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プロローグ

 銀の満月が空に座し、星が降りしきる夜。

 数日前に積もった雪はまだそこかしこに残っていて、冬の寒さをさらに硬質にしているようだった。

 筆を持つかじかんだ手に白い息を吐きかけ、僅かなぬくもりを擦り合わせる青年は、人通りの少なくなった通りを見渡した。

 暗くなってから結構な時間が経っていた。満月の明るさに甘えて長居してしまったが、最近はなにかと物騒な噂も聞く。いいかげん、終いにすべきだろう。

 青年は椅子から立ち上がって、膝ほどの高さの立て看板に手に掛ける。店じまいする時はいつも、これが一番先だった。

「ほう、似顔絵描きか」

 そんなおり、いつのまにかそこにいた女性に、声をかけられたのだ。




 月夜に映えるシルバーブロンドを腰まで伸ばした女性だった。鮮血のような赤色の瞳が挑戦的な女性だった。病的に白い肌をしていたが、不健康そうに見えないのは姿勢がいいからだろうか。

 二十歳は過ぎていないだろうその若い女性は、舞踏会にでも出かけるような純白のドレスを着ていたが、その上から襟の立った黒いコートを羽織っているのがちぐはぐだった。コートは男物で丈が合っていないらしく、裾が石畳につきそうだ。

「ふむ。似顔絵描きよ」

 女性が訝しそうに眼を細める。その口調は堅いアルトで、音の一つ一つが尊大そうだ。

 彼女が青年を似顔絵描きと呼ぶのは、まさしく今片付けようとしていた看板のせいだろう。そこには似顔絵を承る旨と、一枚当たりの値段が記載されている。露店と言うのもおこがましい椅子二脚とイーゼルを置いただけのスペースには、見本のつもりか何枚かの似顔絵が並べられていた。

「それはなんだ?」

 しかし青年が先ほどまで描いていたのは、人の顔ではなく風景画だった。

 両脇に煉瓦の家々が連なる、石畳の路。遠くの方でゆるやかにカーブした路は、途切れることなくどこかへと続いていた。

 なんの変哲もない街の風景。まだ描きかけのようで、細部は白いところも多い。

「ああ、この景色だよ」

 青年は指で示す。暗いので多少印象は変わるが、そこには絵の中の風景が広がっていた。

「そんなことは分かっておる。私は、似顔絵描きがなぜ風景を描くのかと聞きたい」

 女性は腕を組み、青年を睥睨する。なぜだか苛立っている様子のを察して、青年は困ったように耳の裏を掻いた。

「なぜと言われても……僕の本業は絵描きでね。似顔絵は練習にもなるし、わずかだけど生活の足しにもなる」

「なんだ、本業で稼げぬ三流か」

 にべもなく、女性は言い切った。

「……言い訳できないけどね」

 絵描きは渋面を作ってみせる。だが元々が温厚な性格なのか、すぐに営業用の笑顔に戻る。

 あるいは、言われ慣れているだけなのかもしれない。

「まあ、稼ぎは三流だけど腕は二流以上だ。どうだい? 時間さえあってこの寒さに耐えられるなら、ひとつ描かせてはくれないかな?」

「おやおや、店じまいではなかったのかね?」

 銀髪の女性はそこで初めて、わずかにだが笑ったようだった。

「普通ならお断りするかもしれないけど、君のような美人なら話は別さ。今日の月は明るいから、十分描けるしね」

「ハン、口だけは一流のつもりか? 残念だが、小遣い稼ぎ気分の似顔絵描きに自分を描かせるなど、私には耐えられん」

「あらら。それは本当に残念」

 そう肩をすくめるも、青年には落ち込んだ様子はない。それどころか逆に、少し興味を宿らせた視線で女性を見る。

「でも、ではなぜあなたは、炉端の似顔絵描きなどに話しかけたのでしょう?」

 言動や服装からして女性はどうも高貴な出らしいが、こんな時間に一人でこんな場所にいるのは、どう考えてもおかしいだろう。おかしな状況には理由が必要だ。青年は目の前の女性に少なからず好奇心をくすぐられていた。

「そんなもの決まっておる。似顔絵描きに期待することなど似顔絵に決まっておる。興味本位に一つ、命を賭させて描かせるのも悪くないと思ったのだがな。……本業ではなく副業というなら、命じる気も失せるというものだ」

 なるほど、と青年は納得した。

 絵描きも似顔絵描きもそう変わりは無い気がするだろうが、実際にはかなり違う。絵描きはひたすら自分の絵に没頭するが、似顔絵は即席で相手を喜ばせなければならない。

 退屈させない話術は必須であるし、時間を取らせない筆の速さも重要だ。中には描きながら大道芸の真似事をする者までいて、そこまでいけば絵の腕前は二の次と言える。

 青年は似顔絵描きではなく、絵描きのつもりだった。

 だから本当の似顔絵描きを期待した彼女には、まず青年の志の在り方が気に入らなかったのだろう。それは理解できたし、ならば仕方がない。

「……命を賭させて?」

 だが彼女の言葉に不穏な響きがあったのを、青年は無視できなかった。

「おうとも。私が気に入らなければ死んでもらうつもりだったとも。私を描く栄誉を授けるなら、当然であろう」

 むちゃくちゃ言うな、と青年は思ったが、口に出さなかった。銀髪の女性の表情も声音も、冗談を口にする者のそれではなかったからだ。

 そしてもし仮に、この女性が貴族であるなら、その程度の言葉はまぎれもない真実なのだろう。この地方の貴族は、領民を家畜程度にしか見ていないと評判だ。

「それは恐ろしい話ですね。たしかにその役、僕には荷が重い」

 本心からそう口にすると、青年はそそくさと看板をたたむ。

 だが次にかかった言葉には、その手がぴたりと止まったのだ。

「……だが、本業の方になら、命を賭させる価値もあろうというもの」

 顔を上げると、目が合った。

 紅い眼が青年を射貫いていた。

 月光を浴びる銀髪の女性は、挑発的に微笑む。


「絵描きよ。肖像画は描けるな?」


 描けない、といえば見逃されただろうか。

 否。似顔絵で上達する技術は肖像画でこそ発揮される。少なくとも、肖像画を描く土壌を有していることは、すでに見抜かれている。その証拠に問いは確認の形だった。

 描かない、と断ることはできただろうか。

 否。もし彼女が貴族であるなら、その依頼をただの一平民が断れるはずがない。それで機嫌を損ねでもすれば、そのまま絞首台行きでもおかしくない。

 だから、元から選択肢は無かったのだが。

「描けます」

 青年は即答した。

 なんの躊躇もせず、ただ答えた。

「ほう、おもしろい」

 くくく、と女性は笑った。本当におかしそうで、初めて楽しそうだった。

「こんな炉端で描いているような半端もののくせに、ひるみもしないか。命を賭せる……いや、もしかして投げ捨てられるのか?」

 じろじろと値踏みする目で青年を見、艶然と笑う。

「だが、まずは腕を見てやらぬとな。そうでなければ話もできぬ」

 彼女は当然のようにそう口にして、ツィ、と人差し指を青年に向けた。

「一週間後、この時刻にここへ来よう。貴様はその日、自分の顔を描いた絵を用意しておけ」

 青年は眉根を寄せ、言われた言葉を脳内で反芻する。

「自分の絵……自画像?」

「そうとも。己の顔をそのまま映して描けばそれでよい。できが良ければ、私を描く栄誉を授けてもよいぞ」

「……なるほど」

 青年は不敵に笑う。

 それは挑戦状だった。目の前にそびえる壁だった。踏み外せば命を落としかねない断崖絶壁だった。

 青年は自分の胸に手を当て、一礼する。

「必ずや、あなたに認めていただける絵を持参しましょう」

 満月の下、その契約は交わされた。

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