四、"To be or not to be."
グラスは一人、誰もいない校舎の屋上で不満げに外を見回しながら、ぱたぱたと可愛らしく羽をはためかせていた。
「トウテツ、コントン、君たちはどう思う?」
宙に呟いた。すると、音も無く煙が噴き出して、トウテツとコントンが、その不気味な体を現した。二匹はグラスを前に、慇懃に平伏した。
「恐らく、ではありますが、渡瀬様の仰せられた通り、この学校より外へ出るのは危険ではないか、と。渡瀬様はこの学校以外に何も求めてはいらっしゃらないのです。あのエレナとか言う女と、貴方様との安穏たる生活に満足していらっしゃいます。それ以外に、何も望んでいらっしゃらないのです」
トウテツは答えた。グラスはふくれっ面で、
「僕は満足なんかしていない。こんな所にじっとしていたんじゃ、産まれて来た甲斐が無いじゃないか。空を飛ぶ羽がありながら、僕は天高く舞うことが出来ない。自由に空を翔ける事が出来ないなんて、あまりに残酷じゃないか……」
と言って、天を仰いだ。トウテツとコントンはただ押し黙って平伏していた。
グラスは本を読んだ。初めは知的欲求からだった。
聖書を読んだ。神話を読んだ。人間と言うものが世界をどうやって認識し、何の為に生きようとし、死後どんな世界を想像しているのか、興味深かった。しかし、限界が来た。……何のことはない、固有名詞を見ても、それがどういうものか、全然想像できなかったのだ。
蟹? 酒? 棍棒? 袢纏? 提灯? ほと? 刀? 結納? 三行半?
それはどういうものなんだろう。一体どういう形で、どんなにおいがして、どんな感じがするんだろう。……と、本を読んでいるうちに、外への欲求は増した。
だから今度は、どこへも行けない代わりに、写真や絵や、いろいろな物を本の中で眺めた。本を読んで、どこへでも行った。そして、知った。それによって外へ出たいと言う欲求が満たされたかと言うと、逆に、その風景を見てみたい、その実物を、絵を、生で見てみたい、とより強く渇望した。しかし、ただ目を逸らすよりは遥かに有意義だと思えた。
そして、次に求めたのは冒険譚だった。これには没頭した。時間を忘れ楽しんだ。広大なファンタジー世界を、宛ても無くさすらい歩く姿に心躍らせた。ページをめくるたびに胸が高鳴った。一冊読み終わる毎に、余韻もそこそこに次なる未知の物語を求めた。しかし、……それにもついに限界が来た。
種族の違いによる、認識、思考、行動の溝に耐えられなくなったのである。
人間は地を這いつくばるしか出来ない。すぐ疲れて、のろのろと歩き、愚かで、それなのに自尊心ばかり強くて。彼らの視野は余りに狭くて、滑稽だった。
僕は飛べる。空を自由に翔ける事が出来る。もっと広い視野で、大地を眺める事が出来る。知能だって彼らよりも上だし、認識の次元も遥かに凌駕している。もっと別の角度で、彼らの言う、神の視点で以って、人間を見下ろす事が出来る。彼らは僕の視野で物語を描くことが出来ない。これは、かなりもどかしい事だった。
そしてもう一つ。――人間の『性』を理解できなかった。
グラスには性別が無かった。人間の性別と言う概念を超えていた。と言うより、渡瀬のみならず、人間の、動物に関する認識を超えた存在なのかもしれない。
男の為に思い悩む女が謎だった。女か国かで悩む男が謎だった。想いを断たれ二人身を投げる男女が謎だった。近親相姦のどこが禁忌か分からなかった。同性愛がなぜここまで題材になり得るか謎だった。
人間の恋愛全てが滑稽で、憐れだった。可愛らしいとさえ思ったが、それじゃ駄目なんだ。
結局、全ての小説、全ての冒険譚は、人間による、人間の為の書物でしかなかった。
それは当り前だろう、人間しか読まなかったのだから。
でも僕は、そんなんじゃ満足できない。
やっぱり僕は、外へ出なければならない。僕の目で、僕の肌で感じなければならない。
僕は一人学校の屋上から世界を眺めた。学校から外は、並木が見えて、往来を歩く人が居て、緑の小山があって、たくさんの屋根が並んでいた。しかし、よく目を凝らすと、のっぺりと平面で、動くもの全てが機械的で、生命の息衝きが感じられない。学校の塀に沿って、次元の壁があるようだった。
僕は、お父様の認識の外へと羽ばたかなければならない。
「お止め下さいグラス様。あなたのお命にかかわります」
トウテツとコントンが、煙と共に、音も無く現れた。
「……平気さ。僕には翼がある。どこへだって飛べる。何にだってなれる」
「グラス様、あなたが居なくなっては、渡瀬様が悲しみます。あのエレナとか言う女だって、貴方の事を心底好いてございます。どうか、お考えをお直しください」
「決めてしまったから、もう駄目だ。もう、命懸けだろうがなんだろうが、行くしかないんだ。確かに、お父様やお母様が悲しむのは僕も悲しい。二人と離れるのは僕だってさびしい。でも、行くって決めてしまったんだ。行かなきゃ駄目なんだ。行かなきゃ、僕が産まれた甲斐が無いんだ。生を受けた意味が無いんだ。ここで一生を終えるくらいなら、死んでしまった方が、遥かに楽なんだ。それでも、僕を止めるのかい? ……いや、止められるのかい?」
トウテツとコントンはじっと平伏している。グラスは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「そうだろう。君たちでは僕を止められない。僕に手出しできない。今の君たちじゃ、生きる次元が違うからね。……お世話になった。今までありがとう。僕は行く。お父様とお母様によろしく」
そして、天に向かって高く高く飛翔した。
トウテツとコントンは顔を上げてじっとその姿を見入っている。
「コントンよ。あの子供は、行くことが出来るのだろうか? あの次元の向こうへ」
「……可能性は、無いわけじゃない。しかし、薄い。あの人間が、それを望んでいない。あの人間は、閉じ籠ろうとしている。あの人間は、全力であのものを閉じ込めようとする」
「もうすぐ、天に届く」
「境に届く。内と外の境に」
「ああ、体が燃える!!」
「それでも、止まらない。止まろうとしない。行きたいのだ。いや、生きたいのだ。あの空を超えて、死んでも生きたいのだ」
「しかし、無茶だ。到底不可能だ。鱗が溶けた。皮膚がただれる。羽が焼かれる」
「羽が落ちても、あのものは飛びたいのだ。超えたいのだ」
「しかし……しかし、それも終わる。ああ、身が焼け焦げた」
「魄が死んでも、夢は続く。止まらない」
「いや、落ちる!」
「全て終わった。落ちてしまった。せめてその魂ぞ、救われんことを……」
グラスの体は、灰になって風に揺れた。
グラスが死んだ。
「私たちの……私たちの可愛い子供が……」
ヘレナはずっと泣いていた。僕は放心して、何も考えられなかった。グラスがどうやって死んだのか、ヘレナが納得できる理由を考えられずにいた。
そして、グラスが死ななかった世界。――それをいくら考えても、認識できなかった。自分を騙す事が出来なかった。グラスが死んだ。それは純然たる事実だ。そう認識する以外に出来なかった。
第二第三のグラス。何度も作ろうとした。しかしそれは、完成間近になっていつも失敗した。
否。僕が、完成を拒否したんだ。そう言う世界を作ったんだ。同じ物を作る事なんて無理だ。と言う理由だけではなく、もう二度と同じ思いをしたくない、と言う理由もあった。
グラスが死んで以後、ヘレナが精神を病んだ。真面目に授業に出るようになったものの、教室で突然大声を張り上げて泣き出したり、突然教室を抜け出したり、奇行に走るようになった。
初めのうちは同情し助けになってくれる人が居たものの、症状が悪化し、他人に罵声を浴びせるようになると、次第に疎ましがられ、最後には、味方は僕と針太だけになった。
「渡瀬……もしかしたら、あいつはもう学校に来ない方が良いかもしれない」
針太と僕の二人、陰で校舎に凭れかかっている。あれ程疎まし合った仲ではあるが、この状況ではこうする他ない。僕は針太に同意する。
「その方が良いかもしれない。僕は、出来る事なら四六時中一緒に居たいけど、……でも側にいた方が良いのか少し距離を取った方が良いのか、よく分からない。だから、出来るだけエレナの様子を細かく言ってくれると助かる」
「ああ、分かった。そうする。俺もお前には頼りになると思うから、よろしく頼む」
「ああ」
僕は、せめて彼女とグラスの関係を断ち切ろうとした。しかし、出来なかった。今彼女からグラスとの思い出を抜いたら、それこそ別人になってしまいそうな気がして、恐ろしかった。
そしてそもそも、グラスは僕とエレナの大切な子供だ、と言う認識を変える事が、どうしても出来なかった。
「……もうそろそろ授業だ」
針太は腕時計を見て立ち上がり、足を進めた。僕は遅れて立ち上がり、
「針太。僕は一生をかけて彼女を守る」
と叫んだ。針太は振り向いて、
「よろしく頼む」
ともう一度言って、姿を消した。
その言葉を嘘にしたくない。全力で彼女を守る。その為ならば、何にだってなってやる。
「あらあら♪ 随分とご執心だこと♪」
鈴を鳴らした様な声が脳内に響く。僕のすぐ傍らに、玲子が現れた。いつも通り僕を見下したような笑みを浮かべている。
「四凶を操る悪魔め。性懲りも無く現れるか」
「あらあら♪ 八つ当たりはよくないわよ。それに、魔を操るものが魔とは限らないわ。少し歴史を紐解けば、悪魔を従わせる人間なんてそこらじゅうに居るのよ。……でも、本当にあなたは何がしたいのか分からないわね。あんなになった女に、いつまで感けているつもり? さっさと捨てて、他の女を見繕えばいいでしょうに」
「黙れ。エレナは、この世界で一番大切な人だ。……お前には分かるまい」
「分かってないのはあなたよ。一度あの女に飽きかけたくせに、よくもまあそんな事が抜け抜けと言えたものね。……あなた本当は、あの女を大して愛していないんじゃないかしら? グラスとか言う子供を使って、都合よく繋がっていただけ。そして今は、弱ってしまって可愛そうな彼女を、誠心誠意介護する自分に酔っている。出来損ないの彼女を利用し、満足している」
「黙れ!!」
僕は熱り立って、拳を握って玲子に向かった。その拳が玲子に届くその直前、人面の虎が、音も無く現れ、僕を睨みつけ、大きく口を開け、鋭く長い猪の様な牙を見せ威嚇した。僕の体は一瞬で恐怖に身を凍らせて、情けない事に腰を抜かし、地面にへたり込んだ。
玲子は一歩も動かずに、目を大きく見開き、口が裂ける程口の端を吊り上げ、僕を見下し笑っている。
「ふふふふ、惨めなものね。世界を変えられる程の力を得ながら、未だ死の恐怖から逃れられない。未だ死と言う存在を克服する事が出来ない。そんな人間風情が、この私に刃向かおうなんて、どれ程愚かで命知らずなのかしら。……彼女を守る? それならば、さっさとグラスとか言う子供のことを忘れてしまえばいいのよ。出来ないなんて事はないわ。あなたが本当に彼女を愛しているならばね。でも、しない。結局彼女を、自分を慰めてくれる道具にしか思っていないのよ。それならば、代わりはいくらでもいるのにねぇ♪」
「黙れェ!!」
叫んだ。玲子は、耳障りな笑い声と共に消えた。僕は肩で息をしていた。
……誰が何と言おうが、絶対に、エレナを全ての災厄から守る。
そう、心に誓った。
その誓いは、すぐに破られた。エレナが自殺した。
少し目を離した隙に、ふらふらと家を出て、ふらふらと何かに吸い寄せられるように、川辺の木に登り、そのまま川へ落ちたと言う。それが自殺かどうか、よく分からない。が、そう言う事になっているらしい。針太にそう聞かされた。そう認識したら、そう定まった。
「そんな……そんな馬鹿な事が……。エレナ……あぁ……エレナ!!」
打ちひしがれた。誰もいない教室で、何十年間も泣き伏していた。
「あーあ、いつまでそうやってめそめそしているのやら」
鈴の音を鳴らした様な声。玲子が僕の背で、呆れ顔で見下していた。
「うるさい!! お前なぞに僕の気持が分かってたまるか!!」
僕は泣き顔で玲子を睨みつけ、鼻声で叫んだ。何十年もそうしていた為、髪も髭もぼうぼうに好き勝手伸び、制服は皮脂に汚れ、所々ほつれ、目は腫れて赤くなっていた。
「分かってたまるものですか。一人の女に執着して、勝手に絶望して、世界から生き物全部消し去って、その上何十年も雨を降らせ続けているんだから。馬鹿としか言いようがないわよ」
外では轟々と音を立てて雨風が延々と誰もいない世界を潤している。
「ねえ、そんなに悲しいのなら、さっさとエレナでも何でも創っちゃえばいいんでしょ。何なら、今度は女ばかりの世界でも作ればいいわ。都合のいい世界で、楽しく生きればいいのよ。男なら誰もが恋焦がれる世界よ。あなたにはそれが創れるのに」
「エレナを思い通りに造って、どうなるってんだ!! そんなのはもう、元のエレナじゃない!!」
「元のエレナを造ればいいのよ。いくらでも出来るってのに」
「うるさい黙れ!! お前に何が分かる!! この悪魔め!!」
「(うわー、ガチでうぜー、めんどくせー)」
突然、がらがらっと扉が開かれた。あの女だ。切れ長の瞳から、黒ぶちの眼鏡越しに僕を見る。玲子がびくっと体を弾けさせ、ぴょんと後ろに跳んで距離を取る。黒のツインテールが揺れる。腰を落とし、戦闘態勢で女を睨み、歯を噛みしめて威嚇する。
しかし女は、玲子をちらりと一瞥しただけで、後は玲子を無視し、飄々と僕へ歩みを進めた。まるで『手出しできないだろ』とでも言いたげな態度である。ずばりその通りなのか、玲子はそのままの姿勢で、悔しげに唇を噛んで女の行動を見守っている。
女は僕の真ん前まで来て、無表情のまま、じっと僕を見つめている。
「……何だ。……僕を、笑いに来たのか」
僕は玲子の代わりにこの女を睨みつけた。しかし女は、何も言わず、何も感じないかのように、相変わらず無表情のまま、じっと僕を見下ろしていた。相変わらず何を考えているのか分からない。無性に、腹が立った。
「ふざけるなァ!!」
僕は飛び付いた。首根っこを掴んで、そのまま押し倒した。僕の体重の全てで女を床に叩きつける。それでも、痛がる素振りも苦しむ様子も無く、無表情のままで僕を見つめていた。
「馬鹿にしているのか。――いい加減に何か言ったらどうだッ!! いつもいつも、僕はこんなに苦しんでいるのに!! お前はそうやって何も言わないで!! 何も感じないで!! 言え! 何か言え!! お前は僕をどう思っている!! 馬鹿にしているのか、軽蔑しているのか、言って示せ!!」
それでも、女は変わらない。怒りに体が震える。どす黒い提案が頭を擡げる。
一瞬で、教室が暗い地下牢の様な所に早変わりする。そこには、三角木馬、鞭、その他様々な拷問器具が設置されていた。そしてその傍らには、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべた半裸の男たちが居て、女を舐めるような視線で見定めながら、今か今かと僕の指示を待っていた。
「お前が言葉を発するまで、犯し続けてやる。苦しみを与え続けてやる。さあ、言え。……何か言え!!」
それでも女は変わらない。
ちくり。――
心臓に刺す様な痛みが走る。不図、涙が頬を伝い、女の頬へと落ちる。苦痛に顔がゆがむ。それでも、僕だって変わらない。何か言うまでこいつを犯してやろうと決めたんだ。女のセーラー服を手で引き裂く。下着も引き裂く。その、透き通る程白い、きめ細かい肌が、顕わになる。驚くほど美しい肌だ。……それなのに、何故か性欲が全然湧かない。
ぶんぶんと首を横に振る。その豊満な胸を揉みしだき、唇を奪う。……
それなのに、女は変わらない。拒否もしないし、受け容れようともしない。
「何か……言えよ……言ってくれ、お願いだ……」
唇を離し、懇願する。涙がぽろぽろと流れ続ける。――
女は変わらない。じっと、僕を見守り続けている。……が、その唇が、動く。
「――、――、――、――」
がん!!
木槌で頭を思いっきり打ち付けられたような、強い衝撃。
どくん。どくん。――
心臓が鼓動する度に、全身を隈なく、斬りつけられるような鋭い痛みが走る。
気を失う程の痛みだが、それでも、それでも僕は、しっかりとその痛みを受け容れていた。いや、受け容れたかった。
この痛みに、この子のヒントがある。この痛みにこそ、答えがある。
もう少し、もう少しで、この子のことが思い出せそうだ。……耐えろ、耐えるんだ!!
この子には会ったことがある。いや、会ったことがあるとか、そんな他人行儀じゃなくって、もっと、居る事が自然で、居ないことが不安になるような、そんな、そんな、……
意識は遠退いた。