしまいました」
「ほう?」
「先日、生活に困ったときに売りました。お金ができたら買い戻すつもりでしたが、一足遅かったようです」
マストは感情を交えないよう淡々と口にする。
改めて口にするまでもなく、完全に個人的な話だ。こんな話、依頼人であるフィオーレには何の関係もない。そんなことで彼女を煩わせていい理由はないのである。ここは割り切り、気持ちを切り替えて描くべきだろう。マストは決意し、一つ深呼吸した。冷たい空気が肺ふに染み渡り、頭の芯をキンと冷やしてくれる。
フィオーレは薄く笑んだ。
「取り戻したいか?」
問いは、ざらりとマストの心を粟立たせた。
できるのか―――喉もとまで出かかった声を飲み込む。
できるのだ。おそらく彼女はできる。できないことを口にするような相手ではないと、すでにマストは理解していた。
なればこそ。
絵描きの青年は己に問う。
「―――いいえ。僕にはもう、必要ありません」
静かに言い切り、微笑んだ。
「また売りに出されれば買い戻すでしょう。あるいは、どこかに捨ててあれば拾うでしょう。けれど新たな持ち主の元にあるのなら、取り戻す気にはなりません」
述べる声にも、表情にも、よどみはなかった。
マストの哲学からすれば、絵とはそういうものだ。
絵を描いて売る仕事である。手元にあれば大切にするが、手放したものを気にしても何の得にもならない。それより新作について考えた方が何倍もいいに決まっている。今回は己の絵ではなく師のものだが、おそらく師も同じ感覚を持っていただろう。
「そんなところだろうな」
まるではじめから分かっていたかのように、フィオーレがぬるい笑みを浮かべる。
「なあ、酒はやるか?」
そして、唐突に話が跳んだ。
「……は?」
いきなりな話題なので何の話か分からず、マストは間抜けに聞き返す。
「酒だ。普段飲むか?」
「飲みません。高いですし」
面食らいはしたが、別に構えるような話でもない。正直に答えると、彼女は質問を続ける。
「賭けは?」
「好きではないです」
「煙草は?」
「呑みませんね」
「女は?」
「特には」
はぁー、と。大きなため息を吐く。フィオーレは珍しく困ったような顔をしていた。
マストもやっと分かりかけてきたのだが、どうやら彼女は存外に素直な人間らしい。楽しいときは笑い、怒るときは怒り、困ったときは困り顔をする。感情が率直に表情や声音に顕れるのである。なんというか、とても自然体なのだ。
だからきっと、フィオーレは本当に困っていた。
「分かってはいたが、なんとつまらぬヤツよ。なるほど、確かにこれではエリサも不気味がる」
「はい? エリサさんが?」
意識外から出た名前に、青年は変な声を出す。
そういえばフィオーレは、マストの不機嫌をエリサのせいだと第一に疑っていた。何か心当たりがあったのか、あるいは最初から彼女の話をするつもりだったのかも知れない。
「貴様が何を考えているのか分からぬそうだ。何も考えておらぬから安心しろと言ったのだが……」
「おや、もしかして馬鹿にしていませんか?」
「もちろんだ。貴様はわたしが初めて見る類の大馬鹿だとも」
茶化した抗議を真面目に返すフィオーレだが、蔑むような言い方ではなかった。むしろどこか感心した色まで含んでいて、マストはどう反応して良いか分からず声を詰まらせる。
「むしろ馬鹿にされて気を悪くするなら、まだ処置のしようもあるのだがな。絵以外では何も響かんほど尖っていては、手の施しようもない。エリサがあれほど気味悪がる以上、放置しておくわけにもいかんが……やっかいな問題よな」
「そこまで嫌われてますか?」
怪訝な顔をするマストだが、それもそのはずで、彼には特に心当たりはなかった。
無口なエリサは、必要なこと以外はほとんど話さない。おそらく話をするのが苦手なタイプだろうと察して、マストからはあまり話しかけないようにしている。もちろんプライベートについても何も触れていない。
それに彼女は忙しいのも理解している。なにせこの大きな屋敷の家事を一人でこなしているのだ。だからなるべく邪魔をしないようにしているし、あまり関わらないようにしている。失礼もないだろうし、うっとうしがられるようなこともないだろう。
「まるで亡霊のようだと言っていたぞ」
「わぁお」
どうやら関わらなすぎたのが問題だったらしい。
「やれやれだ。これに関してはわたしがうかつであったよ。エリサも貴様も、合う相手の方が珍しいだろうに、何の用意もなく同じカゴに入れたのだからな」
本当に困り顔でぼやくフィオーレ。それだけで珍しいものを見た気分で、悩みの張本人である青年は思わず描きたくなった。が、残念なことに今の画布は練習用ではなかった。
「エリサさんが大切なのですね」
漏れた感想にフィオーレは片眉を上げ、下げる。
そして、空を見上げた。
「……まあな。あれは実質、わたしの最後の味方だ。大切にもするさ」
無数の星が輝いている。それを眺めてから、銀髪の女は問いを投げる。
「おかしいと思わぬか? こんな屋敷に女と侍女が二人きりなどと」
静かだった。風の音もないほどに。
都はとうに寝静まり、夜の闇が支配している。
星が瞬く。燭台の炎が揺れる。
ここだけが切り取られたかのように。
「何か事情があるんだろうな、とは」
青年は気づくことができなかった。
「ああ、貴様はそういう男だよ」
彼女は心底呆れた様子だったが、おかしそうに笑む。
「だが気づいているか? そういうところが、亡霊のようだと言われるゆえんだぞ」
指摘されたマストが、むぅと唸る。
「……エリサさんに関しては、どうにか努力してみます」
そうしてくれ、とフィオーレは期待などしていない声音で、投げやりに言った。