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オホーツクの鯨

数日前、地球上のとある公海。


 風早型特務補給艦『はやすい』から物資と弾薬の補給を密かに受けたS.O.D.U.の超弩級潜水艦『しんえん』は、長い航海の準備を終えると、再び陽の当たらない漆黒の底へと沈んでいった。

 役目を終えた『はやすい』が静かにS.O.D.U.の母港へと帰還していく中、『しんえん』は単艦で北上を続け、現在、北の大国が睨みを利かせる極寒の海――オホーツク海の深海を潜航していた。



 水深、1,500メートル。

 水温は零度近くに達し、一平方センチメートルに150キログラム以上の圧力がのしかかる。いかなる最新鋭の原子力潜水艦であろうと、外殻がひしゃげ、一瞬で鉄の棺桶と化す絶対の死地。

 だが、超高張力鋼と未知のチタン合金で構成された『しんえん』にとって、そこは冷たい海水を悠々と泳ぎ回る「鯨」のように、自由で安全な庭であった。


 しかし、その静寂は突如として破られる。


「――ソナー探知! 方位3-1-0、および0-4-5より、高速スクリュー音!

某国の攻撃型潜水艦二隻です!」


 薄暗いブルーの照明に照らされた『しんえん』の発令所に、ソナー長の声が鋭く響いた。

 相手は『しんえん』の正確な位置こそ掴んでいないものの、海流のわずかな乱れから「何か」がいると察知し、網を張っていたのだ。


「敵艦より発射音! 魚雷接近! 数、4!」


「回避行動。 機関長、最大戦速!」


 発令所に緊張が走る。だが、中央で腕を組む『しんえん』の氷室ひむろ艦長の顔には、微塵の焦りもなかった。


「慌てるな。面舵一杯、深度1,800へ急潜航。サーマルレイヤーの境界面へ突っ込むぞ」


「アイ・サー!」


 『しんえん』の巨大な船体が、無音のまま深海へ向けて鋭く頭を下げる。

 海中の温度が急激に変わる層、サーマルレイヤーを突き抜けることで、音波を屈折させ、敵魚雷の探信音を撹乱する戦術だ。


「敵魚雷、なおも追尾してきます! 距離、4,000ヤード!」


「しつこい猟犬だ」


 氷室艦長は冷徹に状況を見極め、鋭く命じた。


「1番発射管、探知音源セット。発射」


 ドンッ、という低い振動と共に、『しんえん』の艦首から小型のデコイ魚雷が放たれた。それは自艦の磁気ノイズや偽のスクリュー音を大音量で撒き散らしながら、おとりとして斜め上方へ飛んでいく。


「敵魚雷、デコイに釣られました! 本艦から逸れていきます!」


 発令所に安堵の息が漏れたのも束の間、氷室艦長の眼光がさらに鋭さを増した。


「ここからは我々のターンだ。機関、MHD出力を一気に上げろ。無音のまま敵の背後へ回頭する」


「取り舵一杯! 敵艦の真後ろへ回り込みます!」


 スクリューを持たない『しんえん』は、キャビテーションを一切発生させることなく、巨大な鯨が身を翻すような滑らかさで急旋回し、一瞬にして敵潜水艦二隻の背後・上方へと躍り出た。

 完全に「狩る側」と「狩られる側」が逆転した瞬間である。


「火器管制、目標をロック」


 氷室艦長の声に合わせ、各セクションのオペレーターたちが流れるような連携で復唱していく。



『Ships ready』


『Solutions ready』


『Weapons ready』



 発令所の全システムが緑色のランプを点灯させ、完璧な攻撃態勢が整った。



『All ready』



 極限の静寂の中、氷室艦長は前方のモニター――敵潜水艦のソナーへと直接繋がる音響送信機を見据え、短く、そして決定的な一言を放った。


「――Fire」


 放たれたのは、実弾の魚雷ではない。

 敵艦を完全に捕捉したことを知らせる、最大出力のアクティブ・ソナー。



 ――ピィィィィン!!



 海を切り裂くような強烈な超音波が、直下を這いずる二隻の敵潜水艦の船体を激しく殴りつけた。

 敵艦の発令所は今頃、自分たちの完全に無防備な背後から死の宣告を叩きつけられ、絶望的なパニックに陥っていることだろう。


「……敵艦二隻、急速浮上を開始。完全に戦意を喪失した模様です。」


 ソナー長の報告に、発令所の乗員たちが静かに拳を握りしめる。

 血を流すことなく、完全に敵を屈服させた完璧な勝利。


「沈める価値もない。……我々はさらに深く潜るぞ。本当の『深淵』の底へな」


 氷室艦長の号令と共に、オホーツクの鯨は再び音もなく、誰も届かない絶対零度の海底へと姿を消していった。

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