囚われの人魚は唯一の恋を悔い嘆く
それは人魚の恋に似ていた。
いや、僕がそんなことを言ったら君に叱られるだろう。
なにせ君は正真正銘の人魚なのだから。
「俺をどうするつもりだ?」
水槽の中から、君はいつも僕に問うた。
エメラルドグリーンの尾鰭が硝子の壁をピシリと打って、観察者の僕を非難する。
「一体何百年、こうしていろと言うつもりだ」
僕の前の前の前の前の前の男も聞かれたのだろう問いに、僕は無言で首を振る。深い碧の瞳が、白い焔を燃やした。
「答えないのか、答えられないのか」
苛立たしげに、けれど諦めのまじった声で、君は笑う。
「人間というのは、本当に欲深い」
古来から人を惑わすとされる麗しい声が紡ぐ嘲弄は、どこまでも悲痛に満ちている。
「人魚の肉など食べても、不死にはなれやしないのに」
その嘆きに返す言葉を持たない僕は、いつだって困ったように微笑むしかなかった。
***
「やっと来たのか」
何百年もここに囚われている人魚は、何百年も変わらず傲慢で美しい。この数十年、一日も離れることなくこの人外の美に傅く僕は、今日も君の健康に最善の食餌を用意してきた。
「チッ、また海藻か。もっとマシなものを持ってこいと言うのに」
水槽の上に差し出した海藻を嫌そうに眺めた後で乱暴に掴むと、君はわざとらしく下品に貪った。
「おい、水が汚れた。掃除をしろ」
端的に命じる声に、僕は静かに頷くと掃除網を取った。君が優雅に泳ぐ巨大水槽は、水質維持のために様々な装置が二十四時間稼働している。けれど僕は日々、こうしてせっせと清掃に努めているのだ。君の日々が少しでも良いものであるように。僕はそのためにここにいるのだから。
「おい二本足」
傲慢な呼び声に、新聞に目をやっていた僕は顔を上げる。
「お前はいつも何をしているんだ」
初めて『僕』に興味を持ったな、とくすぐったく思いながら、僕は新聞を掲げて振った。
「ふん、ここに来る奴らは皆その紙切れを読むんだな。あいつと同じだ。憎たらしい」
君はかつて愛した男を思い出したのか、ひどく顔を歪めて吐き捨てた。君の中にあるのはかつて愛した男だけ。これまでこの部屋で己を大切に世話してきた者たちのことなど、ちっとも覚えていないらしい。この傲慢な人魚が覚えているのことなんてせいぜい、どいつも二本足だった、というくらいだろう。
「それにしても、あの頃よりも随分と紙が薄いな」
何百年も昔のことを覚えているのか。そう感心すると同時に、思わず苦笑が漏れる。やはりこの人魚は、彼の言うところの『あの男』のことだけはよく覚えているのだろう。
「ふむ、あいつは文字が滲むとか言って、俺に触らせてくれなかったな。ソレも、水に濡れるとやはりダメなのか?」
まさか、読みたいのだろうか。字なんて読めないくせに。そんな僕の揶揄を察したのか、美しい眦を吊り上げて、人魚は透き通る尾鰭でぴしりとガラスの壁を打った。
「あぁ、もう!仕方ないだろうが。俺は暇なんだ!」
そうだろうとも。けれどそれならば、字を教わった時に、しっかり覚えておけば良かったのに。短命で低俗な人間なんかの文化に染まってたまるか、なんて、切り捨てるからこうなるのだ。まぁその高慢さを苦笑して受け入れてしまった側にも問題はあるのだが。なにせその時は、自分がずっとそばに居ればいい話だ、なんて夢見がちなことを考えていたのだから。
「……ん?なんだその顔は」
僕が呆れた顔をしているのに気づいた君は、苛立たしげに尾鰭をバシンバシンと繰り返しガラスに叩きつける。本人いわく、千年近い時を生きているらしいが、この人魚はまるで幼子のような癇癪をおこすのだ。まぁ、人魚にとってはまだ幼い年齢なのかもしれないが。
「こんな場所に俺を閉じ込めているお前が悪いのだろう!お前に俺を笑う資格などないわ!」
思考を巡らせた僕が曖昧に苦笑していたせいか、君はますます機嫌を悪くしていた。君を笑っているわけではないのに。この人魚の変わらぬ可愛さをちょっとばかり噛み締めていただけなのに。ごめんと手を振って謝っても、君はフンと僕から顔を逸らしたまま、こちらを見向きもしない。本当にこの人魚様はプライドが高い。まぁ、人魚だから仕方ないのだけれど。
僕はしばらく考えて、鞄からタブレット端末を取り出した。
「ん?なんだそれは」
ピーヒャララー、と気の抜けた音楽共に流れ出したのは、子供向けの昔話のアニメだ。
「なんだその小さな薄い箱は!中で絵が動いているぞ!」
興奮した君が水槽のガラスにへばりついて叫ぶ。忘れていたが、そういえばこの人魚は好奇心旺盛で新しいもの好きなのだった。なにせ人間の住処の近くの浅瀬まで、興味だけを理由に探検に来てしまうような無謀な奴なのだから。
「……えっ、水に入れても良いのか?」
防水だから問題ないと、僕は端末をそのままポシャンと水中に落とした。ゆっくり沈んでいく端末を、麗しい人魚が素早く掴み取る。フリスビーを投げられた犬のような反応の速さに、思わず笑いが漏れた。しかし画面に夢中の君には幸い気づかれなかったようだ。僕は君のものと同期させた手元の端末を操作して、無邪気な人魚が好みそうな動画を繰り返し再生してやった。
「……なんとなく、聞いたことのある話が多いな」
新しい玩具に夢中になっていた人魚は、しばらくすると複雑そうな顔で言った。その昔、愛する男が聞かせてくれた寝物語によく似ているのだと言う。そんな遥か昔の記憶をよく辿れたものだ。もう何百年も前のことだろうに。
「あいつの語っていた話に、よく似ている」
寂しげな顔で語る君に、僕は無言を返す。寂寥とした背中に、怒りが込み上げた。君には激情が似合う。愛した男を思って泣くなんて殊勝で無様な真似をすべきではないのだ。自分を置いて去った男などのために。
僕は、人魚姫の動画をタップした。
「……なんだこの話は!ふざけている!」
案の定激怒した君を見て、僕は内心大変満足した。この天より高いプライドをもつ人魚が、子供向けに和らげられた『人魚姫』に同調するわけもないのだ。
「人魚に愛されながら、他の女を選んだ?そんなこと、許されるわけがない!人魚の愛は唯一!その愛を受け入れないのならば、死ねば良いのだ!」
激昂した君は、君の世界を構成する強化ガラス目掛けて端末を叩きつけた。そして尾鰭でバンと叩き潰す。
「この幼い人魚の娘はなんと見る目がなかったのか!そんな男を愛したことが間違いだったのだ!……っく、はははは!そうか、貴様はそう言いたいのか」
はたと何かに気づいたように、君は真珠色の喉を震わせて笑い出す。傷ついた顔の人魚は己の発言を小さく繰り返してから、僕を憎々しげに睨みつけて、血を吐くような声で吐き捨てた。
「あぁ、そうだ!俺だって同じだ!なんと愚かだったのか!あの男を愛したことが間違いだった!」
嘆く声には、消えることのない怒りと憎しみと嘲りが込められる。
「そしてあの男を信じたことこそが、俺の唯一の過ちだった」
その変わらない激情に、僕は安堵を抱き、笑みを深めるのだ。
***
ぴちゃん
「おい、やめろ」
ぴちゃ、ぽとととと
「やめろと言っている……ッ!」
水を震わせる怒声を無視して、僕は水の中に甘い匂いの雫を垂らす。すると、最近いつにもまして苛立っていた君は、ひどく嫌そうに顔をしかめた。
けれど、僕は気にしない。ほんの数分待てば、尊大なこの人魚は赤い顔で肩を揺らし始めるのだ。ならば、僕は笑いながら静観していよう。
「うっ、ああぁ、くそッ」
はあはあと辛そうに肩を揺らす、美しい人魚。君を苦しめているのは、三十年に一度の発情期だ。
繁殖相手もいないのに、古来から変わらぬ人魚の体は子孫を残そうと足掻き、君の感情と理性を相手に反乱を起こす。苦しげに体を捩り、美しい鱗を掻きむしる痛々しい姿を何度も見た。だから僕はなんとかして哀れな人魚を救おうと、催眠作用のある発情剤を作り上げたのだ。君が一人でも満足できるように。
「あ……ああぁ……もどってきた、のか、やっと」
しばらくすると君の様子が変わった。
夢見るように瞳を潤ませて。透き通る胸鰭も背鰭も尾鰭も蠱惑的にしならせて。いつにもまして輝く鱗に欲の光をきらめかせて。鱗の下の滑らかな皮膚を甘く紅潮させて。
発情した人魚は真珠の涙を浮かべながら、不在の恋人を幻視する。
「はやく」
「噛んで」
「剥いで」
艶めく声で、まるで歌うように高く啼く。ガラス越しに見ているだけで、もう遥か昔に失ったはずの熱が、体の中に沸々と溜まってくるようだ。崇高な生き物に向けるには相応しくない劣情が。
ひたすらに失った恋人を思って、水中で悦び啜り泣く姿は、たとえようもないほど煽情的だ。君の心を捕え続ける『あの男』への怒りと嫉妬が湧いた。君にこれほど愛されているのだ。この場で君を愛してやることもできないくせに。
「むしって」
「千切って」
「引き裂いて」
ひぃひぃとか細い声を漏らしながら、無垢な人魚は己の体をまさぐり搔きむしる。ぼろぼろと零れ落ちる宝石のような鱗を、僕は惜しみながら見送った。
「食べて」
「食べたい」
「たべて」
「たべたい」
珊瑚色の唇が同じ言葉を繰り返し始める頃には、僕の感情はかき乱され荒れ狂っていた。嚙み締めた唇は圧に耐えきれずバックリと裂けている。三十年に一度の発情期は、三十年に一度の苦行でもあった。
「たべて たべて たべて」
嬌声じみた嘆願はひどく甘く、じっとりと鼓膜を爛れさせた。異常に高い治癒力をもち不老不死と尊ばれる人魚にとって、肉を噛みちぎられる程度の刺激は興奮の材料にしかならない。己の身を喰わせることで、相手への愛と信頼を示す。独特で狂った愛情表現。流れ出す血はルビーのように赤々と水中に線を引き、不思議と珠のように連なって水底に落ちていく。
「おれをまるごと ぜんぶ たべて」
「おまえをぜんぶ まるごとたべたい」
あまりに魅惑的な誘惑に、腹の奥が焼け焦げる。あぁ、そう出来たらどんなに良いか!
ボギッ
絶叫しながら水槽に飛び込んでしまいたいという欲求を抑え込んで拳を力任せに握りこめば、関節がきしむ音がして我に返った。美しいままの君とは裏腹に、脆いこの身はそろそろ寿命を迎えるらしい。節々を動かすたびにピキパキと嫌な音をたてるようになった体とは、そろそろお別れせねばならないのだろう。この醜く古びた体で、最期にこの美しい人魚を愛でられた幸運を寿ぐべきか。
そんな散漫な思考の海を泳ぎながら、僕は冷たく冷やした手をそっと君に差し伸べる。氷のように冷えた手が、水に棲む君の体にはちょうどよい。
バキッ
「かたい」
プチッ
「にがい」
バリッバリッ
「あまくない」
指先が砕け、皮膚や筋肉が裂ける音とともに、心臓を引き絞るような悲しみの慟哭が響き渡った。かつて甘く噛み、舐め啜った恋人と、違う味がすると泣く声。
「あいつと違う味がする」
記憶が塗り替えられてしまうと嘆き、むせび泣く哀れな人魚を前に、僕は「またやってしまった」と、後悔に唇を嚙む。この体では、『僕』ではだめなことなんて分かりきっている。それなのに、また僕は誘惑に負けて君に触れてしまった。苦々しい思いで水槽から目を逸らして、僕はさらに数滴の発情剤を滴下した。
「あぁッ、はやく嚙み切ってくれ!」
「たまらない たまらない たまらない」
「たべて たべたい たべて たべたい」
いっそう錯乱したように美貌をゆがめて、君はまた見えない男に向かって何度も譫言のように繰り返す。
存在しない「あの男」を相手に、潤んだ瞳で己を喰ってくれと譫言を繰り返す。とんでもなく淫靡で扇情的で、儚く悲しい姿。どこまでも人間とは異なる美しさ。
「アァッ、なんでっ」
悲鳴のような懇願とともにぶわりと水中に広がる、赤い血液。肉片。鱗。破片。骨片。命の欠片。ごみ。君の棲む水を汚すソレを、僕は淡々と機械で吸引する。あちこちに散らばった僕の指の欠片ごと、ドゥルドゥルと吸って排除した。不自由な右手。砕けた指を直すか、もう終わりにするか。悩ましいところだ。
「飲んで 食べて ぜんぶ 俺を」
体を震わせる君が譫言のように呟く言葉に背を押され、僕は足元の小さな水槽に視線を落とした。巨大水槽の中から、機械で吸い出した濁った水。何とも言えない気分で儚い混濁液を不完全な手のひらにそっとすくい取り、口の中に流し込んだ。じゃらりとした感触だけが喉の管を通り抜け、体内を悲しく濡らした。
「ねぇ お願い 俺を食べて」
君はいつも「俺を食べてくれ」と強請る。かつて愛した男と、いつもそうやって愛し合っていたから。
「はやく もっと たくさんたべて」
ガラスに向かって、僕に、いや、『あの男』を投影した人間の形に向かって、君は何度も懇願する。
「そうすれば きっと……ッ」
きっと……なんだろうか。
続きを聞くことは叶わず、君の口からでる声は、再び甘い悲鳴に取って代わられてしまった。
あぁ。ひょっとして。
君も、もしかしたらと信じていたのだろうか?
人魚の肉を喰えば、短命な人間でも、少しでも長く共にあれるのではないか、と。
実際それはある程度成功したのだろう。君の愛した男は、六十を超えてもまるで青年のように若々しかったのだから。
今は昔の、あらゆる種族が棲み処を分けながら共存していた時代。あらゆる魔より妖より長く生きる人魚は、神に等しい存在だった。誰もが永遠に近いときを生き、遥か太古の昔と永劫の彼方の未来を知る人魚を畏れ、敬い、祀ってきた。着々と数を増やし、地上で最大勢力となった人類が、科学をもって魔術を駆逐するまでは。
人魚は美しく、弱かった。君らの武器は永劫に近い寿命と不老長寿、そして美しい声と貌のみであったから。
***
ぽちゃん ぽちゃん ぽちゃん
三十年ぶりの発情期に疲弊して眠る幼い寝顔をみながら、僕は静かに空気を吐き出した。夢の中ではこの哀れな人魚がどうか幸せでありますように。泡沫の幸福に揺蕩えますように。そう祈りながら、僕は暗く消灯された天井を見上げた。
真実を告げることが出来れば、どれほど楽だっただろうか。さもなければ君の命を奪うことが出来れば、僕は救われるだろうか。
君と同じ、純粋な人魚はもう、この世にいない。人魚たちは狩られ、あるいは他種族と入り混じり、純血種など消えてしまったのだ。
君が最愛の男との逃避行に酔いしれ、幸せを噛み締めていた頃、世界では人魚狩りが最盛期を迎えていた。
無駄に人脈が広かった男はそれを知っていた。
だから、有り余る財を投げ打って、君をこの秘密の城に閉じ込めたのだ。
君は永遠に近い時を、一人で生き続けなければならないんだ。
君の愛した男は、君と愛し合い、君の肉を喰らいながらも、己が少しずつ老いていくことに気がついていた。
だから、君と同じ不死になろうとして禁を犯したのだ。
「おい、この間までの奴はどうしたんだ」
僕が部屋に入ってしばらくして、人魚は眉を顰めながら尋ねた。その言葉に、ずいぶんと早く気が付いたものだと思いつつも、僕は無言で首を振る。
「はっ、また逃げ出したのか。寝る暇もなく人魚の世話など、やっていられぬか」
苦々しげに言うのは、前の世話係を実は多少気に入っていたからだろうか。いや、毎日顔を合わせるのがソレだけであれば、自然と愛着や馴れも生じるのかもしれない。
「人間はいつもそうだ。すぐにここからいなくなる。まぁ、仕方ないか。あいつですらいなくなったのだからな……どうでもいい」
交代した世話係に、君はあっさりと興味を失った。そんな薄情な人魚に、僕は無言で安堵の目を向ける。これでいいのだ。君が悲しまないでくれた方がいいのだから。
僕が彼であることに、君は一生気づかないでいてくれ。一生、つまりは、永遠に。
「あぁ、また暇な時間が続くのか。まったく、あいつのせいで俺は」
再び己を捨てた唯一の男への恨みを連ねはじめた愛らしい人魚にほっと息をつく。いつも通りの永遠。これこそが僕が望んだすべてなのだから。
「この手で殺しておけばよかった。そうすれば俺は今も広大な海で悠々と泳いでいたろうに!」
激しく情熱的な怨嗟に胸が熱くなる。それは確かにとても素敵な結末だったかもしれない。けれど僕がいなくなったら、この間抜けで不注意な人魚はあっという間に人間に狩られて解体されるか、僕以外の他種族と交配させられていただろうから、仕方ないのだ。
「まったく、俺は愚かだった」
人の身でありながら人魚の恋人になった僕が望んだのは、永遠に君を守り続けること。そして、僕がいなくなったあとも、君が僕を忘れないことだった。
禁術をもって人ならざる者となった最初の僕は、人としての容れ物を手放して、その魂だけを人形の中に入れている。人形のカタチが壊れるたびに、新しいカラダに入れ替わり。そうして人魚と同じ永劫の時間を手に入れた。
この僕のカラダは、だいたい十代目かな。
「あぁ全く、人間など愛するべきじゃなかった!」
本当にその通りだね、と言ってやりたいが、人形には声帯がないから、僕は声を出すことが出来ない。文字の読めない君に、そして、しょせんは魚よりマシな程度の視力しかもたない君に、このことを伝える術はない。匂い味も人間だった頃とは違う。僕こそが君の愛した男だと、伝えることは叶わない。ただ隣にあるだけだ。
「いったいあいつはどこに消えたのだ!見つけ出したらただじゃおかないのに!」
ここだよ。
そう言いたくても伝えられない。
どうだい?
惨めで哀れな僕の恋の結末は。
声を奪われた人魚姫と、よく似ているだろう?




