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アイリスは昨日の夜から寝付けなくて、今日は朝早くから目が覚めてしまった。
顔を洗い、いつも通りに身支度を整えると長い髪をしっかりと結い上げ、いつもの灰色のワンピースを着ると首元までしっかりとボタンを留めた。身だしなみ程度に薄く化粧をし、よく磨かれた黒い靴を履いた。
朝食をホテルのルームサービスで済ませると、祖母から譲られた黒いバッグを持つ。鏡の前で何度も髪型や服装を見ながら、しっかりとした淑女に見えるだろうかと最終確認を行う。
「とうとうこの日がきたわ」
アイリスにとっては、今日はとても大切な日であった。そんな大切な日であるのに、鏡の中の自分の表情は冴えなかった。どこか自信なさげにこちらを見ている女性は、今の自分の心情をありありと映していた。
アイリスは大きく深呼吸をすると部屋を出て、弁護士のバルフォアドが泊まっている部屋に向かった。
アイリスがどこか気が重く感じるのは、バルフォアドがベッドから動けなくなるという思いもよらないことが起こったからであった。
ホテルに着いて翌日、アイリスはバルフォアドの部屋を何度ノックしても返事がなく、ただごとではないと思いホテルのフロントに行き、部屋を開けてもらった。バルフォアドはベッドの中で起き上がれない状態になっていた。それからは医者を呼んで診察してもらったところ、急性腰痛症と診断され、当分安静を言い渡された。このままひどくなるようなら入院することになると言われ、処方された痛み止めと腰に湿布をはり、様子を見るように言われた。
この二日間、アイリスはホテル周辺さえ見て回る余裕もなく、医者の手配とバルフォアドの看護、そして本国にいる執事のロベルトに電話で頻繁にディーンマーク家の状況を確認することに費やした。
バルフォアドの部屋をノックすると中から老人の声を聞き、少し気持ちが楽になる。アイリスは預かっていた鍵でロックを解除し、室内に入ると、バルフォアドは青白い顔でベッドに横向きで寝ていた。
「本当に申し訳ございません」
「具合はどうですか?」
アイリスはベッドの側に行くと、老人をなだめるように少し笑顔をつくった。バルフォアドはベッドの中で少し体を動かすと、情けない顔でもう一度謝った。
「こんなときにぎっくり腰になるとは、本当に申し訳ない」
「痛みはどうですか?」
「大丈夫です。痛みもよくなってきました。それよりも今日という日に一緒に行けないなど、無念です」
悔しそうに顔を歪ませる老人に、アイリスは慰めるように腰をさすった。
「先生、大丈夫です。私が交渉してきます。エドモンド・クラーク様にこちらの事情をお話して、大叔母様が今どのようなご状況なのかを聞いてきましょう」
「アイリス様、今日はエディオン海運の本社ビルで十時に会う約束をしています。良い方向に話が進むことを願っています」
アイリスは頷いた。
エドモンド・クラークは大叔母であるマチルダの息子で八人兄弟の長男である。今年、二十八歳とアイリスの七つ年上で、五年前に父のサイモン・クラークが亡くなったことでエディオン海運のCEOに就任した。
大叔母のマチルダは二十歳のときにサイモン・クラークと駆け落ちしてニューキャッセスに移住した。何も持っていなかった二人はかなり厳しい生活を送り、長男エドモンドが生まれる十年もの間、サイモンの商売の成功のために二人は死に物狂いで働いたという。
サイモンの事業が軌道にのってきたことで、ようやく二人は子供を望み、生まれたのがエドモンドであった。サイモンの事業が軌道にのったといっても安泰なわけではなく、これまでかなり苦労して会社を伸ばしてきた。エドモンドのあとは双子が生まれ、そのあとも次々と子供を授かったが裕福だったわけではなく、上流階級の仲間入りをはたしたのはここ十年のことだという。
アイリスは昨夜にバルフォアドから大叔母マチルダの話を聞き、次第に気持ちが塞いでいった。いくら許されない駆け落ちであったとしても、フォスター家がマチルダに一切の援助をしなかったことに落胆した。
フォスター家は国内でも有数の資産家である。二人を許し、援助していれば、まずエドモンドが生まれる前の十年もそこまで苦労せずにすんだかもしれない。そして、そのあと子供たちが生まれたあとも援助せず、これまでフォスター家は一切の救いの手を差し伸べなかった。
まさか祖父がそこまで薄情なことをしているとは思いもしなかった。
今のクラーク家の財産はマチルダとサイモンの二人で築き上げたものである。サイモン・クラークはこれまでの無理が心身に堪えたのか、五年前に心臓発作で急死した。マチルダの子供たちがフォスター家に良い感情を持っていないのは当然のことのように思えた。
フォスター家の遺産が欲しいのであれば、バルフォアドから話があった時点でもっと友好的に話を進めてきたであろう。まだ一度もバルフォアドがマチルダと話していないという時点で、今日の話し合いがうまくいかない可能性もあると、アイリスは心の中で覚悟していた。
まずはエドモンドから大叔母マチルダに取り次いでもらい、フォスター家がどのような状態かを話だけでも聞いてもらえるようにお願いするしかなかった。そのうえで大叔母にフォスター家の資産をどうするのかを相談したかった。アイリスとしては爵位を含めフォスター家の資産をすべて渡してもいいと思っていた。
「それでは行ってきます」
バルフォアドは苦渋の表情を浮かべながら頷いた。
「アイリス様、今日だけで決着がつくとは思えません。もし、話し合いがつかなくても、後日に何度でも話し合いの場を設ければいいのです。とにかく無理はいけない。それだけはお忘れなく」
「わかりました」
アイリスは背筋を伸ばして、力強く返事をした。
エディオン海運の本社ビルは首都カサノバの中心地にあるオフィス街に建っていた。この辺りのビルは高層ビルが多いが、その中でもエディオン海運の本社ビルは三十六階でカサノバで一番高いビルだという。
アイリスはタクシーでエディオン海運の本社ビルに到着すると、玄関の前で三十六階建てのビルをただ見上げるしかなかった。セロースの王都にある一番高い建物は十八階だと聞いたことがある。それよりも倍の高さのある建物が目の前にあり、その光景はアイリスにとって非現実的であった。
「私は船で大陸を出てからずっと夢の中なのかしら。これはどう考えても、現実とは思えない」
今日は快晴であるはずなのに周りに高いビルばかりあることで空がよく見えず、太陽の光も陰っていた。自然の中で生きるアイリスにとって、周りのすべてが建造物で囲まれているこの場所に不思議な感覚がした。
エディオン海運はニューキャッセスの周辺を大型船で貨物を輸送しており、持ち船数は他の会社に比較にならないほどだという。客船の運行は行なっておらず、貨物の輸送のみとしていた。
「古き大陸への輸送にも力を入れているとのことだから、私たちに強い偏見を持っているとは思えないけど、どんな方なのかしら」
新しい大陸ニューキャッセスの人たちは、古き大陸の者たちに複雑な感情を抱いているという。かつては未開の地と呼ばれ蛮族扱いされたことによる劣等感の裏返しか、今は科学技術の進歩により近代化を推し進めてきたことにより古き大陸の国々を時代遅れの過去の遺物と見ており、人によっては強い差別もあるという。
アイリスは高層ビルを見上げながら、古き大陸と新しい大陸との間で生活の違いによる価値観の相違を実感していた。
近年の著しいニューキャッセスの通信機器の発展により、古き大陸と新しい大陸同士でも海を越えて通信を可能にした。アイリスが住む土地にも電話がつながり、自国内だけではなく、ニューキャッセスにもつながるようになった。これもすべてニューキャッセスの人々の技術なのだ。
これから会う人はそんな最先端の思考と価値観を持っている人だ。自分の常識が通用しない可能性を念頭に置き、大きく息を吸い込んで一歩を踏み出した。
アイリスはビルの中へと入ると、広々としたエントランスにある受付に向かった。受付には二人の美しい女性がおり、アイリスは背筋を伸ばして受付の前に立った。
「私はアイリス・フォン・ディーンマークと申します。エドモンド・クラーク氏と十時に面会の約束をしております。お取次ぎをお願いします」
二人の受付嬢は怪訝な表情になり、その後あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
「お取次ぎはできません」
金髪の受付嬢が調べもせずにそっけなく答えた。
「私はお約束をしております。なぜ、取次をしていただけないのでしょうか?」
美しい顔がより険しくなると、見下すような視線を向けてきた。もう一人の黒髪の受付嬢も眉をひそめ、同僚を止めることはしなかった。
「あなたのような女性がCEOに会わせろと言うなど、警備の者を呼ばれたくなければ帰ったほうがいいわよ」
アイリスはその返答に息をのみ、自分が侮られてこのように言われるのだと悔しい思いになった。しかし、ここは会社の顔である受付である。どのような人が来ようとこのような対応がゆるされるとは思えない。
「私は約束をしているのです。一度、確認をしていただけないでしょうか?」
「お手間を取らせる必要を感じられないわ。あなたのような女性はとても多いのよ。貧乏くさい服装で来て、物乞いか何か?知り合いだとか、会いたいとか図々しくも来て騒ぐのだから迷惑をしているのよ。さっさと帰ってください」
金髪の受付嬢はそう告げると、態度を変えずに取り合わない。隣にいるもう一人の受付嬢もちらりと同僚を見たがやはり何も言わなかった。まさかこのようなところでひどい対応を受けるとは思っておらず、さすがにアイリスも不愉快な気持ちになった。
帰れと言われても、そういうわけにはいかない。この機会を逃せば、次に会う約束がとりつけるかどうかわからないのだ。
アイリスは冷静に諭すように言葉を重ねた。
「お待ちください。私はあなたが思っているような者ではありません。弁護士を通じてエドモンド・クラーク氏とお約束をしているのです。確認だけでも取るべきではありませんか?」
「執拗で恐ろしい人。帰らないというのなら、警備員を呼びます」
金髪の受付嬢は有無も言わさず受話器を取ると、その場で不審者がいると連絡をした。その対応にアイリスはさすがにあぜんとした。あまりにも強引な手段だったからだ。アイリスは騒いでもいないし、取次を頼んだだけで警備の者を呼ぶなど行き過ぎた行動であった。警備の者が来て、ここで騒ぎになれば対面が傷つくのはこの会社のほうである。それは隣にいるもう一人の受付嬢も感じたのだろう。さすがに止めようとしたが、金髪の受付嬢は強固な姿勢を崩さなかった。
アイリスもさすがにこれはよくないことになったと、もう一人の黒髪の受付嬢へ強い視線を向けた。ディーンマーク家の当主として人を従わせる術は身につけている。アイリスは黒髪の受付嬢に威圧的な視線を向けながら、少し低い声で命じた。
「もう一度言います。私はアイリス・フォン・ディーンマークです。十時にエドモンド・クラーク氏と大切な要件でお約束をしております。早くとりつぎをしなさい」
「偉そうに、頭のおかしい人だわ!」
金髪の受付嬢は吐き捨てるように言ったが、黒髪の受付嬢は蒼白になり、慌てて受話器をとった。そして電話の相手に来客のことを告げると、受話器を握る手が震え出した。
「不審者はどこですか?」
警備員が二人来ると、受付とアイリスを交互に見た。
「そこの若い女性です。CEOと約束があるなど嘘をついています。さっさと外に連れ出してください」
金髪の受付嬢がそういうと、二人の警備員がアイリスを囲んだ。その様子に受話器を握っていたもう一人の受付嬢が慌てて、受話器に向かって必死に受け答えをしているようであった。
アイリスは冷静に周囲を確認し、他に人がいないことに不幸中の幸いだと思った。警備員は受付で不審者が暴れていると思って来たのだろう。しかし、静かなアイリスの様子に二人の警備員もとまどいながらもアイリスの腕を掴んだ。
「待ってください。その方は不審者ではありません」
話を終えて受話器を置いた黒髪の受付嬢が警備員を制した。
「どういうことですか?そちらから通報があったのですが?」
二人の警備員は不審げに見ると、金髪の受付嬢が同僚を睨んだ。
「何を言っているの?」
同僚を無視して、蒼白な顔でアイリスに謝罪した。
「申しわけございません。ただいま、こちらに秘書が参りますのでお待ちください」
その言葉と同時にエレベーターから降りてきた男性が蒼白な顔色でこちらに来る。その男性の姿を見た瞬間、金髪の受付嬢は動揺し唇を震わせた。
「この方は間違いなくお約束のあるお客様です。通報は間違いですから、戻ってください」
こちらに来た男性が物静かな口調で警備員に告げると、二人は慌ててアイリスの腕を離した。
「大丈夫なのですか?」
「はい。これは受付の失態ですので、どうぞ戻ってください」
警備員は受付を睨みつけてから何も言わずに離れていった。黒髪の受付嬢は秘書が来ると言っていたので、この年配の男性がCEOの秘書なのだろう。その秘書が受付の失態とはっきりと言ったことで、二人の受付嬢の処置が決まったようなものであった。
「大変に失礼いたしました。私はCEOの秘書をしておりますエバンス・ミラーと申します。どうぞ、CEOがお待ちしております。弁護士のバルフォアド氏がご一緒ではないということは、やはりご体調が優れないのでしょうか?」
「ええ、お医者様から当分の安静を言われているため、私だけでございます」
「そうですか。どうぞ、こちらにご案内いたします」
エバンスは先頭にたちエレベーターに向かう。アイリスはもう受付の方をあえて見なかったが、二人の受付嬢が今にも倒れそうな顔色で震えているのが横目で見えた。
CEOの部屋は最上階にあるのだろう。エレベーターはすぐに到着し、エバンスとともに三十六階に降りた。廊下の先は両開きの扉があり、それ以外の扉は右側にある小さな扉以外なかった。廊下は上等な絨毯が引かれ、照明や壁紙から派手さはないが上品で洗練された空間であった。
エバンスは両開きの扉の前で立ち止まると、アイリスに向き直り、もう一度謝罪した。
「受付での対応、申し訳ございませんでした」
アイリスは表情を変えることなく、相手にわからないように静かに息を吐き出した。受付の対応はアイリス個人よりもディーンマーク侯爵として見過ごすことができないことであった。
「受付の方々はとても無礼な振る舞いでした。あり得ない対応であったと申し上げておきます。一人の受付嬢の方には貧乏くさい服装で来て、物乞いかとも言われました。これ以上口にするのも不愉快な話です。あなたにお電話をした受付嬢の方に詳しくお聞きになった方がよろしいかと思います」
アイリスの毅然とした態度にエバンスは顔色悪く、謝罪を繰り返した。
「本当に申し訳ございません」
「ええ、謝罪を受け入れます。ただ、受付にはどのような者が来ても丁寧に対応できる方がよろしいでしょう。いろいろな方がおられますからね。見た目通りとは限らない方はたくさんおります」
成功者や権力者がわかりやすい見た目をしているとは限らないものだ。アイリスが知っている方でわざと浮浪者のような姿をして試す人もいたし、普段着を好む人もいた。普段着を愛する自国の国王などその代表例とも言えよう。
おそらく若いCEOに会いたがる女性が多く、これまでも多くの女性たちが押し寄せて来たのだろう。そうであったとしても、あのような浅慮な対応では足もとを救われかねないし、会社の信用にも関わる。
「はい、ご忠告をありがとうございます。どうぞ、こちらでございます」
エバンスは両開きの扉を開き、室内へと入った。
アイリスはとうとうエドモンド・クラークに会えるのだと緊張した。エディオン海運のCEOに会えることで緊張したわけではなく、もう親族などいないと思っていたところで、突然現れた血族に会えることに興奮していた。
部屋の中はとても広く、正面はガラス張りの窓になっており、首都カサノバの都市が一望できる圧巻の景色が広がっていた。そのガラス張りの窓を背に男性が机に座り、仕事をしているようであった。
アイリスの心臓がどきりと音を鳴らす。
その男性は銀の髪に白い肌をしており、とても端正な顔立ちであった。その髪色も端正な顔立ちもどこかなつかしく、世間一般では珍しい髪色であったが、アイリスにとって見慣れた色であった。
まぎれもなくフォスター家に出る髪の色で、彼は間違いなくフォスター家の者であった。祖父ジェームズ・フォスターと同じ銀の髪を持つ男性は、ゆっくりと視線を上げた。
その瞳は銀と灰色が混ざった不思議な色合いで、その瞳のせいでエドモンド・クラークという男性の第一印象を冷たい人に見せていた。いや、アイリスにとっては冷たい人なのかもしれない。銀と灰色が混ざった瞳がきつくアイリスを見ていたからだ。まるで敵を見るかのような眼差しに、甘い期待を持たないようにした。
この人は私と会うことを歓迎しているわけではない。祖父のジェームズ・フォスターと同じようにこの目の前にいる男性も、とても強く怖い人だ。ディーンマーク侯爵として自国の貴族たちと対応しているとき以上に隙を見せるわけにはいかないと察した。ディーンマーク侯爵としているときの仮面を被りながらも、アイリスは自然と震える手をお腹の辺りで重ねてまっすぐと立った。必死に憶病で自信のない自分が出てこないように、手を握りしめた。
「エドマンド様、アイリス・フォン・ディーンマーク様をお連れしました」
エドマンド・クラークが立ち上がるとゆっくりとした足取りでアイリスの前に来た。仕立ての良い背広を着ており、背がとても高く、小柄なアイリスからは見上げるほどの身長差があった。彼の姿はあの美しくも獰猛な幻獣を思い出させ、アイリスは思わず感嘆のため息をついていた。
そして祖父を思い出させる姿に、彼はフォレスター家の当主にふさわしいと思った。
「はじめまして、アイリス・フォン・ディーンマーク殿」
その声は想像よりも柔らかな口調であったが、歓迎されているとはほど遠く冷たい声音であった。




