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五、さあ、終わらせてしまおうか

 僕は、五歳児程度の子供の姿で、件の女に右手を握られて、校門の前に立っていた。

 雨は上がっていた。

 人も元の通りに戻っていて、学校へと足を進める生徒たちが、不審そうな目つきで僕らの姿をじろじろと見ていた。そんな事に頓着せず、女は、僕をじっと見つめ、校門の外を指差した。

「……駄目だよ。行きたくないよ。怖いよ」

 僕は涙目で訴える。女は首を横にゆっくりと振る。そして、にっこりと微笑んだ。……少しだけ、表情が豊かになった気がする。

 その笑顔に押されるように、足を一歩、また一歩と進めた。学校と外の境界に立つ。

 怖い。――

 女を見上げる。女は微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。僕は唇を噛んで、勇気を振り絞り、前を向いた。そして、――境界を(また)いだ。

 脳内を、いろいろな記憶が錯綜する。今までの思い、記憶、可能性が、一つに収束する。

 気付いたら、ぎゅっと目を瞑っていた。右手には依然女の温もりがあった。だから、僕は目を開けた。女の顔があった。笑顔で、強く手を握り返してくれた。だから、僕も笑った。

 僕と女は、街を歩いた。目的も無く、行く宛ても無く。

 公園の前を通る。何となく、中へと入る。そこには、僕より小さな子供とその母親が、砂場で楽しげに遊んでいた。

 子供は母親の為に一生懸命砂団子を作った。母親は、食べられもしないそれを、喜んで受け取った。

 どくん。――

 その光景を見て、初めて気付く、『繋げる』と言う事を拒否していた自分。

 親から受け継がれたタスキ。子からもたらされた幸せの連鎖。

 そうだ、僕は何かを残すと言う事をまったく考えていなかった。グラスに性別を与えなかったし、何かしら有益な情報を後世に残そうとしなかった。全て自分の中で完結していた。全て自分の為だった。誰かに何かを為そうとは思っていなかった。

 それはそうだ。

 何でも出来る世界で、自分の為に存在する世界で、どうしてそんな事を願う必要があるのか。

 でも……そんな世界が、何だって言うんだ。

 こんな世界に、何の意味があるって言うんだ。

 そう認識した。――そうしたら、そう定まった。世界中から、色が抜け落ちた。

 こんな世界、ただの夢だ。

 そう認識した。――そうしたら、そう定まった。世界が、ぐにゃりとゆがんだ。

 瞬く間に世界から実感が消えた。自分の姿さえ掴め得ぬ程、ぐらぐらと意識が揺らいだ。

 しかし僕は、そんな事意に介さず、考えていた。

 この世界は夢だ。では、誰の見ている夢だ?

 この世界は誰の見ている夢で、僕は誰だ?

 僕の親は誰だ、僕の家族は誰だ、僕の友達は誰だ、僕の本当の名前は何だ!! 僕の本当の記憶は何だ!! 僕の本当の思い出は何だ!!

 渡瀬幸次? 嘘だ! 誰だそれは! 僕はそんな名前じゃない!!

 ずきん。――

 夢心地の僕を襲う、実に現実味のある、今までにない程強い心臓の痛み。

 にやり。子供のままの僕が、生意気に笑う。いいぞ。もっと痛め。気付かせろ。

 渡瀬(わたせ)(こう)()。森欧高校の二年生で、背が高くスタイルもいい。運動神経が良く、成績はそこそこ。育ちも良くて、人に優しい。父親は大企業に勤める中堅サラリーマンで、収入は安定していて、母親は専業主婦で、いつもにこにこ柔らかな笑みを浮かべている。

 ふざけるな。そんなのは僕じゃない。

 僕の父親は鳶職で稼ぎは少なくて、頑固者で、好きな事をさせてくれなくって、いつも喧嘩ばかりしていたけど、僕が高校の頃病気で死んだ時は、心の底から泣いた。仲直りできなかった事を、未だに悔やんでいる。母親はいつも忙しそうにしていた。仕事も家事も、両方やらなければならなかった。僕はいろいろ手伝いたがったが、高校に入ると、勉強に専心するように言われた。父親同様頑固だった。父親が死んで以後、気後れする僕を大学へと入れさせてくれた。老後、癌に苦しんで、息を引き取った時は、悲しみよりも安心の方が大きかった。

 そんな両親から生まれたのが、この僕だ。こんな世界は、嘘だ。


「僕の名前は……手塚(てづか)(はじめ)だッ!」


 僕は力いっぱい叫んだ。ばりばりと、鉄を引き裂く様な耳を劈く音を立てながら、空間が捩じ切れ曲がった。脳全体を揺さぶらされるような感覚。立っていられない。ゴゴゴと轟音を立てて地面が割れ、上も下も分からなくなる。


「あーあ、思い出しちゃった♪」


 鈴を鳴らした様な声。玲子が、ツインテールをゆらゆら揺らしながら、大きな黒目がちの瞳をいっぱいに見開き、口が裂ける程口角を吊り上げ、四凶を引き連れて、僕を見て笑っている。

「思い出しちゃった思い出しちゃった♪ この世界を夢にしただけじゃ飽き足らず、自分が何者かなんて事を、思い出しちゃった♪」

「お前は……ごほ! ごほ!」

 急に咳き込む。喉がイガイガする。いつの間にか肌から若さが消えていた。髪は抜け落ち、皮膚は皺くちゃで、歯はぼろぼろに、体のあちこちが痛み、立ち上がる力さえ込められない。

「それこそが、あなたの姿。手塚(てづか)(はじめ)、八十五歳のおじいちゃん。家族の居ないあなたは、いつ死ぬとも分からない身で、じっと病院のベッドで眠っていた。……それでも、そんなぼろぼろな体でも、あなたは『生きたい』と望んだ。それが、私を引き寄せた。あなたは望み通り、自由な世界を、自由に生きる事が出来たのに、それを止めてしまった。単なる夢にしてしまった。愚かなものね」

「僕は……僕は……」

 声に張りが無い。目もかすむ。耳が遠くなる。それでも鈴を鳴らした様な声は脳内に響く。

「契約の内容は憶えていらっしゃるかしら?『自分の名前を思い出さないこと』。それさえ守れば、別の人間として、世界を思うがままに生きる事が出来た。時の終りまで生きる事が出来た。それなのに、あなたは思い出してしまった。なんて愚かなんでしょう!!」

 玲子は楽しげに、けたけたと笑う。しかし、――僕はそんな事はどうでもよかった。僕にはもっと大切な事があった。僕の右手に依然伝わる温もり。その正体。この不安定な世界で、僕の右手をぎゅっと握ってくれている、この子の正体を、見付けださなければならない。

 ずきん。――

 心臓が鼓動する。痛みが全身を襲う。吐き気に襲われつつも、精一杯の力を振り絞る。

「悪魔……お前は……手塚玲子などではない!!」

 はっと悪魔が驚く。僕は懸命に、右手の先にある女の子の瞳をじっと見つめた。

「君が……君こそが、僕の妹、手塚玲子だ!!」

 僕は叫んだ。その直後、神々しい光に包まれる。突如強い渦が巻き、吹き飛ばされ、手が離れる。しかし、その少女の声が、僕に届いた。

「ようやく、気付いてくれた。――」

 鈴を鳴らした様な声。悪魔が使っていたその声。それは確かに、僕の大切な妹、手塚玲子の声だった。

 大学の頃、僕と玲子の二人、同じバスに乗っていた。そのバスが、事故に遭った。玲子は、不運にも即死。僕は一命を取り留めたもののしかし、予断を許さない状況だった。

 敢行された、心臓移植。玲子の心臓は、見事、僕の命を繋いでくれた。玲子の、取得ほやほやの運転免許証のドナー意思表示が、僕の命を救ってくれた。

「玲子……気付かせてくれようとしたんだな」

 何度も心臓を突いた、鋭い痛み。

「……もうちょっと優しくしてくれてもよかったんじゃないのか?」

「な~に言ってんだか。こっちゃ近親レイプされかけたっつーの。……さて」

 遠慮なく、朗らかに笑って、一転、切れ長の瞳をさらに尖らせて、悪魔を睨みつけた。悪魔は顔をしかめ、怒りにツインテールを逆立てた。

「巫女風情が、悪魔の契約を止められるものか」トウテツが低く唸るような声で話す。

「その魂は我々のモノだ。邪魔はさせん」コントンの口の無い顔からもそもそと発せられる。

「契約に不備が無くば、逆らうことは許されん」キュウキが静かに嘲笑うように喋る。

「お前なぞに機械仕掛けの(デウス・エクス・マキーナー)は荷が重い!」トウコツが威嚇するように叫ぶ。

 悪魔の代わりに四凶がかわるがわる語りかける。

「……兄さん、どうか自我を強く保っていて。その間は悪魔も手出しできない」

 玲子はそう言って、ぶつぶつと呪文を唱えた。すると、玲子の背から轟々と激しい炎が舞い上がり、その向こう側から、細長く巨大で真っ白な虎、蛇の絡みついた真っ黒の亀、苔のように緑色の竜、真っ赤に燃え盛る孔雀が一斉に現れた。その四匹と四凶が、神話さながらの大演武を繰り広げた。その格闘の最中でも、四凶は僕に語りかける。

「何故そうまで生きたいと願ったのか」

「悪魔と契約してまで、何故生きたいと願ってしまったのか」

「今まで何も残せなかったと言うのに、これから何も残せないと言うのに」

「生きる意味など、無いと言うのに」

「何故そうまで生きたいと望んだのか」

「悪魔の囁きに耳をそばだててまで、何故生きたいと望んでしまったのか」

「未練なぞ、無い筈なのに」

「生きていたって、苦しいだけなのに」

 四凶の語りは、確実に僕の心をむしばんだ。世界が揺れる。自我がたゆたう。全身の力がどんどん抜ける。

 玲子が声を荒げる。

「しっかりして兄さん!! 思い出して、何故兄さんが生きたいと願ったのか!! 私の為だったでしょう!? 私の代わりに、精一杯生きようって決めたからでしょう!! 私の分まで、楽しもう、苦しもうって、そう決めてくれらからでしょう!! 私は、それが嬉しかった!! 兄さん!! あなたの人生は無意味な物なんかじゃ無かった!!」

 ――そうだ。思い出した。事故の後、玲子が死んだと知って泣き続けた。でも、すぐにやめた。玲子の心臓が、僕の体の中にあると知ったから。

 玲子こそが、僕の生きる理由になってくれた。

 そうだ。僕は、手塚肇として生き、手塚肇として死ねば、それでよかったんだ。それだけでよかったんだ。別に、姿を変えてまで生きる必要など、なかったんだ。

 バチン!!

 白黒の世界が、ひと時に七色に彩られる。自我がしっかりと保たれる。揺れが収まる。世界が安定する。……しかし、体に力が戻らない。

「もう、遅い」

「体が、死ぬ」

「夢が、終わる」

「全てが、終わる」

 四凶がせせら笑う。

「笑わせるな!! いくら体が死のうが!! たかが心臓が止まろうが!! 夢は終わらない!!」

 玲子はにやりと笑い、叫び、悪魔の許へと突進した。――


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