三、親と子
コンコンと保健室のドアをノックした。中からは誰の声もしない。構わず入る。大病院ほどの設備があった保健室も、今では、ベッドが四つあるばかりの普通の保健室へと変わっていた。
恐らく、それで十分だと世界が判断したのであろう。
いや、僕がそう認識したからか? ……少しだが自信が無くなってきた。
三つのベッドは空で、残りの一つには、カーテンで仕切りが立てられていた。
「……入るぞ」
僕はそう一声かけて、カーテンを開けた。そこには、例の、そばかすをつけ眼鏡を掛けた髪の長い女が、ベッドにちょこんと座っており、包帯をセーラー服の端から見せていた。
ずきん。――
心臓をつく鋭い痛み。……まただ。一体この子が何だと言うのだ。
しかし痛みはすぐに治まった。ほっと一安心して、傍らの椅子に腰を掛けた。
「加減はどうだ? どこか痛い所はあるか?」
女に、なるべく優しく話しかけた。しかし、女からは反応が返ってこない。ぼうっと、惚けた顔でじっと僕の顔を見つめている。おや、と思い、今一度、
「どうしたんだ? えっと、もしかして緊張しているとか、いや、そんな感じでもないか。……あの、何か言ってくれないと、こっちとしても困ると言うか何と言うか……」
こっちがしどろもどろになってしまった。それでも女からは反応はない。依然、子供のように無垢な瞳で、僕を見つめてくる。いや、どうしたもんか。……待てよ、もしかして、
「もしかして……喋れないのか?」
そう言えばこの子の声を一言も聞いていない。そうかと思い紙とペンを渡して見たが、切れ長の瞳で、きょとんとそれを見つめるばかりで、何をしようともしない。……そもそも、何かを伝える事が出来ないのかもしれない。
うーん。と頭を捻り、この子に関する認識を変える。
しかし、女は変わらない。――
矢張りこの子は僕の認識の外に居る。この子はこの世界の異物だ。そして、この世界を崩すかもしれない存在だ。……しかしだからと言って、どうしても、この子を排除したいとは思えなかった。
この子を全力で受け入れたいと、そう思ってしまった。
何故か?……それは一向に分からない。ただ目の前に、子供のような瞳があるだけだ。
「ま、何とかなるだろ。よろしく頼むな」
女の頭を優しく撫でた。まるで、それが当り前であるかのように。……
この女と出会って以来、急激に人生に飽きた。
中学生がネットに書き込もうものなら、一瞬で黒歴史認定される言葉である。実名反対。
試しに、玲子の言う通りエレナ以外の女を何人か抱いてみた。様々なタイプの女と、様々なプレイを楽しんだ。が、駄目だった。行為が終わってみれば虚しいだけで、結局自慰行為となんら変わらなかった。元来、女遊びに気が乗らない性分なのかもしれない。そう認識した途端、本当にそう定まってしまった。女に対する興味が、まったく無くなってしまった。
これは困った。本当にどうしたものか。……
「なあ、玲子」
誰も居ない教室で、自分の席につきながら、そう呟いた。
「はいはーい♪ って、あなたの方から私を呼ぶなんて、初めてじゃない? どうかしたの?」
僕の後ろにちょこんと玲子が立っていた。僕は振り向いて、座ったまま玲子を見た。視線の高さは丁度同じくらいだ。
「少し、な。何か面白い事はないものかと思って、お前の意見を聞いてみたい」
「……あなたね、あなたのその無気力系主人公気取りは一体何なの?」
玲子は大きく溜息をついて、呆れた瞳で僕を見た。
「僕は真面目に聞いているんだ。生きる意味を失いかけているんだ」
「知ったこっちゃないわよそんなの。こんなに好き勝手出来る世界に居て、よくもまあそんな贅沢な事をぬけぬけと言えたもんね。本当に、縛りプレイなんか解いてさっさと無双すればいいものを……。ま、そんな事言ったって始まらないわね。はてさて。どうしたもんか。普通の人間は一体何に生きる意味を見出すものかしらね? ……まあ、例えば子供かしらね。普通の大人だったら、自分の子供の為に孤独な人生を誤魔化すものよ」
「……それだ」
玲子の提案に、僕の瞳が輝いたのを自覚した。体中から力が溢れた。すぐさま席を立って、教室を出た。玲子が慌てて僕を追う。
「ちょっとちょっと、あなた今から子供を作ろうって言うの? 相手はエレナって女?」
「いや、今から作っても旧暦換算で十月十日、そっから立ったり喋れるようになるには時間がかかるし、第一そんな面倒な事はしたくないよ」
「それも含めて子育てだっつーのに、分かってないわねぇ。じゃあ、人間の成長を早めるの?」
「いや、それはちょっと危険だ。人間に関する認識が変わったら、世界が瞬く間に、別物に変容してしまうかもしれない。それはそれで魅力的だが……。それ以上に、このままの世界でもやってみたいことが出来たのさ」
「……ねえちょっと、何をやるっての? 全然見えて来ないのだけど」
旧校舎の理科室の前で、ぴたりと足を止めた。錆ついた扉をがらっと開けると、筑波大学も顔負けの、荘厳な研究施設が内部にあり、世界中のありとあらゆる研究者が、何百人もそこに集結していた。にやり、と僕の頬は自然緩んだ。そして大仰に振り向き、
「僕が未だ認識し得ない、新しい生命を創り出す」
と高らかに宣言した。
彼の名前は丸井浩二。幼少より数学・物理化学を極めに極め、八歳で相対性理論を理解し、十歳で自発的対称性の破れを理解し、十二歳にしてポアンカレ予想をペレルマンとは異なるアプローチの仕方で自力解決してしまった、天才の中の天才である。
そう認識した。すると、そうなった。……まるで、新聞の科学欄を斜め読みして、凄そうな単語を抜き出して造り出したキャラである。自分のあまりの子供っぽさに、少々嫌気が差した。
まあ、それはいい。そんな彼と遜色のない位頭のいい僕は、彼と協力して、二年前からこの研究施設で人口生命体についての研究をしている。そしてその研究も、完成間近である。僕がこのパソコンのエンターボタンを押してさえしまえば、まったく新しい生命体を造り出せる。
「では、行くぞ」
押した。フラスコの中で、バチバチと電流が蜘蛛の巣状に四方八方に走った。そして、爆発。耳を劈かんばかりの轟音。研究室中のガラス製品が共振し音を立てて割れる。爆風に巻き込まれ燃え盛る人、心臓に鉄パイプが突き刺さった人、目にガラスの破片を立て苦しみのたうちまわる人、様々な阿鼻叫喚の騒ぎの中、僕は、じっとフラスコに目を凝らしていた。
パチン!
破裂音と共に現れた、全身緑色の生命体。背中にはトンボの様な羽が生え、体中を鱗が覆っているが、顔の形だけは、人間のそれに近い。大きなくりくりとした目と、尖がった耳、つんと少しだけ上を向いた鼻は、可愛らしい。
その姿が現れたと同時に、ぱりんとフラスコが割れた。そして、羽をぱたぱたと可愛らしくはためかせ、僕の目の前まで飛んできて、
「初めまして。あなたが僕の創造主ですね」
ぺこりと頭を下げた。その瞬間には、苦しみ悶える科学者も顔の歪んだ死体も全て消え失せ、研究室も、元の通りの、汚らしい旧校舎の理科室に戻っていた。
僕はエレナと共に屋上で昼ご飯を食べていたら、突然空からこの緑色の生命体が現れた。どうやらこの子は宇宙人で、自分達の星が滅び、脱出し、自分が生きられる環境はないかと宇宙をさまよっていたら、この幸運にも地球へと辿り着いたらしい。僕ら二人は、共に、この子を、自分達の子供のように育てることとした。
「成程、そう決められたわけですね。了解致しました」
その生命体・グラスは、納得したように頷いた。因みにこのグラスと言うのは、『緑色だから草で』、と言う何とも簡単な理由でエレナが名付けた。
このグラスだが、どうやら思惑通り、僕の認識の外にあるらしい。そう言う風に作ったのだからある意味当たり前だ。よって、僕の認識の変化の影響を受けない。僕によって造られた、僕の世界の異物、と言う事になる。何ともおかしいが、子供のあり方としては正しいのかも知れず、結構気に入っている。
玲子はと言うと、そんなグラスを、じとっとした不機嫌そうな目つきでねめつけて、大きく溜息をついた。どうやら玲子は気に入らないらしい。グラスは不思議そうに首を傾げる。
「渡瀬君さー、分かってんのかなー? こうも管轄外の異物が増える事がー、どんだけこの世界を不安定にするかー」
「世界の安定ねぇ、そんなものどうでもいいさ。今までの世界に、心底飽きてきたわけだからね。でも確かに、この子一人で変わるものだよ。エレナの違った面がいろいろと見る事が出来て、それもまた楽しい。針太なんかも、この子のことが気に入っているらしい。まるで、孫が出来た途端手の平を返す頑固親父だね」
「はあああ、そんなこと言ってんじゃなくてさああああ……。まあ、いいや。好きになさいな」
玲子はぴん、とグラスの額を弾いた。グラスは「痛!」と目を閉じる。そして涙を湛えた瞳で玲子を恨めしそうな視線で見る。僕はつい吹き出してしまう。そんな僕を見て、
「酷いです、玲子さんもお父様も。僕は人間程強くないのですから、どうか優しくして下さい」
と恨み言を言う。……そうか、と僕は気付く。
「確かにそうだ。グラスは僕の認識の外の存在だから、君をもっと強くしたりは出来ないし、危険に晒されても、全てどうにかできるものではない。弱ったな。僕もずっとグラスに付きっきりで居られないだろうし……」
僕はちらりと玲子の方を見る。玲子ははあっと大きな溜息をもう一度ついて、
「分かった分かった。ボディーガードでも付けときゃいいんでしょうに。まったく世話のかかる人。……トウテツ、コントン、出てきなさい」
玲子が億劫気にそう言うと、空間がきりきりと音を立てて引き裂かれ、二匹の、僕の認識を超えるモノが這い出てきた。人面の、曲がりくねった角と鋭い牙を持ち、体はもふもふとした羊のトウテツと、目も鼻も耳も無い、のっぺらぼうの、大きい犬のコントン。
「あんたたち、この子を全力で守りなさい。いいわね?」
「「はっ」」
玲子の指示に、トウテツとコントンは音も無く消えた。
僕はグラスを連れて、保健室へと行った。保健室にはあの女が居るからだ。
「やあ」
僕はノックの何も無く保健室へと入った。女は僕と、宙を飛ぶ不思議な生命体を、いつも通りのぼうっと惚けた顔つきをしながら、切れ長の瞳で黒ぶちの眼鏡越しに見た。
あれ以来この女は、玲子に手を出していないし、玲子もこの女に何をしようともしていない。むしろ積極的に遠ざけている様子だ。こちらとしては願ったり叶ったり。
しかしこの女は、一体何の目的があってここに居て、何の目的があって僕らを襲ったのか、未だ全く分かっていない。……下手をすればこの女自身も分かっていないのではないか。
グラスはこの女の目の前に飛び、羽を器用に高速ではためかせ、空中にぴったりと静止し、
「こんにちは。私はグラスと申します。よければあなたのお名前をお聞かせ願いませんか?」
と言って頭を下げた。女からは反応が無い。おや? と言う風にグラスは頭を上げて首を傾げる。代わりに僕が前に出て、
「ああ、こいつはどうも喋れないみたいなんだよ。だから名前もよく分からないんだ」
と説明。だから『あの女』とか『この女』としか言いようがない。グラスは納得したように頷く。
「ああ、成程。……しかしお父様、この方もまた、この世界に於いては異物なのでは?」
「そうだ。良く分かったな。何か知らんけど、そうらしい」
「そりゃあ分かりますよ、これ程異質でしたら。しかし、『何か知らん』ですか……。僕と言いこの方と言い、こんな異物を平気で受け入れるのですから、お父様は本当に大物ですね」
「そうなのかなぁ……。良く分からんのだ。何と言うか、こいつが異物だなんて感覚が、あまりにも薄い。最初こそ排除しようとしたけど、それも、もうない。思い通りにならないのは確かだが、だからと言って、ここに居る事が不自然だとも思えないんだ」
と言って、いつも通り女の頭を撫でた。この光景を見て、グラスは驚いたように目を丸くした。
「ん? どうした」
「い、いえ。お父様が他人の頭を撫でている所なんて、初めて見たものですから。驚いてしまって。お母様にさえそんな事していらっしゃらないと言うのに」
「ああ、……そう言えばそうだったかな」
そう言えば、そうだ。こんな事滅多にしないのに、この女に対しては、つい自然にやってしまう。女の方も嫌がる素振りを見せず、ただじっと僕を見つめ、受け入れてくれている。……
何だろう、この既視感は。
思えば、この女を初めて見た時もそうだった。どこかで見たことがあると感じたんだ。
いつ? どこで? どう出会った? ……この女は、誰なんだ?
心臓がちくりと痛む。視界がぐにゃりと歪む。耐えられず膝をついた。
どくん。どくん。――
鼓動が速くなる。その度に心臓に刺す様な痛みが走る。苦しい。お父様、お父様!! グラスの叫びが遠くに聞こえる。『心配するな、大丈夫だ』。その一言すら発する事が出来ない。
痛みは止まらない。……いや、止めたくない、と言う方が正しいのかもしれない。
この女が誰なのか、思い出さなければならない。そしてその答えは、この痛みの中にこそある。そんな気がした。何としても思い出したい。だから、この痛みよ、止まらないでくれ。
しかし、体の方に限界が来た。酒に酔ったように頭がぐにゃぐにゃになり、平衡感覚を完全に失い、両手を床につく。吐き気を催す。どうしてか、涙もぽろぽろと流れ始める。
苦しい。それでも、痛みを止めたくない。この子のことを、思い出したい。思い出してあげたい。大切な、この子のことを。……
顔に、柔らかいものが当たる。僕は、女に抱き締められていた。驚いて視線を上げると、豊満な胸越しに、女の顔が見えた。――泣いていた。僕の頬に女の涙が落ちる。
視界から全てが消えた。気を失う前後の境界で、女に頭を撫でられるのを感じていた。
この学校の図書館には世界中のありとあらゆる書物が存在する。そう認識したから、そうなった。考えてみれば、僕の読んだことのない書物までもここに存在すると言うのは、面白い。
僕とエレナとグラスで、本を読んでいる。僕は適当に手に取った中国の書物を読み、エレナは世界の建造物の写真に目を輝かせ、グラスはマタイの福音書に思いを巡らせている。
僕の読む本の中に、トウテツという魔物が出て来た。おや、と思い調べてみると、コントン、キュウキ、トウテツ、トウコツで四凶を成すと言う。このうち三つは、玲子が使役していた。こんなものを操れる玲子と言うのは、一体何者なんだ?
ちくり。――
またもや心臓に刺すような痛みが走る。
「あー、スペインかー。一度でいいから行ってみたいなー」
エレナが隣で呑気な事を言い出した。それを聞いてグラスが同調して目を輝かせ、
「いいですね。学校の外ですか。行ってみたいです。お父様、僕、海外へ行ってみたいです。世界中へ行って、この目で直接いろいろな物を見てみたいんです」
「グラス、お父さんをそんなにいじめちゃ駄目よ? 高校生にそんなお金ある筈ないんだから」
エレナが優しくたしなめたものの、……僕は面喰っていた。
外へ、出る?
良いとか悪いとかそういうものじゃない。僕は、その発想すら持ち合わせていなかった。
「ねえ、お父様、駄目ですか?」
グラスは上目遣いで、額から汗を噴き出させる僕を見る。
「グラス……いや、危険だ。学校の外に出るのは……」
「そうねー、海外は治安悪いしねー。……でも幸次君、学校の外に出すのくらいは良いんじゃないの? ショッピングモールとかにも連れて行ってあげようよ」
今度はエレナが同調した。汗が止まらない。息が苦しい。心臓に刺すような痛みが走る。
「グラス……駄目だ、駄目なんだ。僕は、学校の外へ出たことが無い。学校の外そのものが、僕の認識の外にあるかもしれないんだ。そんな所へ行くのは、あまりにも危険だ」
エレナは僕の行っている意味が分からず首を傾げる。しかしグラスの方は折れてくれない。
「お父様、僕は外へ出てみたいのです。ずっとここに留まっているだけなんて耐えられません。命懸けだろうが、外へ出て、いろいろな事を見て、して、感じてみたいのです」
「グラス、言う事を聞きなさい」
グラスはぷくっと頬を膨らませて、
「お父様、あなたは勝手です。親だからと言って、何から何まであなたが決めていいわけではないでしょう。お父様、あなたにもご両親が居らっしゃる筈です。あなたのご両親もまた、あなたをそうやって縛り付けになったのですか?」
両親? 僕の? ……分からない。何一つ、分からない。
僕には確かに親が居る。親との思い出もある。学校の外に出た思い出だって、ちゃんとある。家族と公園で遊んだり、エレナとデートしたり、そんな思い出がちゃんとある。
しかし、実感が無い。学校の外へ出たり、親と話したり、その事実が、感覚が、どこにも見当たらない。
俄かに視界が揺れる。心臓に刺すような痛みが走る。最近、この頻度が酷い。
僕は立ち上がり、図書館を逃げる様に後にした。
「……終わりが近付いている。世界の決断の時が訪れる」
玲子が物陰から彼の後姿を見ながら、鈴の音を鳴らした様な声で呟いて、口が裂ける程口角を上げ笑った。