マスト・ポート 2
カツン、カツン、カツン……と。歩くたびに音が響く。
案内のエリサについてマストは廊下を歩く。侍女の少女は必要なこと以外をまったく喋らないので、やけに足音が気になった。
明るい朝に歩く人喰い屋敷は、思った以上に味気がない。
昨夜感じたとおり、装飾などはほとんど見当たらない。それどころか絨毯もなければ燭台もない。まるで盗人に根こそぎやられた後のようだが、しかし不思議と廃墟のような匂いはしなかった。不思議に思ってきょろきょろ見回していると、やがて気づく。……よく見れば、どこにも埃一つ落ちていない。
寒々しいがらんどう。
けれど、それだけではないのだ。
この静謐さと、広い空間と、清潔さ。窓からやわらかで暖かい朝日が射し込む光景は、どこか……。
「教会みたいだ」
ぽつりと呟いた言葉に、足音が止む。エリサが振り向いていた。
「そうなのですか?」
その疑問系には、初めて感じる人間味があった。
「ああ、いや。なんとなくだけどね。……なんだかここは、上手く言えないけど、聖域の条件が揃ってる」
「……聖域、ですか?」
意外だったのだろう。今度は表情も変化した。困惑と、疑問。やっと年相応の反応に、マストの緊張が少しだけ和らぐ。
「ああ。静かで、広くて、美しくて、みだりに人が立ち入れない。神秘のような場所のことだよ。絵の題材としてもよく見るね」
言葉を受けて、エリサは不思議そうに壁や床を見回す。そしてどこか納得がいかない様子で、マストへと向き直った。
「美しい、ですか?」
「そう思う」
ここには装飾はない。絨毯も燭台もない。壁は所々ひび割れているし、なんならドアの蝶番とかも錆が目立っている。
けれど。
「ここには、汚れたモノはなにもない」
鼻に人差し指を当て、確認するように息を吸う。芸術家の青年は静かに断言した。
「絵具の匂いでバカになってる僕の鼻でも分かるよ。空気が清らかで、透明な感じだ。がらんとして何も無いのに、がたもきてるのに、無残に風化はしていない。昨夜来たときは薄気味悪かったけど、日の光が注ぐとまるで違って見える。腐臭の漂うようなこの都の中に在って、この屋敷はそのものが浄化されてる……この場所はきっと、これで完成されているんだろう」
「……それが、教会のようだと?」
「うん。なんだろうな、不思議な感覚だ。何もないのに、ここには何かがある気がするんだ。神聖なものか、精霊的なものか、あるいはもっと別の何かが」
「教会には、行ったことがありません」
エリサはそう、にわかには信じがたいことを淡々と口にした。
路上の子供ならいざしらず、こんな屋敷で働いているこの年齢の人間が教会に行ったことがないなんて、考えられないことだ。それが本当ならば、洗礼すら受けていないのだろうか。
いや、まさか。
マイノリティな異教徒、あるいは闇深い場所に集うという邪教徒の類なのだろうか。であれば教会に立ち入る理由などないだろう。
ここは人喰い屋敷だ。どこかにおかしな祭壇くらいあってもおかしくはない。
「ですので、似ているのかどうか判断できません。ですが、お気に入りいただけたのなら幸いです」
エリサは表情も変えずそう言うと、何事もなかったかのようにまた歩き出す。マストはその背中を少しだけ見つめてから、ゆっくりと後を追った。
言葉を選びながら、質問する。
「えっと、君とフィオーレさんはどんな関係なのか聞いていいかな?」
「主と侍女です」
簡潔な即答。この少女はこれが基本なので、遠回しに聞きだすのは苦労しそうであった。
「いや、そうじゃなくて……君が彼女の侍女になった理由は?」
「生きる糧を得るためです」
「うん、衣食住のために働くのは当然なのだけど。じゃあ、フィオーレさんが君一人しか雇っていない理由は?」
「御館様の判断です」
言葉を交わすたびに徒労感が積もるようで、マストは閉口する。ユーモアとまではいわないが、せめて回答のぶつ切りは勘弁してもらいたいところだ。
「……そういえば、フィオーレさんは今どこに?」
「寝室にいるのだと思います」
「寝てるのか」
「おそらく。この時間はいつも就寝されていますので」
そういえば、会うときは決まって夜だったと青年は納得する。
「夜型ってことね。ああ、だから仕事は夜からなんだな……」
「明け方までと思われます」
「僕も夜行性にならなきゃな。午後からは仮眠した方がいいか」
「必要であれば、ご希望の時間にお呼びに参りますが」
「それはたのもしい。仕事に寝坊で遅刻はできないからね。ぜひお願いするよ」
カツン、とエリサの靴音が響いて止まる。大きな扉が目の前にあった。どうやら目的地に着いたようだ。
「ここ?」
「はい」
侍女が扉に手をかけると、扉は音も立てずにゆっくり開く。
そこは外だった。四方を壁に囲まれているところをみると、中庭だろう。
日の光が射し込み、ふわりと緩やかな風が頬を撫でる。季節がら花は咲いていないが、敷かれた花壇は丁寧に手入れされ、花咲く春をじっと待っていた。
「……人喰い屋敷、か」
ぽつりと、マストは今居る場所の通称を呟く。
「全然違うじゃないか」
「そのように呼ばれていることは存じております」
聞き咎めたのか、エリサの感情がこもらない声。
「しかし、外の方が酷い有様のように思います」
「……そうだね。うん」
噛みしめるように、マストは頷いた。
「けど、みんなそこで生きてる」
少女に微笑みかけ、絵描きの青年は中庭へと歩み出る。散歩するような足取りで中央まで進み、ゆっくりと周囲を見回してから、振り向いた。
「うん。良い場所だ」
屋内は絵具の使用を禁止された。しかし屋敷の外は敷地内でも出てはならない。自室は一応許可されたが、あれだけいい客室をいきなり絵具で汚す度胸は持ち合わせていない。
であれば、と提案されたのが、この中庭だった。
なるほど屋外ではあるが、屋敷内ともいえる場所だ。家主の言いつけにも抵触すまい。
「ここは君が手入れしてるの?」
「はい」
淡白で短い返答。けれどマストはどこか、少女の声に誇らしさを感じた。




