深海の不感症
2026年6月。太平洋、マリアナ海盆付近。
S.O.D.Uの原子力潜水艦『しんえん』は、深度400メートルの浅深度を、静かに流していた。
発令所では、副艦長がモニターの数値を見ながら呟いた。
「艦長。本艦のチタン複合装甲は、磁気探知機(MAD)を完全に無効化しています。上空の哨戒機にとっては、我々はただの海水と同じです」
影山艦長は、読みかけの文庫本を閉じて頷いた。
「ああ。だが、過信はするなよ。磁気は消せても、質量は消せない」
「質量、ですか?」
「そこに『物』がある限り、叩けば音が鳴る。……向こうが、マナー違反の『ノック』をしてくればの話だがな」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
ヘッドホンを耳に当てていた水測員が、顔を弾かれたように上げた。
『キィィィィィン!!』
艦内に、甲高い金属音が響き渡った。
アクティブ・ソナーだ。敵が自らの位置を曝け出してでも、無理やりこちらを見つけるための「音の暴力」。
「探信音接触! 強力です! ……捕捉されました!」
水測員が叫ぶ。
「本艦の右舷後方、距離4,000! 所属不明潜水艦、シエラ・ワン!」
副艦長が息を呑む。
「馬鹿な、磁気反応はないはずだぞ!?」
「偶然通りがかったか、あるいは『影』を見られたか……。だが、向こうはやる気のようだ」
影山は表情一つ変えずに、静かに命じた。
「第一種戦闘配置」
水の音、死の音
艦内灯が赤色に切り替わる。
その赤色灯の下で、水測員が再び戦慄の声を上げた。
「トランジェント! ……注水音、聞こえます!」
ゴウッ……!
ソナーのスピーカーから、敵艦が魚雷発射管に海水を流し込む、独特の低い唸り音が漏れ聞こえる。それは、引き金に指をかけた音と同義だ。
影山が即座に反応した。
「取り舵一杯! デコイ、1番2番、発射用意!」
「シエラ・ワン、発射管開放! ......発射! 魚雷来ます! 2本!」
「感度強し! アクティブ・ホーミング! 本艦に向かってきます!」
敵の魚雷は、正確に『しんえん』のチタンボディを狙っていた。磁気は関係ない。彼らは物理的な「音の反射」だけを頼りに、殺意の塊を送り込んできたのだ。
だが、影山はあくびが出そうなほど冷静だった。
「……騒々しい客だ。丁寧にお帰り願おう」
彼は天井を見上げ、冷徹に言い放った。
「メインタンク、急速注水。
緊急潜航。深度、1,500」
深淵への逃走
「急速潜航! 深度1,500へ!」
『しんえん』の船体が大きく前傾する。
海水を飲み込んだ黒い巨体は、滑り台を落ちるように深海へと突き進んだ。
500メートル、600メートル、800メートル……。
通常動力潜水艦なら船体がきしみ、圧壊の恐怖に震える深度だ。
だが、『しんえん』の強靭な船殻は、ミシリとも言わない。
「敵魚雷、追尾してきます! 深度900……1,000……!」
水測員がカウントする。
敵の魚雷も必死に食らいついてくる。だが、物理法則は平等で、そして残酷だ。
深度1,200メートルを通過した瞬間。
『パァァン……!』
『ボコォッ……!』
スピーカーから、空き缶を握り潰したような破裂音が2回、連続して聞こえた。
「……敵魚雷、ロスト。圧壊しました。水圧に耐えられなかったようです」
「シエラ・ワン、追尾停止。深度800で停止しています。……これ以上は潜れないようです」
『しんえん』は深度1,500メートルの暗闇にピタリと静止した。
頭上700メートルに敵がいる。だが、敵にとってこの場所は、絶対に手の届かない「異界」だった。
100%のアドバンテージ
「さて」
影山は指揮官席で足を組み直した。
「安全圏からの『教育』の時間だ。一方的に殴られる恐怖を教えてやれ」
発令所の空気が変わる。防御から攻撃へ。
ここからは、完璧な儀式の時間。
「1番発射管、戦雷用意。ワイヤー誘導。……目標、シエラ・ワン」
クルーたちの声が、リズミカルに響き渡る。
操舵員:「深度、姿勢、安定。……Ship's ready!」
射撃指揮盤:「目標データ入力完了。射撃解、算出。……Solution ready!」
発射管室:「1番管、注水完了。回路導通。……Tube ready!」
水雷長:「兵装システム、オールグリーン。……Weapons ready!」
副艦長が振り返り、影山の目を見る。
「All ready !」
影山はモニターに映る、動けない敵潜水艦の光点を見つめ、静かに呟いた。
「Set.」
「セット!」
「撃てッ!」
「Fire!」
ボスゥン!
圧縮空気の衝撃と共に、超空洞魚雷『黒龍』が深海の闇へ解き放たれた。
慈悲という名の警告
放たれた魚雷は、敵艦の真下から垂直に上昇していく。
敵のソナーには、地獄の蓋が開いたような轟音が聞こえているはずだ。回避運動など無意味。彼らの限界深度より遥か下から、死神の手が伸びているのだから。
「魚雷、目標まで距離500……300……」
水測員がカウントダウンする。命中まであと数秒。
「……今だ。デトネート(起爆)」
影山が短く命じた。
水雷長がスイッチを叩く。
「デトネート!」
ズドォォォォン……!
目標の敵艦から、わずか100メートル手前。
『黒龍』は命中する直前で自爆した。
直撃はしていない。だが、至近距離で発生した強烈な衝撃波が、敵艦を激しく揺さぶり、ソナーを焼き切り、乗員たちの鼓膜を震わせたはずだ。
「シエラ・ワン、スクリュー音乱れています! 混乱している模様!」
「機関最大! 逃げていきます!」
影山は、怯えて逃げ去る敵の音を聞きながら、再び文庫本を開いた。
「いつでも沈められる、ということだ。……国へ帰って、上官に伝えるといい」
深度1,500メートルの静寂の中、『しんえん』は再び誰にも気づかれない幽霊となり、暗い海へと溶けていった。
冒頭で「磁気探知機は効かないが、アクティブソナー(音波)は質量に当たる」という弱点?を提示し、
そこからの逆転劇を描きました。
個人的には、「 ships ready 」のくだりが描けてよかったです。




