一、なんでも出来る、なんだって出来る
「英語なんてね、日本で普通に生きていくんだったら、こんなものいらんわけですよ。何を必死こいて外人にあわせなきゃならんのですか、俺にゃ分からんとですよ」
「その『日本で普通に生きていく』為には、学校の英語くらい理解できる頭が必要なわけよ」
「…………あれ? 論破された?」
僕の真向かいに、長髪と短髪の男が二人、弁当を食べながら口を開いている。僕はただただ、ぼうっと惚ける自分を自覚しながら、誰が作ったのか知れない自分の弁当をつついている。
「……なあ、どうしたんだ幸次。変だぞ今日。ずーっとぼーっとして」
「ああ、うん……」
二人は僕を覗き込んで来た。僕は生返事を返すしか出来ない。自然、間が出来た。何ら反応を示さない僕を、不思議に思ったのだろう、二人は首を傾げ、それ以後何も話さず、黙々と弁当を食べ続けた。自分の所為で、こんな淀んだ空気の中で食事をしなければならなくなり、悪いとは思うのだが、何をどう話しかければいいのか、まったく分からないのだ。
僕は、この二人に出会うのは初めてだと思う。それなのに僕は、この二人を知っている。
この長髪の方は清樹針太(変わった名前だ)と言って、大柄でそれでいて目つきが悪く、その所為で、生徒たちからは恐れられ、威勢のいい上級生からは睨まれ、往来を歩けば人混みでも道が出来る位なのだが、一言でも話して見れば、気さくで人当たりが良く、ごく普通の高校生然としており、見た目とその口から発せられるひょろひょろと情けない声とのギャップも相まって、男女分け隔てなく人気がある。成績の方は、……あまり芳しくない。何度かこの男の勉強の面倒を見させられた。
そしてこの短髪は丸井浩二。僕と同じ名前とあってか、オマルなどと少々失礼とも言えるあだ名で呼ばれているが、本人は一向に気にする素振りは無い。真ん丸の瞳と話し方には愛嬌があるのだが、ズバズバと本音ばかりを言い(付き合いの長い僕でも、時々苛立たされる)、どうもデリカシーに欠ける一面がある。その所為か、男からの人気はそこそこあるが、女からの人気はあまりない。こちらは、針太と異なり、成績は優秀。――
僕は、この二人の事をこれだけ知っている。分かっている。先程『初対面だ』などと言ったが、ちゃんとこの二人との過去の思い出もちゃんとある。
それだけではない。この学校についてだってそうだ。自分はこの森欧高校の二年で、五月病の真っ盛りの中、暑いのに着たくも無い学生服をちゃんと着て渋々通っており、英語と社会ではいつも学年上位をキープしているが、理系教科は依然日の目を見ない。……
そこまで分かっている。そんな記憶や思い出は、山ほど存在している。
しかし、それなのに、それなのにもかかわらず、――何一つとして、実感が無い。
「渡瀬君、ちょっといいかしら?」
釈然としない所に、鈴の様に可愛らしい声が頭上から届く。座ったまま、その声の方を見上げる……必要も無い程小さな、セーラー服を着た、ツインテールの少女が立っていて、僕ににこにことした笑みを送っていた。
「えっと……」
頭をめぐらすも、僕には、この少女との記憶が無い。僕はこの子のことを、知らない。長髪短髪の二人もどうやら同じようで、弁当を食す手を止め、あんぐり口を開きながらきょとんとした眼で少女を見つめている。
胸元の、赤のリボンが目に入る。と言う事は一年生だ。一応後輩であるのだから、『渡瀬君』なんて呼ぶのは、よっぽど親しい人物でなくちゃおかしいと思うのだが、……
「今日の放課後、例の所に来てね? 約束だから♪」
そんな事だけを言い残して、ツインテールを揺らせ、颯爽と振り向いて去ってしまった。
目を見開く男二人。それだけではない、教室中の視線が一点に集まる。
その後、うわっと男子が一斉に集まる。
「オイ誰だ今の可愛い子!」「どんな仲だよ馬鹿野郎!」「ふざけんなよ糞が!」「誰かお湯持ってない?」「なんだよ例の場所って!」「ナニをドコでやるってんだよ!」「ふざけるな、ふざけるなよ!」「熱々のお茶ならここに」「お前そんな素振り見せなかったくせに!」「俺が居ながら!」「世界中の呪詛をお前に投げつけてやろうか!」「神は死んだ! お前が殺したんだ!」
そして一斉に各々の思いをぶつけられる。当然僕は慌てる。と言うか、あんな子本当に知らないのだから、そもそもこんな風に詰め寄られる謂われも無いのだ。
「い、いや、ちょっと待って! 誤解だよ! あんな子知らないし、例の場所なんて知らない」
「「「「そいや」」」」
「ぎゃーっ!!」
酷い目に遭った。まさか躊躇なくお湯を掛けられるとは。僕単体では、あんな騒ぎにはならなかっただろうが、人気者の針太と、そこそこ人気者のオマルが一緒に居た所為だろう。災難だ。あの後、誤解を解こうにも二人とも口きいてくれなかったし。なんだってんだ。
いや、そんな事はいいか。あの子は、本当に誰なんだ。初対面でいきなり君付けで、しかも『例の場所に来い』だなんて、無茶苦茶だ。僕は行かないぞ。と言うか、行けないぞ。
……はっと気付いたら、旧校舎の理科室の前に一人佇んでいた。
放課後。夕日が白い壁にべったりと血の色を塗りたくっていた。疾うに部活動の数々は終了しており、校舎にも生徒がいるにはいるのだが、活気が無く、ましてや明かりの無く薄暗い旧校舎には、人気も人の声も見当たらず、砂埃の上に付けられた鼠の足跡以外には、生命の息衝くにおいすら感じられない。
どうしてここに来たのか、理解できない。いや、記憶はある。授業が終わり、やる事も無く、適当に図書室へ行き、適当に本を読み漁っていたら時が過ぎた。その後、ただ何となく少女のことが気になっていたら、何の疑問も持たず、ここに到達していた。
……自分がここまで来た実感が無い。何かに操られていたかのようだ。
そして何より、こここそが『例の場所』で、この扉の向こうに少女が居る事に、何の疑いも持っていないのだ。
老朽化した校舎の、錆ついた戸を引く。まるで侵入を拒絶するかのように、がらがらと空気を軋ませる。そして僕は中へと足を入れる。淀んだ、埃っぽい空気が鼻につく。まるで、そこには誰も居てはならないように。
「いらっしゃい」
斯くして、彼女は居た。机の上に堂々と座り、脚を組み、膝に片肘を立てて、顎をその手の甲に乗せ、にやにやとした笑みを浮かべている。教室で出会った、溌剌とした笑顔とは違う、嘲笑にも似た笑みを湛え、僕に向けられた粘りつく様な視線は、一瞬で僕に不信感と不快感を植え付けた。
「お前は誰だ」
そして僕の口から発せられる、少女以上に不躾で物騒な物言い。
少女はしかし、にやにやとした笑みを一切崩すことなく、
「私? 私の名前は手塚玲子」
と自己紹介した。
その名を耳にした時、心臓がずきんと痛んだ。
「……でも、そんな事はどうでもいいのよ。重要な事じゃないわ。それよりも、聞きたいことは山ほどあるんじゃない? 私なら、いくらでも答えを持っているわ」
僕をその視線で絡め取ろうとする。不快感が増す。いいようにされるのは癪なのだが、どうにも自分のペースに持って行けそうにない。それに、彼女の言う通り、僕には疑問が山ほどある。もし本当に彼女が答えを知っていると言うのなら、聞き出して見たい。
「……僕は、誰なんだ?」
普通ならば、笑われるか、おかしな人だと眉をひそめられ遠ざけられそうな、馬鹿げた質問だが、しかし彼女は、表情を崩さない。依然、にやにやと、僕を見下した態度で居る。
「あなたは、正真正銘、渡瀬幸次。森欧高校の二年生で、背が高くスタイルもいい。運動神経が良く、成績はそこそこ。育ちも良くて、人に優しい。父親は大企業に勤める中堅サラリーマンで、収入は安定していて、母親は専業主婦で、いつもにこにこ柔らかな笑みを浮かべている。そしてなにより、女子生徒からの人気はこの学校でトップレベル。けど、自分がモテてるなんて自覚が無い」
「……馬鹿にしてるのか?」
「いいえ、本当のことよ。そう言う世界のなのよ。『女性が苦手』とか『理系教科が苦手』とか、未だ詰まらない固定観念に引き摺られているみたいだけど、少し認識を変えれば、すぐに世界は変わるわ。そいう所なの、ここはね」
玲子から次々と、鈴の様な声で、僕以上に馬鹿げた言葉が吐き出される。
何を言っているんだ。わけが分からない。
……いや、違う。本当は分かっているんだ。全てを。
それなのに、僕自身が、それを理解する事を、拒絶しているんだ。
世界がゆらりと揺れる。僕の体も、ぐにゃりと歪んだ感覚に襲われる。そんな僕を前に、少女は、机から降り、小さな体を僕に寄せ、くっつけて来た。
……僕はと言うと、情けない事にぴくりとも動けなかった。それも仕方ないんだ。なんせ、女性に対して少々苦手意識があるのだから、今までなるべく遠ざけて来たんだ。
いや、そう言う事にしているんだ。僕の中の何かが。
玲子は僕の耳元で、熱を込めた吐息でもって囁く。
「あなたは、何にだってなれる。何だって出来る。少し認識を変えるだけで、世界の全てが変わる。あなたは、ここで神に成る事が出来たの。凄い事よ。……でもね、二の足を踏んで立ち止まってしまっている。次の一歩を出せないでいる。これじゃいけないわ。鏡に映るあなたを見てごらんなさい。どんな女だって、たちまちあなたに惹かれるわ。あなたに特別な話術は必要ない。ただ、笑顔で話しかければいいだけ。『今日はいい天気だね』と言えばいいの。それだけで、勝手に女の方から落ちてくれるわ。そんなことが出来る男なのに、しない。勿体ないと思わない?……そうね、私がちょっと自信をつけてあげる」
パチン。
玲子は指を鳴らした。すると突然、ガラガラと勢いよく扉が開かれ、
「渡瀬先輩、来て下さったんですね!!」
と、女の子の声が僕を呼んだ。びっくりして振り向くと、見知った女の子が、顔を真っ赤にして、決死と言っても差し支えのない思い詰めた表情で、僕を見るなり抱きついてきた。
彼女の名は、清樹エレナ。幼馴染の一つ下の、さらさらなショートヘアの女の子。清樹と言う珍しい名字で分かるが、清樹針太の妹である。
何で彼女がここに?
……あ、そうか。僕は彼女に呼ばれたんだ。図書館で本を読んでいたら、エレナに旧校舎の理科室に来るように言われたんだ。
――いや、違う。そうやって、今決まったんだ。今、僕がそう認識したんだ。
くりくりとした大きな瞳、ぷるぷると揺れる唇、その全てが、人を魅了する。言い寄られたことなど幾つもあったが、その全てを断ってきた。何故なら、彼女は僕のことが、……
「先輩、好きです! 大好きなんです! 今日、女の子と楽しく会話してるの見て、それで、我慢できなくって……今すぐ先輩に告白しなきゃいけない気がしたんです!」
彼女は、僕のことが大好きなんだ。昔から僕一筋で、他の男なんて目に入らなかったんだ。
――いや、僕がそう認識したから、そう決まったんだ。
そうだ。この世界は、僕次第で、何にだってなる。僕は、何だって出来る。
そう理解した途端、心の奥底から力が溢れる。欲望が体中から迸る。
僕はエレナを抱き締める。エレナは驚いた顔をしたが、やがて安心したように破顔して、涙をぽろぽろと流した。そして、二人唇を重ね、お互いに無言で、服を解いた。……
「さあ、渡瀬君、あなたの思うがままに世界を創りなさい」
脳内で、玲子の、鈴を鳴らした様な声がきぃんと響いた。