三日月*アスタリスク
僕が世界中で一番好きな女の子。
その子も世界で一番僕の事を好きらしい。
それだけで、世界は輝く。
…ちょっと聞いてくれ大変なんだ。急いでるんだ。君の助言が必要だ。…もうあんまり時間がないんだ。
けど、話を端折ると分からないだろ?だから初めからだ。
……彼女との出会い?そんなに初めから聞きたいのか?けど、そこまでの時間はないからとりあえず今日の話を聞いてくれ。
空から降ってくる、*。
ロマンティックな日に起きた話だ。
————————————————
…喫茶店の窓から見えるのは一面の雪景色。記録的な大雪のせいで、みんなしかめ面で歩いている。
可哀想な人達だろ? 雪の美しさに目がいかない程に、毎日コテンパンにやられてる。
店に流れているのは流行りの歌。
彼女と一緒にこのアーティストのコンサートに行った事もある。
彼女が好きなこの曲を聴く度に、僕も彼女に会いたくて切なくて、震えてしまう。
…さっきから彼女に電話してるのだけど、彼女が全く出てくれない。メールの返信は一通だけ。
『今向かってる!!*』
アスタリスクって言うのかな? 星印みたいなアレを彼女はいつもメールで使う。
ハートや音符の代わりらしいけど、そんな所も素敵だよ。ちょっとみんなとは違う女の子だろ?
……少し調子に乗り過ぎた。
誰だってノロケ話は聞きたくない。けど今日位は許してくれ。実は特別な日なんだ。
本当なら記録的な大雪には似つかわしくない日なんだ。できるなら晴れてほしかった。
店員さんが三杯目のコーヒーを持って来てくれる。
僕が着ているのは今日の為に買ったおろしたてのスーツ。彼女が選んでくれたネクタイは、ピンク地に薄いシルバーストライプが入っている。それを汚してしまわないように、ゆっくりとコーヒーを飲む。
…彼女はまだ来ない。
約束の時間は、もうとっくに過ぎている。
コーヒーばかり飲んでいるから口臭が気になってきた。彼女の両親に「君、口臭いなあ〜」なんて言われるのは誰だって嫌だろ?
カバンの中からミントのタブレットを取り出して、口に含む。その時、カバンの中に入れてある一輪の白い花が目に入った。
これは彼女にも内緒にしてあるサプライズだ。これを、彼女の母親に渡す。
…おや?なんだ君!気が利くなあ!
…あらあらまあまあ、こんなに綺麗な花を
…おいおい君ィ、本当は娘じゃなくてウチの家内を嫁にしたいんじゃないのかね?
…あらまあ嫌ですよ。お父さんったら
…わっはっはっはっは〜
……完璧だ。
映像まで目に浮かぶ。
こんなにうまくはいかないかもしれないけれど、少しは空気がほぐれるだろう。
『娘さんを僕に下さい』
男の人生で最大の戦いだろ?念には念を入れておく。
それに、娘さんを僕に下さい なんて僕は言わないよ。下さい っていうの、なんか嫌だろ?
ウチの娘は物じゃない!! そんな風に言われたら、なにも言い返せない。けどそこらへんも万全なんだ。ちゃんと考えてあるんだよ。
…カランカランと。
扉のベルを鳴らして人が入ってくる。
その度に僕は彼女かもしれないと思ってそっちを見るんだけど、毎回その期待は裏切られる。
すでに約束の時間から一時間。
…ひょっとしたら、事故に遭ったんじゃないか。
そう思った瞬間に、本当に震えてきた。
雪の降る日。
人生でも滅多にない幸せな日。
彼女が事故で。
外の景色に負けない位に顔を青くさせて再び携帯の履歴から彼女にコールすると、すぐそばから音が聞こえた。
「ごめんね!遅くなっちゃって」
どうやら混乱しかけた僕は、彼女が入ってきたのに気が付かなかったらしい。
彼女のポケットから聞こえてくる流行りの歌。…本当に震えてしまう。
「タクシーなんか使うの?僕あんま金持ってないんだけど…」
「大丈夫だよ。お父さんからお金預かってるから。外は危ないから歩くのはよしなさいって」
乗ったタクシーが信号で止まっていると、周りで人が転んでいた。
「ねえ、大丈夫かな?僕変じゃない?」
「大丈夫だよ。いつも通りカッコいいよ」
僕は別にカッコよくない。昔はいつも自分以外の誰かを羨んでいた。
「就職先も僕にしては上等だけど、君のお父さんに比べたらさあ…」
「だから大丈夫だって。…もう、何回同じ事言ってるの」
内定をもらった企業は、待遇で言えば上中下の中のちょい上だ。僕にしては上出来だけど、彼女の父親は誰でも知ってる企業の社長だ。比べるべくもない。
雪景色の中では信号の赤い光が色んな所に反射している。その光に照らされている彼女の美しい横顔を見て、思わずため息をついてしまう。
…なんで、僕なんだろう。
彼女は星だ。
彼女がいつも使っているアスタリスクだ。大学でもみんなが彼女という星に憧れていた。
星を掴もうとする奴もいる。けど、何故か彼女が選んだのは、星を眺めて満足しているだけの僕だった。
「…どうしたの?」
彼女の優しい声。ずっと手を握っていてくれる。
「…ずっと、一緒にいようね」
「当たり前じゃないか!必ず幸せにするよ!」
その一言で、僕の震えは消えた。
これから始まるのは人生最大の戦いだ。
必ず、最良の結果を出して帰ってくる…!!
「……ウソでしょ?」
「ホント」
僕たちが立っているのは都内の一等地。目の前には巨大な和風の門、重厚な表札に彼女の名字が書いてある。
隣の家を見てみようとしたら、隣の家なんてなかった。ずっと、ずーーっと壁が続いている。
「さ、行きましょ」
「ちょ、ちょっと待って!ちょっと待って!!」
これは聞いていない。いくらなんでもこれはない。上流階級というのはここまで違うものなのか?
「もう…、男らしくないなあ」
「そういう話じゃないって!!」
いいかい?僕の内定先の一年目は、大体年収三百万だ。結構、っていうか、かなりいいだろ?
その会社で平均的に勤め上げたら年収六百万にはなる。ボーナス抜きでだ。いいだろ?
「ほら、いこう」
彼女がポケットからリモコンみたいなものを取り出してボタンを押した。すると、巨大な門がゆっくりと開いた。門から玄関まではおよそ十メートル以上。
いいかい?数十年後の僕の年収で土地を買っても、この門から玄関に辿り着く事も出来やしないんだ。
「もう…。情けないなあ」
結局自分の意思で足を前に出す事が出来なかった僕の手を、彼女が引いてくれた。
…居間。…広間? どっち?
高級旅館の宴会場、彼女に手を引かれた僕が連れてこられたのは、そんな場所だった。
そこでまず目に入ったのは、床の間の日本刀だった。それに立派な掛け軸。
ウチの居間に飾ってあるのは昔母さんが買ってきたラッセンのイルカの絵だ。当然レプリカだよ。
鹿威しの音がいつ聞こえてくるのか僕はビクビクとしていた。カコーーン。結局それは聞こえてこなかったんだけど。
「…お父さん。この人が」
「待ちなさい。…まず、この寒い日にわざわざ来てもらってすまなかったね」
家の中だというのに和服を着ている。
僕の正面、威厳ある男性の隣に正座しているのは彼女の母さん。しっかり帯まで巻いている。
理知的な父と、美しい母。
…僕の両親の説明は要るかい?要らないよね。
「いえ!とんでもないです!!
そ、それでですね。本日伺ったのは、」
「なんだい」
彼女の父は鷹揚にお茶を飲んでいる。そう言えば、僕にはお茶が出されていない。
…これは、まずいんじゃないのか?
僕は初っ端からテンパった。
雰囲気にも呑まれてたんだよ。
何を思ったのか、いきなり本題を切り出した。彼女の母さんに花を渡すのも忘れていた。
「ほ、本日は、娘さんとの結婚を認めて頂きに参りました!!」
「………………」
超怖かったよ。いや、別に睨まれたとかじゃないけどね。
「そ、それでですね、お父さんとお母さんに聞いて頂きたい事があるんです」
彼女の父は何も言わない。
隣のお母さんも。
「ぼ、僕は、娘さんを僕に下さいとは言えません。彼女は物じゃないし、それに、僕のお嫁さんになってくれたとしても、ご両親の娘さんである事は変わらないからです」
視界の端で、彼女が口を動かしている。…『頑張って』
「だから、娘さんと、僕が、一緒に歩いていく事を認めて下さい!!必ず…」
「いいよ」
「え」
彼女の父は、ゆっくりとお茶を飲んだ。そして僕の目を見て言った。
「もういいよ。感動的なスピーチだった。ありがとう。…ところで聞きたいんだけどね。認めないって言ったらどうするんだね?」
「え…それは」
「必ず?必ず幸せにする、そう言うつもりだったのか?ウチの娘は物じゃないとも言ってたね。ウチの娘は人間なのに、自分の力ではなく他の誰かに幸せにしてもらうのか?つまり、他の誰かに不幸にされる事もある訳だな。その通りだな」
「いや、それは違います!彼女と僕と、二人で」
「分かっている。分かっているよ。君の言いたい事は分かってるんだ。
…ただね、気になったんだよ。君は、本気で言っているのか?自分の言っている事を理解して口にしているか?認めないと言ったらどうする?障害があったら諦めるのか?」
…この時の気持ちを正直に言うよ。
かなりムカついたな。ほんの少しだけ、未来に影が差したよ。
けどね、僕は彼女とずっと一緒にいるって決めた。どんな障害にも負けないって、もう固く決めてたんだ。
「…諦めません。必ず、僕という人間を認めさせてみせます。僕は、確かに優れた人間ではないかもしれません、けど」
「だから、そういうのはいいんだ。本気なんだね?自分でそう決めたんだね?
…ウチの娘を守る。ずっと一緒にいる。彼女の事を守り続ける。そういう事かい?」
「当たり前です!!」
…視界の端で、彼女が自分の目元を押さえるのが見えた。気のせいでなければ、彼女のお母さんの目元も光っていた。
そして、彼女の父は僕に微笑んでくれた。
「そうか…。君が本気だということが理解出来た。娘を、頼んだよ」
僕の気持ち。この時の僕の気持ち。
君が想像してくれる感情、それを百倍明るくした感じだよ。うん、…この時はね。
「マ、…文恵。用意は出来ているのか?」
「ええ、あなた。いつでも」
…いま、彼女のお父さんは、ママって言おうとしたのか?
「そうか。それなら場所を移そう。さて、そちらでゆっくりしよう。私も早く着替えたいんだ。これは肩が凝って仕方ない」
そういって、彼女のお父さんは腰をあげた。その横のお母さんも。完璧な所作でね。
けど、その時には実はちょっとだけ落ち着いていた。だって、ママだよ? …ああ、お金持ちでもそういう所は普通なんだな、そう思った。それに、なんだか物腰もフレンドリーになった気がしたんだ。
…長い廊下を彼女のお父さん…、お義父さんに先導されて歩いてゆく。
雪景色に半分埋れてしまっているけど、廊下から見える日本庭園はどこまでも美しかった。
だって、わざわざライティングされてるんだ。一番綺麗に見える角度から光を投げかけられた庭園は、雪の中できらきらと輝いていた。
口を開けてそれを見ている僕の手を、優しく誰かが握った。
「あ…」
「ほらほら、こんなに凍えてしまって…。さあ、早く行きましょう」
それは、彼女じゃなくて、お義母さんだった。
お義母さんは彼女の母親とは思えない位に若い人だった。結い上げた髪からほつれた毛が、白いうなじにぺたりと張り付いている。
そのままお義母さんに手を引かれる僕を、彼女は微笑んで見ていた。
…それから五分も歩いたか?
ん?わかる、わかるよ。
流石に五分も歩いてないだろって?
けどね、曲がりくねってる廊下を歩いている時間は、僕にはそのくらい長く感じられた。
なんでこんなに曲がりくねってるのか。…いつの間にか庭園は見えなくなって、間接照明が照らす暗い廊下を、ただひたすら歩いてく。
彼女の父親に先導され
彼女の母親に手を引かれ
そして、何故だか彼女は、僕の背中にぴたりと張り付いていた。
…ここからだ。ここからが聞いて欲しい所なんだ。
長い廊下もいつかは終わる。それでだよ、本当の話なんだけど、長い廊下の先にあったのは、『家』だった。
…わからないだろ?そりゃそうだよ。僕だってわからなかった。家があったって言うよりも、廊下の先は外になっていて、そこに家が建ってたんだ。
…これは僕の想像なんだけどね。
この屋敷を上から見てみると、おそらく屋敷の真ん中に庭があるんだよ。大きな中庭が。屋敷の外側の日本庭園とは別にね。
曲がりくねった廊下は、どれだけ曲がっても一つの方向に回るようになっていた。おそらくこの屋敷は、ほとんど螺旋状の廊下だけで出来てるんだ。
ビックリするだろ?一坪一千万近い土地に、ひたすら廊下があるんだよ。
その行き着く先に、ほんのわずかな庭があって、建て売り住宅みたいな一軒家が建っていた。意味がわからないだろ?
お義父さんは、その普通の家の普通のドアを開けて中に入ってしまった。
ギー、バタン。…普通の音。
僕の手を握っていたお義母さんも、その手を離し家の中に入ってしまった。ギー、バタン。
残されたのは僕と彼女。
「…さ、私たちも入りましょう」
「いや、ちょ、ちょっと待ってよ…」
わかるだろ?それ以外になんて言えばいい?
「どうしたの?」
「いや、どうしたもなにも…!!なんで、家があるの?屋敷は?え?なんで?」
「すぐにわかるわ」
彼女の声。
…優しい声。
「いや、ちょっと待ってよ。心の準備が…」
「もう済ませたでしょう?本気で、言ってくれたでしょう?」
ここをどこだと思ってる?先進国日本の首都東京、その中でも有数の一等地だぞ?金持ちはこんな事を普通にするのか?
「わかった、わかってるんだ。けど、聞きたいんだけど、なんでこんな」
「うそつき」
…彼女の声が冷たく聞こえた気がしたんだ。
確かに僕はちょっとビックリした。
正直に言えば、かなりビックリした。本音を言えば、今まで生きてきた中で一番驚いた。
けど、うそつき?なにが?
「…ずっと一緒にいてくれるって、言ったのに」
そう言って、彼女は家の中に入ってしまった。
ギー、……バタン。
まだ雪は降り続いている。
ここは廊下の壁に囲まれているけど、上を見てみれば切り取られた空がある。輝くアスタリスク。降ってくるアスタリスク。
…ほんの五秒程空を見上げてから、僕は前を向いた。
まあ、ハッキリ言ってビビってたよ。だっておかしいだろこんな家。
けどさ、想像して欲しいんだ。
恋をした事があるかい?
本当に人を愛した事は?
それだけで、世界が輝いて見えた事は?
世界中で一番、自分が幸せだと思い込める瞬間を知ってるか?
彼女こそが僕にとってのそれだった。
だから僕はその扉を開ける事にした。
まあ、ここまでなら金持ちの道楽でも片付けられる様な気もするだろ。無理やりそう思い込めば。
普通のドアノブに手を掛けて、その脇の表札を見る。
『*』
え? と思う間も無く、ドアは開いて、僕は中に入って、扉は閉まった後だった。
ギー バタン、そんな音が。
彼女が玄関で正座してこっちを見ていた。
そして、僕の姿を見ると、美しい瞳にじわりと涙が浮かんだ。
「な、なんで泣くの?」
「…ありがとう」
確かに驚いた。金持ちの予想を超えた酔狂に。
けど、そんな事は関係ない。だって、僕は世界中で一番彼女の事が好きだし、彼女もそうだと言ってくれたからだ。
「別に泣くことないだろ…。これからも僕」
「いやー!いやいやいやいやよく来てくれた!!外は寒かっただろうし廊下は長かっただろー!ほらほら早くあがりなさい。いやー!こんな日が来るのを待っていた、ずっとずっと待っていた、私の代わりに私の娘を、大切で尊くて輝いている私の娘を守ってくれる!私の代わりに守ってくれるっ!! …ほらあがりなさい、さああがりなさい、早くあがりなさい」
「…は?」
お義父さんが早口でまくしたてる。
先程までの静かな威厳は無くなっていた。
「は、はい。お邪魔しま」
「なーにを言ってるんだ君は!? お邪魔しますなんて必要ないんだよ!お邪魔?誰が?何を?邪魔に? …そんなわけはないだろう!そんなわけがないじゃないか!さああがりなさい早くあがりなさい」
…聞いたことあるか?『ポカーン』の音。僕はその時確かに聞いた。
「まあまあ…。ファザー・ジークエンデ。彼が呆気に取られていますよ。…さあ、おあがりなさい」
お義母さんが、スリッパをこちらに向けてくれた。…それより、ファザー・ジークエンデ?だれ?
「おおマザー・セシリア!そうだね!そんな顔をしているね! …いやいや失礼失敬 無礼 無作法、不躾な態度で客人を迎えてしまった!!いやいや客人ではなかった!私の息子、可愛い息子、娘の旦那は私の息子!君の名前は今日からリトル・アスタだ!!さあアスタ!あがりなさい早くあがりなさい!君の心の中のリトルアスタの声に従い早く入りなさい!!
…あ、そうだ。漢字で書く時は明日太と書くといい」
「…はあ?」
今日会ったばかりの彼女の父親にそんな事を言ってしまうほど、僕は呆気にとられていた。
まず風呂に入れられた僕は、その後彼女の家の居間でお茶を飲んでいる。十畳もない位の居間。紐がぶら下がる蛍光灯。紐の先には小さな熊のぬいぐるみが巻きつけられていた。
(…なんだこのお茶は)
ぬるりと。
粘性をもつその茶色い液体を、鼻で呼吸しない様にして飲み込んだ。
…喉の奥からせり上がる吐き気。異物を放り込まれた胃が、「早くコイツを外に出せ」と騒いでいる。
風呂上がりに着させられた真っ白い作務衣。口の端からお茶が一滴こぼれてしまって、それを素早く手で拭いた。
…ん?ああ、そうだよ。言い間違いじゃない。まず僕は風呂場に通された。
そこで体を念入りに洗われた。
誰に?彼女のお義母さんに。
『ほらほら明日太。手を上げて…』
もうこの時点で僕の頭の中はメチャクチャだった。理由は言わなくてもわかるだろ。
お義母さんは僕の体を洗い終わると風呂場から出ていった。僕はそのままお湯に浸かっていた。
なにかを考えなくちゃいけないと思ったんだけど、意味がある事は考えられなかった。
風呂からあがると真っ白い作務衣が置いてあった。おろしたてのスーツも、彼女が選んでくれたネクタイも無くなっていて、カバンだけはそのままそこにあった。
扉を開けると、同じ様に白い作務衣を着た彼女が正座していた。
「…さあ、いきましょう。今日は母さんが張り切って朝から料理を作っていたの」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。聞きたいことが」
「私の気持ち? …世界中で一番あなたが好きよ」
「いや、そういう事じゃなくて」
「それ以外に二人の間で大切な事ってあるの?」
ない、のか?
いや、ある、…よな?
なあ、君はどう思う?
「さあ、いきましょう」
彼女は振り返らなかった。僕はその後ろについていった。
…ブラウン管の小さなテレビ。
それを観ているお義父さんが、手を叩いて笑っている。
「ほら、見てみろよ明日太!コイツらの馬鹿げた馬鹿騒ぎを!たまらない最高だ!暇潰しにはコレが良い!!無意味 無目的 無味乾燥な日々を送る無知な大衆にはこれ位が丁度良い!!
馬鹿が台本を書いて馬鹿が演じて、それを観てる私も馬鹿な気分になれる!!これを世界中で中継すれば戦争なんてなくなるのに!!」
…ひどい言い草だ。そして度を超えてフレンドリー。一流企業のトップは本当は家の中ではこんな感じなのか?
彼女とお義母さんは台所でなにかをしている。手を叩いて喜ぶお義父さんが、僕に向かい話しかける。
「なあ、明日太。お前はウチの娘のどこが気に入ったんだ?」
「お、お義父さん、それよりもですね。僕の名前は」
「明日太だ」
…マジでビビったよ。
一瞬で居間の空気が面接室のそれになった。世界を相手に戦う社長の前では、僕は首を縦に振ることしか出来なかった。
「それで?どこが気に入ったんだよ。教えろよう、なあ明日太ぁ…。父さんとお前の仲じゃないかよお」
何からツッコめばいいのか分からなかった僕は、とりあえず聞かれた事に答えた。
「えと、全部です」
「は?」
「いえ、ですから」
「全部って、お前意味分かって言ってるの?
全部って言ったら、全部だよ。本当に?
……寝起きの口の臭さも?ウンコしてる姿も?見ず知らずの奴の逞しい胸筋に目がいく所も?小学校の頃に書いたポエムも?ネットに書き込んだ下らない文句も?整形してるところも?子供を堕ろした事がある過去も?それを隠している現在も?いつかそれがバレるかもしれないって思ってる不安な未来」
「ちょ、ちょっと待てっっ!!!!」
途中から、とんでもない言葉が聞こえた。
「…どうしたの?大きな声を出して」
彼女が、台所から顔を出す。
「おお、私の可愛い娘。聖女シスター・アーゼルフィア!心配しないでもいいんだよ。料理を続けるといい」
「…そう?仲良くしてね」
彼女の顔が引っ込む。
すると、お義父さんは僕の隣に座り直した。
「明日太ぁ…。例えだよ。例えばの話だ。
けどな、全部ってそういうことだぜ。本当に全部? もっとさ、具体的にあるだろお…?」
「ぼ、僕は…」
「ん?なに?」
「…彼女は、僕の憧れでした。彼女の顔が好きです。優しい所が好きです。
一人でご飯を食べていた僕に声を掛けてくれた所が好きです。ジェットコースターに乗って叫ぶ所が好きです。コンサートに行って、泣いてしまう所が好きです。…他にもいっぱいあるんです」
「処女じゃなくても?他の男にメチャクチャにされた過去があっても?普通あるぜ。誰にでもある」
「い……………」
なんなんだ?
この人はなんなんだ?
ひょっとしたら、本当にコレは圧迫面接なのか?
あるいは、娘についた悪い虫を追い払う演技なのか? お義父さんの目。三日月の様に歪んだ目。
僕と彼女の間では、キス以上の関係はない。だって、結婚してからって彼女が言うんだ。そういう所だって好きなんだよ。
…モヤモヤは、ちょっとしたけれど。
「あらあら…。仲が良いのねえ」
お義母さんが、湯気の立つ両手鍋を持ってくる。
「ファザー・ジークエンデは息子が出来たから嬉しいのね。…ごめんなさいね。明日太」
「い、いえ…」
「マザー・セシリア。食事はまだかい? 私と明日太はもう待ちきれないぞぉ」
「はいはい。もう出来ましたから。
…シスター・アーゼルフィア。持ってきてちょうだい」
テキパキと食事の用意がされてゆく。
混乱する僕の頭の中とは関係なく、どんどん料理が運ばれてくる。そしてみんながテーブルについた。
「さあ、頂こうか。それでは不肖、私ファザー・ジークエンデから一言を。
…え〜、本日はお日柄も良く、という訳には参りませんでしたが、新しい世界、新しい人生、二人の真っさらな門出を祝うには相応しいと呼べる日でもあるわけで、まだ誰の足跡もついていない新しい世界に、若い二人はこれから踏み出す訳であります。え〜、皆さんご存知の通り英語では雪の事をスノーと呼びますが、いやいや、なかなかいい日でスノー。ドイツ語なら良き日でシュネー。ギリシャ語だとキオーンは冷え込んでおりますが二人の未来は」
「ちょ、ちょっと待ってください」
みんなが、キョトンとした顔で僕を見ている。場違いな子供を見ている様なその顔に一瞬だけ気圧された。
けど、タイミング的にここしかないと思ったんだ。
「お義母さん、えと、これを…」
僕はカバンの中から一輪の白い花を出した。もう、こんなものに意味があるのかは分からないけれど。
「まあ…………!!!」
お義母さんが、感激のあまり震えている。
「えと、なんて言ったらいいのかわからないんですけど、彼女を精一杯育ててくれたお義母さんに、なにかプレゼントしたいと思っ」
…バシンッ。
その花が、僕の手ごと叩かれた。
「まあ…!この子はなんて事を…!!
マスター!!偉大なる救世主!この子をお許しください!!この子は無知なだけなのですっっ!!」
「な、なにを…」
いつのまにか立ち上がっていたお義父さんが、その花をぐりぐりと踏みつけた。
「あっ…!!」
「ユリの花だと…!?明日太!お前はなにを考えているんだ!!この白い花は我らの組織に仇なすものだ!!イタリア語なら許せネーヴェ!!」
…我らの組織?
「偉大なるマスターよ!!アスタリスクよ!!罪深い我が息子をお許しください!!」
そう言って、二人は部屋の隅に置かれていた箪笥みたいな物の扉を開いて、その前に跪いた。
その中には立派な掛け軸みたいな物が置かれていて、そこには『*』のマークが染め上げられていた。
食事は和やかに進んでいる。…僕以外は。
泣き叫びながら箪笥を拝んでいた二人は、突然憑き物が落ちた様に平然と食卓に着いた。三日月みたいな目で、頂きます。と言った。
暖かい談笑の中、僕は黙っていた。
…我が組織。アスタリスク。
「…なあ明日太ぁ。ところでお前はアーゼルフィアとセックスしたのか?」
「ぶっ……」
口の中からご飯が飛ぶ。
僕は慌てて謝罪しながら散らかしてしまったものを片付ける。
「なあなあ、したのか?聞かせてくれよぉ」
「ごほっ、ごほっ…、し、して、いません…」
「そうか、なら良かった。人の娘に結婚前だというのにそんな事をする奴は、殺さなくちゃいけないからな」
その過激な冗談に、僕は頬を引きつらせる事しか出来なかった。
「当たり前ですファザー・ジークエンデ。一族郎党皆殺しですよ」
お義母さんもその冗談に乗っかる。僕はやっぱり顔を引きつらせていた。
「一族郎党どころじゃ済まさんよ。 …あれだ、明日太の父が勤める出版会社なんて潰してやるし、父親の上司の近藤も殺さなくちゃいけない。母親が週一で抱かれているコンドーム嫌いのヨガのインストラクター、…なんだっけあいつ。そうだ、竹田だ竹田!! …竹田も当然やるし、毎月ペットのコロの毛を刈っている橋谷も殺してやる。隣の家に住んでいる中学にあがったばかりの斉木優香は南米の魔窟に売り飛ばす。あ、その前にハカセーシャの儀はしないとな。明日太の初恋の相手のますみちゃんは今確か群馬で働いてたな。どうせだったらシベリアまで飛ばしてやる」
「あら、明日太のお父様の浮気相手は?」
「ん、年増の白豚アグリア・マクラーレンの事か?当然殺す。当たり前だ。聞くまでもないだろう」
…早口で、あまり聞こえなかった。今、彼らはなんと言っていた?ハカ?なに?
ポロリと。僕の開きっぱなしの汚れた口からまたご飯がこぼれ落ちる。
「……ん」
唇に、何かが付いている。
細い細いそれは、つまんでみると縮れた髪の毛だった。
「お、おおおおお…!!ご聖髪だ!!今日のご聖髪は明日太の所に!!」
「ああ!ファザー・ジークエンデ!!やっぱり明日太は、私たちの息子はマスターに愛されているのよ!!」
…ご聖髪?なんの事だ?
「ほら、明日太。これがご聖髪だ」
台所からお義父さんがなにかを持ってきた。梅酒が浸けてあるでっかいビンみたいな…。けれど、その中身は濁っていてなにも見えなかった。
「この中には我々の髪の毛や爪、細かいヒゲだとか鼻くそだとかが入っている。我々の聖体から出るあらゆるものがだ。我が組織では食事を作る時には全てにこれを使っている。さっき飲んだお茶も当然これだ。
…おめでとう明日太。今日の晩餐の祝福者は君だ」
「ウ……!!オエーーーーーッッ!!」
僕はテーブルの上に胃の中身をぶちまけた。
「おお!おお!!出てくる出てくる!!俗世の毒と汚穢と罪が!!さあさあ全部出すがいい!!そしたら生まれ変われるんだよ!!」
お義母さんが、涙を流しながら僕の背中をさすってくれる。優しく労わる様に。
「ほらほら明日太。君には我が組織の事を知ってもらわなくちゃいけない。なにせ大事な跡取りだ」
ブラウン管の下のビデオデッキ。
今時珍しいその機械に、テープをセットする。
「我が組織はマスターの天命に愛された者たちの集団だ。私が代表を務めている。君は知らないと思うが、既に我が組織はこの国を牛耳っているのだ。
パソコンで暗証番号を入力した事があるだろう?入力する度に文字が伏せられるはずだ。その時のマークを覚えてるか? …そうだ。我が組織のマークなのだよ。我々は君たちを守っているのだ。
電話を使ったことはあるよな?そうだ。ボタンが付いているアレだ。あれの左下のボタンを覚えているか?あのマークを90度動かしてみろ。…そうだ。我が組織のマーク、アスタリスクになるのだ。君たちの会話は全て聞いているのだよ。
他にもあるぞ。幾らでもあるぞ。我が組織がこの国を牛耳っている証が。
天気図を見たことがあるか?雪の降る日は?そうだ、こんな日の事だ。純粋にして純白、ゲスなユリの花とは違う聖なる白だ。アスタリスクだ」
…なにを言っているんだ?こいつは。
ブラウン管には、暗がりの中で人間が映っていた。
「…少し口調が硬かったな。
エー、アーアーッ、エヘンッ。これは重大な儀式なんだあ。ハカセーシャだ。ほらほら明日太ぁ、ちゃんと見ろ。この時はマザー・セシリアがカメラを回しているよ〜お」
「なに、を…」
「ほらほら!今出てきた!あれは私だ。手を振ってるだろ!?ほらほらァ!!」
画像がブレていてよく分からない。
けど、小さな女の子の服を、誰かが脱がしているように見えた。
「破瓜聖者だ。
…この時の破瓜聖者に選ばれたのは、系列の子会社の孫会社の下請けの、更にそことは全く関係ない潰れかけの町工場で溺愛されてた可愛い可愛い女の子だった。橘紗栄子。趣味は絵を描くこと。学校ではサエと呼ばれていて、この前の日に部活の先輩にタオルを渡せた事を喜んでいた。ちなみに撮影時の歳が確か十…」
「やめろっっ!!」
「なにをやめるんだ?破瓜聖者だ。大切な事だ。可愛い可愛い一人娘がある日突然攫われたらどうする?見つけた時には身も心もボロボロにされてたらどうする。整形しなくちゃ治らないくらい歪んだ顔にされたらどうする。初めての時くらいは私達がしっかり記録に」
「黙れ!!やめろ!!」
…また、キョトンと。
三日月みたいな目が僕を見る。
これからがいい所なのにぃ…。そんな呟きが聞こえた。
「…ねえ。ファザー・ジークエンデ。明日太は疲れているわ。私の部屋に連れていってもいいかしら」
今までずっと黙っていた彼女が、柔らかく声を出した。
「…ううむ。確かにそうかもしれないなあ。
なにせ俗世の中で二十余年だ。…外は恐ろしい世界だよ。この家の中以外は危険に溢れている。
私だって仕事がなければ外になど出たくない。アーゼルフィアだって本当なら外になんて出したくないんだ」
「そうですよ。外は危ないですし、もう今日は泊まってもらいましょう」
彼女の父と母は、三日月の様な目で手を叩き合っている。
「さあ、行きましょう」
そして、彼女の肩に掴まって、僕は自分の吐いたゲロを掃除せずに居間を後にした。
真っ白い部屋。
清潔なベッド。
そこに僕は寝かされている。
「ごめんなさいね…」
彼女の手。優しい手。
その手が僕の額を撫でる。
「お父さんと、お母さんは、少し変わっているの」
少し?
少しだと?
「小さな頃にね、私が、………」
私が、なんだ?
君になにがあった?
「…それからね、お父さんとお母さんは変わっちゃった。けどね、普段は良いお父さんとお母さんなんだよ」
荒い息が聞こえる。…誰の?僕の。
「だから、嫌いにならないであげて」
「ち、」
「なに?」
…小さな頃に、なにが?
両親が、あそこまで狂った何が?
大金持ちの家の娘になにが?両親が心を壊されるくらいのなにが?
…大きな屋敷の中の小さな家。廊下みたいな壁で守られた聖域。
小さな頃にあったという何か?何?なんなんだよそれは。
…視線を横に動かすと、机の上には一緒に行ったテーマパークで買ったぬいぐるみ。
初めて一緒に行った映画のパンフレット。
その帰りに撮った写真。
壁には大きなアスタリスク。
その横の、彼女が好きなアーティストのカレンダー。そこにつけてある丸印。
…僕たちが、初めてキスをした日。
「ねえ…」
彼女が口を開く。
…僕が世界中で一番好きな女の子。
その子も世界で一番僕の事を好きらしい。
それだけで、世界は輝く。
なあ、ちょっと聞いてくれ。君に聞きたい事がある。君の助言が必要なんだ。もう全く時間がないんだ。
今にも彼女の口が開いてしまう。時間が動き出してしまう。彼女の綺麗な黒髪が流れてしまう。彼女の瞳に溜められた涙がこぼれてしまう。彼女の手の震えが始まってしまう。彼女の桜色の唇が動いて、ほら開いた。
「…ずっと、一緒にいようね」
なんて言う?