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割れた鏡の前で

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/28

 第1話 「招待状」


 ――過去を、飾り直すために。


 三十歳になっても、私はまだ鏡が苦手だった。正確には「直視する」ことが苦手で、鏡の前では目線を逸らし、髪や服の乱れを直すふりをして時間を稼ぐ。鏡に映る顔はいつも少しだけ遠くて、ほんの少しだけ歪んで見える。高校生の頃、机の中に入れられた割れた手鏡の欠片が、今もどこかに刺さっているのだ。


 美容師の仕事は、私にとって逃げ場でもあった。人の髪を切り、色を入れ、整えることで、他人の「正面」を作る手伝いをする。鏡に映るのは、作られた笑顔。客は生き直すように笑う。私も、プロとしての微笑みを作る。けれど心の中の鏡はいつまでも曇ったままだった。


 ある午後、サロンの片隅でスマートフォンの通知音が鳴った。差出人は知らないアドレスだ。件名が小さく表示される。


「○○高校卒業10周年同窓会のご案内」


 送り主は美咲だった。美咲。昔のクラスの中心で、いつも髪を巻いて、笑顔をふりまいていた。彼女に名前を呼ばれた瞬間、あの教室の匂いが蘇る。消しゴムの粉と湿ったスニーカー。彼女の笑い声が、いじめの輪の始まりだった。


 メールの文面は軽くて明るい。絵文字が並び、場所と日時。久しぶりにみんなで飲もうよ、という無邪気さを装った招待状。私は一度、画面を閉じた。指が震えていた。戻して、返信ボタンを押す。本文は短く、平坦に。


 “もちろん、行くよ。あなたに会いに。”


 送信した指をしばらく見つめる。画面の隅で、通知が一つだけ光る。数ヶ月前から、私は秘密裏に準備を進めていた。十年前の「記録」。教室で撮られた、彼らの笑いと私の沈黙が写りこんだ動画。あの日、誰もカメラの前で正気ではなかった。私が机に押しつけられる音、髪を掴まれる指先の湿り気、笑い声が重なって、世界が狭くなっていく映像だ。


 動画は、大輔が一瞬だけSNSに上げたことがあったらしい。私はその画面を見つけ、消えたはずのものをコピーした。大輔は昔、傍観者だった。彼は「面白い」とだけ言っていた。私が手に入れたコピーは、彼の無関心が残した証拠でもあった。


 鏡台の前で化粧をしながら、私は小声で自分に言い聞かせる。鏡は真実を映す道具だ。でも、私はずっと見たくない顔を映してきた。だから、飾り直す。角を丸くし、色を塗る。被害者のまま終わらない。これは、私の信条になっていた。


 準備は幾つかの段階に分けられていた。まずは目立たない服装。派手過ぎず、しかし印象には残る白いブラウス。香水は控えめに、けれど一吹きで記憶を揺さぶる匂いを選んだ。次に、話す言葉の選定。私は決して大声をあげない。静かな言葉で、ポイントだけを差す。最後に、証拠の提示。動画は切れ切れに編集し、問いかけを誘発する。見せつけるのではない。吐かせるのだ。


 当日、会場は居心地のいい居酒屋だった。木の梁、柔らかな電球。人の声が混ざり合う場所。私はドアの前で待ち、人々が入ってくるのを眺めた。十年前の顔が歳を重ねて戻ってくる。美咲は相変わらず華やかで、けれど目の端に見える線が、子供の頃の万能感を削っていた。大輔は丸くなって、口数が減った。ほかの誰かは、昔よりも静かだったり、ふくれっ面になっていたり――変化は、わずかながらも確かにあった。


 歓談が進むうちに、私は少しずつ輪の中へ入っていった。表面上の軽い挨拶、思い出話。笑いが起こる。私は割り込まず、待った。話題が過ぎ去る瞬間を選び、私は静かに立ち上がって言った。


「ちょっと、いい?」


 声は小さい。だが飲み屋の喧騒が不思議と静まる。誰かが箸を止める。美咲が私を見る。目が合う。彼女の表情は一瞬だが硬直し、すぐにいつもの笑顔に戻る。私はバッグから小さなタブレットを取り出した。画面を向ける。そこには、十年前の教室の一場面のサムネイルが並んでいた。


「これ、覚えてる?」


 最初の一つを再生すると、会場の空気が変わった。笑い声が途切れ、誰かの咳が大きく聞こえる。映像の中の私は若くて、顔は細く、目は怯えている。足音、机のきしみ、そしてあの笑い。画面の中の自分は声が出ない。私は画面を指で止め、ゆっくりと見回した。


 美咲の手が震えているのが見えた。大輔の目が泳ぐ。誰も言葉を発さない。だが沈黙はやがて破れる。最初に声を発したのは、別の女子だった。彼女は、顔を覆って泣き始めた。たかが昔話。でもその泣きは、どこか違った。後ろめたさから来る泣きではなく、逃げ場を失った者の泣きだった。


 私の計画は、ここから始まるはずだった。映像を見せて、黙らせる。そして、静かに謝罪を促す。だが、人間は単純ではなかった。美咲は最初、目を閉じて両手を合わせ、声を震わせながら言った。


「ごめん、結衣。本当に、ごめんね。」


 言葉は軽くない。切羽詰まった謝罪だった。その謝罪の裏に、何か別のものがある。私はそれを嗅ぎ取った。謝罪の後、美咲は口を開き、語り始めた。あの頃、彼女もまた押し付けられていたと。中心で笑っていることで、注目を避けることができたと。彼女の家庭、彼女の恐れ、彼女の焦燥。それは私が想像したよりも複雑で、生々しかった。


 そして大輔が、ぽつりと言った。


「俺、あの動画、消したと思ってたんだ。投稿したのはふざけ半分で、でもすぐ消した。そんなつもりは――でも、誰かがコピーしてたんだな。すまなかった。」


 言葉は謝罪に聞こえたが、声の奥に見え隠れするものがあった。後悔と、恐怖と、少しの安堵。長年抱えていた何かを吐き出すようにして、彼は自分の無関心を認めた。


 会場の空気は、一度に様々な感情で満ちた。謝罪、弁解、涙、そして沈黙。私の胸の中で何かが鳴った。勝利の鐘ではない。もっと鈍く、内臓に響く音。私はタブレットを握りしめ、その重さを確かめた。


 その夜、私たちは真実を分け合った。だが真実は皺のように重なり、誰もが自分の皺を指さすことはなかった。美咲は泣き、他の誰かは黙り込み、誰かはただ俯いていた。私の用意した証拠は、最初のきっかけに過ぎなかった。代わりに出てきたのは、各自が抱えていた別の罪だった。


 店を出る頃、夜風が私の頬を冷たく撫でた。結衣の顔は、鏡に映る笑顔とは違っていた。引き締まって、少しだけ光が戻った気がした。けれど、鏡の奥の誰かは私に向かって微笑んでいるのだろうか。それとも、私が微笑んでいるのだろうか。


 帰り道、スマートフォンが震えた。通知欄に一つのメッセージ。差出人は見知らぬ番号。短い文字列だけが表示される。


「見せてくれてありがとう。これで終わると思うなよ」


 その文の後に添えられたのは、一枚の写真だった。鏡に映る自分の背中を、誰かが撮った後姿。反射した顔は、私のそれではない。どこか淡々として、しかし確信を持っている。私は息を飲んだ。


 あの夜、私は復讐の灯をともしたつもりだった。だが灯りは誰かの手で揺らされ、私の影は長く引き伸ばされた。帰宅して、鏡の前に立つ。化粧は落ちて、あの写真と同じ背中が鏡に映る。背中の中央、肩甲骨のあたりに、見知らぬ形の影が落ちている。


 私は鏡をじっと見つめた。確かなのは一つだけだ。過去を飾り直すつもりで、私は新しい装飾を選んだ。しかし装飾はやがて剥がれ落ち、その下にあった肌が露になる。鏡は、嘘も真実も曖昧にする。だが最後に残るのは、いつも裸の自分だった。


 唇が震え、私は小さく笑った。その笑いはできれば誰にも聞かれたくない。鏡の中の私が返す微笑みは、どこか冷たかった。


「さあ、始めようか」


 小さな声でそうつぶやいたあと、私はゆっくりと目を閉じた。外では雨が降り始めていた。雨音が、ゆっくりと過去の輪郭を洗い流すように聞こえた。だが洗い流されるものと、そうでないものがある。私はそれをまだ知らない。


 第2話 「鏡の中の私」


 ――誰も、昔話を笑えるほど潔白ではない。


 ホテルのラウンジは、昼と夜の境目をわざと忘れたような顔をしていた。天井のシャンデリアは、氷を削ったみたいな光を幾層にも垂らし、壁一面の鏡はその光を拾っては増やし、拾っては増やして、室内の賑やかさを「倍」に見せる。音もまた増えていく。グラスの触れ合う高い音、クッションの擦れるやわらかな音、作り笑いの声が落とす乾いた響き。どれも現実の二倍に思えた。


 結衣は背筋を伸ばした。姿勢という鎧の重さを、身体に馴染ませる儀式。美容師の制服の上に落ちるジャケットの肩が、鏡の中で僅かに角度を変える。笑顔は、仕事で一日に何十回も貼り替えてきたもの。口角が上がる、目尻が柔らかくなる、息を少しだけ胸に溜める――そうすれば、鏡は「大丈夫」と返してくれる。少なくとも、お客さまの前ではそうだった。


 「久しぶり!」

 空気を割る声が二つ三つ重なった。美咲の声は、相変わらず人混みの中心に居場所を作る。派手なワンピース、スマートフォンを構えた手つき、バランスよく作られた前髪。SNSのポーズは日常の筋肉にまで染みこんでいて、彼女が笑うと、鏡の中の彼女も合わせて笑う。左右に立つ元クラスメイトたちは、鏡の向こうにももう一組いるから、賑やかしには困らない。


 「結衣ってさ、あのとき泣き虫だったよね〜」

 「先生にチクってたし!」

 輪の中から軽い声。笑いの音符に、わずかな棘が光った。結衣は笑ってみせる。

 「そうだったかもね」

 声は揺れなかった。揺れて見えるのは、鏡のせい。ここでは何もかもが倍に歪む。


 テーブルの中央には、花と一緒にオブジェが置かれていた。銀の枠に収まった、割れた鏡のモザイク。幾片もの破片が角度を違えて光を散らし、見る者にたくさんの自分を返す。企画は幹事の提案による“懐かしい記念品展示”。卒業アルバムのコピー、文化祭の写真、体育祭のハチマキ。そこに、十年前の教室で壊れた「鏡」を模したオブジェが紛れている。ホテルの担当者に「インスタ映えしますよ」と説明して置いてもらった。説明は嘘ではない。映えるし、映す。


 傍観者だった大輔は、その前を通るたびに視線を逸らした。彼は太ったわけではないが、丸くなっていた。社会の角に当たらないように丸めたのだと、一目でわかる。彼の手の中のグラスが、汗で少し滑り、持ち直す仕草が二度続く。その指先には、十年前に触れなかった刃先の感触が、今になって遅れて届いている。


 「笑える話じゃないだろ」

 そう言いかけて、大輔は喉に言葉を引っかけた。言い切らないのが、彼の癖。その癖が、あのとき私を救わなかった。救わないことを選んだ、というほどの自覚もないままに。


 一次会の終盤、美咲が声を上げた。

 「みんなで写真撮ろう! 鏡の前で!」

 賛同の拍手。席がざわざわと動き、人の輪が鏡の前に半円を作る。鏡は輪を写して、もう一つ半円を足すから、円は完全になったふりをする。完全に見えることが大事で、中身の欠けは、照明の陰が上手に隠す。


 フラッシュが光った。その白い瞬きの中、鏡のモザイクの一片に、細い線が走った。音はしない。光が硬くなる気配だけが、結衣の皮膚を撫でた。鏡の中の自分の顔だけが、光を飲まず、暗く沈んだ。


 「やっと、始まったね」

 結衣は唇だけで囁いた。誰にも届かないように。届かせたい相手にだけ届くように。


 写真はすぐさま幹事のグループに送られ、幹事はSNSに上げる準備を始めた。キャプションは軽く、ハッシュタグは多く。#懐かしの #同窓会 #十年ぶりの再会。見せたい過去の切り取り方は、いつだって「誰かの見たい現在」に合わせて選ばれる。見たくないものは切り落とし、映り込んだ誰かの涙は、露出を上げれば消える。


 結衣は、鏡のオブジェに小さく近づいた。ヒビは、肉眼では見逃すほど細い。けれど彼女の右の人差し指はそこを迷いなくなぞる。事前に付けてもらった「傷」は、熱で露わになるタイプのもの。フラッシュや温度差に敏感で、光の刺激で白い筋を見せる。ホテルの担当者には「演出」とだけ伝え、ガラス職人には「アート」とだけ言った。嘘は言っていない。真実を全部言っていないだけだ。


 「二次会どうする?」

 誰かが声を上げ、ホテルのラウンジの時間制限が話題に上る。近くのカラオケ、駅ビルのバー、当時の担任の話、結婚と離婚、仕事の疲れ、自慢と不満。話は渦を巻いて、中心が抜けたまま回り続ける。中心という穴の形だけが、十年前と同じだった。


 結衣は、輪の外側で水を一口飲んだ。氷が唇に触れる瞬間、舌の奥に金属の味がひとつ跳ねた。緊張は味になる。恐怖は匂いになる。復讐は、手触りになる。彼女はその全てを仕事で学んだ。色が合わないと、仕上がりはたちまち濁る。だから段階が肝心だ。濁りを濁りのまま「質感」に変えるのが、プロの仕事。


 「結衣、仕事何してるんだっけ?」

 と、背後から声。振り向くと、委員長だった咲良がいた。昔は一本筋の通った眼差しで黒板の前に立ち、クラスの騒ぎに眉ひとつ動かさなかった。今はスーツも靴もよく磨かれて、言葉遣いもまた角がない。

 「美容師。駅前のサロン」

 「へえ、似合うね」

 似合うという言葉は便利で、何も言っていないのと同じだ。けれど咲良の声には、便宜以上の温度があった。彼女は続ける。

 「今日の髪、いつもと違う。結衣、自分でやった?」

 「うん。少し、重心を下げたの」

 「なるほど。落ち着いて見える」

 落ち着いて見える――見えることは、いつだって現実の手前にある。見えるように整えれば、見えたものが現実になると、人は信じる。だから鏡は強い。


 咲良が、声を落として言った。

 「さっきの鏡、わざと、だよね」

 結衣の心臓は、ほんの少しだけ硬く鳴った。表面だけを叩く音が、自分の耳の内側で膨らむ。

 「わざと?」

 「演出。光に反応する特殊加工。わたし、仕事で使ったことがある」

 咲良は微笑む。非難でも共犯でもない顔。事実だけを確認する顔。

 「別に、責めない。むしろ、いいと思う。みんな、鏡の前でいい顔をしてるつもりで、実は、鏡に食べられてるだけだから」

 言い終えた彼女の目には、十年前にはなかった影が薄く落ちていた。その影に、結衣は自分の影を重ねる。影は似合う。光よりも馴染む。


 「二次会、行く?」

 咲良の問いに、結衣は頷いた。場所は駅前のバーに決まった。まだラウンジには時間の余裕がある。幹事が会計の段取りを取りまとめ、誰かが財布から現金を出し、別の誰かが「カードでいい?」と聞いて、また別の誰かが「後でまとめて送金して」と言う。その小さなやりとりの間に、結衣は一度、鏡のオブジェに背を向け、柱の陰のソファへ移動した。そこは、鏡の光が届かない場所だった。


 スマートフォンが震えた。画面には非通知。先日の夜と同じ。耳に当てる前に、結衣は軽く深呼吸する。声は先に整えるものだ。整えた声は、相手の油断を連れてくる。

 「……はい」

 最初に聞こえたのは、息の音だった。感情の混ざらない息は、逆に音になる。しばらくして、低い声。

 「見てるよ」

 「どちら様?」

 「鏡の中の、あなた」

 切れる。短く、冷たく。耳に残ったのは自分の血の音だけ。結衣は、通話記録に残らない番号を睨むことはしなかった。鏡の中からの電話に名前は必要ない。必要なのは、覚悟だけだ。


 戻ると、鏡の前に人だかりができていた。幹事が写真をスライドショーにしてタブレットで回し見を始め、笑い声がまた一段と明るくなる。そこで、美咲が声を張った。

 「ねえ、これ見て!」

 鏡のモザイクの一片に、指先で触れる。光が走る。細いヒビは、さっきより確かに目立っていた。誰かが「壊れてない?」と眉を寄せ、誰かが「演出でしょ」と笑う。美咲は余裕の笑みでスタッフを呼び、スタッフは「確認いたします」と微笑む。表面は何も傷つかない。崩れるのは内部だけ。そういう仕掛けだ。


 「結衣」

 後ろから大輔の声。振り返ると、彼は目を伏せていた。目を合わせるのが苦手な人間は、言い訳も上手くなる。彼の声は小さく、けれど届く位置を選んでいた。

 「さっき……あの動画、ほんとに持ってるの?」

 問いなのに、答えを知っている口調。

 「ええ」

 結衣は素直に頷いた。嘘は必要ない。使い切れないほどの真実がこちらにはある。

 「どうするつもり?」

 「どうしてほしい?」

 今度は彼が答えに迷う番だった。沈黙が、鏡の面で増幅して広がる。大輔は唇を噛んだ。

 「……消してほしい、って言う権利、俺にある?」

 「権利、ね」

 結衣は首を少し傾けた。美容師として、お客の髪を整えるときに使う角度。相手の目に「わたしの正面」を返す角度。

 「『消してほしい』はお願いで、『権利』は勘違い。あなたが持ってるのは、『過去に触れなかった手』だけ」

 大輔は息を一つ吐き、それを笑いに変えようとしたが、上手くいかなかった。笑いは筋肉で作るものだが、罪悪感は筋肉の動きを鈍らせる。


 美咲が近づいてきた。彼女は営業スマイルを一瞬だけ捨て、個人の顔を覗かせた。まつ毛の際に、小さな湿りが見える。

 「結衣、話せる?」

 「いいよ」

 オブジェの陰、照明の落ちる場所に三人で移動する。咲良が離れたところでこちらを見ていた。距離はあるが、目線は逸らさない。監督者の眼だ。教室で培われ、社会で研がれた。


 「まず、ごめん」

 美咲の声は、さっきよりも低かった。言葉に飾りが少ない。飾りを剥がすと、言い訳が露出する。彼女は続ける。

 「あの頃のわたしは、誰かに見られてるのが怖かった。中心にいれば、見られてるふりができた。ねえ、それ、わかる?」

 わかるかどうか、は本当は関係ない。わかると頷けば、彼女は救われる。わからないと首を振れば、彼女は怒る。どちらでも、結衣の傷は減らない。

 「わかる」と、結衣は言った。わからせるためにではなく、次に進めるために。

 「で?」

 美咲は小さく息を吸い、吐き、言葉を探した。

 「今日、これで終わると思ってた。『ごめんね』って言って、『許す』って言ってもらって、写真撮って、昔みたいに笑って。そういう、いい話にするつもりだった。わたし、そういう『まとめ』が得意だから」

 「得意だよね」

 「でも、鏡を見たら、わかったの。まとめても、映るものが変わるわけじゃない」

 美咲は自分の両手を見下ろした。完璧に塗られたネイルの表面に、照明が小さく乗る。

 「消してほしいのは、わたしだけじゃないんだよ。あの日のこと、見てた子、笑ってた子、止められなかった子、みんな、どこかで『記録』を恐れてる。だから、誰も言い出せなかった。本当は『消えない』って知ってるから」

 結衣は黙った。鏡のオブジェの破片が、三人の顔をばらばらに映している。三枚目の結衣は少し笑っていて、五枚目の美咲は泣いている。四枚目の大輔は、息を止めている。


 咲良が近づき、小さく咳払いをした。

 「そろそろお会計。……それと」

 彼女はスマートフォンを差し出した。画面には、先ほど撮った集合写真。ズームが少しずつ動き、鏡のモザイクの一片に近づいていく。そこに、うっすらと映っているものがあった。誰のものでもない顔。輪郭が曖昧で、まるで写真の「余白」に生えた顔のように。カメラに向かってではなく、鏡の向こうからこちらを見ている。目は、確かに結衣を捉えていた。

 「これ、加工じゃないよね」

 咲良の声は平坦だが、手は微かに強張っている。

 「わたしの端末でも同じに映ってる。だから、バグでもない」


 結衣は画面を受け取り、指先でその「顔」をなぞった。ざらつく感触はない。光だけが、冷たい。鏡の中の電話の声と、画面の中の目が重なる。見てるよ。鏡の中の、あなた。結衣は、口の中の唾をそっと飲み込んだ。喉が鳴る小さな音が、自分だけの合図になる。


 「二次会、行こう」

 結衣は穏やかに言った。逃げるように、でも追うように。

 咲良が頷く。美咲も頷いた。大輔も、遅れて頷いた。


 移動の列ができ、エレベーターの前に人が並ぶ。鏡張りの箱の中で、人数は倍になる。誰かの会話がすぐ隣の自分の口から聞こえてくる幻。閉じた扉に自動で映る「現在地」の赤い点が、一段ずつ降りるたびに小さく震える。結衣は、小さなカメラを扉の上で見つけた。視線を合わせない。視線は武器だ。向けた先に、傷が残る。


 バーに着くと、照度は下がり、音は上がった。カウンターの奥にも鏡。瓶の列が色の層を作り、その手前に並ぶ自分たちの色が、夜に溶ける。注文を終えた頃、幹事が乾杯の音頭を取った。ビール、カクテル、ソフトドリンク。泡が光を抱いて泣く。泣き声は、グラスの縁に隠した。


 「結衣、今日、泊まり?」

 美咲が聞く。バーの音に半分埋もれた声で。

 「いや、帰るよ」

 「そっか。……ねえ、もしよければ、後で、少しだけ二人で話せない?」

 「いいよ」

 答えてから、結衣は自分のグラスの底を見た。氷の角は丸くなっている。時間の仕事。角が丸くなるのを「優しくなった」と呼ぶ人と、「鈍くなった」と呼ぶ人がいる。呼び名で救われるのは、呼んだ側だ。


 トイレに立つ。個室は小さく、鏡は正面に一枚だけ。ここでは、倍にならない。ひとりの顔が、ひとつだけ映る。

 「あなたは、誰?」

 結衣は声に出さずに問う。鏡の中の女は、口角をわずかに上げる。作られた笑顔。十年前、机の中に押し込まれた手鏡の欠片が、まだどこかに刺さっている。指で触れると、皮膚の下がじわりと熱くなる。痛みは、いつも熱のふりをする。


 個室を出ようとしたとき、洗面台の横の壁に、小さな貼り紙があるのに気づいた。ホテル側の注意書きに紛れて、見慣れない一枚。白い紙に黒い文字。文字は整っていて、印刷のように見えるが、インクの濃淡に人の手の癖が滲んでいた。

 「鏡は、記録です。消しゴムは付属しません」

 誰かの悪ふざけか、誰かの親切か。結衣はその紙の角を指で摘み、引きはがそうとしてやめた。はがすことが「参加」になる。今夜は、まだ見ている側でいたい。


 戻ると、テーブルの上に新しいスマートフォンが増えていた。何人分ものカメラが、さっきの写真を拡大し、あの「顔」に集まる。ざわめきが小さく濃くなる。幹事が笑って言う。

 「ほらほら、誰かのイタズラでしょ。今はAIで何でもできるから」

 「AI」が免罪符としている間だけ、世界はまだ優しい。やがて「AI」にも責任を求めるようになったとき、鏡は別の名前に変わるだろう。けれど、そのときも、記録は消えない。


 結衣はグラスを傾け、氷が唇に触れる音をまたひとつ飲み込んだ。隣で咲良が低く言う。

 「わたし、今日のこと、記録しておく」

 「どこに?」

 「自分に」

 その答えは、驚くほど古い種類の強さを持っていた。クラウドでもSNSでもない場所。自分の内側。消せないけれど、公開もしない。「保存」の目的は、誰に見せるかで決まるのだと、結衣はあらためて思った。


 美咲が席を立ち、手を振った。合図。二人で、店の外へ出る。廊下は狭く、左右に鏡がはめこまれている。ホテルは人を「確認」させるのが好きだ。自分がそこに居ること。誰かと並んでいること。歩幅が合っていること。合っていないこと。


 非常口の先に、小さな喫煙スペースがあった。夜風が入ってくる。美咲は煙草に火をつける前に、一本を折った。折った煙草を、また箱に戻す。

 「吸わないの?」

 「吸うふりが、したいときがある」

 彼女は、折った煙草の代わりに、口だけで息を吸い、吐いた。煙は出ないのに、匂いはした。緊張と後悔が混ざった匂い。

 「結衣。さっきの『顔』、見た?」

 「見た」

 「ねえ。わたしたち、何かに見られてる?」

 「ずっとね」

 「誰に?」

 結衣は答えなかった。見ているのが誰か、よりも、見られている自分が誰か、のほうが難しい質問だからだ。


 「お願いがあるの」

 美咲が言った。折られた煙草の代わりに手の中に残った空気を、握りつぶすような指。

 「あの動画、わたしにも、見せて」

 「今?」

 「今じゃなくてもいい。……でも逃げたくないの。『ごめんね』で終わるような、便利なオチにしたくない」

 結衣は、美咲の顔をまっすぐ見た。鏡のない場所で、人の顔を見るのは難しい。反射がないと、距離の測り方がわからなくなる。

 「いいよ。条件がある」

 「条件?」

 「わたしだけじゃない人に、見せる」

 美咲の瞳孔が、夜の中で小さくなった。

 「……誰に」

 「『見てるよ』って言った人に」

 美咲は笑わなかった。泣かなかった。ただ一度、頷いた。


 戻る途中、廊下の鏡が淡く曇った。誰かが息を吹きかけたみたいに。結衣は足を止め、指で曇りに線を引いた。「Y」。曇りの下から、自分の顔が出てくる。Yの分岐の先、それぞれに別の自分が立っている。どちらも正しい。どちらも間違いだ。正しさは、鏡の数だけ増える。


 テーブルに戻ると、咲良が短く合図を送った。大輔は席を外していた。幹事は会計の最終確認。店内の音が少し上がる。バーテンダーがボトルを拭く布の動きが、妙にゆっくりに見えた。速度の錯覚は、不安の副作用。


 スマートフォンが震えた。知らない番号。耳に当てる前に、結衣は店の鏡越しに自分の肩を見た。何も乗ってはいない。何も乗っていないはずなのに、重さがある。

 「はい」

 「――逃げないで」

 最初の言葉は、それだけだった。次いで、画像が送られてくる。受信したサムネイルを開くと、そこには鏡のオブジェのアップ。ヒビの一本一本が、糸のように編まれて文字になっている。読める。読めてしまう。

 「ハジメマシテ」

 結衣は笑った。笑わないと、喉が詰まる。笑うことは、空気を通す行為だ。

 「はじめまして」

 声は小さく、だが確かだった。


 その夜の終わり、帰り支度を整える人々の背中を、鏡は丁寧に見送った。増やしたまま見送る。二倍のさよならが、ドアの隙間からこぼれる。結衣は最後に鏡のオブジェの前に立ち、ヒビに指を沿わせた。冷たい。けれど、熱が芯にいる。そこにだけ、時間が火を持っている。


 「やっと、始まったね」

 同じ言葉を、鏡の内側にも外側にも向けて言った。返事はなかった。代わりに、小さな通知音。画面を見る。メッセージは、ひとこと。

 「昔話、笑える?」

 返信の欄に、結衣は指を置いた。鏡越しに自分の顔を見る。口角は少し上がった。泣きたいときに笑うのは、子どもの頃からの癖だ。大人になって、その癖は技になった。


 「笑えるよ。あなたが笑うなら」

 送信。既読。返事はまだない。返事は、きっと鏡から来る。鏡はいつでも時間に遅刻する。だからこそ、絶対に遅れずに届く。


 夜風が、ラウンジからバーへ、バーから廊下へ、廊下から路上へ、薄く流れていく。結衣は肩にジャケットをかけ直し、歩き出した。足音が二重に響く。振り向かない。振り向けば、倍になった自分に足を掴まれる。前にだけ、ひとつの影を落とす。


 ホテルの自動ドアが開き、街の鏡――ショーウィンドウが彼女を迎える。そこにもまた、数え切れない自分がいる。どれも、作られた笑顔を練習している。どれも、練習ではない笑顔を探している。


 ――誰も、昔話を笑えるほど潔白ではない。


 その言葉を、結衣は今夜の帰り道にそっと胸ポケットへ畳んだ。折り目のついた紙片は、簡単には広がらない。けれど、湿気を吸えば、勝手にふくらむ。明日の朝、鏡の前で、きっとまた広がる。そうやって、話は続く。鏡の中と外で、互いを映し合いながら。


 第3話 「傍観者の罪」


 ――沈黙もまた、暴力だった。


 ホテルのロビーの喫煙所は、外気と人工の冷房が綱引きをしていた。硝子の扉が一度開いて閉まるたび、温度の境界が薄れて、煙が行き場を失う。灰皿の底に白い山がいくつも重なって、火の点いていない端が赤く染まっているように見えたのは、照明のせいかもしれない。


 大輔は、一本目の煙草を半分まで短くした。紙の味と舌の奥に残る苦味が、眠気をごまかしてくれる。スマートフォンが震えた。親指で画面をなぞる。差出人の名前を見て、背中の筋肉が一斉に硬くなる。


 『あのとき、止めてくれなかったね』


 送信者:結衣。短い一行。言い逃れの余地がない文法。言い訳のための余白もない。息を吸ったのか、止めたのか、自分でもわからなかった。


 十年前の空気が、喫煙所の冷気の中で蘇る。あのとき、彼は結衣を庇おうとした。そう思っていた。今まで、ずっと。あらゆる記憶の端を丸くして、そう整えてきた。けれど、それは「庇おうとした」の手前にある「考えただけ」という位置に、釘を打って留めた言い換えにすぎない。


 教室の真ん中で、椅子が引きずられる音がした。美咲の高い笑い声。男子の大きな声。女子のスマホのレンズが、ひとつ、ふたつ、みっつ、光を拾う。空気の温度が少し上がる。誰かが「やめろ」と言いかけて、笑いに飲まれる。「止めると自分が狙われる」と、教室の壁に貼られた空気のルールが、彼の喉を通せんぼした。


 もう一本、煙草に火をつける。メッセージは続いていた。リンクが貼られている。触れる指先が、思っていたよりもまっすぐに動く。


 再生。音は最初、掠れていた。机の下からのアングル。床に落ちた消しゴムのカス、靴のゴム底、誰かの膝の擦れる音。視界の端にスカートの裾が揺れて、笑い声が天井から落ちてくる。結衣の顔は、切り取られた画角の上にかろうじて映っている。髪が引かれて、顔が歪む。その歪みが泣き顔なのか、笑いの崩れなのか、映像は決めてはくれない。


 画面の左端、黒いスマホの縁が少しだけ映っている。机の足に押しつけられた膝。吐息。そして――自分の喉の奥で、笑いが揺れる。声ではない。笑いに似た呼気。映像に乗らないほど小さいはずの音が、耳の中では増幅される。自分が笑っていたのだ、という事実が、映像のコマより先に脳に届いた。


 画面が暗転しても、しばらく指は動かなかった。煙が目に染みる。乾いた咳。喫煙所の扉が開いて、誰かが入ってきた。短い会釈。会釈を返す余裕さえ、礼儀で繕う。


 「……俺は、加害者だったのか?」


 口に出してみると、言葉は体温を持たなかった。「だったのか?」という語尾に、まだ逃げ場を残している。逃げ場を作る才能だけは、十年前から変わらない。


 ホテルを出ると、夜は湿っていて、駅前のネオンが低く鳴っていた。家に帰る道すがら、信号待ちの赤い光の中で、スマホがもう一度震える。結衣からではない。ニュースアプリの通知。『高校いじめ映像、SNSで拡散中』。リンク先を開く。記事に添えられたぼかし付きのサムネイル。見覚えのある教室の光、天井の蛍光灯の並び方、机の木目。投稿者欄には、結衣の旧姓が記されていた。旧姓の表記だけが、過去形の鍵のように光る。


 ベッドに横たわっても、眠りは角砂糖のように崩れて消えた。瞼の裏に映像が残る。音まで残る。自分の呼気が、笑いのかたちをしていたこと。笑わないふりが上手くなったのは、そうやって練習してきたからだと、ひどい悪意のような納得が押し寄せる。


 翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。枕の形が夜の間に変わった気がしたのは、頭の形が変わったからだろう。ニュースアプリには続報がいくつも並んでいる。「動画は誰が」「学校側の対応は」「時効の倫理」。言葉は誰の所有物でもないから、好きなだけ動員される。大輔はアプリを閉じて、天井を見た。天井の白は、夜よりも正直だ。


 出勤。オフィスの空気は、朝のコーヒーの匂いとコピー機の熱を混ぜて、まっすぐではない匂いになっていた。エレベーターで同僚と一緒になる。彼らは話題を避けるのがうまい。避けているふりをするのも、またうまい。


 「昨日、同窓会だったんだ? どうだった」

 「まあ、懐かしい顔ぶれが」

 「いいなあ。同窓っていいよね」

 いい、という言葉が、何も映さない鏡のように中空で光る。席に座り、パソコンを立ち上げる。メールボックスの中で、件名だけが太字で並ぶ。その列の途中に、見慣れない宛先からのメール。件名は空欄。本文は一行。


 『見てるよ、傍観者さん。鏡のほうから。』


 署名はない。差出人のドメインは、無料メーラーの変種で、文字列は意味を持たない。画面の明るさを一段落とす。目の奥がじんじんする。コーヒーを一口。苦味では血の味は消えない。


 午前中、仕事は手の届くところから片づけた。数字は裏切らない。裏切らないが、慰めもしない。昼休み、社外の連絡を装って、スマホでまた動画を見た。何度見ても、結衣の表情はどこか違う。泣いているようで、笑っていた。笑っているようで、泣いていた。あの微笑は、十年後の顔だ。未来の復讐を予告するような微笑――そう書き取った瞬間、背筋が冷える。書き取ることは、認めることに似ている。


 午後、会議室のガラス越しに、通り雨がビルの壁を濡らすのが見えた。雨粒が縦に、次の瞬間には斜めに走る。窓の向こう側でしか濡れない雨は、現実よりも安全なのに、見ているだけで腕が寒くなる。会議が終わる頃、胸ポケットの中のスマホが、二度震えた。美咲からだった。


 『夜、話せる? みんなで現状整理しない?』


 現状整理。彼女の得意な言葉。まとめることは、端を切ることだ。切られた端は、布のほつれのように時間の中に残って、指にまとわりつく。大輔は返信を打ちかけて、やめた。誰かに「整えられた」事実の上に立ちたくなかった。せめて、今だけは。


 代わりに、結衣に送る。指が固く、打鍵が遅い。


 『昨日のは俺だ。笑ってるのは俺だ。消したと思ってた。すぐ消した。けど、消えなかった。ごめん』


 送信。既読は、すぐには付かなかった。


 仕事帰り、駅ナカの書店で、平積みの週刊誌の煽り文句が目に刺さる。「暴走する拡散」「誰の責任?」。答えは紙の中に書かれていても、紙の外には出てこない。ホームに立つ。列車の風が、顔の皮膚を薄く撫でる。ふと、ホームの反対側の広告枠に、鏡面加工のポスターが貼られているのに気づいた。通行人の顔が、広告文の上を横切る。『今を、記録する。』白い文字だけが、鏡の上で曇らない。


 帰宅して、シャワーを浴びる。風呂場の曇り止めの鏡が、中途半端な仕事をする。輪郭だけはっきりして、表情が柔らかくぼける。そのぼけた笑い顔が、昨夜見た結衣の微笑に似ていた。鏡を指で拭うと、指の跡が二本、顔の上に走った。線はすぐに消える。記録にならない傷は、安心と引き換えに、反省を奪う。


 夜遅く、スマホが光った。結衣からの返信。


 『ごめんを受け取るのは、わたしじゃない。あの場にいた全員だよ。——でも、ありがとう。見ようとしてくれて。明日、来られる? サロンは休み。午前十時、駅前の喫茶店』


 「見ようとしてくれて」。その言葉が喉に留まる。見ていたのに、見ていなかった。見ないふりをしていた。見ないふりをしている自分を、見ていた。


 翌朝、喫茶店は昔ながらの内装で、コーヒーの香りが座席の布の繊維にまで染みていた。結衣は先に来ていて、カップの取っ手を親指と人差し指で挟み、温度で心を落ち着かせるみたいに、少しずつ回していた。彼女の髪は、前日よりも一段低い位置でまとめられている。重心を下げた、と咲良が言っていた意味が、近くで見るとよくわかる。


 「来てくれて、ありがとう」

 「……ありがとうはこっちのほうだよ」


 大輔は座り、メニューを開いた。文字はどれも知っているのに、選び方がわからない。他人に渡された選択肢ほど、選び方が難しい。


 結衣は、バッグからタブレットを出した。昨夜、彼が見たものとは違う編集の動画が再生される。音量は小さく、画面は明るい。講義室の蛍光灯の光が白すぎるせいで、皮膚の色が皆、少し青い。机の下からのアングル。床の黒い膝。左端に、自分のシャツの裾が映っている。動かない。動かないことで、世界は動いてしまう。


 「これ、二つのファイルを重ねてるの」

 結衣の声は、説明のための声になっていた。

 「机の上からのアングルと、下からのアングル。上は、笑いがよく入る。下は、息がよく入る。どっちも、真実の一部。どっちも、嘘の一部」


 画面を止めて、彼女は指である一点を示した。画面の端。自分の手首。手首が、小刻みに揺れている。

 「怖かったんだよね」

 「……怖かった」

 「それはわかる」

 結衣は一度、視線を落とした。長い呼吸。ゆっくりと顔を戻す。

 「でも、怖かったって、免罪じゃない。怖かった人がたくさんいたのに、笑えた人だけが偉くなった」


 言葉が喉で止まり、息だけが出ていく。免罪――そういう言葉を、十年かけて自分の中で練ってきたのだと、今さら気づく。誰も赦してくれとも頼んでいないのに、自分で自分に免罪符を書いていた。


 「……俺、昨日、美咲からも連絡が来た。『現状整理』だってさ」

 「うん、わたしにも」

 「行く?」

 「行くよ。まとめたがる人がいるときは、まとまらない話がある。——それと、わたし、昨夜の投稿、わたし名義じゃないよ」

 「え?」

 「旧姓は、わたしに似せた名前。漢字が一字違う。本人だと思われるように」

 「誰が」

 結衣は首を振った。

 「鏡が教えてくれるよ」


 喫茶店の窓の外で、通勤の人波が均一な速度で流れていく。速度が揃っている群れは美しい。その代わり、誰かが転べば、みんな躓く。美しいことは、脆い。


 会計を済ませると、スマホがまた震えた。非通知。大輔は一度、結衣の顔を見た。彼女は頷いた。受話器の代わりに、身体全体で受け止める気構えを、目だけで伝える。


 「……はい」

 『逃げないで』

 昨日と同じ声。昨日より静か。昨日より近い。

 「誰だ」

 『鏡の中の傍観者さん。あなたの息、綺麗に録れてた』

 通話は切れた。耳に残ったのは、自分の心音だけ。心臓は、どんな言葉よりも正直だ。


 昼過ぎ、美咲からの「現状整理」は、駅ビルの会議室で行われた。白い壁、白い机、透明なペットボトル。集まったのは、十年前の輪の中にいた、あの顔ぶれ。咲良もいる。彼女は端の席に座り、手帳を置いた。大輔は、向かい側。結衣は、少し離れた席。美咲は前に出て、資料を配る。「炎上対応」「法的手段の可能性」「学校への連絡」。言葉の数で安心を作る技術は、彼女の長所でも短所でもある。


 「まず、誤解を解きたいの。投稿者名は“結衣の旧姓”に見えるけど、違うの。漢字が一字違う。アカウントの作成日も最近。つまり、誰かが意図して……」

 「誰かって、誰だ」

 男子のひとりが声を上ずらせる。彼の声には、十年前の教室の音が残っている。

 「わからない。だから、今は『わからない』を共有したい」

 共有は、責任の薄め方のひとつだ。薄めれば飲みやすい。飲みやすいと、効き目が遅い。


 咲良が手を挙げる。

 「『現状整理』の前に、事実確認を。——あのとき、止められなかった人、笑ってしまった人、撮ってしまった人、投稿してしまった人。各自、自分がどれに当たるか、ここで言葉にしてほしい」

 空気が一段と重くなる。空気に重さがあると感じるのは、誰かが息を止めたからだ。

 「俺は……」

 大輔は立ち上がった。膝が少し笑った。笑いは、身体に残る。悪い癖ほど、長持ちする。

 「撮った。投稿した。すぐ消した。笑った。止められなかった」

 列挙することで、逃げ道は塞がる。言葉は、退路を封鎖する。


 静かなざわめき。美咲が、目を閉じた。彼女の唇が「ありがとう」と動いたのが、見えた気がした。聞こえない言葉ほど、人を刺す。


 会議室のスピーカーから、微かなノイズがした。みんなが同時に天井を見る。ノイズはすぐに止まり、代わりに美咲のスマホが鳴った。画面を見た彼女の顔が強張る。外部モニターにミラーリングされた画面に、また新しい動画が映る。今度は、教室の外。廊下。ガラス窓に映る教室の中。鏡面のような反射に、輪の外の顔がいくつも揺れている。その中に、大輔の横顔があった。口元が、かすかに上がっている。笑いの筋肉は、本人よりも鏡のほうがよく覚えている。


 「これ、誰が撮ったの」

 誰かの声。誰のものでもない感じで、部屋に落ちる。

 「知らない。——けど、ありがとう」

 結衣の声だった。誰に向けてか、誰にも向けずに。ありがとうは、加害を肯定する言葉ではない。終わらせないための言葉だ。


 その場は、結局、何も決められないまま終わった。終わらないことを確認するための集まり。廊下に出ると、咲良が隣に来る。

 「ねえ、大輔。あなた、今日ここで言ったこと、公開で言える?」

 「公開で?」

 「SNSで。あなたの言葉で。あなたの名前で」

 喉が鳴る。怖い。怖いのは当然だ。十年前は、怖いから黙った。今は、怖いから言う。選び方を変えるだけで、景色は変わる。


 夜、家でパソコンを開く。言葉を選ぶ。削る。足す。消す。結局、残ったのは短い文だった。


 『あの映像に映っている笑いは、僕のものです。僕は撮り、投稿し、すぐ消しました。だからと言って、消えたことにはならない。沈黙は、暴力でした。あの場にいた全員に、そして結衣に、すみませんでした。』


 送信。数分後、拡散の矢印が跳ねる。賛否のコメント。嘲笑のスタンプ。励ましのDM。見知らぬ誰かの「許さない」。見知らぬ誰かの「あなたは勇気がある」。どちらも、鏡の前では似た顔をしている。「あなた」をどこにも指さない褒め言葉と罵倒は、同じ速度で増える。


 さらに数分後、見覚えのないアカウントが同じ文言を投稿した。語尾だけが丸い。別のアカウントは、同じ文言の主語を「俺」から「私」に変えている。さらに別の投稿は、同じ文の前に宣伝リンクを付け足している。言葉は、鏡の中で勝手に増殖する。増殖した言葉は、どれが本物でもあり、どれも本物ではない。


 その夜、玄関のポストに封筒が入っていた。差出人欄は空白。中にはレシートの束が一枚の糸で綴じられている。日付は十年前。コンビニ、文房具店、ゲームショップ。レシートの端に、細いペンで書き込まれた文字がある。


 『鏡は、記録です。消しゴムは付属しません。』


 喫煙所の注意書きと同じ文。手癖も同じ。誰が、いつ、どこで。考えるほど、考えは鏡の部屋をぐるぐると回る。


 布団に入っても、寝返りを打つたびに、身体の周囲の空気がざらりと擦れた。眠りに落ちる直前、脳が勝手に再生するのは、結衣の微笑。泣いているようで、笑っていた。笑っているようで、泣いていた。あれは、未来の復讐を予告する微笑に見えた。でも、違うのかもしれない。あれは、鏡に映った誰かの顔だったのかもしれない。たとえば、謝るときに笑ってしまう、自分の顔。


 朝。鏡の前に立つ。口を開く。言葉にする練習。「ごめん」。音にすると、口角が少し上がる癖が、確かにある。筋肉が覚えている。人に向けたとき、誤魔化しの笑いに見える種類の動き。自分の表情を自分で見て、頬の内側が熱くなる。


 スマホが鳴る。非通知。受ける。


 『上手になってきたね』

 「何が」

 『謝る顔で、笑うこと』

 「お前は誰だ」

 『あなたの影。鏡のほうに立っている、あなた』

 「——何がしたい」

 『見てほしい。あのときの、もう一本の映像を』


 URLが送られてくる。開く。画面に映ったのは、廊下の窓ガラスに反射した教室――ではなく、もっと狭い視界。机の中。暗闇。薄く開いた隙間から差し込む光。音。笑い。息。自分の膝。膝の間に置かれたスマホが、少しずつ角度を変えていく。手の汗が滑って、意図せず動く。そのとき、自分の口が、何かを呟く。


 『——やめろ』


 確かに言っていた。小さく。誰にも届かない大きさで。届かないと知っている声色で。届かない声は、存在しなかったことになる。記録されていても、届かないものは、届かなかったことになる。


 動画の最後、机の下で、彼の右手が、小さく握られて、すぐに開いた。開いた掌の上で、汗が光る。汗の光は、涙に似ている。でも、涙ではない。


 画面を閉じる。部屋の空気が固くなる。固くなった空気を割るように、メッセージの通知。


 『見えた? あなたの「やめろ」は、あなたのための言葉だった。——次は、誰のために言う?』


 指が止まる。返事を打つ前に、もう一つ通知。ニュースアプリ。『動画投稿者、本人が名乗り出る』。見出しを開く。そこに並んでいたのは、自分の名前ではなかった。咲良だった。彼女は自分のアカウントで、かつて「止めなかった」ことと、「今、止める」と宣言した。言葉の輪郭は、彼女らしい直線で出来ていた。


 大輔は、鏡の前に立ち直る。口角が上がる癖を、指で押さえる。押さえたところで、筋肉は内側で笑っている。笑いは、内蔵だ。外側からは、なかなか止められない。


 『あのとき、止めてくれなかったね』


 結衣のメッセージを読み返す。あの一行は、相手を責めるためだけの文ではない。自分を定点に置き、過去の自分に向けて投げる言葉でもある。そうやって、彼女は自分を鏡にかけている。大輔もまた、鏡に向けるべき言葉を選ぶ番だ。


 スマホを握る。指が震える。震えは、恐怖だけのものではない。前に進むときに使う筋肉は、最初に震える。十年前、彼は「やめろ」を自分に向けた。十年後、彼は「やめろ」を、誰かに向ける。誰か——たとえば、画面の向こうの匿名。たとえば、今この瞬間、笑っている自分。


 送信欄に、短く打つ。


 『見ている。今度は俺が。』


 送信。既読。返事はない。鏡は、いつだって時間に遅刻する。遅れて届く返事は、時に一番正確だ。彼はジャケットを羽織り、玄関の鏡を横目に、扉を開けた。外の空気は、昨日より少しだけ軽かった。軽さは、罪が減ったからではない。重さを自分で持つように、持ち方を変えたからだ。


 エレベーターの鏡に、彼の顔が映る。口角は上がっていない。上がりそうになったら、下げる。自分の指で。笑わないために必要なのは、笑うよりも多くの筋肉だ。筋肉は鍛えられる。罪の重さも、きっと鍛えられる。鍛えたからといって、無くなるわけではない。ただ、持ち運べるようになるだけだ。


 ――沈黙もまた、暴力だった。


 その言葉を、彼はエレベーターの小窓の外に広がる朝の街に投げる。その言葉は鏡に跳ね返り、彼の胸の奥で静かに沈んだ。沈んだ場所に、小さな火がつく。火はすぐには大きくならない。けれど、消えにくい。そういう種類の火だ。


 ロビーを出ると、ガラスの壁に「今を、記録する。」の文字がまた映っていた。彼は立ち止まらない。文字の前を通り過ぎる。通り過ぎたあとに、文字はまだそこに残る。残るものを、ようやく残ると認める日が来た。彼は階段を降り、光の粒の中に入っていった。鏡の中からも、きっと誰かが見ている。見られることから、逃げないと決めた顔で。


 第4話 「割れた夜」


 ――鏡が割れた瞬間、誰もが自分を見失った。


 翌朝、目覚ましより早く、枕元のスマートフォンが震えた。美咲は反射で画面を手繰り寄せ、眩しさに目を細める。共同購入サイトの通知だと思ってスワイプした指先が、見知らぬ件名の鋭さに止まった。


 「鏡の記録」


 差出人は表示されない。本文は短く、添付ファイルがひとつ。圧縮ファイルの名前は、日付と時刻、そして学校名の略号。胸の奥が、不快な音を立てる。寝室のカーテンの隙間から差し込む朝の白が、やけに冷たい。


 添付を開くと、まず音が溢れた。椅子の足が床を擦る甲高い音、誰かの甲笑い、消しゴムの転がる乾いた跳ね。少し遅れて映像が立ち上がる。机の下からのアングル。床の線が斜めに走り、隙間からのぞく膝が遠近を狂わせる。画面の端に、髪の黒。引かれる音。顔が歪む。笑いが、上から降る。


 そして、音の重なりの隙間に、聞き覚えのある声が落ちてきた。


 「見えてる? 本当のあなたの顔。」


 結衣の声。十年前より低く、よく通る。どこにも怒鳴りはないのに、どこにも逃げ場がない。美咲はベッドの上、枕を背に座り直した。寝間着の布が太ももに張り付いて、肌の温度を余計に意識させた。


 映像の中で、笑っている女がいる。口角が綺麗に上がって、目の下に小さな皺が寄る。その笑顔は、あの頃、注目に晒されないために磨いた「安全な笑い」だ。自分の笑いだ、と気づくのに、時間は要らなかった。美咲は右手で口元を覆った。画面の中の女を見ているはずなのに、手の中で指先が自分の歯列の癖に触れている。


 “正義感ぶってたのに、結局楽しんでた。”


 心の中で、誰かが囁く。誰か——内側に住む、制度の顔をした誰か。あのとき、止めることができなかった自分に「だって」と言い訳を与えた誰か。中心に立ち、輪の他者を守るふりをしながら、輪の中心にいる安堵を味わった自分。平等という飴玉で、誰かの痛みを砂糖漬けにした自分。


 洗面所へ向かい、水で顔を撫でる。鏡は曇っていない。曇っていないのに、自分の輪郭が少し緩い。湯気のない朝に、曇らせているのは自分の呼気だ。深く息を吐いたつもりはないのに、ガラスに白が滲む。「鏡は、記録です。」喫煙スペースで見た注意書きが、文字の順序まで正確に蘇る。「消しゴムは付属しません。」


 リビングのテーブルに戻ると、夫からのメッセージが未読のまま並んでいた。「今日、会食。夕飯は適当に」「洗剤、切れそう」。他愛ない連絡の列の下に、昨夜遅くの一文が埋まっている。「同窓会、どうだった?」。それにはまだ答えていない。答える言葉を持っていない。自分の笑いは何でできていたのか、と彼にどう説明するのだろう。


 動画をもう一度再生する。別角度。今度は教室の後ろ、窓際からの引きの画。女子のうち何人かがスマホを構え、男子が肩を組んで笑い、結衣の頭が少し傾いでいる。その中心で、美咲は前髪を指で整え、何かを言っている。音は小さいが、唇の動きで読める。「盛り上がってる」。吐き気がする。「盛り上がってる」。その言葉で、こぼれ落ちた誰かの心がある。


 「これ、誰が拡散してるの!?」


 声に出した瞬間、部屋の空気がきしんだ。自分の声が、加害の具体を避けて「誰か」に跳ね返そうとしはじめるのが、はっきりわかった。スマホは新しいメールを示すアイコンで踊り続けている。同窓会のグループもざわついている。「見た?」「やば」「誰か止めて」「学校に言おう」「弁護士」。言葉の洪水。誰の言葉でもない言葉が増えていく。


 「ママ、今日のお弁当、卵焼き?」


 廊下から、子どもの声。美咲は反射で「うん」と答え、台所に向かう。卵を割る。黄身は丸い。白身は広がる。均一に混ざらないものを均一にしようとして、箸を勢いよく回す。卵が空気を含んで白くなる。「均一」はいつだって、少しだけふくらみを失わせる。砂糖と塩の匙加減は、手の癖。塩辛いと誰かが顔をしかめる。甘いと誰かが笑う。甘い笑いは、砂糖に付属してくる。


 子どもを見送り、玄関を閉めた瞬間、スマホがまた振動した。非通知。躊躇してから取る。


 「見てるよ」


 女とも男ともつかない、乾いた声。距離が測れない。


 「誰?」


 「鏡のほうから。あなたの笑顔、十年前より上手になってる」


 通話は、相変わらずこちらの問いを無視して切れた。音の断面だけが耳の奥に残る。美咲は唇を噛んだ。血の味は、昔より薄い。


 スマホのホーム画面に戻ると、メールは増え続けていた。「鏡の記録」は同窓会の出席者全員に届いているらしい。BCCの目隠しの向こう側で、誰かの目がこちらを覗いている。再生回数のカウントは、斜めに伸びる電柱の電線のように、無遠慮に増える。


 午後、ホテルから電話が入った。前夜の会場担当者の声だ。低く、整えられている。


 「昨夜のご利用に関して、ご報告がございます。ラウンジの装飾、鏡のオブジェが……ヒビが広がりまして」


 美咲は呼吸を止め、耳だけを前に出した。


 「お怪我は? 誰かが——」


 「幸い、お怪我はありません。ただ、来館者の方から『破片が落ちる音がした』というご申告がありました。現場確認をいたしましたところ、破片が少量、床に散っておりました」


 「昨夜? 今朝?」


 「今朝の開店前の点検時です。監視カメラの映像では、明け方四時十二分に、オブジェが微かに震え、五時過ぎに一片が落ちました」


 「誰か、いたんですか」


 「映像では、誰も映っておりません。ただ……失礼を承知で申し上げますが、破片の反射面に、お客様の集合写真を撮影した際のフラッシュが繰り返し過剰に反応しておりまして、もしかすると経時的な温度差で——」


 言い切らない。説明は事実を並べるけれど、因果は並べない。美咲は「すみません」を三度繰り返した。謝罪で穴は塞げない。穴の位置を確認するだけだ。


 通話を終えた数分後、グループチャットに新しい動画が投下された。誰が投げたのか、名義の裏はたぶん偽物だ。映っているのは、ホテルのラウンジ。シャンデリアが小さく震える。鏡のオブジェのきらめきが、音のない呼吸をする。カラン、と音。破片が床に落ちる瞬間、反射の一片に、笑顔が映った。結衣の笑顔——に似ている何か。目の奥だけが笑っていない影。コメント欄は「こわ」「演出?」「呪い」などの短い言葉で埋まっていく。短い言葉ほど、惊きを手軽に配る。


 美咲は、ソファの端で膝を抱えた。正午の光が、自分を逃さない位置にいる。影が短い時間帯は、嘘が短い。嘘の短さは頼りない。頼りないのに、手離せない。


 午後、咲良から電話が入った。


 「大丈夫?」


 「大丈夫じゃないよ」


 素直な言葉が口を出る。自分でも驚く。強いと言われ慣れた舌が、柔らかい形を作るのは、意外に難しくないのかもしれない。


 「夜、集まるって聞いたけど、行ける?」


 「行く。——ねえ、咲良」


 「うん」


 「わたし、結婚式のときさ、もし結衣が来たらどうしようって、本気で考えて、席次表の『友人代表』のところだけ、最後まで空欄にしてたの。呼びたかった子の名前、書けなかった。彼女の顔が、どこにでも映る気がして」


 電話の向こうで、紙の音がした。手帳をめくる癖。彼女はいつも、言葉を紙に乗せてから、相手に渡す。


 「それで?」


 「書かないまま、当日を迎えた。空欄の席に、彼女が座るくらいなら、空っぽのままがいいと思った。——今、やっとわかった。空欄って、鏡だったんだね。映る場所を、空けてた」


 咲良は、少しだけ笑った。


 「空欄は、余白だよ。鏡と同じで、埋める人の顔を映す。だから、今からでも、書き直せる」


 夕方、同窓の何人かが駅前の会議室に集まった。白い壁、白い机、透明のボトル。昨日と同じ光景。違うのは、全員の喉が少し渇いていること。水が減る音が早い。担当者が時間の説明をして去っていく。閉まるドアの音が、沈黙の輪郭を描いた。


 「まず……」


 口火を切ったのは美咲だった。普段なら、声の高さと速度、眼差しの角度で場を「温める」のが得意だ。今日は、それができない。できない代わりに、しないことに決めた。


 「ごめん」


 謝罪は、相手に渡す前に、自分を通る。通るとき、熱が出る。美咲は喉の奥に火の粉を感じた。


 「わたし、止めなかった。笑った。止めたふりを、上手にした。写真の真ん中に居続けた。——それを、正しいことだと言い聞かせた。間違いだった」


 誰かが小さく息を飲んだ。拍手の音はしない。拍手のための言葉ではない。


 「それと、『拡散』のこと。わたしじゃない」


 美咲は周囲を見た。疑いの目は、思っていたより少ない。みんな、既に自分を疑い切っているからだ。他人を疑う余白が残っていない。


 「送信者は、わたしの旧姓に似せた名前。漢字が一字、違う。わたし宛てのメールにも来てた。——誰かが、鏡の前でわたしたちを並べてる」


 「鏡?」


 男子の一人が、首を傾げた。咲良が白板にマーカーで四角を描く。四角の中に小さな円をいくつも描き、矢印を足す。教室の座席表のようで、SNSの相互矢印のようでもある。


 「誰かが、場を作ってる。鏡は、場を作る装置。映す対象がいないと機能しない」


 「誰が」


 「それを探すのは、今じゃなくていい」


 咲良の言葉は刃物のようにまっすぐで、刃の表面が意外なほど温かい。温度は責任の所在を誤らせない。美咲は頷いた。


 会議室の天井のスピーカーが、また微かなノイズを吐いた。前夜と同じ。誰かが顔を上げる。その隙を縫うように、スクリーンに新しい映像が映し出された。差出人不明。件名「鏡の記録/ホテル」。ラウンジの監視カメラ映像。無人の画面に、シャンデリアの光だけが生きている。フレームの端で、オブジェがほんの僅かに震える。時間が早送りになり、午前四時十二分。オブジェの中心で、光が一点、吸い込まれるように沈む。五時。カラン。破片が落ちる。床に接した瞬間、破片の反射面に、笑顔が一つ、乗った。結衣——ではない。似ている。だが、似ていること自体が、誰かの意図に見える顔。鏡に似せた顔。


 「これ、誰が流してる」


 誰かが吐き出す。質問の形をしているが、答えを望んでいない。答えは、鏡にしかない。


 「鏡って、怖いね」


 スクリーンの端に、テロップのように白い文字が浮かんだ。メールの最後の一文。誰の端末にも同じ表示。指先が勝手に震える。「割れた鏡の前でこそ、人は本当の自分を見つける」。


 「挑発だ」


 男子が叫ぶ。声が跳ね返って、壁にぶつかって小さくなる。怒りは早く冷める。冷めたあとに残るのは、羞恥と疲労。怯えは、長持ちする。


 美咲は、椅子から立ち上がった。膝がわずかに揺れる。十年前から残っている癖。揺れを止めるために、両手を前に組む。視線を、結衣と、大輔と、咲良に配る。配るという癖は、たぶん捨てられない。配り方だけを変える。


 「——わたし、鏡の前で正しい顔を作るの、得意だった。『中心』の役を引き受け続けて、みんなが安心する角度で笑った。安心のために、誰かの痛みを隠した。今、鏡が割れてわかったのは、わたしが見ていたのは、『わたしの顔』じゃなかったってこと。『役の顔』だった」


 結衣が、静かに頷く。彼女の頷きは、拍手みたいに自分を甘やかさない。確認だけをする動きだ。確認は、事実に与えられる最小の礼儀。


 「だから、今日からは——」


 美咲は一拍置いた。息の重さを測る。


 「鏡のない場所で、誰かの顔を見る。正面から、顔だけを。笑いも、役も、剥がれてもらう。そのために、まず、自分の顔から剥がす」


 「どうやって」


 誰かが問う。問うた声は若い。十年前と同じ声帯が使う音ではない。大人になっても、質問の温度は変わらない。


 「『ごめん』を、顔を作らずに言う。『ありがとう』を、受け取らせようとせずに言う。『怖い』を、隠さないで言う。——その練習を、今、する」


 美咲は結衣に向き直った。鏡がない。ここにあるのは、ガラスでも画面でもない、眼球の湿りだけ。顔の表面に載せるものが何もない場所は、寒い。


 「結衣、ごめん」


 言い終えて、口角が勝手に動く癖を、奥歯で押さえた。笑いに化けさせないために、筋肉の裏側で抑える。喉に熱が立ち上がる。泣きそうになる。泣きそう、という言葉は便利だ。泣いたと言わないための緩衝材。今日は、その緩衝材も使わない。


 結衣は、すぐには何も言わなかった。沈黙が、ゆっくりと部屋に沈む。沈んだ沈黙は、底に柔らかい。やがて、彼女は短く頷いた。


 「見えたね」


 その一言で、呼吸が戻る。見えた。見えなかったものが、見えた。鏡の外で、見えた。鏡に頼らず、見えた。


 会議が終わり、階段を降りると、駅前のガラス張りのカフェが夕日を正面から受けていた。窓に人の影が何重にも重なる。ガラスは鏡ではない。けれど、夕方の特定の角度を得ると、鏡のふりをする。ふりをするものに、私たちはよく騙される。ふりをするものに、救われることもある。


 その夜、美咲は家のリビングで、ノートを開いた。白い紙に黒いペン。スマホの代わりに、紙の上で言葉を選ぶ。選び直す。書き直す。消しゴムは使わない。二重線を引いて残しておく。間違いの形を、残す。十年前、あの日に必要だったのは、きっと、こういうやり方だった。


 外から、遠い救急車の音。誰かの夜が割れたのかもしれない。人の夜は、思っているより簡単に割れる。割れた夜をつなぐのは、朝の単調さだ。単調さは、壊れたものを包む毛布になる。


 スマホがテーブルの上で震えた。結衣からのメッセージ。


 『明日、会える? 鏡のない場所で』


 『会えるよ』


 送信した指先が、少しだけ軽くなる。重さはなくならない。ただ、持ち方が変わるだけだ。


 眠る前に、洗面所の鏡の前に立つ。照明を少し落とす。自分の顔を、誰のためでもなく見る。笑わない。泣かない。顔から、役が剥がれていくのを想像する。想像は練習になる。練習は、いつか技術になる。技術が癖を置き換える日が来るまで、繰り返す。


 寝室に戻り、ベッドに潜り込む。カーテンの隙間の夜は、昨日より深い。深さは、遠くを見せる。遠くに、割れた鏡のオブジェがある。破片の一枚一枚に、小さな顔が映る。どれも、自分じゃない。どれも、自分だ。上から目を落とす笑いも、下から目を上げる泣きも、全部、いつかの自分の可能性。


 「割れた鏡の前でこそ、人は本当の自分を見つける」


 メールの最後の文が、眠気の縁で反芻される。脅しでも、呪いでもなく、課題として響く。課題は、締切があるから、着手できる。締切は、朝だ。朝は、鏡より正直だ。


 目を閉じる直前、スマホが小さく光った。非通知。画面に浮かぶ文字は、短い。


 「割れた夜へ、ようこそ」


 美咲は、返信をしなかった。返事は、明日の顔でする。鏡のない場所で。役を剥がした顔で。笑わない口で、笑わない目で。ただ、見えるものだけを見るために。


 第5話 「映る顔」


 ――罪は、鏡のように返ってくる。


 ニュースアプリの見出しは、昼休みの社員食堂で、温めすぎたスープの表面に走る薄い皮のように、静かに破れた。


 「女性死亡。ホテル客室にて心停止。自殺とみられる」


 小さな黒い文字は、湯気の向こう側で意地悪なくらい読みやすい。画面をスクロールする指先の皮膚が乾く。記事の本文に添えられているのは、夜のホテル外観と、白いシーツの角だけが見えるぼかし画像。名前の欄に、結衣の二文字を見つけた瞬間、舌の奥で金属の味が生まれ、スープの塩気がどこかへ消えた。


 死因は心停止。薬物反応なし。発見は午前五時台。通報者は清掃員。客室は施錠。争った形跡なし。置き手紙もなし――記事は、ないものばかりを数える。最後に付け足された一文が、胃の底を冷たく撫でた。


 「客室内に鏡は設置されていなかったという」


 鏡のない部屋。ホテルの標準設備のはずの鏡が、不自然に欠けている。記事は淡々としているが、そこだけが噛み合わない歯車の音を立てる。


 スマートフォンの画面の上、通知が連なる。咲良からの短いメッセージ。「見た?」に続いて、「今夜、会おう」。美咲のアイコンは沈黙したまま。大輔のアイコンは点滅をやめ、既読がつかない。「鏡の記録」という件名のメールが再送されてくる。開かない。開けば、目から入ったものが脳に貼りつく。貼りついたものは、剥がそうとすると痛む。


 夕方、同窓のグループは急速に色を失った。投稿は消され、アカウントは鍵を掛け、あるいは削除され、名前の場所に残るのは空白だけ。空白は、最近よく見かける顔だ。美咲もまた、SNSのプロフィールを消した。削除のボタンは赤い。赤い色は、いつも人を急がせる。赤いボタンを押す指に、彼女自身が驚くほど迷いがなかったのは、逃げ道に慣れているせいかもしれない。


 夜、テレビが同じニュースを「続報」として繰り返す。ナレーションの声は、悲しみの定型を丁寧にトレースし、観る者の負担にならない角度で言葉を並べる。「自殺とみられる」という枕詞は、真実を軽くするための綿のようだ。だが、最後の一文――鏡がなかった――は、綿をすり抜けて骨に触れる。


 警察は、一つの疑問を抱いていた。なぜ鏡がないのか。持ち去られたのか。そもそも設置されなかったのか。確かめるための作業は地味だ。ホテルの設計図、過去の写真、清掃記録。紙と記録の山を動かすのは、人の手の熱だ。熱は、時間と一緒に風になる。風は、廊下の端から端へ匂いを運ぶ。匂いの出どころは、誰の胸の中にもある。


 同窓会の夜から続く異変は、静かにそれぞれの生活の中に降り積もった。大輔は、鏡のオブジェから落ちた小さな破片を、ポケットに入れたままだった。熱で微かに曇りが浮かぶ加工が施されたガラス片は、指の腹に当てると温度を持ち、自分の皮膚の湿りを喰う。日中、その破片の存在を忘れて仕事をし、帰宅してジャケットを脱ぐと、カランと軽い音が床に落ちて思い出させる。拾い上げるたび、指先が自分の顔を滑る。小さな破片は、どこにでも顔を映した。


 「お前は、結衣なのか?」


 大輔はある夜、洗面所の鏡の前で問うた。言葉は、湿度の高い夏の空気に吸われ、鏡の表面で薄くなる。返ってきたのは、低い声だった。鏡のどこから出ているのかわからない声。耳の内側と、胸の内側と、鏡の向こうが同時に鳴る。


 「違うよ。あなた自身だよ」


 短い文が、長い沈黙を切った。大輔の胸の中で、十年前に言えなかった「やめろ」が、今になって別の形で返ってくる。返ってくる言葉は、受け止める手のひらの筋肉を必要とする。筋肉は鍛えられる。鍛え方を教えるものは、たいがい遅れてやってくる。


 彼は震える手で鏡を叩き割った。拳の皮膚が、ガラスより先に切れた。血は、すぐに出る。破片は、遅れて落ちる。音が連なる。ひとつ、ふたつ、みっつ。床に散らばった破片の一つ一つに、顔が残る。歪んだ顔。涙で濡れた顔。笑いの筋肉が癖で動いたときの、あの腹立たしい角度の口角。割れば消えると、思っていた。割ることで、分割払いにしてしまっただけだと、破片の数が教える。


 美咲は、SNSを断ってから、言葉を紙に戻した。ノートは、誰にも見せない場所に置いた鏡だ。紙の上で「ごめん」と書くと、顔を作らない「ごめん」になった。けれど、夜、洗面所で歯を磨こうと鏡を見るたび、背後に誰かが立っている錯覚がした。振り向いても、誰もいない。錯覚は、疲労の一部だ。錯覚を責めると、疲労は増える。許すと、疲労は居座る。


 彼女はとうとう、鏡を布で覆った。家族には「子どもがぶつかるから」と言った。嘘ではない。嘘を言うのは得意ではない。上手な言い訳は、長年の中心の仕事で身についた、生活の技術だ。生活の技術は、罪からも平常からも、同じように彼女を守った。


 ニュースは、結衣の死亡を事件性なしと判断した、と報じた。だが、ホテル側はコメントを控え、警察は鏡の件については言及しなかった。咲良は、それらの空白だけを並べて、自分の手帳に書き写した。空白は、残さないと見えない。見えるようにすると、埋めないと気が済まなくなる。彼女は空白を空白のまま保存する習慣を、昔から持っていた。


 通夜の席には、同窓会の数名が現れた。黒い服は、誰の影も増やさない黒だった。祭壇の写真は、結衣の仕事の顔ではなかった。プライベートの顔。少し髪が乱れて、意図していない光を受けている。指の先端に、わずかな毛先の反射。見えなくてもいい細部が、親しい人には見えてしまう。見えてしまうものが、離別の証拠になる。


 式が終わりに近づく頃、遅れて来た大輔が、喪服のポケットから小さな箱を出した。僧侶の読経の合間にそんなものを持ち出すこと自体が、ふさわしくない。けれど、ふさわしさを守ってきた結果が、今だとしたら。彼は小さな箱の蓋を開け、割れた鏡の破片を取り出した。床の光を拾って、破片は一瞬だけ小さな星になった。


 「何してるの」


 美咲の声は、叱責に似た低さを持っていた。大輔は、破片を指の腹で押さえながら、声を出した。


 「これ、返したくて」


 「誰に」


 「……俺に」


 破片の上で、彼の笑いが揺れる。笑いは、彼のものだ。笑いが、彼を笑う。


 翌日、警察署の来客記録に、咲良と美咲と大輔の名前が並んだ。事情聴取。形式の整った部屋で、形式の整った質問を受ける。形式は、人を守るための枠だ。枠の中で、話しやすくなる人もいれば、話せなくなる人もいる。


 「彼女の部屋に鏡がなかった理由に、心当たりは」


 「ないです」


 「ホテル側の標準では設置されています。ただ、当該室には見当たらなかった。撤去された可能性は」


 「……わかりません」


 警察官の目は、責めるでもなく、許すでもない。視線は、事実の輪郭を探す道具だ。人は道具に映る。映った顔は、鏡の顔ほど親切ではない。必要な情報以外は、容赦なく切り捨てる。切り捨てられた顔の欠片は、帰り道に風に当たって冷える。


 夜、三人は駅前のベンチに並んだ。コンビニの明かりは、誰にとっても公平だ。公平は、慰めにはならない。慰めの代わりに、判断を促す。


 「結衣、鏡のない部屋にいたんだよね」


 美咲が言う。返答を急がない声。急がないほうが、長く続く。


 「鏡がない場所で、何を見てたんだろう」


 「わたしたちじゃない?」


 咲良が答える。断定のない断定。答えのない答え。


 「……大輔」


 美咲が、彼の手の甲に視線を落とした。薄い擦り傷。ガラスの細い歯が残した記憶。


 「叩いて、割った。俺、叩いて、割ったら、消えると思って」


 「消えないよ」


 咲良が、淡々と続けた。


 「割ると、増える。見える角度が増える。逃げられる角度も、増える」


 ベンチの背もたれに頭を預けると、夜空の黒は均一ではなく、かすかに濃淡がある。濃いところには雲が薄くいて、薄いところには誰かの呼気が混ざっている。呼気は見えない。見えないものを見ようとすると、目は疲れる。疲れた目は、涙を作る。涙は、見えない境界を見えるものに変える。


 家に帰ると、各々の家の洗面所に覆いがかかった鏡が待っていた。美咲は布をそっとめくる。ガラスの表面が、自分の顔を探しているように見える瞬間がある。探される側の不安は、探す側の不安に似ている。似ているものは、思いやすい。思いやすいものは、欺きやすい。


 その夜、大輔のスマホに、非通知の番号がまた現れた。眠る前の意識は、子どものころの足音に似て軽くて、扉の向こうに何かが立っていても驚かない。


 「——聞こえる?」


 「……聞こえる」


 「あなた、今日、割ったね」


 「昨日だ」


 「昨日の今日だよ」


 「お前は、結衣じゃないんだろ」


 「違うよ」


 「じゃあ、誰なんだ」


 「あなたの目に映る、あなたの声」


 「俺は、俺の声を、信用できない」


 「信用しないで。記録して」


 電話の向こうで、紙がめくれる音がした。ノートの紙の薄さ。手で触れたときの、あの無抵抗な肌触り。人に優しい質感は、真実にも優しいと思いがちだ。真実に優しい紙は、嘘にも優しい。優しさは、中立ではない。


 翌朝、ポストの中に茶封筒が入っていた。差出人はない。中にあったのは、A4のコピー数枚。ホテルの客室の備品一覧。そこに小さな手書きの赤字。「鏡:撤去 7/—」。日付は、同窓会の夜の前夜。備考欄に「客の要望」とある。客は誰か。記録はそこまでしか映さない。


 咲良は、ホテルに問い合わせた。ホテルの声は、慎重さを内蔵して出荷されたような、角の丸い話し方を選んだ。


 「個別のご宿泊に関することは申し上げられません」


 「鏡が撤去された理由は」


 「安全上の配慮、とだけ」


 「誰の」


 「安全上の、です」


 美咲は、その会話の記録を聞きながら、台所で皿を拭いた。ふきんの繊維が水滴を均等に吸い、皿の表面は、つややかになる。光の輪が、静かに広がる。皿は鏡になりたがる。皿の底に映る顔は、いつも歪んでいる。歪みは、器の曲線のせいだ。器の形のせいにできる歪みは、まだ優しい。


 「私、思うんだけど」


 夜の通話で、美咲が言った。


 「結衣、鏡を撤去させたんじゃないかな。鏡があると、誰かの顔を練習しちゃうから。練習できない場所で、自分の顔を見たかったんじゃないかな」


 「自分の顔」


 「役じゃない顔」


 「役じゃない顔を、わたしたち、持ってる?」


 「持ってなくても、持とうとすることは、できる」


 それぞれの家の天井が、言葉を受けて、黙る。天井という沈黙の装置は、昔から同じ高さにある。


 やがて、葬儀の翌週、結衣のサロン仲間から、美咲宛に小包が届いた。白い箱。蓋を開けると、カードが一枚。「遺品の中に、あなたとわたしたち宛の封筒がありました。結衣が書きかけていたものです」。封筒の中に、折り目の多い便箋。最初の行は、躊躇の跡で薄く、途中から筆圧が増している。読み始める指先の皮膚温が、紙にわずかに映る。


 ——


 『鏡の前で笑えるようになる日を夢見ていた。


  仕事でたくさんの笑顔を作った。笑顔には種類がある。髪の色を一段明るくしたときの笑い、前髪を五ミリ切っただけで生まれる安堵の笑い、別れのための笑い、出会いのための笑い。鏡の前で、わたしは他人の笑いを上手に手伝える。でも、自分の笑いは、どこに置けばいいのかわからなかった。


  十年前のわたしが、机の下から見ていた天井は、今も目を閉じると出てくる。あの天井の蛍光灯の明かりの下で、わたしは一度も笑っていなかった。笑っているふりをしていた。泣いているふりもしなかった。ふりの種類が増えれば増えるほど、本当がどこにあるのかわからなくなる。


  鏡が怖いのは、鏡が正直だからじゃない。鏡が、映したくないものまで忠実に映すからでもない。鏡が「練習場所」になるからだ。練習は、上達のためにある。上達は、ときどき、真実から遠ざかる。


  鏡のない部屋に泊まってみた。ホテルの人は驚いて、何度も確認した。わたしは笑って、お願いします、と言った。鏡がないと、人は自分の顔を他人の目で確かめようとする。窓ガラス、黒いテレビ画面、スマホの暗転した画面、スプーンの背。どれも不正確だ。歪む。他人の目は、そういうものだと思ったら、少しだけ気が楽になった。


  鏡を撤去しても、わたしの中の鏡は撤去できない。目の裏に貼りついた鏡は、何度でも勝手に光る。その中に、あの日の教室が映る。あなたの笑いも映る。わたしの沈黙も映る。沈黙が暴力だったことは、何度でも学び直すことができる。だけど、あれから十年、わたしは「沈黙しない」以外の方法を、あまり上手に覚えられなかった。


  最近、やっと気がついた。わたしたちは、誰もが誰かの“いじめ”を映す鏡だった。映っている間は、映されていることに気づきにくい。映し続けることも、罪になることを、鏡は教えてくれない。鏡は役割を果たすだけだから。だから、学ぶのは、わたしたち自身の仕事だ。


  わたしの中のもう一人は、笑えなかった。笑えないもう一人は、いつも正しかった。笑わない顔で、わたしを止めた。止まったわたしは、役に間に合わなかった。役に間に合わない顔は、社会に向いていない。向いていない顔で生きることを、わたしは上手に練習できなかった。


  もし、これを読んでいるあなたが、鏡の前で笑う練習をやめたら、どうなるだろう。きっと、少し怖い。きっと、少し自由。自由は、責任の形をしている。責任は、あなたの顔に似ている。似ているものは、怖い。怖いものは、たいてい正しい。


  わたしは、鏡のない場所で、だれかの顔を見たい。役じゃない顔を、見たい。見えないときは、見えないと言いたい。見えないと言うことは、負けではない。わたしは、その練習を、やっと始めるところだった。


  ——この紙を残すことが、練習の続きになりますように。』


 ——


 便箋は、そこで途切れていた。最後の行の終わりに、インクの滲みが小さく残る。紙が呼吸をしている間に置かれた小さな涙の跡かもしれないし、ペン先のインクが零れただけかもしれない。意味を決めるのは、受け取った側の顔だ。


 咲良は、手紙の最後の余白に、自分の字で一行だけ書き足した。「読みました」。それ以上の言葉は、役の台詞になってしまう。役の台詞を鏡が喜ぶ。鏡に喜ばれる台詞は、現実には効かない。


 夜、三人はそれぞれの場所で、鏡を覆う布を少しだけずらした。映るのは、疲れた顔。嘘を練習していない顔。笑わない口。笑わない目。見えるものだけを見る練習を、ゆっくりと始める。練習は、間に合わないことがある。間に合わなかった練習は、無駄ではない。無駄という言葉は、誰の鏡にも映らない。


 最後に、メールが一通届いた。「鏡の記録」の差出人から。件名は空欄。本文は短い。


 「あなたの鏡は、割れていませんか?」


 画面の前で、それぞれがそれぞれの顔で、読み、閉じ、息をする。鏡のひびは、光の当たり方で見えたり見えなかったりする。見えないひびは、ないことにはならない。見えるひびは、痛いことにする。決めるのは、こちら側だ。


 ——


 遺稿(結衣)


 『鏡の前で笑えるようになる日を夢見ていた。

 

  でも、もう一人の私は笑えなかった。

  

  わたしたちは、誰もが誰かの“いじめ”を映す鏡だった。映すことをやめるのは、映されることより難しい。鏡を割っても、破片の一つ一つに顔が残る。罪を割っても、消えはしない。それでも、割れた破片の角で、別の誰かの手を傷つけないように、布で包むことはできる。布で包むことを、練習したい。練習の途中で、振り向けなくても、手だけは布に伸ばせるように。』


 “あなたの鏡は、割れていませんか?”


 <了>

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