くるみえりか編
どの女の人も白いドレスの似合う、ほっそりとした体形で手首には赤い小さなポーチを提げている。胸元には小さな白いエプロンのようなものをつけている。フリルの縁取りがされていてドレスにも似合っている。
「えりかさんというのでしょう。そして見えないけれどそこにいるのは象さんとセアラちゃんね」
キュウが話してしまったようだ。姿が見えなくなることまで話してしまうとは。そこまで信用できるのだろうか。
「心配しないで。私たちはあなた方の味方よ。自由の国から逃げてきたのでしょう。あの国の監視のひどさは噂に聞いているわ。あなた方が逃げてきて当然」
「王国の鍵について聞いたことがありますか」
「私たちもそれについて話していたところなの。きっと女王様ならご存知よ。白金と黄金でできた城に女王陛下はいらっしゃるわ」
女たちに見送られ、えりかとその一行は白く美しい門をくぐり、教会のような建物が立ち並ぶ街へと入った。自由の国にあった圧迫感や見られている感じがなくえりかはほっと息をついた。
街を歩く人はみな、入り口にいた女性のようなウエディングドレスを着て、赤いポーチ、フリルのついたエプロンをつけている。
美しい女性ばかりでみなが幸せそうにほほ笑んでいる。男の人の姿は見えない。
教会のような建物が立ち並ぶ中で、高い塀のある灰色の建物がいくつかあることに気がついた。
やがて白金と黄金でできた美しい城が見えてきた。
謁見の許しが出るとえりかは色とりどりの花が敷き詰められた庭園に通された。
女王はそこで日傘をさし、澄んだ水をたたえた池のそばの椅子に腰かけていた。女王もまた白いドレスにエプロン、赤いポーチといういでたちだったが、ところどころに金糸と銀糸で刺しゅうがしてあった。
「遠いところからよく来ましたね。もっと近くへお寄りなさい」心地よく響く鈴の音のような声で女王は言った。えりかが近づくと女王はたずねた。
「異郷より来た娘よ。何を求めてここまで来たのですか。踊りの国にもなく、自由の国にもないものとは何ですか」
「女王さま。王国の鍵がどこにあるのか御存知ではありませんか」
「聞いたことがありませんね。何のために王国の鍵を探すのですか」
「願いを叶えるためです」
「よければあなたの願いとは何か聞かせてくれますか」
「それは」友達関係。成績。将来の不安。不安ばかりで生きているだけで精一杯の私。自信のない私。ひと言では伝えきれない。
「誰が私を愛してくれるの」
「え?」
「あなたの願いです。いつもそう思っていたのではありませんか。誰が私を愛してくれるの。誰か私を愛して、と」
そうなのかしら。えりかは自分のことを誰かが愛してくれることを想像した。うん。幸せだと思う。そうすれば私も自分のことを愛せるような気がする。
「女王様。そうかもしれません。私が探していたのはその、愛だったのかもしれません。でも一体どうやったら」
女王はにっこりとほほ笑むといった。
「そうでしょう。分かっていましたよ、あなたを見たときから。愛ほど素敵なものはありませんからね。私たちの国も、そのことに気付いてからとっても幸せになれたんですもの。ごらんなさい。これがあなたの願いよ」そういうと女王は手首から提げていたポーチを開いてみせた。中には赤く蠢いているものが入っていた。それが何かが分かりえりかは悲鳴を上げた。
ポーチの中にあったのは動いている心臓だった。
驚きで口をきけないでいるえりかを見て女王はにたりと笑った。
「どう。美しいでしょう。これが私を愛する方の愛ですのよ。こうして手にしていれば失うこともない。永遠に私のもの」
「心臓の持ち主は死んでいるの」
「生きているに決まっているでしょう。ほらこうして動いている。他の体の部分のことを言っているのであれば、街の建物で快適に保管されているはずよ」街にあった灰色の建物のことが頭に浮かぶ。
「どうしてそんなひどいことを」
「そう思うあなたは幼くて知らないのですね。一度与えられた愛を失うことの残酷さを」女王はポーチの蓋を閉じると続けた。
「私たちの国を作った偉大な先人たちは、自由のために戦う必要はないと考えました。そのために愛のある国を作ろうとしたのです。
しかし、人の心は変わるもの。愛を手に入れることは、いつ愛を失うかと怯えることと同義でした。
しかし偉大な発見がなされ、魔法技術が進み、こうして愛するひとの愛を手にすることができるようになったのです」
そういって女王はまた笑った。その眼が実はとても空虚で何も見ていないことにえりかは気がついた。
そのとき、一陣の風が吹き、女王の小さなエプロンがひらめいた。
エプロンの下の女王の胸には握りこぶしほどの穴があき、中が空洞になっていた。
「おいでなさい。あなたの願いを叶えてあげますよ」
えりかは後ろを向き象の背中に走った。
象の背中で一部始終を見ていたキュウとセアラは抱き合って震えていた。
愛の国を出てもまだ三人とも震えていた。
「あのひと胸に大きな穴が空いていた。痛くはないの」セアラがたずねた。
えりかは何もいえない。象が答えた。
「気付いちゃいないさ。怖いからって理由で何かをすると大切なものを失っても気付かないんだ」
「俺は女王とえりかがしゃべっていたこと何も分かんなかった。セアラも分からなかっただろ」キュウがセアラのほほをつまみながら言う。
「だからお兄ちゃんはだめなのよ。・・・でもそれでいいのかも」普段よりも大人びた声でセアラは答えた。
「えっおまえ分かったのか。分かったふりしてるだけだろ」心底驚いた顔でキュウはいった。
「うるさい。もうさわんないでバカキュウ」キュウの手をはたき落としてセアラはいい、返す手でキュウの顔を押しやった。
「ちぇ。セアラもえりかに似てきたな」キュウは身軽に象から飛び降りると道の先に走っていった。
えりかはセアラを乗せた象の隣を黙って道を歩き続けていた。もう3つの国を周ったのに見つからない。そもそも王国の鍵なんて本当にあるんだろうか。
あったとしても、もしも見つからないのなら一体なんのためにこうして探しているんだろう。すべてが無駄に思えてきてえりかは何もかもが嫌になった。そのときだった。
だれもいない門が見えてきた。
かつては石でつくられ、きれいにしてあったのだろうが、今は草がぼうぼうに生え、荒れ果てている。門の周りに人のいる気配はない。
「えりか」突然なまえを呼ばれてびくりとする。後ろからキュウがやってきた。
「ここ気味が悪いよな。さっさと通り抜けようぜ」
「そうだね」
鳥のさえずりが聞こえない。しん、とした中、えりかたちは門を抜ける。中は荒れ果てた家々が並び、道の舗装などもかつてはレンガで整地してあったのだろうが、あちこちが抜け落ち、水たまりになっている。廃墟のようだった。誰もいないのかしら。
荒れた家の暗いところから、影が動いたように見えた。
よく見るとその影は人の形をしていた。
近づいてきたのは穴だらけの山高帽をかぶり目が険しくつり上がり口の端が曲がっている男だった。ひと目見てえりかは嫌な気持ちになった。声をかけられないうちに通り過ぎようとして足を速めた。
「おい。お嬢ちゃん」あっさり声をかけられた。
聞こえなかったふりをして黙って行き過ぎようとすると男が追いかけてくる気配がある。
足を速める。走ったほうがいいかしら。
「おい、お嬢ちゃんてばよ」ぐいっと手をつかまれ、引っ張られた。バランスが崩れよろけそうになる。
振り返るとすぐそこに男の顔があった。目は三角につり上がっているが凶暴そうというより脅えたおどおどした感じの目だった。
そしてなんだろう。この匂い。汗臭い。何日も風呂に入らないとこんな匂いになるのだろうか。
「お嬢ちゃん。待てってよ。どこ行くんだい?ここには何にもないぜ。ホントに何にもないんだ」
「離してください」思ったより強い口調で声が出た。男はびっくりした様子で手を離した。
「なんだよ。何もしてないじゃないかよ。だからさ。どこへ行くのさ」
どこだっていいじゃない!あんたに関係ないところよ。思い切り言ってやりたかったが、男を怒らせたくなったので「この先へ」とだけ言って先に進もうとした。
「ちょっとちょっと」と男はまた手をつかんでくる。
「もう、何なのよ!」思わず強い口調で声が出た。男はまた手をぱっと離す。悪びれた様子はない。
「いや、だからさ。ここには何もないんだって。自由も愛も踊りもさぁ。食い物だってないんだ。ほんとだぜ」聞きもしないのにしゃべりだした。
「見てくれよ。あいつ。あの動きの鈍さをさ。あいつが踊りでも踊れたらちょっとはこの国も楽しいんだろうけどさ」男の見る方向を見ると廃墟の影にのろのろ動く人影がある。
「そしてあいつなんてどうだい。あの頭の悪そうな顔をさ。あいつがちょっとは頭が良ければ、この国の不自由さもちょっとはどうにかなったのによ」男の視線の先にはまたも人影があり、こちらを見てにたにたと笑っていた。
「そしてあいつがもっとかわいかったらなぁ。俺も愛してやったのによぁ。この国にいい女なんざいやしねぇ」と男は廃墟の中を歩く女の人影を見て言った。
「そしてこの国には食い物も何にもありゃしねぇ。どこか近くにでも食い物のあるところがあればねぇ」食べ物の生る木が頭に浮かんで思わず口が動いていた。
「この島には食べ物の生る木があるじゃない」とたんに男の目が踊るようにえりかをとらえた。獲物を捕まえた動物のような動きだった。
「だからよ。この国には食い物がないって言ってるんだよ。それともお嬢ちゃん。この国で食い物の生る木を見たってのかい」
「えっ」えりかはたじろいだ。何を言ってるんだろう。この人は。
「だからよ。この国で食べ物の生る木を見たのかって言ってるんだよ。ったくよ。文句ばかり言いやがってよ。これだから何も知らないやつは困るよな。どうなんだよ。見てないんだろ」えりかを馬鹿にするような責める視線だ。
ぼかんっという音がして男の顔全体が揺れた。そして男は地面にのびてしまった。目の前には太い木の棒を持ったキュウが立っていた。
「ちょっと。死んじゃったんじゃない」
「気絶してるだけだよ」象がいう。また無関心な目をしている。
「えりかも悪いぞ。こんなやつは無視だ」キュウがいう。
「なんで私が悪いのよ。向こうから話しかけてきたのに」
「やばいやつが来たら逃げるか無視するかだろ。子供でも分かるぞ、そんなこと」
「分かんないわよ。すみませんね」
「ねぇ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも早くここから出ようよ」
「だね」
「賛成」足早になってえりかたち一行は歩き出した。
国を抜けると鳥のさえずりが再び聴こえた。えりかはほっとして息をついた。廃墟の国に入るまで感じていた悲観的な気持ちはもうない。
さぁ。次の国には王国の鍵があるかもしれない。悲観的になっていいことなんてないもんね。
歩くうちに森の中に入っていた。どこからか川の流れる音がする。
何かの動く気配を感じて見ると鹿が草を食んでいる。木の上にはサルがいて林檎をかじっている。木の切り株では野兎が座ってこちらを見ている。ここは動物の国だろうか。
やがて澄んだ川のほとりに、木でできた小さな家が建っているところへきた。
えりかが近づきドアをノックすると、中からはお菓子の焼ける香ばしい良い匂いがする。
「はいはい、待っていたよ。中にお入りなさい」という女の人の声が聞こえた。
ドアを開けるとお婆さんがオーブンから大きな皿を出しているところだった。皿にはこんがりと焼けたクッキーが並んでいる。
美味しそう。急にお腹が減ってきた。
「旨そうだ。食べていいか」いつのまにか隣にいたキュウがいう。
「もちろんだよ。その子はそのベッドに腰掛けるといいよ」お婆さんはセアラを見ていった。
「あの子が見えるんですか」
「あたしゃまだ目はいいからね」
「象も見えるんですか」
「あんたにはあれが象に見えるのかい」
「え?お婆さんには何に見えるの」
「まぁいいさ。カップを出すのを手伝っておくれ。ちょうど野兎たちがお茶を届けてくれたところだ」
四人掛けのテーブルがあり、招かれるままにえりかは椅子に腰かけた。
「どうしてわたしがあんたらの到着を知っているんだろうって顔をしてるね」
「どうして」セアラが声をあげる。
「ふふふ。このくらいの年になればなんだって分かるもんさ」お婆さんはいたずらっぽく笑った。そうして笑うと小さな子供のようだ。
「あんたが王国の鍵を探していることも知っているよ」
「教えてくださいっ」
「その話は後にして、まずはお茶を楽しもうじゃないか。野兎の摘んできたお茶は美味しいんだよ。それからわたしのお菓子も美味しいのさ」お婆さんが腰かけてコップにお茶を注いでくれた。
お茶からはいい匂いがした。
「オーゼルの葉だ。セアラ好きだよ。お兄ちゃんがいっぱい生えているとこ知ってるんだ」
「知ってるよ。それだってあんたの兄さんがあんたのために栽培してるんだよ。あんたのところではカモミールっていう名前だよ」お婆さんが最後のほうはえりかにいう。
キュウの口が一瞬開きっぱなしになるがすぐにクッキーにかぶりついた。
焼きたてのクッキーは歯に触れるとさくりと砕けふんわりと口の中で溶けていく。みんなが次々に手を伸ばし皿のクッキーはきれいになくなっていた。空になったコップにお婆さんがおかわりを注いでくれる。
二杯目のお茶を味わって飲む。いくら飲んでもお腹がいっぱいになるということはない。体に素早く吸収されてエネルギーに変わっていくようだ。二杯目のお茶を飲み干し、ふぅ、と息をつく。お婆さんと目が合った。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかった」
「さて。あんたの探し物の話をしようかね。王国の鍵だがこの島に探しても見つからないよ。だがあんたが見つけようと思えば、すぐに見つかるよ」
「意味不明です」なぞなぞみたいな答えだ。
「セアラ分かった」
「あんたは黙っておいで」お婆さんがいう。
「俺も分かったぞ。えりかはやっぱりバカだな」
「ええっ。本当に分かったの。教えて」
「あんたも黙っておいで」お婆さんがぴしゃりといった。
「お婆さんあたし見つけようと思っています。でも見つからないんです」
「見つけようと思っているのかい。なら大丈夫だよ。安心おし。きっと見つかるから。さてと。お腹もくちくなったし、あんたと話もできた。ここらで死ぬとしようかね」
「えっ。死ぬ?」えりかは聞き間違えたのかと思ってたずねた。
「そうだよ。他になにか話すことがあるのかい」
「え。その」他に聞きたいことはなかった。なぞなぞはまだ解けていないけれど。
「でも、死ぬってそんな。お婆ちゃんまだまだ元気そうなのに。そんな簡単に死ぬとか言わないで」どこかが悪いのだろうか。とても元気そうに見えるのに。
「なに言ってんだい。誰でもやることじゃないか」
「でも私、お婆ちゃんが死んだら悲しいわ」
「なんでだい?また生まれるじゃないかい」
「え」何を言ってるのか分からない。頭がおかしいのかしら。
「死んだら生まれる。生まれたら死ぬ。当たり前のことじゃないかい」
「でも死んだらもうそのままだよ。生き返ったりしないよ」
「おかしなことをいう子だね。ここでは普通だよ。生まれて死なないものはない。死んで生まれないものはない。当たり前のことだよ」
「それじゃあね」というと、お婆さんはあっさりと息を引き取ってしまった。
突然の死にえりかは茫然となった。はじめてひとが死ぬところを見た。もう息をしていない。涙がこぼれそうになる。
「そんな。こんなのって。会ったばかりなのに」涙がいよいよあふれそうになる瞬間、
「ふ~」という声が聞こえた。
え。お婆ちゃんの声?見るとお婆ちゃんが息をしている。
「あれ?お婆ちゃん、死んだんじゃなかったの。あっ分かった。ふりね、死んだふり」
「死んださ。あんたまだここにいたのかい。あたしゃこの体が気に入っているからね。別の体に生まれようとはまだ思っていないんだ。さぁ。あんた行くところがあるんだろう。探しているものもあるんだろう。見つけようと思っているなら、もう見つかったも同然さ。安心してお行き」
えりかは突然の蘇生に驚いていたがお婆さんが自信たっぷりにいうので礼を言うと小屋を出た。
セアラとキュウはえりかほど驚いてはいないようだった。子供ってそんなものなのかもしれない。それにしても変な世界だ。小屋を出てもまだ狐につまされたような気分が残っていた。だが気を取り直し後ろを向き手を腰に当てて言った。
「さてと。あなたたち。ついに私の役に立つときがきた。さぁお姉ちゃんに鍵の場所を教えなさい」
「嫌だよー。バカには教えない」キュウは走って森の中へ消えていった。
「だめっておばあちゃんがいってたもん」セアラは象の背中で毛布に隠れた。
「はぁ。どうしよう」お婆さんはこの島を探しても王国の鍵は見つからないと言っていた。でも見つけようと思えば見つかると言っていた。ということは近くにあるということ?近くにあって島ではない。うん?象を見る。
象もうん?という目でえりかを見ている。
えりかは象が鍵を持っていることに気が付いた。
象はえりかが象が鍵を持っていると気付いたことに気が付いた。
えりかは象がえりかが象が鍵を持っていると気付いたことに気付いたことに気が付いた。
「ぷっ。あっはっはっ」えりかも象も笑った。おかしくてたまらない。
「なーんだ。あなたが持っているんでしょう」
「よく気付いたね」象は嬉しそうに言った。
そしてえりかは象の尻尾の先のきらきらと光っているものを見た。
尻尾の先のふさふさした毛の部分に黄金の鍵が結ばれていた。
「さぁ。えりかは王国の鍵を見つけた。行こう。王国の入口へ」
えりかの周りに白いふわふわとした雲が立ち込めてきた。周りが真っ白になったと思った瞬間、ストン、と床が抜けるような感覚で、えりかは落下していた。
「ひゃっ 落ちてる 落ちてる」落ちながら、ふわふわとしたものにずっと包まれている。全然こわくはなかった。
ぼよんっとした感覚があって、落下が止まった。雲が少しずつ晴れていく。えりかは自分が宙に浮いていることが分かった。
「ひゃっ。う 浮いている」近くに象とセアラとキュウも浮いている。兄妹とも喜んで騒いでいる。
「大丈夫。さぁ。目の前のドアを開けて」
金色のドアが目の前にある。
「これが?」
「そう。王国の扉だよ。さぁ鍵を差し込んで」
黄金の鍵はぴたりと鍵穴にはまり、するっと回った。
扉は音もなく手前に開き、中から光があふれ出してきた。眩しくて目が開けられない。目を閉じてもまだ明るい。再び体が落下する感覚がきた。落ちているというより、光の中を滑っているようだった。
ふわりと着地した。
目を開くとそこには歴史の教科書に出てきそうな、竪穴式住居というのだろうか。縄文時代とか、弥生時代の頃のページに出てきそうな家が並んでいるのが見えた。象とセアラ、キュウの姿は見えない。
目の前の家のドアが開き、黒髪のきれいな女の人が出てきた。白い布でできたワンピースのような服を着て、手首や首には貝殻やきれいな石でできた飾りをつけている。
「いらっしゃい。待っていたわよ。えりか」
「え?わたしのことを知っているんですか」
「もちろん。あなたのことはずっと知っているわ」
「あの。あなたはだれなんですか」
「私はあなたの、母親のようなものかしら」
「ふふっ」女の人は透き通った笑い声をたてた。
「あのね。私はあなたの時代のすべての母親みたいなものなのよ。
ずっとあなたたちを見守ってきた。あなたたちが立派にやっていく姿を見てきたの」
「わたしのことも見てたの」
「もちろん」
「じゃあどうして助けてくれなかったの」
「あなたが私の声を聞こうとしなかったのよ」
「象もそんなことをいってた。サインを出してたとか見えない者だとか。あなたもそうなの?でも見えなかったら助けられないじゃない」
「あの島を回ってきたあなたに渡すものがあるのよ。今のあなたにならきっと使いこなせるわ」そういって女の人は丸い形の何かをみせた。
「これはなに」
「あなたの羅針盤よ」
「それって航海とかに必要なものですか」意味不明、と思ったが口には出さない。「それをわたしがもらって一体なにに使うんですか」
丸い金色の輪が三本くるくると回りボール状の形を作っている。中心には青い一本の矢のような針が浮いている。
「正確にはこれはあなたの真実を示す羅針盤よ。持ってごらんなさい」
えりかが受け取ると、それは手の上でふわふわと浮いた。そしてえりかが見ている前で中にあった青い針が消えた。
「消えた」
「それでいいのよ。あのね。えりか。あなたは自分の声を見失っているわ。もっと自分の声に耳を澄ましなさい。真実は人の数だけあるのよ。それなのに自分こそが唯一の真実だと思って他人にそれを押しつける人がいる。えりかに他の人がなんと言っても、それが本当の自分と違うときには耳を貸してはだめよ。羅針盤がそれを助けてくれる」
「本当の、自分?」
「そう。本当のあなたはとっても素晴らしい存在でかけがえがない。それなのに、あなたのことをだめだとか、何かが欠けている人間だという人がいる。あなたが自分の声を見失って、そんなひとたちのいうことを聞いて、自分でも自分のことをだめだと思う必要なんてないのよ」
「でもそれって、わたしが本当にだめだから、そういわれるんじゃないの?だめなわたしが本当じゃないの?わたしだって自分が素晴らしいって思いたいよ。でもそれって嘘だもの」
女の人はにっこり笑った。見ていると泣きたくなるような笑顔だった。「島では、えりかは自分の声が聞けていたのにね。キュウにバカっていわれたとき、本当に自分はバカだと思った?」
「ううん。だって違うって知ってたもの」
「でもえりかの世界でだめだっていわれたら信じちゃうのね」
「だってだめなことしちゃうんだもの」
「そうね。自分はだめだって信じているから、だめなことをしちゃうのよね。だからこれからはえりかの真実を信じなさい。自分はだめだって信じるのは、キュウにバカっていわれて信じるのと同じことよ」
そのとき姿は見えないがセアラの声が聞こえた。「バカっていうひとがバカなんだよ。お兄ちゃん」
「そんなのも分かんないなんてえりかは本当にバカだ」キュウの声も。
「さぁ。もう一度。自分の声に耳を澄ませてみて。えりかはすっごく素敵でかけがえがない」
そう思えたらどんなにいいだろう。きっとすごく嬉しいだろうな。
心地よくほっとする気持ちが涌いてくると同時に羅針盤の中に針があらわれた。
「ほら。上手に使えるじゃない。じゃあ自分のことをだめな人間だ、と思ったらどう」
女の人の口からそう聞いただけで胸が苦しくなり、羅針盤からは針が消えた。
「うん上手。この羅針盤をいつも持っていなさい」女のひとがそういうと羅針盤がえりかの胸に吸い込まれた。
「見えなくなった」
「見えなくても使い方は分かったでしょう。羅針盤の示す本当のあなたの声はいつも心地良いし、ほっとする感じがするのよ。心が苦しくなったら本当のあなたから離れているということ」
「そんなこと、信じられない!」気付いたら涙が出ていた。
「父さんは母さんやわたしをぶつの。わたしたちのために嫌な仕事でもしなきゃいけないんだって。わたしたちがいなければ良かったのにって。母さんも、わたしがいなければ父さんと一緒にいなくてもいいのにって。わたしがいるから父さんと一緒にいなきゃいけないんだって。二人ともわたしがいなければよかったって言ってるの。こんなわたしが生まれてこなければって。
わたしは、父さんも母さんも大好きなのに。父さんがお母さんを殴るのを見るの、もう嫌だ。母さんが父さんのことをあんな目で見るのをみるのももう嫌。わたしさえいなければ。生まれてこなければって思うの。だから学校でもいじめられて当然なの。楽しくしちゃいけないの。褒められちゃいけないの。こんなわたしだから、先生からだめな子だって言われても当然なの。
でももうわたし疲れた。もう嫌だ。こんなわたしでいるのももう嫌だ。もとから生まれない方が良かったんだから、はやくいなくなっちゃったほうがいい!」涙がとめどなく流れてきて目が溶けしてしまいそうだ。ふわりとあたたかいものに身を包まれる感じがした。女の人に抱かれている。透き通るような腕に包まれている。こんなに細い腕なのに、ものすごく強くてあたたたかくて安心する。
「大丈夫。ひとの目に映る自分の中に安らぎや本当の自分を探してはだめ。あなたの心に耳を澄ませてごらんなさい。あなたがあなたを愛するのよ」女の人の胸に抱かれてその心臓の動きが、呼吸のリズムが伝わってくる。花のようないい匂いがする。その深い呼吸に合わせてえりかも息を吸って、吐く。
自分の心臓の音が聴こえてくる。
心に言葉が浮き上がってくる。
生きたい。生きたい。
楽しみたい。楽しみたい。
歌いたい。歌いたい。
愛したい。愛したい。
「そう。それがあなたの、本当のあなたの心の声よ。いつも。その声に耳を澄ませて。怖がる必要はない。あなたは絶対に大丈夫。心の声に耳を澄ませてごらんなさい」
大丈夫。大丈夫。
絶対に大丈夫。何があっても大丈夫。
えりかは大きな安心感に包まれた。
もう大丈夫だ。
わたしは。わたし。
わたしは自分を見つけた。
自分が誰だか分かった。
どこまでもどこへでも行ける。
行こう。わたしと一緒に。
「もう大丈夫ね」
そっと女のひとはえりかから離れると、えりかのおでこにキスをしてくれた。
体が溶けそうになる。素敵なキスだった。
「そうだ。キュウとセアラは?あの子たちはどうなるの」
「キュウとセアラはここで暮らしていいのよ。ふたりがそうしたいのなら、だけど。ここにも国があるのよ」
「セアラここ好き。お友達ができる気がするもん」
「俺もこの国をもっと見てみたいな」姿は見えないまま、声だけが聞こえる。
「えりかまた遊びに来てね。セアラ待ってるから」
「自分の声っていうのか?それが聞こえてるときのお前、結構いいぞ。そんなにバカには見えない」両頬に唇が押しつけられる感触、そして少しの湿り気。
「さぁ。行きなさい」象があなたを待っているわ。
「どうしてあの島に行かなければならなかったの?王国の鍵はずっとそばにあったのに。象が持っていたのに」
「それはね」女のひとは言った。「それはあなたに知って欲しかったのよ。恐れてはならないということを。
あのひとたちも最初から、あなたが見たような姿ではなかった。
けれど、ひとたび自分の心の声からそれたために、怖れに耳を貸したためにあのような姿になってしまったのよ。
でもね。いつかはあのひとたちも気付く時が来る。
あなたが気付かせることはできない。自分の力でいつかはきっと気付く。あなたがそうだったように。あなたはそれを信じてあげるだけでいい」
そのときえりかには見えた。
それぞれの国のひとたちが怖れを捨てて彼らが望むものを手にするときが。
踊りの国には自由と音楽が。
自由の国には自由と平和が。
愛の国には自由と愛が。
廃墟の国には希望が。
みんなが笑っている姿が。怖れを捨て、自由に生きる姿だ。
えりかの体が浮かびはじめていた。まだここから離れたくなかった。名残惜しい顔で女のひとを見つめる。
「大丈夫よ。私はいつもあなたを見守っている。あなたが気付きさせすればいい」
「いつも?」
「そう。景色が素敵だなって思ったり、優しい気持ちになったときは私がすぐそばにいるサインよ。そして象もね。いつもあなたと一緒にいる。さぁ。行きなさい。私の子よ」
まるで立ちくらみがしたときのような感覚があって、ふっと意識が途切れた。
遠くで波の音が鳴っている。少しずつ音が小さくなる。
意識が戻るとアスファルトの上に立っていた。家の近くの、いつもの景色があった。手足がびりびりとしびれたような感覚がある。
夢をみてたのかしら。ふと足を見ると靴には黄色い砂がついていた。
夢じゃない。背中を電流がかける。
「そう。夢じゃない」象の声が聴こえて、周りを見渡す。
ここにいるよ。ここにいるよ。言葉が、頭の中に浮かんでくる。
「そうだ。夢じゃない」えりかは空を見上げた。
きらきらと空が光っていた。女のひとのいい匂いがした。
くるみえりか編 完
参考文献
喜びの泉
ターシャ・デューダーと言葉の花束
ターシャ・デューダー/食野雅子 訳