婚約破棄されたので、とりあえず帰って昼寝しますわ
王宮の大広間に、王太子の声が響き渡った。
「エルネスタ・ヴァルディア! お前との婚約を破棄する!」
磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされた豪華なシャンデリア。壁際には王侯貴族がずらりと並び、中央には金糸の刺繍が施された青い礼服の王太子が立っている。
その隣には、淡い桃色のドレスをまとった可憐な少女。
そして、その正面には。
「……えっ?」
エルネスタ・ヴァルディアがいた。
彼女は片手に小さな焼き菓子を持っていた。
婚約破棄を宣言された令嬢としては、いささか緊張感に欠ける姿だった。
「聞こえなかったのか! お前との婚約を破棄すると言ったのだ!」
「ああ、はい」
エルネスタは焼き菓子を口に入れた。
「それで、こちらのお菓子は食べてもよろしいのでしょうか?」
「菓子の話をしているのではない!」
「そうですか。では、あとでいただきますわ」
彼女は焼き菓子をハンカチに包んだ。
王太子の眉間に、深いしわが刻まれた。
彼の名はレオポルト。この国の第一王子であり、次期国王である。
そして、エルネスタの婚約者だった男でもある。
「エルネスタ。お前はこれまで、私の婚約者という立場を利用し、数々の横暴を働いてきた!」
「そうでしたか」
「王宮の侍女に無理難題を押しつけ、夜会では私の顔に泥を塗り、さらには私の大切な人を侮辱した!」
「それは大変でしたわね」
「お前のことだ!」
「わたくしでしたか」
エルネスタは首を傾げた。
彼女は別に、ぼんやりした人間というわけではない。
ただ、物事を深く考える習慣がなかった。
朝起きれば朝食を食べる。昼になれば昼食を食べる。疲れたら昼寝をする。面白いものがあれば眺める。退屈になれば帰る。
彼女の人生は、概ねそれで成立していた。
もちろん、貴族令嬢として必要な教育は受けている。
礼儀作法も、歴史も、外国語も、魔法学も、ひととおり習得していた。
ただし、習得したことと、それを積極的に使うことは別問題だった。
王太子の婚約者として、国の未来について考えたことはあるか。
ない。
王太子と愛を育もうと努力したことはあるか。
ない。
将来、王妃になることに誇りを感じているか。
これも、ない。
エルネスタはただ、家族に言われたから婚約し、王宮に呼ばれたから出向き、出されたお菓子がおいしかったから食べていた。
それだけだった。
「レオポルト殿下」
エルネスタは、ようやく王太子の顔をまっすぐ見た。
「つまり、わたくしたちは、もう結婚しなくてもよいのですね?」
「……そうだ!」
「では、帰ってもよろしいでしょうか?」
「なに?」
「今日は午後から、庭師の方が新しい花を植えてくださる予定なのです。できれば、それを見たいのですが」
大広間が静まり返った。
王太子は口を開いたまま固まっていた。
隣に立つ少女も、ぽかんと口を開けている。
貴族たちの間から、小さなささやき声が漏れ始めた。
婚約破棄を突きつけられた令嬢が、泣き崩れることもなく、怒り狂うこともなく、ただ庭の花を気にしている。
これは一体、どういうことなのか。
王太子は、なんとか威厳を取り戻そうとした。
「ま、待て! お前は自分が何をされたのか、理解しているのか!」
「婚約がなくなったのですよね?」
「そうだ!」
「でしたら、問題ありませんわ」
「なぜだ!」
「結婚しなくて済むからです」
王太子は絶句した。
エルネスタは不思議そうに彼を見つめた。
「殿下は、わたくしと結婚したくなかったのでしょう?」
「そ、それは……」
「わたくしも、結婚式の練習は少し面倒だと思っておりました。あの長い裾を踏まずに歩くのは、なかなか難しいのです」
「そ、そういう問題ではない!」
「そうなのですか?」
「そうだ!」
「では、どういう問題なのでしょう?」
王太子は答えられなかった。
なぜなら彼は、エルネスタが泣いて謝罪し、許しを請い、婚約破棄を撤回するよう懇願する姿を想像していたからだ。
それが、彼の描いていた筋書きだった。
婚約破棄を宣言する。
エルネスタが取り乱す。
自分は彼女を厳しく叱責する。
彼女は自分の過ちを認める。
そして、隣にいる愛する少女の手を取る。
完璧な計画だった。
ただ一つ、重大な欠陥があった。
エルネスタが、婚約破棄をまったく嫌がっていなかったのである。
「……エルネスタ。お前は、私を愛していなかったのか?」
王太子は、声を震わせながら尋ねた。
エルネスタは少し考えた。
愛。
愛とは何だろう。
おいしい食事を食べたときに感じる、あの満ち足りた気持ちだろうか。庭の噴水を眺めながら、暖かな日差しを浴びているときの、あの穏やかな気分だろうか。
あるいは、昼寝をしているときに毛布をかけてもらったときの、あのありがたさだろうか。
「殿下」
「なんだ!」
「わたくし、殿下のことは嫌いではありませんでしたわ」
「そ、そうか!」
王太子の顔に、わずかな希望が浮かんだ。
「ですが、特別好きだったかと聞かれますと……」
「聞かれますと?」
「お昼寝のほうが好きですわね」
「お昼寝!?」
「はい。殿下とお話しするより、お昼寝のほうが気持ちよいですもの」
王太子の希望は、瞬く間に砕け散った。
隣の少女が、こっそり口元を押さえている。
笑いをこらえているようだった。
「……もういい!」
王太子は顔を真っ赤にした。
「エルネスタ! お前は今日この場で、王太子の婚約者としての地位を失う! ヴァルディア公爵家にも、相応の責任を取ってもらうからな!」
「まあ」
エルネスタは感心したように声を上げた。
「家にも帰ってよいのですか?」
「帰れと言っているのだ!」
「ありがとうございます」
エルネスタは優雅に一礼した。
そして、くるりと踵を返した。
誰も止めなかった。
大広間の扉が開き、彼女は廊下へと出ていく。
その背中は、婚約破棄された令嬢のものとは思えないほど軽やかだった。
こうして、エルネスタ・ヴァルディアは、王太子の婚約者ではなくなった。
彼女はその日、人生で初めて、自分の意思で帰宅することができたのである。
なお、本人にとっては、それが人生の一大転機であるという自覚はなかった。
ただ、帰り道に買った焼き栗が、たいへんおいしかった。
*
翌朝。
ヴァルディア公爵邸の食堂に、エルネスタの姿があった。
彼女は焼きたてのパンにバターを塗っていた。
「お父様。婚約がなくなりましたわ」
「……そうか」
公爵は新聞から顔を上げた。
「昨日、王宮から連絡が来ていた。詳しい話は聞いている」
「それはよかったですわ」
「よくはないだろう」
「そうでしょうか?」
「お前は王太子の婚約者だったのだぞ。将来の王妃となる立場だった。それが突然、婚約破棄されたのだ」
「はい」
「家の名誉にも関わる」
「そうですわね」
「今後の生活にも影響が出るだろう」
「そうかもしれませんわ」
「……お前、本当にわかっているのか?」
公爵は新聞を置いた。
彼は娘のことをよく知っていた。
エルネスタは幼いころから、欲の薄い子供だった。
新しい人形を買ってやれば喜んだが、翌日には庭の石を並べる遊びに夢中になっていた。
立派な家庭教師をつければ、教えられたことはすぐに覚えた。だが、覚えた知識を出世に役立てようとはしなかった。
舞踏会に連れていけば、貴族たちの会話に耳を傾けていた。だが、帰宅すると、会話の内容よりも料理の味について話し始めた。
そんな娘が王太子妃になったところで、いったいどうなるのか。
公爵は内心、ずっと不安だった。
「エルネスタ。お前は、これからどうするつもりだ?」
「そうですねえ」
彼女はパンを食べ終えた。
「まず、お庭のお花を見ますわ」
「その後は?」
「お昼寝ですわね」
「その後だ!」
「おやつをいただきます」
「……」
公爵は天井を仰いだ。
彼は公爵家の当主である。領地の経営も、王宮との交渉も、貴族間の複雑な利害関係も、長年にわたって処理してきた。
しかし、娘の将来についてだけは、どうにも計算が立たなかった。
「まあ、よい」
公爵は深いため息をついた。
「少なくとも、王宮に戻りたいと言い出さないだけましか」
「戻るのですか?」
「戻りたいのか?」
「いいえ。王宮のお菓子はおいしいですが、うちのお菓子もおいしいですもの」
「……そうか」
公爵は再び新聞を開いた。
娘が幸せなら、それでよい。
そう思うことにした。
ところが、その日の昼前。
公爵家に、一通の手紙が届いた。
差出人は王宮。
封蝋には王家の紋章が刻まれていた。
公爵は手紙を開き、読み進めた。
そして、目を見開いた。
「……なんだ、これは」
「どうなさいましたの?」
「エルネスタ。お前、昨日の夜会で何か余計なことをしなかったか?」
「焼き菓子を食べましたわ」
「それ以外だ!」
「帰りました」
「……そうだったな」
公爵は手紙を握りしめた。
そこには、王太子の署名とともに、こう記されていた。
――ヴァルディア公爵令嬢との婚約解消に伴い、王宮が保管する同令嬢の私物および所持品について、返還手続きを行いたい。
ここまでは、問題ない。
問題は、その後だった。
――なお、婚約者としての教育課程において取得した知識、技能、その他の能力については、王家に対する奉仕義務の一環として、今後も必要に応じて提供されることを期待する。
「……何を考えているんだ、あの王太子は」
公爵の額に青筋が浮かんだ。
婚約を破棄した相手に、今後も王家のために働けというのである。
しかも、教育課程で身につけた知識や技能を、半ば当然のように利用しようとしている。
「お父様」
エルネスタが尋ねた。
「それは、わたくしも王宮に行かなければならないということでしょうか?」
「いや」
公爵は即答した。
「そんな必要はない」
「では、よろしいのですね」
「よくはないが、お前が気にすることではない」
「ありがとうございます」
エルネスタは立ち上がった。
「それでは、お庭に行ってまいります」
公爵は娘の背中を見送った。
そして、もう一度手紙を読んだ。
彼は決意した。
娘を二度と、あの王宮に近づけてはならない。
あの国には、少々、教育が必要な人間がいるようだった。
*
そのころ、王宮では。
「エルネスタは、まだ謝罪に来ないのか!」
王太子レオポルトが怒鳴っていた。
執務室の机には、書類が山のように積み上がっている。
その大半は、彼が処理するべきものだった。
「はっ。ヴァルディア公爵家からは、婚約解消の手続きに関する問い合わせが一件届いております」
「それだけか!」
「はい」
「……あの女!」
レオポルトは机を叩いた。
昨日、婚約破棄を宣言した。
それなのに、エルネスタは泣きついてこなかった。
謝罪にも来ない。
復縁を願う手紙も送ってこない。
それどころか、婚約解消の手続きだけは、きっちり進めようとしている。
彼には理解できなかった。
「殿下」
傍らに立っていた少女が、そっと声をかけた。
彼女の名はミレーヌ。
平民出身ながら、類まれなる魔法の才能を認められ、王宮に出入りするようになった少女である。
レオポルトは彼女に恋をしていた。
「ミレーヌ。私は間違っていたのだろうか」
「そんなことはありませんわ」
ミレーヌは優しく微笑んだ。
「殿下は、ご自分の心に正直になっただけですもの」
「そうだな」
「エルネスタ様も、きっと今ごろ、ご自分の過ちを反省していらっしゃるはずです」
「……そうだろうか」
「ええ。きっと、そうですわ」
ミレーヌは確信を持って答えた。
実際のところ、彼女はエルネスタがどのような人物なのか、ほとんど知らなかった。
ただ、王太子の婚約者という立場にいる以上、彼女にもそれなりの野心があるはずだと考えていた。
だからこそ、婚約破棄を突きつけられれば、必死になって地位を取り戻そうとするだろう。
そう思っていた。
「……よし」
レオポルトは立ち上がった。
「エルネスタには、しばらく反省する時間を与えよう」
「はい」
「一週間だ。一週間経っても謝罪に来なければ、こちらから使者を送る」
「素晴らしいお考えですわ」
ミレーヌは拍手した。
こうして王太子は、エルネスタが一週間以内に謝罪してくることを期待した。
しかし、その一週間のあいだに。
エルネスタは一度も王宮のことを思い出さなかった。
彼女は庭師の植えた花を眺め、刺繍をし、昼寝をし、読書をした。
ときどき街へ出て、新しい菓子店を探した。
婚約者という立場から解放されたことで、彼女はようやく、何の予定もない一日というものを手に入れたのである。
それは彼女にとって、王妃という地位よりも、ずっと魅力的なものだった。
*
一週間後。
王宮から使者がやってきた。
「エルネスタ・ヴァルディア様に、王太子殿下からのお言葉をお伝えいたします」
使者は、玄関ホールで厳かに頭を下げた。
エルネスタは、ちょうど焼きたてのパイを食べているところだった。
「どうぞ」
「……は?」
「お話をどうぞ、という意味ですわ」
「失礼いたしました」
使者は咳払いした。
「王太子殿下は、先日の件について、あなたが深く反省しているものと考えておられます」
「そうなのですか」
「つきましては、王宮にお越しいただき、今後の対応について話し合いたいとのことでございます」
「今後の対応?」
「はい。王家に対する奉仕義務について、改めて確認したいと」
「……」
エルネスタはパイを見つめた。
表面はこんがりと焼けており、切り口からは甘い果汁がにじんでいる。
冷めないうちに食べたほうがよさそうだった。
「申し訳ありませんが、今日は少々忙しいのです」
「……お忙しい?」
「はい。午後から新しい紅茶を試す予定がございます」
「それは……」
「明日も刺繍の続きをしなければなりませんし、明後日は街へ買い物に行く予定ですわ」
「そ、それは、王家の要請よりも優先されることでしょうか?」
「わたくしにとっては」
使者は言葉を失った。
エルネスタは、最後の一切れを口に運んだ。
「それに、わたくしはもう王太子殿下の婚約者ではありませんでしょう?」
「そ、それは、そうですが……」
「でしたら、王家のために働く理由もないと思いますわ」
「しかし、殿下は、あなたがこれまで受けた教育について……」
「教育を受けたことと、王家に仕えることは別ではありませんか?」
エルネスタは首を傾げた。
「わたくし、文字を読めるようになりました。計算もできます。外国語も話せます。ですが、それらを一生、王家のために使わなければならないというお話は、初めて聞きましたわ」
「そ、それは……」
「お父様からも、そのようなお約束をしたとは伺っておりません」
使者は黙り込んだ。
エルネスタは別に、王太子を困らせようとしているわけではなかった。
ただ、言われたことを、そのまま受け取っているだけだった。
「では、殿下には、そのようにお伝えくださいませ」
「……かしこまりました」
使者は肩を落として帰っていった。
エルネスタは、その背中を見送りながら、ふと思った。
「そういえば、明日は何のお菓子を買いに行こうかしら」
彼女の頭の中では、すでに次の予定が決まっていた。
*
さらに三日後。
王宮から、今度は王太子本人がやってきた。
「エルネスタ! どういうつもりだ!」
玄関ホールに、レオポルトの怒声が響いた。
彼は護衛を数人引き連れ、勝手知ったる様子で公爵邸に踏み込んできた。
「殿下。お久しぶりですわ」
エルネスタは、階段の途中で足を止めた。
手には、読みかけの本がある。
「お前は、私の使者に何を言った!」
「王家のために働く理由がないと申し上げました」
「それが問題なのだ!」
「そうなのですか?」
「そうだ!」
レオポルトは一歩踏み出した。
「お前は王太子の婚約者として、王宮でさまざまな教育を受けてきた! 王妃となるための知識も、外交の作法も、領地経営の方法も、すべて王家のために学んだのだろう!」
「ええ。教えていただきましたわ」
「ならば、その知識を王家のために役立てるのは当然ではないか!」
「そうでしょうか」
「そうだ!」
「では、殿下も同じように、わたくしのために働いてくださるのでしょうか?」
「……は?」
「わたくし、これまで殿下にさまざまなことを教えていただきましたわ。舞踏会の作法も、王宮の歴史も、外国の貴族の名前も」
「そ、それがどうした!」
「それらを教えてくださったのですから、殿下も今後、わたくしのために働いてくださるのですよね?」
「なぜ私がそんなことを!」
「殿下も同じことをおっしゃいましたので」
レオポルトは口を閉じた。
エルネスタは、にこにこと微笑んでいる。
「それでは、まず、庭の花壇を整えていただけますか? わたくし、最近、薔薇を植えたいと思っておりまして」
「なっ……!」
「あと、窓の掃除もお願いしたいですわ。高いところは、わたくしでは届きませんので」
「ふざけるな!」
「では、どうしてわたくしには、王家のために働くことを求めるのですか?」
「それは、お前が王太子の婚約者だったからだ!」
「もう違いますわ」
エルネスタは、きっぱりと言った。
「殿下が、そうお決めになったのですもの」
レオポルトは、顔を真っ赤にした。
自分の言葉が、そのまま返ってくるとは思わなかったのだろう。
「……お前は、私に恥をかかせるつもりか!」
「いいえ。殿下が勝手に恥をかいていらっしゃるだけでは?」
玄関ホールが静まり返った。
階段の陰で控えていた使用人が、慌てて顔を伏せた。
誰も笑ってはいない。
ただし、全員が笑いをこらえていた。
レオポルトは、拳を握りしめた。
「……もういい。お前のような女に、王家の仕事を任せることはできない!」
「そうですか」
「二度と王宮に来るな!」
「はい。承知いたしました」
「……なに?」
「二度と来なくてよいのですよね?」
「そ、そうだ!」
「ありがとうございます」
エルネスタは深々と頭を下げた。
「では、失礼いたします。わたくし、そろそろお昼寝の時間ですので」
そう言って、彼女は階段を上っていった。
レオポルトは、その場に取り残された。
王太子の威厳は、すでに跡形もなかった。
*
その日の夕方。
王宮では、レオポルトがミレーヌに愚痴をこぼしていた。
「まったく、あの女は何なのだ!」
「まあ、殿下。そんなに怒ってはお体に障りますわ」
「私は王太子だぞ! それなのに、あの女は私の言葉をまるで聞こうとしない!」
「きっと、まだ動揺しているのでしょう」
「動揺しているだと?」
「ええ。婚約破棄という大きな出来事があったのですもの。きっと、どうしてよいかわからないのですわ」
ミレーヌは、そう考えることにした。
そうでなければ、説明がつかない。
エルネスタが本当に喜んでいるなど、想像もできなかった。
「……そうか」
レオポルトは、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「ならば、もう放っておこう」
「それがよろしいかと存じます」
「私はこれから、ミレーヌとの未来を考えることにする」
「殿下……!」
ミレーヌは頬を赤らめた。
ところが、そこで執務官が一通の書類を持ってきた。
「殿下。ヴァルディア公爵家より、正式な婚約解消に関する書類が届いております」
「……またか」
「ご確認をお願いいたします」
レオポルトは、渋々書類を受け取った。
内容は簡潔だった。
婚約解消に伴い、両家の間で取り交わされていた約束を終了すること。
王宮に預けられていたエルネスタの私物を返還すること。
今後、エルネスタに対して王太子妃教育その他の義務を求めないこと。
どれも、至極当然の内容だった。
ただし、最後に一文が添えられていた。
――なお、王太子殿下より今後一切の王宮への出入りを禁じられたとのことですので、当家の令嬢が王宮に参上することはございません。何卒、ご安心ください。
「……安心?」
レオポルトは、書類を握りつぶしかけた。
まるで、王宮に来ないことが喜ばしいとでも言いたげな文章だった。
「……あの女!」
彼は再び怒鳴った。
ミレーヌは、何も言えなかった。
そもそも、婚約破棄を宣言したのはレオポルト自身である。
王宮への出入りを禁じたのも、彼自身だった。
それなのに、相手がその言葉を素直に受け入れた途端、なぜか腹が立つ。
人間とは、まことに面倒な生き物である。
*
それから一か月が経った。
エルネスタは、すっかり自由な生活を満喫していた。
朝は好きな時間に起きる。
朝食を食べる。
庭を散歩する。
読書をする。
昼食を食べる。
昼寝をする。
おやつを食べる。
夕食を食べる。
そして眠る。
時折、街へ出かけることもあった。
仕立屋で新しい服を注文し、菓子店で焼き菓子を買い、広場で大道芸人の芸を眺めた。
王太子の婚約者だったころには、できなかったことばかりだ。
もちろん、貴族としての付き合いが完全になくなったわけではない。
公爵令嬢である以上、社交界に顔を出す機会はある。
だが、以前のように王宮の予定に振り回されることはなくなった。
何より、王太子の顔色をうかがう必要がない。
エルネスタは、それがとても気に入っていた。
ある日、彼女は街の小さな喫茶店にいた。
窓際の席に座り、紅茶を飲みながら、焼きたてのタルトを食べている。
店の外を、子供たちが駆けていった。
向かいの店では、老夫婦が店先の品物を並べている。
馬車が石畳を走り、通りの向こうから鐘の音が聞こえてきた。
何でもない午後だった。
しかし、エルネスタは満足していた。
「……よい日ですわね」
彼女は、紅茶をもう一口飲んだ。
そのとき、隣の席から声がした。
「あなた、エルネスタ様ではありませんか?」
振り返ると、そこには見覚えのある令嬢が座っていた。
以前、王宮の夜会で何度か顔を合わせたことがある人物だった。
「ええ。そうですが」
「まあ、本当に! あの婚約破棄のあと、どうなさったのかと思っておりましたの」
「どうもしておりませんわ」
「……え?」
「毎日、楽しく過ごしております」
令嬢は目を丸くした。
「楽しく……?」
「はい」
「ですが、王太子殿下との婚約を失ったのですよ?」
「そうですわね」
「今後の結婚についても、難しくなるのではありませんか?」
「そうかもしれません」
「ご不安ではないのですか?」
「特には」
エルネスタはタルトを切り分けた。
「結婚したいと思ったら、そのとき考えればよいのではありませんか?」
「……」
令嬢は、しばらく黙っていた。
彼女は、エルネスタが強がっているのだと思った。
あるいは、心の傷を隠しているのかもしれない。
だが、エルネスタの表情には、何の陰りもなかった。
ただ、タルトがおいしいと感じている人間の顔だった。
「……あなたは、変わった方ですわね」
「そうでしょうか?」
「ええ。とても」
「それは、よかったですわ」
エルネスタは笑った。
令嬢は、ますます困惑した。
しかし、エルネスタは気にしなかった。
タルトがなくなってしまったので、もう一つ注文するかどうか考えていたのである。
*
そのころ、王宮では、別の問題が発生していた。
「……書類が終わらない」
王太子レオポルトは、机に突っ伏していた。
以前から、王宮の仕事は多かった。
しかし、エルネスタが婚約者だったころは、彼女が一部の書類を整理し、外国から届いた文書を翻訳し、会議に必要な資料をまとめてくれていた。
もちろん、彼女は王太子の代わりに政治を行っていたわけではない。
ただ、婚約者として必要な範囲で、彼の仕事を手伝っていたのだ。
それが、なくなった。
結果、書類が積み上がった。
「……なぜ、こんなに多いのだ」
執務官が答えた。
「これまでは、ヴァルディア公爵令嬢が整理を手伝ってくださっておりましたので」
「それはわかっている!」
「では、今後は別の人員を配置する必要がございます」
「……そうだな」
レオポルトは、しぶしぶうなずいた。
しかし、すぐに新しい問題に気づいた。
「待て。エルネスタが翻訳していた外国語の文書は、誰が読むのだ?」
「専門の翻訳官を雇う必要がございます」
「会議資料の作成は?」
「書記官を増員する必要がございます」
「各地の領地から届く報告書の整理は?」
「担当者を再配置する必要がございます」
「……」
レオポルトは、再び机に突っ伏した。
婚約者の仕事とは、思っていた以上に多かったらしい。
それでも、彼は自分の判断を正当化しようとした。
「……だが、これでよかったのだ。私は、ミレーヌと結婚するのだからな」
「左様でございますか」
「彼女は魔法の才能がある。きっと、王宮でも役に立つはずだ」
執務官は、何も言わなかった。
魔法の才能と、行政実務の能力は、別のものである。
しかし、それを指摘するのは、彼の仕事ではなかった。
レオポルトは、さっそくミレーヌを呼び出した。
「ミレーヌ。私の仕事を手伝ってほしい」
「まあ、殿下のお役に立てるのですか?」
「そうだ。まず、この外国語の文書を翻訳してくれ」
「……え?」
ミレーヌは、書類を受け取った。
見たことのない文字が並んでいた。
「これは……」
「隣国の公用語だ。エルネスタは、これを読めたのだ」
「わ、わたくしは……」
「それから、こちらの資料を整理してくれ。明日の会議で使う」
「……はい」
ミレーヌは、必死になって取り組んだ。
だが、すぐに行き詰まった。
彼女は魔法の天才だった。
複雑な魔法陣を読み解き、誰も使えないような術を操ることができる。
しかし、外国語の翻訳はできない。
領地の税収を整理したこともなければ、外交文書を書いたこともなかった。
その日の夜、ミレーヌは涙目になっていた。
「……殿下。申し訳ございません。わたくしには、難しいようです」
「なに?」
「魔法なら、お役に立てるのですが……」
レオポルトは、頭を抱えた。
彼はようやく、エルネスタが担っていた仕事の価値を理解し始めていた。
だが、それを認めることは、彼自身の判断が間違っていたと認めることでもあった。
「……仕方がない。専門の人員を雇おう」
「申し訳ございません」
「いや、君が悪いのではない」
レオポルトは、そう言った。
しかし、その声には、以前のような自信がなかった。
*
さらに一か月が経った。
エルネスタは、領地の小さな別荘に滞在していた。
別荘は湖のそばに建っており、窓からは水面が見える。
朝になると、湖の上を鳥が飛んでいく。
昼には、近くの村から焼きたてのパンが届く。
夜は、暖炉の前で本を読む。
彼女にとっては、理想的な生活だった。
ある午後、公爵が別荘を訪ねてきた。
「エルネスタ。少し話がある」
「お父様。紅茶をお持ちしましょうか?」
「いや、よい」
「お菓子は?」
「……いただこう」
結局、公爵は紅茶と焼き菓子を受け取った。
娘の隣に腰を下ろし、しばらく湖を眺めていた。
「王宮から、正式な連絡があった」
「そうですか」
「王太子殿下は、今後の婚約について、別の方を探すことになったそうだ」
「それは、よかったですわね」
「……お前は、本当に何とも思わないのか?」
「何をですの?」
「王太子殿下が、別の女性と結婚することだ」
エルネスタは、少し考えた。
「殿下が幸せになられるのでしたら、それでよいのではありませんか?」
「……そうか」
公爵は、娘の横顔を見た。
エルネスタは、紅茶を飲んでいた。
彼女は本当に、何も気にしていないようだった。
「エルネスタ」
「はい」
「お前は、これからどうしたい?」
「これから、ですか?」
「そうだ。もう王太子妃になる必要はない。誰かと結婚する必要も、今すぐにはない。お前が望むなら、領地で暮らしてもよいし、王都に屋敷を構えてもよい。何か学びたいことがあれば、好きなだけ学べばよい」
公爵は、真剣な顔で言った。
「お前の人生なのだから、お前が決めなさい」
エルネスタは、しばらく黙っていた。
彼女にとって、自分の人生について真剣に尋ねられたのは、初めてのことだった。
今までは、誰かが予定を決めていた。
家庭教師が授業の予定を決め、両親が社交の予定を決め、王宮が婚約者としての予定を決めていた。
エルネスタは、それに従ってきた。
特に不満はなかった。
だが、今は違う。
自分で決めてよいのだ。
「……では」
エルネスタは、窓の外を見た。
「しばらく、この別荘で暮らしたいですわ」
「それでよいのか?」
「はい。朝はゆっくり起きて、湖を眺めて、おいしいものを食べて、本を読んで、眠るのです」
「……それだけか?」
「それだけですわ」
公爵は、思わず笑った。
あまりにも、娘らしい答えだった。
「わかった。好きにしなさい」
「ありがとうございます、お父様」
エルネスタは、嬉しそうに微笑んだ。
公爵は、その顔を見て、ようやく安心した。
王妃にならなくてもよい。
王宮に仕えなくてもよい。
誰かに認められなくてもよい。
娘が望むのなら、何もしない人生だって、立派な人生なのだ。
公爵は、そう思った。
そして、焼き菓子をもう一つ手に取った。
「……ところで、これはどこの店の菓子だ?」
「村のパン屋さんですわ。昨日、初めて買いましたの」
「うまいな」
「でしょう?」
二人は、しばらく菓子を食べながら、湖を眺めていた。
*
半年後。
王都では、王太子レオポルトとミレーヌの婚約が正式に発表された。
王宮は華やかな祝賀ムードに包まれ、貴族たちは二人の未来について語り合った。
ミレーヌは、王太子の隣で微笑んでいた。
彼女は相変わらず魔法の才能に恵まれていたが、王宮の仕事については、専門の役人たちに任せることにした。
レオポルトも、少しずつ学んでいた。
人に仕事を任せること。
自分の知らないことを認めること。
そして、婚約者という立場が、単に隣に立つだけのものではないということ。
彼が立派な国王になれるかどうかは、まだわからない。
ただ、少なくとも、以前よりは書類の山に埋もれなくなっていた。
一方、エルネスタは。
湖のそばの別荘で、昼寝をしていた。
窓から暖かな風が吹き込み、カーテンがゆっくりと揺れている。
テーブルには、読みかけの本と、食べかけのクッキーが置かれていた。
彼女は毛布を肩まで引き上げ、寝返りを打った。
今日は何をしよう。
起きたら散歩に行こうか。
それとも、新しい本を読もうか。
村のパン屋に、また焼き菓子を買いに行くのもよい。
考えることは、いくらでもあった。
けれど、今は眠い。
「……まあ、あとで考えましょう」
エルネスタは目を閉じた。
かつて、彼女は王太子の婚約者だった。
将来は王妃になるはずだった。
誰もが、彼女の人生には大きな意味があると思っていた。
しかし、婚約破棄によって、その未来は消えた。
彼女は泣かなかった。
怒らなかった。
復讐もしなかった。
ただ、帰って昼寝をした。
そして、そのまま自由になった。
人生とは、案外そんなものなのかもしれない。
少なくとも、エルネスタ・ヴァルディアにとっては、そうだった。
彼女は今日も、何の義務もない午後を満喫している。
王宮から手紙が届くこともない。
王太子に呼び出されることもない。
誰かの期待に応える必要もない。
窓の外では、湖の水面がきらきらと光っていた。
エルネスタは、もう一度だけ寝返りを打った。
「……ああ、幸せですわ」
そして、彼女は眠りについた。
王太子の婚約者という、たいへん面倒な肩書きを失った令嬢は。
生まれて初めて、自分の人生を自分の好きなように生きていた。
なお、翌日。
彼女は朝寝坊をした。
誰にも叱られなかった。
それが、彼女にとって何よりも素晴らしいことだった。




