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龍が飛んでいった日

 山の奥深く、ヒトに龍神池と呼ばれる池に一匹の龍が暮らしていた。それは、まだ飛ぶことができない若い龍。

 龍は外の世のことは何も知らない龍だったが、世界の美しさは知っているつもりだった。

 草の上で光る朝露、夕映えに輝く山々、池の水面を叩く雨音、どれもこれも龍のお気に入りだった。




 龍は下界の池や湖の底に卵を産む。

 その卵から孵った龍は大きくなるまで水底で過ごし、飛べるようになってから本能に導かれて龍の里へと戻る。そこでつがいの相手を見つけ、孕んだ雌はまた下界で卵を産み落とす。


 それが繰り返される中で、龍神池にたまたま産み落とされた龍は少し変わった龍だった。普通ならば飛べるまで水底にじっとしている龍だがこの龍は好奇心旺盛で、よく池のほとりにのそのそと上がっていっては世界を観察していた。



 そんなある日、水底にいた龍のもとに妙な音が届いた。

「龍神様、龍神様」

(りゅうじんさま…?なんだろう。…いいや、今は眠いから放っておこう)

 龍は一度開けた瞼をまた下した。



「龍神様、龍神様」


 音は三日三晩続く。さすがに気になった龍は水面に目から上だけを出した。


 そこいたのは猪だった。背中の縞模様は消えかかっているがまだ子供の猪だった。

 震える四足よつあしで踏ん張っていた猪だが、龍の姿を目にした途端、「龍神様!」と叫んで突然ころんと地面に転がってしまう。


「…」

 龍は動かなくなった猪に近寄ると、長い爪の先でつんつんと突っついてみた。


「…龍神様、おなか、空いた…。なにか、たべたい」

「…」


 しょうがないので龍は近くにっていた山葡萄を採って、猪の鼻先に置いてやった。龍は物を食べることはしない。けれど遠くから生き物たちを眺めて、「食べること」は知っていた。


 猪は葡萄を平らげた。龍はまた置いてやる。猪は平らげる。龍はまた…………。


 幾度かそれを繰り返した果てに勢いよく起き上がった猪は、その勢いのまま近くの地面を掘り起こし、捕まえたミミズを食べてため息をついた。


「…はあ、助かった。ありがとうございます。龍神様」


 猪の言葉が龍にはなぜか通じた。しかし理解できない部分がある。


「『龍神様』…それは私のことか?」

「はい、龍神様」

「…」

「今日はお願いがあって参りました」


 今日は、ってお前は三日前からいたじゃないか、と思ったが龍は黙っていた。


「人間を懲らしめてください」

「懲らしめる…?私にそんなことはできない」

「だって神様でしょう?なんだってできるでしょう?」

「神というのはそんな事ができるのか?」

「はい。天罰を与えることができると…母ちゃんが言っていました」

「なら私は神ではない。他を当たってくれ」

「…」


 猪の子は涙をこぼし始めた。


「…父ちゃんも母ちゃんも人間に殺されました。あいつらは悪い奴らなんです。だから…」

「お前はさっきミミズを殺していた。お前はミミズの罰を受ける気があるか?」

「…」

「むごいことだが生きるとはそういうことだろう」

「…」


 龍は命を食べない。だが龍は蜘蛛が美しい糸の網で蝶を取るのを、鷹が滑らかな動きで兎を捕まえるのを見て命の仕組みを知っていた。



 ぽろりぽろりと雫が地に落ちる。

「…兄弟たちもさらわれました。俺、さみしい…。みんなのところへ行きたい。俺も死にたい」

 猪は地にしゃがみ込むと前足の間に顔を埋めた。その日は風が強く、木々は音を立ててしなり、猪の小さな三角の耳もぷるぷると震えていた。


『寂しい』の意味はわからなかったが猪の何倍も大きくて長い龍は、泣いている猪を囲い込むように丸くなる。そんな風にして風から守ってやった。





 猪は池の隣にあったすすきの原に住み着いた。


「龍神様、龍神様。今日は星を一緒に見ませんか?」

「ああ、いいな」

「龍神様、龍神様。今日は美味しい栗を見つけました。一緒に食べませんか?」

「私は食べ物は口にしない。お前が全部食べろ」


 大人になった猪は恋の相手を見つけて子をした。




 今、二匹の目の前には縞模様の小さな猪がたくさん走っている。

「龍神様。俺、生きててよかった。楽しい」

「ああ、私もお前の子をたくさん見ることができて、楽しい」

 龍はやっぱりこの世界は美しいと思った。





 ところが秋になって猪が死んだ。


 猪の妻と子供たちが龍のところへやってきて、猪と同じ様なことを言った。

「人間の罠にかかって命を落としました」

「どうか人間に天罰を」


 龍は猪に言ったことを繰り返した。同じことを言った。だがその後が前の時とは違っていた。

 猪の妻は子供たちを連れて人間が来ないもっともっと山の奥へ行くと言った。子供たちは兄弟で力を合わせて生きると誓って龍に別れを告げた。





 池の底には龍が一匹残される。


 猪と会う前に戻っただけ、と思うのに。

 龍は前よりも自分の中が少し変わっているのに気が付いた。





 そして『悲しい』『寂しい』を覚えた龍は飛べるようになり、龍の里へ向かう。そこは争いをしない龍だけがいる穏やかな世界。

 でも龍は、なぜ龍が龍の里ではなく、下界で卵を産むのかわかったような気がした。


(この悲しいけれど美しい世界を捨てきれないからだ)



 龍の体は虹の様に空に煌いて、そして消えた。




 おしまい

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― 新着の感想 ―
[良い点] 優しい龍のお話ですね。きれいな龍に彩雲がかかっているかも。
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