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翌日、早くもエドモンドから連絡がきた。
電話の内容は、エドモンドが母マチルダにフォスター家のこととアイリスが来ていることを話すと、すぐに連れてきてほしいと強く言われたとのことであった。アイリスはあまりにも早い展開に、しばし電話口でぼうぜんとしてしまったのは仕方がないことだと、あとで自分を慰めるほどの衝撃であった。
エドモンドの声はとても疲れており、本人もマチルダから怒られたことを告白し、アイリスに心から謝罪した。エドモンドの家族を守ろうとする気持ちはアイリスにもわかるので謝罪は必要ないと思うのだが、エドモンドの声音から大叔母マチルダはかなり強い女性のようであった。逆にアイリスは会うのが怖くなってきた。
アイリスはバルフォアドと相談し、まずはアイリスだけで会いに行くことにした。バルフォアドは、あと二日は動かないほうが良いと言われていたからだ。アイリスはエドモンドと面会した日から二日後マチルダと会うことになった。
「アイリス、ありがとうございます。母はせっかちですので、早く会いたがっていました。自分がホテルに会いに行くと言うので、一応、アイリスの都合もあると止めるのが大変でした」
ホテルまで迎えに来たエドモンドはアイリスを車に乗せて、マチルダが住む屋敷に向かった。
「いいえ、ここに来た目的が大叔母様と会うためですので、早くに叶ってうれしいです」
「母には合わせないと言っておきながら翌日にはこのようなことになって、恥ずかしいかぎりです。本当に謝罪しかありません。そう言っていただけてよかった」
エドモンドの姿から大家族の長男の憂いが見え、アイリスはそんな姿も好ましく思った。マチルダが住む屋敷は商業地区から少し離れ、上流階級のものたちの屋敷が立ち並ぶエリアにあった。
「この辺りはすばらしい屋敷が多いのですね」
エドモンドが運転する車は大きな屋敷が多い住宅街に入り、その中でもひときわ広い敷地と大きな屋敷の門へと入っていった。二階建ての白い建物は真新しく、各部屋にはバルコニーがついており、デザインの美しい屋敷であった。庭園も美しく整えられ、左の方にはガラス張りの温室らしきものもあった。
大きな玄関口の前に車を止めると、すぐに玄関からエプロンをした中年の女性が出てきた。エドモンドはアイリスを降ろすと、玄関の前から車を動かしてからすぐに戻ってきた。彼は慣れた雰囲気で車の鍵をエプロンの中年女性に渡すと、アイリスを連れて中へと入った。
「あの、なぜ、車の鍵を渡したのですか?」
「ああ、彼女は夫とともにこの屋敷に住み込みで働いてもらっているのです。車はあとで彼女の夫のブライアンに移動してもらうためですよ」
アイリスが泊まっているホテルよりも立派な屋敷の調度品や内装に、マチルダがとても裕福に暮らしていることが嬉しかった。玄関には二階に上がる階段が左右につき、一階をまっすぐ進んだ先に両開きの扉と階段を通り越して庭に出られる廊下になっており、いくつもの扉が見えた。
正面にある両開きの扉の前にはエディオン海運の本社であった男性が立っており、エドモンドは三男のダニエルを紹介してくれた。
「妹たちもいるのですか?」
「止められなかった」
ダニエルは男らしい顔を歪め、ものすごく苦い顔をした。
「それは、それは‥‥」
「母の実家の者と聞いて、いきり立っている。母も困惑していた。弟たちも怖い顔で待ち構えている」
「全員いるのですか?」
「いる」
エドモンドは深くため息をつくと、アイリスへと振り返った。
「すみません。弟たちと妹たちが全員そろっているようです。弟と妹たちには口出しさせません。ダニエル、もしものときは強制的に連れ出してください」
「わかった」
長身のダニエルが怖い顔で頷いた。アイリスは複雑な気持ちで二人を交互に見て、二人を安心させるために少しほほ笑んだ。最初のエドモンドの反応から、マチルダの子供たちがフォスター家のどのように思っているのか理解している。アイリスに対してもよい態度ではないことも、ある程度覚悟していた。自分の母親が長年苦しめられてきたことに憤らない子供はいないだろう。
扉の先は控室のような部屋になっており、さらにその奥にもう一つ扉があった。アイリスはエドモンドとダニエルとともにさらにその奥の扉を開いて中へと入った。
その部屋は居心地のよさそうな家族が団らんするリビングになっていた。かなりの広いリビングであるに関わらず、さすがに男女八人の若者たちがそろうと圧巻であった。ソファはコの字に置かれ、一番奥のソファに一人の初老の夫人が座っていた。夫人の左右には夫人を守るように二人の女性が座っており、夫人を中心に左のソファには十五歳ぐらいの若い女の子と一番年が幼い可愛い男の子が並んで座っていた。この中で一番若い二人は二人ともエドモンドと同じくせっ毛の銀の髪に青い瞳をしていた。その可愛い男の子の隣には、凶悪な面構えでソファにふんぞり返っている次に若そうな男の子がいた。
兄弟たちは全員端正な容貌をしており、こげ茶の髪と青い瞳が五人いて、銀の髪は三人と分かれていた。八人の兄弟の中で長男のエドモンドが一番フォスター家の血を引いているのだと思った。フォスター家の特徴は銀髪に銀とグレーの瞳、そして白皙であるからだ。
そして、アイリスは中央にいる大叔母マチルダの顔を見た瞬間、胸が苦しくなった。
「お母さん、彼女がアイリス・フォン・ディーンマーク嬢です」
エドモンドとともにソファの近くまでいくと、エドモンドはマチルダに紹介した。そのとき、マチルダの左に座っていた女性がソファから立ち上がった。青い瞳が強くアイリスを睨み、不満を隠さなかった。
「エドモンド兄さん、いまさらあの家に関係しているものを家に上がらせるなんて、納得がいかないわ!」
その言葉にエドモンドの眉がぴくりと上がり、アイリスは息を飲んだ。
「ミア姉さんと同じ気持ち。私も嫌だわ。お母さんの気持ちを考えたら、こんな話を断ってほしかった」
銀の髪のあどけなさを残した少女が不満そうにアイリスを見てそういうと、マチルダの右側に座っていた女性が小さくため息をついた。
「二人とも静かにしなさい。お客様の前よ」
「でも、姉さん」
二人は不満そうに言うと、一番年長者であろう女性は強張った顔でアイリスを見た。
「二人の気持ちはわかります。私もあの家の者は許せませんから。兄が私たち兄弟に相談せずに勝手に話をつけてきたことにも不満ですけど」
男性たちは何も言わずにエドモンドとアイリスを見た。ある程度はわかっていたが、アイリスに向けられた敵対心は強かった。
不穏な雰囲気と重い気持ちでアイリスはマチルダに目を向けると、マチルダは蒼白な顔でアイリスを凝視していた。今にも失神しそうな蒼白な表情にアイリスも胸が痛くなる。ニューキャッセスに来ない方がよかったのではないか、そんな後悔で胸が塞がった。
「エミリー、ミア、クロエ。あなたたちは何か勘違いしているようだ」
エドモンドの冷静な声にアイリスははっとなり、エドモンドの方を見た。兄の冷たい視線と言葉に三人の妹たちも息を飲んだ。
「だって!」
「クロエ。いや、クロエだけではない。エミリーもミアもあなたたちをこの場に呼んでいませんよ」
「お母さんの心配をして何が悪いのかしら」
ミアと呼ばれた女性がそう返すと、エドモンドは小さくため息をついた。
「この場に全員いますからはっきりと言います。この場は母の望みによりアイリス嬢に来ていただいたのです。あなたたちは呼ばれもしない部外者です。この場に来て、いろいろという資格はない」
最初に噛みついてきた二人の女性が怒りを滲ませ、それぞれ口を開こうとしたとき、これまで黙っていたマチルダの声が響いた。
「エドモンドの言う通りよ。あなたたちは呼んでもいないのに勝手なことばかり言うなんて、恥ずかしいことだわ」
「お母さん!」
マチルダは子供たちを見回した。
「私が会いたいといったの。私が願ったことなのよ。あなたたちが私の心配をして言ってくれているのはわかります。でも、何もしらないで彼女に怒りを向けるのはゆるさないわ」
エドモンドからエミリーと呼ばれた女性は母の怒りを感じたのか、とりなすようにマチルダの手を握った。アイリスはあの女性が長女のエミリーかと真面目そうな女性だと思った。そして、今もこちらを睨んでいるのが次女のミアであろう。そして、一番若い銀の髪の女の子が三女のクロエということだ。
「お母さん、何も知らないなんて、私は知っているわ。お母さんが苦労したことを。何度も手紙を送って返事も帰って来なくて、あちらの貴族たちにあからさまな侮辱をうけたことを知っているわ。すべてはフォスター家の者たちのせいではありませんか」
エミリーの訴えにマチルダの顔が険しくなり、唇を噛みしめた。
「違うわ。あなたたちにはっきりと言っておきます。私はそれだけ許されないことをしたのよ。両親や兄が私と断絶したのは当然のことよ」
「駆け落ちしたぐらいで‥‥」
ミアの言葉にマチルダは苦笑した。
「ミア、この国でも駆け落ちしたぐらいでと軽くは言わないわよ」
「でも、ゆるさないで貶めることばかり言うことはないでしょう?」
エミリーの憤りに、エドモンドはパンと手を叩いた。全員が驚いたように長兄を見た。
「お客様に失礼ですね。アイリス嬢。大変失礼しました。どうぞこちらに」
そっとエドモンドに手を取られると導かれるように夫人の前にきた。
「あなたがアイリスね。ああ、なつかしい。あなたのお父様のアンドリュー様と似ているわ。黒髪もその瞳もあなたはお父様にそっくりね。ディーンマーク家の色だわ。ああ、本当になつかしい」
夫人はほほ笑みながらアイリスに手を差し伸べた。アイリスはその姿に涙が込み上げて来た。ああ、本当にこの方は血縁なのだ。マチルダはどこか母のセシリアに似ていた。
十年前になくした母の面影に、アイリスは思わず涙をこらえて夫人の近くの斜め横のソファに座った。マチルダはソファから立ち上がり、ミアと席を変えてアイリスの近くに座った。ミアは不満そうであったが、母には何も言えないのか黙って従った。エドモンドもアイリスの隣に座り、ジョージにダニエルも座った。
「大叔母様、はじめましてアイリス・フォン・ディーンマークと申します。お会いできて光栄でございます」
マチルダはアイリスの手を握ると、噛みしめるように呟いた。
「兄の訃報をききました。ディーンマーク家のエドワード様とソフィア様はお元気ですか?」
アイリスはツンと鼻の奥が痛くなった。
「ディーンマークの祖父は二年前に、祖母は三週間前に亡くなりました」
マチルダの顔が歪み、そしてどこか懇願するかのような表情になった。
「あの方たちもいらっしゃらないの?」
震える声で尋ねられた質問に、アイリスはマチルダの言うあのお二人とはあの方たちのことだとすぐにわかった。フォスター家にいる方で祖父のジェームズ以外の人となると、祖父のいとこにあたる二人の女性しかいなかった。
「お二人とも二年前にお亡くなりになりました」
夫人の手が震え、そして涙が零れた。
「本当に、もうなつかしい方々は誰もいないのね」
その言葉はアイリスの心に突き刺さった。マチルダの手を握りながら、ようやくこの悲しみを共有できる人がいたのだと思った。アイリスにはこれまで祖父母たちを、父と母を悼む血縁者がいなかった。一人でこの痛みを耐えるしかなかった。
ようやくここに彼らのことを知る人がいた。知人でも使用人でもなく、肉親として思い出を共有できる人がいた。ようやくアイリスの瞳から涙が零れた。嗚咽がもれ、祖母を失った悲しみを吐き出すように悲痛な声で泣いた。
「わ、わたしだけが残りました」
マチルダは身を乗り出し、アイリスを抱きしめた。
「ああ、ごめんなさい。すべてあなたに負わせてしまった。多くの人たちを看取ることをあなたに負わせてしまった。まさかセシリアとアンドリュー様があのような事故に遭われるなんて、私はずっとあなたを心配していたわ。ずっとフォスター家のこともセシリアのこともあなたのことも心残りでした」
まるでこの部屋にマチルダとアイリスしかいないかのように、室内は静まり返った。誰もが言葉もなく二人の姿を見ていた。マチルダの言葉にアイリスは涙を拭き、少し息を整えた。
「今回、フォスター家がひどい態度を取っていたことを知りました。祖父は大叔母様のことを教えてくれませんでした。私は最近まで大叔母様のことを知らなかったのですよ。本当に祖父が悪いのです。知らなかったばかりに、祖父の葬儀も連絡できませんでした」
「そう、あなたに私のことを教えなかったなんて、兄らしいわ。でも、私はフォスター家にとても迷惑をかけた。若いころの私は甘やかされ何も知らなかった」
「いいえ、祖父はゆるすべきでした」
マチルダは頑なに首を左右に振った。
「ゆるされないことをしたの。なぜ、兄が私を許さなかったのか、あなたは知っておくべきだわ。そう、いい機会だわ。あなたたちも聞いてちょうだい」
そして、最後に八人の子供たちにも視線を向けた。マチルダは少し昔を思い出すかのように遠い目をすると、ゆっくりと話し出した。
「当時、私には婚約の話が出ていて、話が進んでいたの。私はお相手にも会っていたし、正式に婚約が決まる前だったわ。その婚約を嫌だとは思っていなかったけど、そのお相手の方を好ましいとも思っていなかったのよ。そんなときにニューキャッセスから来たサイモンに出会って、恋に落ちてしまった。家族には内緒でサイモンと会っていたの。私は家族に相談したら反対されると思っていたし、婚約をしてしまったらもう終わりだと思っていたわ。両親にも兄にも甘やかされて育ったから、今思えばとても無知でわがままだったのね」
今の知的な雰囲気の女性からは無知でわがままという言葉が想像つかなかった。
「父は私の行動に気がつき、屋敷に閉じ込めた。私は婚約が正式に決まる前にと焦って、両親に何も言わずに家を出てサイモンと駆け落ちした。情熱的な恋で燃え上がっていたし、私がいなければ婚約の話もなくなるだろうと思ったのよ。新天地へのあこがれもあったし、自由な未来がほしかった。私は貴族の娘が平民と駆け落ちしたということが、どういうことになるのか、まったくわかっていなかったのよ。貴族の婚姻を正式に婚約していたわけではないからと甘く見ていた」
貴族同士の婚姻には、必ず家同士の利益や政治的な側面を持っている。貴族であるものは多くの責任を伴っていた。アイリスはマチルダの言葉から、もしかしたらこの婚姻には家同士の何かしらの取引があったのではないかと思った。
「もしかしたら、婚姻する家と何かしらの取引がある結婚だったのでしょうか?」
マチルダは少し驚いた表情でアイリスを見た。
「あなたはしっかりと教育を受けてきたのね。今の話だけであなたはすぐに理解した。そのとおりよ。フォスター家は婚姻を結ぶ家と事業提携を行っていたのよ。フォスター家は当時事業における失敗のため資金繰りが厳しかった。この結婚によって相手の家から融資を得るはずだった。それが、その融資がなくなり、賠償金まで払わなければならなくなったわ」
「賠償金ですか?」
「正式に婚約を結ぶ前だったけど、貴族の中でこの婚約は知られていたのよ。これが、ただ婚約の話がなくなっただけならいいのよ。家同士の問題で話がなくなることだって普通にあるわ。問題なのは、相手が未開の地の者と駆け落ちしてしまったことなの。私が行ったことは相手の家に恥をかかせ、彼の評判に傷つけることだった。私は貴族社会の権威を甘く見ていた」
マチルダは苦渋の表情を浮かべた。マチルダは何か言いたげな三人の娘たちをじろりと見ると、苦笑した。
「あなたたちにはわからないかしら?こうなることは知らなかったのだから仕方がない。悪くないと言ってくれるかしら。家で決めた婚約なのだから、好きな相手のもとにいくのは当然だとね。でもね、知らなかったではすまされないことがあるのよ。取り返しのつかないこともある。私はそれをしてしまった」
マチルダはアイリスを再び見ると、どこか悲しそうな顔で唇を噛みしめた。
「あのお二人が、私の従妹の二人は最後までフォスター家にいらっしゃったのでしょう?」
アイリスはその言葉で取り返しのつかないことという意味を理解した。フォスター家にいる二人がなぜ結婚をしなかったのか。二人が年齢的にもマチルダとほとんど変わらないことから、その答えが見えてきた。
「お、お二人がご結婚されなかったのは、大叔母様の駆け落ちが原因なのですね。お二人は結婚しなかったのではなく、結婚できなかったのですね」
「そうよ。まさか、私の行動がこんな結果になるなんて思いもしなかった。当時、従妹の姉のジェシカは婚約をしていたし、妹のマリナは婚約が決まりかけていたのよ。私のせいで全部それがなくなってしまった」
三人の娘はその話にあぜんとした表情をした。
「ああ、フォスター家は金銭的にも困窮して持参金がなかったのですね。今よりも昔であればもっと封建的であったことでしょう。それに持参金だけではなく、フォスター家の名誉は地に落ち、そのような家と婚姻を結ぶ家はなくなってしまった。フォスター家の叔母様たちは、婚約がなくなったあとも結婚の道がたたれてしまったのですね」
アイリスが知る二人は、いつも寂しそうな顔をしていた。マチルダのことを両親や兄である祖父が許さなかった理由がようやくわかった。フォスター家に住む二人の従妹のためにマチルダを屋敷に入れるわけにはいかなかったのだ。
マチルダは力なく視線を下に向けた。
「それだけではなく、フォスター家に多くの不幸が起こったわ。私の駆け落ちで騒動になっていたときに、兄は病気で子供を亡くしたの。あなたの母セシリアの兄で、まだ十歳だったわ。大人たちの目は子供に向けられていなかった。異変に気がつかずに高熱で倒れたときには手遅れだった。両親も兄夫婦も立ち直れないほどのショックを受けた。私の浅はかな行動のために、多くの人の人生を狂わせてしまった」
「そんなことが‥‥」
アイリスは呆然と呟いた。本当に知らないことばかりであった。
「私はニューキャッセスに渡ったあと、こちらでの生活が大変だったから家に助けを求めたのよ。そのようなことになっているとは知らなかったから、当然、家族はゆるしてくれると思っていたし助けてくれると思っていたわ。でも、両親と兄は私をゆるさなかった。なぜこれほど家族が冷たいのか理解ができなくて、何度も手紙を送ったの。当時の騒動や現状をようやく知り、理解できたときには五年が経っていた」
そこまで話をすると、マチルダは顔を上げて自分の子供たちを見た。アイリスはようやく誰もいないのではないかと思うほどの静かな部屋に気がつき、同じように部屋の中を見回した。八人の子供たちは言葉なく話を聞き、そして衝撃を受けた表情で誰も声を出すものはいなかった。
「本当に私は愚かだった。あのようなことをする前に、反対されたとしても両親と兄に話すべきだった。今の私ならわかるわ。いくらでも知恵を使えば回避できることがたくさんあったでしょう。私が婚約を望まないのであれば、きっと兄なら味方になって知恵を出してくれたはずだわ。せめて、従妹たちが結婚するまで待てばよかった。駆け落ちなど一番の愚策なのよ。私は今でも自分自身がゆるせない」
マチルダの自分自身に向けられた怒りに、マチルダがフォスター家の厳しい扱いにも関わらず、何度も謝罪をしてきた理由がわかった。
アイリスはあの世界のことをよく知っている。今ではかなり自由な風紀になってきたが、四十年近く昔の話なら、まだまだ古い世襲が残っており、フォスター家は今では考えられないほど厳しい目で見られたことであろう。権威を重んじる貴族社会で婚約の近い娘が未開の地の者と駆け落ちするなど醜聞としか言いようがなかった。それにマチルダが言うようにご両親に話をし、正式に貴族から除籍し、家から絶縁された状態でニューキャッセスに行くのであれば、フォスター家は貴族社会の中でここまで厳しい対応を取られなかったはずである。
しかし、それももう四十年近くの歳月がたった。もう貴族の中で駆け落ちがあったことを覚えている者だっていないはずだ。そんな遠い昔の話を噂する者だっていない。なぜ、祖父は大叔母をゆるさなかったのだろうか。お互いにゆるし合えるほどの長い年月が経っていたではないか。
それに祖父のジェームズはフォスター家を継ぐ可能性がある者はマチルダの子供たちだとわかっていたはずだ。フォスター家の二人の叔母が亡くなった二年前にマチルダと和解していれば、マチルダも苦しむことはなかっただろうし、フォスター家の未来もつながっていたはずであった。
アイリスは、ふとフォスター家の執事から預かっていた箱を思い出した。祖父が最後まで手元に持っていた箱で、中に何が入っているかはわからない品物であった。執事はマチルダ様と開けてくださいといっていた。アイリスは今日祖父の形見としてマチルダにその箱を渡すつもりで持ってきていた。
「大叔母様、今日、祖父の形見をお渡ししようと思って持ってきたものがございます」
アイリスはそういうとバッグと一緒に持ってきた手提げかばんの中から布で包まれた箱を取り出した。少し大きめだがとても軽いもので、いったい何が入っているのか、少し振ってもまったく音がしなかったのである。
「兄の形見?」
マチルダはアイリスから布で包まれた箱を受け取ると、不思議そうな顔で布を外して奇麗な寄せ木細工の箱に触れた。箱のふたをあけると、中にはたくさんの紙が入っていた。
「紙?ただの紙ではなく、手紙だわ。それも、え?これは私の書いた手紙だわ!」
アイリスも箱の中の紙を手に取り、一番下はとても古いものから比較的新しいものまですべて手紙であることに驚いた。すべて封が切られており、何度も読んだ形跡があった。祖父はマチルダの手紙を読んで残していたのだ。それにいくつか祖父が書いた手紙も残されていた。
筆跡からして祖父が書いた手紙を一つとり、マチルダは封を開けて手紙を読んだ。読み進めていくと手紙を持つ手が震え、顔が泣き顔で歪み、小さくうめいた。
「大叔母様」
「兄は私の本心を知っていた。私が貴族のしきたりに縛られていることを窮屈に感じていたことも、貴族であることを幸せに思っていなかったことも知っていた。私がなぜ駆け落ちしたのかを知っていたのね」
マチルダの顔は深い悔恨に満ちていた。
「私が自由を手にするために駆け落ちしたことを知っていた。だからといって、こんなやり方をするなんて」
「お母さん、その手紙には何と書いてあったのですか?」
これまでずっと沈黙を貫いていたエドモンドがそうマチルダに聞いた。マチルダは自分の息子を見ると泣き笑いになった。
「最後まで私をゆるさず、連絡を取らなかったのは、もうフォスター家の重みを背負わせたくなかったから。兄はきっと自分の子供が全員亡くなったとき、自分の代でフォスター家を終わりにする決意をしたのね。もう別な世界で生きている私に戻れとは言えなかった。だからと言って‥‥最後の清算をアイリスに背負わせるなんて」
ああ、そういうことか。
祖父の考えがようやくわかった。祖父は最後のとき、うわごとでしきりと私にあやまっていた。それはフォスター家の財産の処分と爵位の返上を私に任せるしかなかったからだ。おそらく、祖父はずっと迷っていたのだろう。自分の代で終わらせると決意しても、どこか未練があり、なかなか手続きをすることができなかったのだ。アイリスには祖父の未練がわかるような気がした。
病状で体が動かなったときには遅かった。祖父はもう自分の力で財産の処分も手続きの複雑な爵位の返上もできなくなってしまった。エドモンドの視線が何かを言いたげにアイリスを見ていた。姉弟たちは複雑そうな表情で母親を見ながら、口出しすることができない世界のことに黙り込んだ。
「ちょっと待ってちょうだい。そうよ、今、フォスター家の資産や事業、爵位はどうなっているの?」
マチルダは不安な表情でアイリスを見た。
「フォスター家のものはすべて私が引き継いでおります。大叔母様にこのことをご相談したかったのです」
マチルダはぎょっとした表情になると、信じられないと言わんばかりにアイリスにつめよった。
「資産はともかく、爵位もですって?あなたがフォスター子爵だというの?」
「はい」
エドモンドだけではなく、ジョージやダニエルは驚愕した表情になり、まだ学生の弟たちやエミリーやミアたちもきょとんとした表情を浮かべていた。
「なぜ?あなたはディーンマーク家の‥‥まさか、あなたの祖父のエドワード様がお亡くなりになっているということは、ディーンマーク家の当主はソフィア様ではなく、あなただったということ?エドワード様がお亡くなりになったときに、あなたがディーンマーク家の爵位を得たということなの?」
「そうです。二年前に祖父が亡くなったときは、私は成人しておりました。そのためディーンマーク家を引継ぎしました。私は高位の爵位を持っておりましたので、フォスター家の爵位も引き継げました。先にディーンマーク家の爵位を持っていなければ、フォスター家の爵位を引き継げませんでしたわ。一旦は私がフォスター家の爵位を引き継いでおりますので、爵位をどなたかに渡すにしても返上するにしても大叔母様と決めたいと思っています」
「何てことなの。あなたが会いに来てくれてよかったわ。こんな大変なことがあなた一人の肩にかかっているなんて、本当に‥‥アイリス、ぜひ話し合いましょう。今のフォスター家の現状を教えてちょうだい。私は積極的にかかわるわ」
マチルダの言葉に周りにいた子供たちがざわめいた。何かを言いたそうにしていたエミリーにエドモンドがすぐに視線を向けると、エミリーは何も言わなかった。
「お母さん、もちろん私も一緒に加わらせてもらえますよね」
そのように言うエドモンドに、マチルダは意味ありげなまなざしでじっと息子を見つめると、少し疲れた表情で頷いた。
「そうね。エドモンドの力を借りた方がいいわね。それならエドモンドにはアイリスのことをお願いしたいわ。こちらに滞在中はアイリスを見てあげてちょうだい」
マチルダの申し出に、エドモンドの兄弟姉妹たちは三者三様な態度を見せた。面白がるもの、喜ぶもの、どちらでも良いと無関心な者、そして激しい不満を現す者。アイリスはそんな兄弟たちの様子を見ている余裕がなく、顔を赤らめエドモンドを見ていた。
「ええ、わかりました。私が気にかけておきますので、お母さんは安心してください」
「あの大叔母様、私は大丈夫です」
「いいえ、駄目よ。若い女性が見知らぬ場所に一人でいるなんて認められないわ。それにバルフォアドさんも動けないのでしょう。そうだわ、お二人にはこの屋敷に滞在してもらえばいいわ」
いい案だとマチルダは決定事項のように言った。アイリスはそんなマチルダの提案にうろたえながら周りを見回した。
「とても良い案です。そうしましょう」
にっこりと笑ったエドモンドの言葉で、アイリスがこの屋敷に滞在することが決まった瞬間であった。
「簡単には受け入れられないわ」
次女のミアが険しい顔でそう言うと、隣に座る姉のエミリーにつめよった。
「姉さんだってそう思うでしょう?」
エドモンドはこの場にいる兄弟姉妹たちの様子を眺めながら、アイリスのことばかりを考えていた。母はアイリスと二人で話がしたいと自分の部屋に連れていってしまった。おそらく兄のフォスター子爵の手紙を一緒に読み、フォスター家の者たちの話を聞きたいのだろう。
納得のいっていないミアと複雑な感情を整理できていないエミリーは、まだアイリスを受け入れていないようであった。三女のクロエは母の話を聞き、もうそれほどフォスター家に対してわだかまりを持っていないのか、あっさりとしたものであった。それは弟たちも同じである。特に社会人であるジョージとダニエルは完全にとばっちりとしかいいようのない立場のアイリスに同情していたし、まだ学生である年若い四男のイーサンと五男のマーシュは母が許しているのならいいのではないかという程度であった。
彼女自身の身元に関しては、母が間違いなくディーンマーク家の者で自分の姪の子供だと断言した。エドモンドは先ほど母と少し話をして、そこだけは確認をしていた。
「ミア、おまえは夢を見過ぎだ。母さんと父さんの駆け落ちを美化しすぎている」
ジョージの言葉にミアの目が釣り上がった。それはエミリーも同じで少し顔をしかめた。
「ジョージ兄さん、兄さんたちだって嫌っていたじゃない。お母さんの実家は最悪だって言っていたでしょう!」
「おまえは先ほどの話をしっかりと聞いていたのか?そのお母さんを非難していた人たちはもういない。彼女はフォスター家の者ではなく他家の人だ。もう昔のことをとやかく言う意味もない」
ミアの顔が醜く歪んだ。なぜ、そこまでミアは嫌がるのか、エドモンドは少し気になった。
「あのアイリスという人、貧しそうな身なりをしていたわ。あんな古ぼけた時代錯誤の服を着て、きっとお金に余裕がないのよ。フォスター家の遺産の話をしに来たと言うけど、きっとお金のかかる遺産なのでしょうね。私たちが豊かだからおこぼれに預かりにきたのよ。これまでの親戚たちのように。姉さんもそう思うでしょう?」
隣にいるエミリーに同意を求めると、エミリーは小さくため息をついた。
「エドモンド兄さんはどのように思っているの?」
「私は母の思うように手助けをするだけです。先ほどお母さんが言っていたが、この件はお母さんの問題だ。それと、ミア、そのように人のことを悪く言うにはやめなさい。あなたの言い方はとても傲慢ですよ」
ミアの顔が赤くなり、ぐっと黙り込んだ。姉弟の中で一番の長兄である自分には反論できないのだろう。ミアが子供のころはまだまだ貧しかったが、彼女が十歳になるころにはかなり裕福になっていた。そのためミアから下の妹弟たちは上流階級の中で育った。
ミアは貧しい者が好きではない。かつて自分が上流階級に入ったときに貧しい者として下げずまれ、その世界になれるのに苦労した経験がある。十歳という多感な時期でそのような体験をしたため、自分を誇示するようになってしまった。そして、ミアはあまり人の見る目がない。
エドモンドは、彼女が貧しいとはもう思っていなかった。彼女と食事をし、話したことで彼女に対する見方を変えていた。アイリスは自分が当主であると言った。貴族家の当主で爵位があり、そして相当の規模の事業を扱っている経営者である。彼女こそ見た目で判断してはいけない人であろう。
「この家に招待するのは、少しやり過ぎではないの?」
エミリーの困惑した表情にエドモンドは内心ため息をついた。長女のエミリーはフォスター家との確執を見てきたから複雑なのだろう。どうしてもあちら側にいる貴族階級のものを信じられないのだ。エミリーは貴族階級の者たちに良い感情を持っていなかった。
「母が決めたことです。私は反対する理由がない。それに彼女はニューキャッセスに知り合いがいないといっていました。今は腰を痛め動けない老人と二人なのですよ。都会で女性一人だけにするなど見過ごせないでしょう?」
エミリーは黙り込んだ。その頑なな表情にジョージとダニエルは小さく被りを振った。前途多難だと思ったのだろう。
「僕は仲良くするよ!面白そうだもん」
元気よくマーシュがにこにこしながら答えると、イーサンは仏頂面のまま肩をすくめた。
「別にいいじゃねえ。ここ無駄に広いし。別に仲良くするつもりはないけど、ミアみたいに文句いうつもりもない」
「エミリー、それにミアにクロエ。彼女は私たちとは血縁関係であり、はとこの間柄です。このような知り合いのいない場所に放っておいてよいわけがありません。彼女の味方は腰を痛めて動けない老人の弁護士だけです。この屋敷に滞在中は気にかけてあげてください」
もう誰もいないといった彼女の悲痛な言葉がエドモンドの心に響いた。アイリスは大切な肉親を亡くしている。大切な人を亡くす痛みを、エドモンドはよく知っていた。
彼女はたくさんの大切な人の死を看取ってきた。先ほど彼女が見せた孤独な姿に、エドモンドは彼女に対して持っていた疑惑は消えていた。
母と会ったときの子供のように泣く姿を見て、彼女がこの遠い異国まで来た理由は、ただ一人残った血縁者に会いたかっただけなのだと悟った。失った痛みを分かちあえるのは、失った人たちの思い出を共有できる母しかいなかった。その孤独な姿にエドモンドは彼女が気になってしかたがなかった。
「エドモンド兄さん。フォスター家の遺産の話し合いには俺たちも同席させてくれ」
普段口数の少ないダニエルがどこか楽しそうな声でそういうと、ジョージも同じことを口にした。
「もちろんです。おそらくフォスター家の遺産は一筋縄ではいかない案件ですよ。この件をどのように扱うか、あなたたちの成長がわかるというものですね」
にんまりと笑うと、二人の弟はお手柔らかにと言うように苦笑した。




