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フィオーレ2

 世界が色のない空き箱になった。月は羊皮紙の切れ端で、星は石ころで、こぼしたインクが景観を黒く滲ませていた。

 石畳が他人のようにひんやりと冷たく、自分が地面に手をついているのだと気づいて、マストはふらりと立ち上がる。

 心が閉じて、固く小さな石になっていく。

 己の腕を。研鑽を。人生を。自分の全てを、受け入れてもらえなかった。それが絶望で、悲しくて、心がゴリゴリと削れるようだ。

 これが運命。

 夢を抱いた薄汚い鼠は、何も成すことなく、惨めに溝の中で死ぬ。

 それが当然の末路であると、定められていた。

(ああ……終わり、か)

 胸の内だけでつぶやく。

 卑屈になることはない。挑戦し、敗北したのだ。胸を張って受け入れればいい。ならば笑いながら死ぬのが矜恃というものだ。

「これも貴様の絵か?」

 耳にするりと入ってきた女性の声に、マストの目の焦点が合う。

 いつの間にか女性はマストの荷物を漁り、ここから見える街の風景画を取り出して眺めていた。

「おお、覚えているぞ。これは一週間前に描いていた絵だな。どうやら完成したか。……いやいや、なるほどなるほど」

 闇に慣れた目でも、月明かりに翳しただけでは見づらい。だが女性はなんの不便も感じていないかのように絵と現実の風景を見比べ、やがて楽しそうに笑い出した。

「ハハハハッ、傑作だな! いや、絵は凡作だが、貴様の在り方が傑作だ。清廉な騎士のように誇り高いくせに、まるで道化のような男ではないか!」

 女は先ほどにもまして上機嫌だが、笑われる方はたまったものではない。絶望のどん底にいながら死を覚悟しているのである。なのにあそこまで晴れやかな顔をされては、どういう態度をとっていいかも分からない。

「予言してやろう。この先どれほど続けたとしても、貴様は絵で大成はせぬ」

「は……?」

 その言葉にマストは目をむいた。これから殺されるというのに、なぜ仮想の未来まで批判されねばならないのか。

「貴様の腕は良い。おそらくその誇り高く純粋な志でもって、想像を絶する努力したのだろう。だが悲しいかな、貴様には一つ素養が欠けている。絵描きとしては最悪の欠点だ。見る目のある者なら一目で分かろうよ」

「欠点?」

「おうとも。その欠点のせいで貴様の絵はすべからく、ただの上手な絵で止まりだ。名作、傑作には決してたどり着けん」

「それはいったい!」

 もはや未来のない自分には関係ない。そうは思ったが、欠点という言葉が無視できなかった。気づけば叫んでいた。しんと静かな夜だ。声は驚くほど響く。

 シルバーブロンドの髪の女性は、薄く笑った。

「さすがの私も、ここまで残酷な宣告をするのは躊躇う。なにせ貴様の命より重い誇りを砕きかねない話だ。軽々しく口にはできん。そうだな、代わりのもので我慢しろ」

 それは、運命の言葉となる。


「我が肖像画を依頼しよう」


 その言葉を聞いて、マストがまず思い浮かべたのは疑問符だった。

 わけが分からなかった。彼女自身が自分の絵はダメだと口にしたではないか。だというのになぜ絵を依頼されるのだ。

「何を呆けた顔をしておる。貴様の腕を認め、栄誉を与えたのだ。もっと喜べ」

「でも、僕の絵はダメなのでは?」

 間抜けのようにそのまま聞くと、女性は鼻で笑った。

「そのとおり。貴様の絵はダメだ。貴様の絵では本物の画家にはなれん」

 胸に刺さる言葉をいとも簡単に吐くが、それでは矛盾している。理にかなっていない。

 彼女は自分の腕を否定した。なのに、その否定した腕に依頼した。

 そんなのは間違っている。それは彼女の生き様とは違う気がしたし、自分の生き様にもそぐわない。そうマストは思った。

 実のところここに来て、この絵描きの青年の心は誇りある死に傾いていたのだ。

 自分は負けたのだ。潔く笑って死のう。もし女性が慈悲を見せて見逃したとしても、あるいは最初からそんな気はさらさら無く自分を試していただけだったとしても、自分で自分の心臓をナイフで突いて死を選ぼう。

 そこまで思い詰めるほどに、絵は彼にとってすべてだったのである。

「だが、それはそれだろう。私は本物を欲していたわけではないのでな。欲しいのは一流の腕のみだ」

「……それは、しかし同じものなのでは?」

 疑問を放ちつつ、マストはその違いを知っていた。知りすぎるほどに知っていた。

「違う。明確に違う。その間には厚く高い壁がそびえている。現に貴様は一流の腕を持ちながら、本物にはなれていないではないか。こんな場所で惨めに似顔絵描きをしているではないか」

 ぐ、とマストは言葉に詰まった。

 たしかに自分の腕にはそれなりに自信がある。一流とは言わないまでも、二流くらいは自称できると思っている。……だが、マストの現状は三流の絵描きのそれだった。復業してすら、食うにも困るのだ。たった一枚しか持っていない己の師の絵すら、はした金に換えるような有様である。

「貴様はニセモノではないというだけだ。それ以上の価値を持たぬ」

 それは侮辱だった。

 しかし、マストには反論できない。己の価値の無さは痛いほど知っている青年である。痛いほどに拳を握りしめ、歯を食いしばることしかできなかった。

「まあ、それでも使い道があるのなら使ってやろう。なに、報酬は……」


「そこを動くな!」


 澄んだ声が遮った。

 騒がしい鎧の音が複数、夜の街並みに響く。西から三人、東から二人。どうやら知らぬ間に包囲されていたらしい。

「やれやれ。これが興醒めというやつか」

 つまらなそうに、女性はつぶやいた。


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