マスト・ポート
目が覚めたマストは、自分の置かれた状況に驚き飛び起きた。
マストは絵の具の匂いが染みついた汚い自室ではなく、広く清潔な部屋で、きちんと洗濯されたシーツに包まれていたのである。日常的にのたれ死にを意識するマストにしてみれば、天が落ちてきたような衝撃だ。
室内を見回せば……しっかりと閉められた薄いカーテンと、少なくはあったが上質で品が良い家具と、そしてベッドのすぐ側でたたずむメイドの少女が目についた。
「うぉあっ!」
思わず悲鳴を上げて勢いよく後ずさり、そのままベッドから転げ落ちた。ドタン、という大きな音と共に尻をしたたかに打った。激痛が脳天まで駆け上がり、音にならない絶叫をあげてのたうち回る。
「……大丈夫ですか?」
メイドの事務的で端的な声。そこには少しだけ驚きと困惑が混じっていたが、今のマストにはそれに気づく余裕はない。目に涙を溜めながら歯を食いしばり、なんとか痛みを堪えつつ口を開く。
「大丈……夫。えっと……おはよう。エリサ、さんだったね。なんでここに?」
「おはようございます。朝食の用意ができましたのでお運びしました」
見ればエリサの背後にあるテーブルの上には、サンドイッチにスープ、サラダなどが並べられていた。
「……ありがとう」
眼を二、三度瞬いてからの、なんのひねりもないお礼。部屋ばかりか、食事まで用意されるなど望外すぎている。マストは唖然としつつ、のろのろと立ち上がる。
「それと」
追撃のように、エリサは無造作に布袋を差し出した。それを受け取ったマストは、予想外の重さに驚き……同時、中の物を理解してぞっとした。
「前金だそうです」
布袋のずっしりとした重さは、確かめなくとも相当量の金貨と分かる。二流の絵描きには明らかに過ぎた額で間違いない。否、今のご時世では一流であろうとも、前金でこれだけ受け取れる画家は希だろう。
分不相応な金額は恐怖すら呼び起こす。
たくさんお金をもらえてラッキー、なんて思えるほど、マストは愚か者ではなかった。芸術家の値段はその手腕で決まるのだ。
両の手にかかる布袋の重さは、背にずしりとかかる期待の重さに他ならない。己の腕に求められている価値が、そのまま数字としてここに顕れている。フィオーレはこの数字でもって「これに見合う仕事をしろ」と命じているに等しい。
「仕事は今夜からと伝言を預かっています」
事務的な声が重しのように、マストの臓腑にのしかかる。
屋敷内にて、マストにはいくつかのルールが課せられた。
立ち入る場所を制限する。具体的には主たるフィオーレの私室および執務室、使用人室および厨房、そして地下室への立ち入りを禁ずる。
絵を描く場所を制限する。与えられた客室および、屋外以外の場所で絵具を使うことを禁ずる。ただし主の許可が得られた場合はその限りではないものとする。
「……絵具については、臭いがあるから厳しいのは当たり前だけど。でも、入れる場所が多すぎないか? 僕を信用しすぎだろう」
「かまいません。御館様の指示ですし、屋敷内の他の部屋は、ほぼ使われていない空き部屋です。書庫の書物なども、ご自由に閲覧していただいて結構です」
「空き部屋って……まあ、こんなに広けりゃ空き部屋もあるだろうけど、それにしたって」
「この屋敷には御館様と自分しかいませんので」
マストは絶句する。
この広い屋敷に主と侍女が二人きりなんて、さすがにあり得ない。使用人一人では掃除もままならないだろうし、なにより単純に必要がなさ過ぎる。……なんと、あのおんぼろ借家より人口が少ないのである。
とはいえ、ただの絵描きに嘘をつく必要性もないはずではあった。そして当然、疑う理由もなかった。
だから、きっと本当なのだ。この屋敷にはフィオーレとエリサしかいない。
「それと最後に」
エリサは相手の困惑に気づいているのかいないのか、淡々と話を続ける。
「しばらくは屋敷内から出ることを禁ずる、とのことです」
「え、それは困る。部屋からいろいろ持ってこなきゃ」
「言っていただければ、必要な道具はこちらで揃えさせていただきますが」
「いや他はともかく、キャンバスはこの仕事のために用意しておいたのがあるんだ。新しく作るには多少時間がかかるし、あれがないと今日から仕事を始められない」
「時間はあるので焦る必要は無いと承っております。それよりも、アリシアという方がどう出るのか分からず危険であると」
「ああ、うん。力ずくで来られたらあっさり拘束されるだろうしね」
とはいえアリシアがそんな強引な手を使ってくるかというと、おそらく無いだろう。でなければ昨夜の時点でアウトのはずだ。
しかし不安要素ではある。依頼主も懸念しているのであれば、今日のところは外出を控えるべきだろう。
「御館様からは、あなたに不自由ないよう取りはからうように、と命ぜられています。何かございましたら遠慮無く申しつけください」
「……とりあえずは、そうだね。迷子にならないように、屋敷の案内だけ頼めるかな?」
屋敷が広いことと、人がいないことは理解していた。迷ったら気軽に道を聞ける場所ではないはずで、絵描きの青年はほとんど死活問題といえる事項を切り出した。




