番外編・契約の花園
この森の緑はとても深い。
エドモンドは神域の森に入ると、いつも見惚れてしまう。目に見えるものはすべて緑に囲まれているのに、鬱蒼とした暗い雰囲気はなく、木々の隙間から漏れる光で明るかった。車輪の音と馬の駆け足の音以外にも、意外に森の中は騒がしい。草や木々の隙間からひょっこりと顔を覗かせる動物が多いからだ。
「鳥の声が聞こえる。うん、あそこに鹿がいますね」
エドモンドは座席にもたれリラックスしながら、窓から見える景色を楽しんだ。
一年前まではけたたましいクラクションの音を聞き、息が詰まるほどの人波と高層ビルに囲まれた生活であった。あのアスファルトと大勢の人に囲まれた世界が、エドモンドにとって揺るぎない現実であり、日常であった。
それが、どうであろうか。
車ではなく馬車に乗り、窓から見える景色はアスファルトの道路やビルではなく、深い森だ。まさか自分が古き大陸に住むことになろうとは思いもしなかった。
この一年でエドモンドの人生は大きく変わった。
馬車は坂道を駆け上がり、城門をくぐると城の正面玄関口で止まる。ようやく帰ってきたと馬車から降り、感無量な気持ちで広大な白亜の城を見上げた。
エドモンドは、一年以上前に母の親戚筋にあたるアイリスと出会い、最近ようやく結婚することができた。出会ってから一カ月で婚約を決めたが、結婚するまでに一年かかってしまった。結婚に一年もかかってしまった理由は、エドモンドがエディオン海運のCEOを退陣することと、セロース国の爵位を継承するのに時間がかかったからであった。特に母の実家であるフォスター家を引継ぎ、子爵になるのは大変であった。
母はフォスター家の娘であるが、父は新しい大陸ニューキャッセスの人である。野蛮なニューキャッセスの者が爵位を継ぐなどゆるせないと、頭の固い貴族たちが文句を散々言ったが、ディーンマーク女侯爵と婚約をしていることから王はエドモンドに爵位の継承を認めた。
そして、ようやく愛するアイリスと結婚することができたのというのに、式を挙げて二週間もたたずにニューキャッセスに行かなければならなくなり、どれだけ怒りに燃えたことか。エドモンドはエディオン海運のCEOの座を弟のジョージに譲り、一年間は顧問という形で弟をフォローすることになった。もちろん、エドモンドは古き大陸のセロース国に移り住んでいるのだから、ニューキャッセスに行くはずもなく、急ぎの相談であれば電話で、急ぎでなければ手紙を送るようにと弟たちに厳命していた。
それなのにエディオン海運内で不祥事が起き、どうしてもエドモンドが対応せざる負えない事態になった。早く事態を収拾させても、ニューキャッセスに行って帰って来るのに三週間はかかる。新婚だというのに、なぜ妻と離れないといけないのだと、不祥事を起こした者に殺意を覚えたものだ。
「ああ、帰ってきました。この城を見ると安心します」
初めてこの城を見たときは、あまりの美しさに驚き、未知の世界に興奮したものだ。あのときの感動は、今後も忘れることはないだろう。エドモンドが子供のころに読んだ童話の世界が目の前に広がっており、この驚くべき未知の世界に足を踏み入れたことに、心臓の鼓動が速くなったのを今でも鮮明に覚えている。
アイリスの手を取り、この城に入ったときから陳腐な言い方だが、運命が動き出した。この城はそれだけ特別で、この城にまつわるたくさんの物語が語り継がれてきた。
エドモンドもこの城と森に関わるようになってから、何度、常識が覆されたかしれない。このディーン城と神域の森にまつわる不思議な体験は、常識だと思っていたことが常識ではないことを証明した。人が体験できる現実などどれだけ狭く、限られていることか。エドモンドはそれを実感した一年であった。
「エドモンド様、お帰りさないませ」
玄関口の前で待っていたロベルトがにこやかに挨拶した。エドモンドはディーンマーク家の忠臣である執事に軽く挨拶をすると、二階に通じる階段の方へと視線を向けた。
「アイリスはどうしていますか?」
「アイリス様は綿花の工場の方に行っておられます。もうすぐお帰りになられます」
「そうですか。それなら部屋で着替えて、アイリスが帰ってくるまで休憩しますよ」
「さようですか。それではお飲み物をお持ちいたしましょう」
ロベルトが静かに答えると、奥の方からにぎやかな足音が聞こえてきた。どこかドタバタとした落ち着きない足音で、一人の青年が廊下を早足で来るところであった。そんな乱暴な歩き方にロベルトはぴくりと眉を上げた。
「イーサン様」
ロベルトの声は静かであったが、戒めるような強い口調であった。エドモンドの四番目の弟はぎくりとした顔で足を止め、丁寧に歩き出した。
イーサンは高等学校を卒業した後、すぐにセロースに渡航するとフォスター家の屋敷に執事見習いとして生活を始めた。もちろん、イーサンの目的は本物の執事になるためではない。フォスター家の屋敷を改築し、宿泊事業を行うためだ。しかし、まだ世間を知らない十八歳というだけではなく、古き大陸のことを何も知らないことから、まずは古き大陸の社会を学ぶことになった。あのように廊下をドタバタと歩いているようでは、事業を任せることなど当分先になりそうだ。
正式にフォスター家の当主となり、子爵位を継承したエドモンドは、フォスター家の資産もすべて継承した。今後のイーサンが望む宿泊事業を行うかどうかの権限は、エドモンドが握っている。
「イーサン、何ですか。そのように足音を立てて歩くのは、落ち着きがなく、下品です」
厳しい長兄の言葉に、イーサンは殊勝な顔で側にきた。
「ごめん、ではなく、大変失礼しました」
あれほど乱雑だった言葉遣いを直している最中であるが、まだまだ形にもなっていない。
「あなたは、フォスター家の屋敷で修行中ではなかったのですか?」
兄の言葉に、イーサンはばつが悪そうな顔でちらちらとこちらを見た。その表情から、何かやったなと目を細める。
「何をしたのですか?」
長兄の問いに、イーサンは観念したように頭を下げた。
「申し訳ございません。価値あるお皿を割ってしまいました!」
「‥‥それでもディーンマーク家にいる理由にはなりませんよね。白状しなさい」
イーサンは頭を下げたまま、うめき声を漏らす。本当にこの弟は何をしたのかと、ちらりと近くにいるロベルトに視線を向けた。ロベルトは表情を変えることなく、淡々と主の質問に答える。
「マルクスが二日前から寝込んでしまいましたので、イーサン様のお世話ができない状態になってしまいました。足を痛め、一週間安静するように言われております。アイリス様からイーサン様のお勉強のこともありますし、マルクスが良くなるまで私にお世話をするようにと言われました」
「マルクスが足を?」
マルクスはフォスター家の筆頭執事であり、今はエドモンドの執事である。エドモンドもフォスター家を引き継いで、まだ二カ月であることから一番頼りにしている人物であった。
「エド兄さん、すみません!」
イーサンは真剣な表情で謝罪した。
「イーサン?いったい何があったのですか?」
「う、う。それは、その、俺、フォスター家に来た客と喧嘩になってしまって」
「喧嘩?」
エドモンドの目が鋭くなり、兄の厳しい表情にイーサンは顔色を悪くした。
「悪口ばかり言う、えらそうなじいさんだぜ。マルクスにも頭ごなしにずっと怒鳴りつけていたから‥‥」
要領を得ない話に、エドモンドはちらりとロベルトを見た。
「エドモンド様、ジョルバード卿が突然お屋敷にいらっしゃったそうです。エドモンド様がいらっしゃらなかったので、大層お怒りになられたそうです」
ロベルトの説明に、イーサンはかっと顔が赤くした。
「あのじいさん、ひどい言い方だった!卑しい血だとか、礼儀もわきまえていないとか、エド兄のことを、くそ!」
エドモンドはジョルバード卿の顔を思い浮かべながら、彼が何しにきたのかを理解した。ジョルバード卿とフォスター家は同等の爵位である。あちらも子爵家であるが、フォスター家と比べると歴史が浅い。しかし、貴族階級の人らしい人物であった。
「それでイーサン、あなたはジョルバード卿に何をしたのですか?」
「そんな言い方はないと抗議した。そしたらあのじいさん、持っていたステッキで俺を殴ろうとした。それをマルクスが間に入って庇ってくれて。そのときマルクスはかなりの強さで背中を叩かれて、床に倒れたときに足をひねった」
イーサンは真っ赤な顔で拳を握りしめた。
「あなたがしたことは抗議だけですか?あなたから危害を加えることはしなかったのですね?」
「していない!どんなことがあろうとそれだけはするなと言われていたから、してねえ。それにすぐに他の者たちがきて、あのじいさんを宥めていた。あのじいさんも、さすがにまずいと思ったのかすぐに帰ったよ」
「よくわかりました。マルクスの容体はどうなのですか?」
背中を叩かれたと聞き、足よりも叩かれた怪我の方が気になった。
「背中はあざができた程度で、たいした怪我ではないとのことです。ですが、マルクスも歳のせいか床に倒れたときに、ひどく足をひねったそうです。そちらの方がよろしくないとか。それも一週間も安静にしていましたら、復帰できるとのことです」
ロベルトは平然とした顔で答えた。ロベルトの様子からマルクスの容体はそれほどひどいものではないことがわかり、エドモンドは表情に出さなかったが内心で安堵した。しかし、イーサンはもめ事を起こすだろうと思っていたが、早速、貴族ともめ事を起こしたようだ。イーサンの教育はなかなか骨が折れそうだと、エドモンドは苦笑いした。
「イーサン、あなたの態度は完全に失格です。弟でなければ、クビを言って屋敷から追い出していたでしょう」
「エド兄!でも、あの貴族の態度が悪かった!」
「あなたはわかっていないようですし、勘違いしているようですね。言っておきますが、あなたがエディオン海運に入社し、来客に同じようなことをしたらクビにしましたよ。会社にも理不尽な客が来ることがあります。それこそ、ジョルバード卿のような人は珍しくない。それをいちいち突っかかる態度を取る従業員など、必要とすると思いますか?それをうまく対応するのが仕事です」
ぐっとイーサンは言葉を飲み込む。そして、うつむいた。
「‥‥すみません。マルクスにも言われた。つけいる隙を与えてはいけないってさあ」
「イーサン、あなたはまず自分の感情を制御することを学びなさい。ただ、言い返すだけでは幼子のようですよ。あなたは学びにきたのでしょう?経営学も会計学も大切でしょう。でも、商売を成功させたいのなら人との応対を学びなさい」
「はい」
すっかりしょぼくれてしまったイーサンに、エドモンドは軽く肩を叩いた。まだ幼いところが抜けていない表情で、イーサンは顔を歪めた。
「今回のことで、あのジョルバード卿はエド兄さんに不利なことを言い出すかもしれない。屋敷の使用人の態度が悪いと、エド兄さんが貴族社会で侮られるとマルクスが教えてくれた。俺、結構、ひどい言葉遣いを使ったし、怒鳴ったから」
「‥‥相手がひどいことを言ってくる者でも、ひどい言葉を使ってよい理由にはなりません。怒鳴るなどもってのほかです。反省しましたか?」
「うん、いや、はい。反省しました。マルクスの怪我も俺の責任です」
一年前のイーサンであれば、ふてくされて反省などしなかっただろう。イーサンは確実に変わっていた。
「ロベルト、イーサンを任せます。ここにいる間、使用人としてこき使ってください。それこそ、きつい仕事でもかまいません。言葉遣いも態度も直すことに、遠慮はいりません」
「かしこまりました。それではお部屋におくつろぎください。すぐに軽食の準備をいたします」
ロベルトは静かに礼をした。
「イーサン、それからあなたが割った皿は給金から引いておきます。当分、おこづかいがないと思いなさい」
イーサンは半泣きの顔になり、それでも文句を言わなかった。何も言わずに項垂れたまま、とぼとぼとロベルトの後に従って歩いていく。その後ろ姿から本当に反省しているようであった。
「やれやれ」
イーサンは今回の件で、ジョルバード卿がフォスター家に不利なことを言うだろうと心配していたが、エドモンドは気にしていなかった。初めから文句を言いたくて来ているのだから、何をしても悪口を言いふらすであろう。ジョルバード卿は前フォスター子爵が亡くなったときに、フォスター家の土地を安く買い取ろうと狙っていた。ディーンマーク女侯爵がフォスター子爵を継承したことで目論見がはずれたが、それでもアイリスに交渉しようとしていたようだ。
「残念でしたね」
エドモンドが正式にフォスター子爵になり、ジョンバード卿の申し出を断った。ニューキャッセスから来た者に望みを絶たれ、それもディーンマーク女侯爵の夫にもなり、身分上でも自分が下になったのだ。それは我慢ができないだろう。
まあ、ジョンバード卿などかわいいものである。もっと厄介な者はたくさんいる。あの人ぐらい対応できないようでは、イーサンが望む宿泊事業など夢のまた夢であろう。
「まあ、これもイーサンのお勉強ですね。実地で教えてくれるとは、ジョンバード卿もご苦労様ですね」
エドモンドは満足な笑みを浮かべながら、自室に入った。
「イーサンは、とても努力していると思います」
隣に並んで歩くアイリスは、ちらちらと心配そうな顔でイーサンを擁護した。エドモンドはそんな妻の姿をかわいいと思いながら、やさしくほほ笑んだ。
「怒っていませんよ。イーサンにとって良い勉強になったと思っています」
「でも、エドモンドに怒られたと落ち込んでいました」
「ふふ、それはせっかくの機会ですから、しっかりと指導しました。何がいけなかったのかわからないと、せっかくの学びが無駄になってしまいますからね」
アイリスは少し複雑そうな表情を浮かべたが、素直にうなずいた。
「そうですね。怒られることも、落ち込むことも大切なことです」
「アイリス、イーサンのことよりも、どこに行くのか教えてください」
昨日、アイリスが帰ってきたのは夕方であった。エドモンドが一日早く帰ってきたことに驚きながらも嬉しそうに手を握ってくる妻が愛おしく、夕食と夜は久しぶりに二人の時間を楽しんだ。
エドモンドはアイリスの手を握りながら、最低一年はニューキャッセスに戻らないと駄々をこね、アイリスの側から離れないと宣言した。アイリスは、エディオン海運や母たちがいるのだから戻らない訳にはいかないと言うので、戻るときはアイリスも一緒にと強くお願いした。
本当にしっかりと拒否しないと、あちらにちょくちょくと呼ばれかねない。新婚なのに冗談じゃないと、弟たちにも本気で言い含めておいた。
昨夜はそんな尽きることなくアイリスと話していたが、お互いに疲れて眠ろうとなったとき、アイリスから明日の朝、一緒に来てほしい場所があるとお誘いをうけた。
「ええ、朝のお散歩についてきてほしかったのです」
アイリスはエドモンドの腕に手をかけ、楽しそうに笑った。
「お散歩ですか?この城はとても広いので、確かに城内を歩くだけでも散歩になりそうですね」
アイリスに導かれるままに城の中を歩いていたが、実は先ほどから興味が湧いて仕方がなかった。
この城には領主として役割を果たしてきた時代の遺品が多く残っている。謁見の間や騎士団の詰め所に武器庫、家臣たちの執務室に医務室など、数百人の家臣たちが常駐できる設備が備わっていた。
さすがに城のすべてを見ることは叶わないほどの広さであった。
今は城内の九割を締め切り、使用していない。アイリスたちが使用している場所はほんの一部で、何百年も入っていない場所も多いという。
「少し怖いですね」
千年を誇る城であるのだから、様々な逸話や伝説が残っている。それは良い話ばかりではなく、悲惨な逸話も多く残されていた。その悲惨な物語の舞台となった場所は、昔に閉鎖され、誰も入ることができなくなっている。しかし、その舞台である地下の牢獄や拷問部屋がかつてのまま残されていると聞けば、気持ちが良いものではなかった。
今、アイリスと一緒に歩いている場所は城の北側であった。それも領主一族以外は、足を踏み入れることを許されない区域だ。アイリスとともに住んでいる区域は、室内や廊下も少しレトロな雰囲気であるが現代風であった。設備もかなり不便なところはあるが、生活ができないわけではない。
「ここは、ずいぶん古いのですね。私たちが住んでいる場所と造りがまったく違います」
朝、二人で寝室から出ると、アイリスに手を引かれるまま歩いてここまで来た。途中から内装がどんどん古くなっていき、まるでカサノバにある近代的な博物館に収められた展示品のようであった。アイリスは、あちらは何百年も閉めたままとか、こちらは使われていない家臣たちの居住区だと説明しながら、階段を上がり、長い廊下を歩いた。その説明を聞きながら、エドモンドは表情に出さないようにしていたが、ずっと興奮していた。
そして興奮は、領主一族以外は足を踏み入れてはいけない区域に入ったときから、感嘆とため息に変わった。壁や天井は白い石になり、真っ白な石畳の床には繊細な彫刻が彫られていた。いや、よく見ると壁や天井にも植物や動物の彫刻がされていた。
「まるで神殿のようですね。いいえ、古代遺跡の方が近いでしょうか」
アイリスはいつものベージュのワンピースを着ていたが、長い漆黒の髪を結わかずに垂らしている姿は古代の巫女のようであった。
「そうですね。古代遺跡とも言えるかもしれません。ここはディーン城の起源、始まりの場所と言われています。千年前に森の女王が建てたと言われているのですよ。この場所から今のような広さまで、城を拡大していきました」
驚くべき話に、エドモンドは思わず立ち止まってしまった。
「‥‥アイリス、まさかこの通路は千年前のままなのですか?」
「ええ、ほら、ここに部屋がありますでしょう?他にも四つほど部屋があるのですよ。千年前は、とても小さく、城とは呼べないほどの家でした。エドモンド、見てください。ここに窓がありますでしょう。ここから神域の森の最奥が見えます」
白い石の壁に四角い形の穴が開いていた。四角い穴は窓だったのかと、窓に近づき、そこから外を眺めれば、深い緑と風を感じた。エドモンドは窓から見える景色に鳥肌が立った。歴史の重さと圧倒的な自然の力に畏怖を感じたのだ。アイリスに腕を引かれ、エドモンドは再び歩き出した。
アイリスは、この場所をさも当然のように歩いていた。
「よく、この朝の散歩に行くのですか?」
「ええ、とても小さいころに、父と母の三人でお散歩したのを覚えています。祖父母も日課のように来ていました。私は一人でよく来ます。大切な場所だから、エドモンドも一緒に歩いてほしかったのです」
「ディーンマーク家の者しか立ち入れないと言っていましたが、ロベルトも来たことがないのですか?」
朝の光の中、エドモンドは次第に香ってくる緑の匂いに不思議な気持ちになっていった。
「ロベルトも来たことがありません。ロベルトが言うには、ここにはたどり着けないそうです。祖父母も両親もよくここに散歩に来ていましたから、部屋にいないときはロベルトもここだろうと思うそうです。でも呼びに行きたくても、ここがわからないそうですよ。どんなに城の中を探しても、誰もここにたどりつけないというのです。なぜでしょうか?」
アイリスは少し不思議そうな顔になる。なぜ、ここに辿り着けないのかがわからないといった顔であった。通路の奥は階段になっており、一階へと降りていく。どうやら先ほどまで歩いていた場所は二階であったようだ。
「さあ、エドモンド、あなたと一緒に歩きたいと思っていた場所に着きました」
アイリスはうれしそうに一階まで下りると、外に出た。
「城の中ではなく、外なのですか?」
「あなたをディーンの花園にご招待します」
アイリスはエドモンドの腕に手を絡ませ、ゆっくりと森の中を歩いた。この場所は町から城までの森よりももっと緑が濃く、隙間なく木々に囲まれ、少し薄暗かった。エドモンドは、どこか別世界に来てしまったかのような心もとない気持ちになり、後ろを振り返った。そこにはしっかりと城に通じる扉があり、扉が消えていたらと不安に思った自分が恥ずかしかった。
「ずいぶんと緑が深い。まるで太古の気配が濃く残っているようです。この場所は匂いが違う」
「ええ、そう思います。とても涼しい場所でしょう?」
「はい、アイリス。気持ちのいい場所ですね」
二人の前には細い道があった。左右は木々や草が生い茂っているのだが、歩いている箇所は芝生のような短い草で道ができあがっていた。二人が並んで歩けるほどの幅で、かなり遠くの方まで続いている。
「アイリス、ディーンの花園とはどのような場所ですか?」
木や草はうっそうと生い茂っているが、花は見かけない。どこに花があるのだろうと周辺を見回していると、アイリスはどこか幼子のように目を輝かせ、小さく笑った。
「驚きますわ。でも、きっとエドモンドは好きだと思います」
「私が好きですか?」
楽しそうな愛しい妻を見ていると、エドモンドも楽しくなってきた。それに、何が出てきてもおかしくない雰囲気である。それこそ神獣や妖精が出てきても不思議ではない。これは恥ずかしい驚きかたをしないようにと、何が出てきてもいいように心構えをした。
細い道を通り抜けると、青空が見える開けた場所に出た。それはまさに映画で場面が一瞬で変わったときのように、うっそうとした所から目が覚めるような色鮮やかな場所に変化した。
「これは‥‥信じられない」
一面に様々な種類の花が咲き乱れていた。赤や青に黄色、オレンジに紫と様々な色の薔薇が咲き乱れ、アザレアにガーベラと、名前の知らない花や見たことがない花も咲いていた。
「すばらしい花園ですね」
そして何よりも隣を歩くアイリスの美しさに心が震えた。彼女こそ古に語られる森の女王であった。
「ここがディーンの花園です。美しいでしょう。ディーンマークの者たちだけの場所で、約束の場所です」
美しい緑の瞳が笑う。その笑みに見惚れながらアイリスの言葉の意味を考え、興奮で言葉が出てこなかった。
「‥‥約束の場所‥‥まさか、童話の中に出てきた」
森の女王が一角獣と契約した場所は花園であった。深き森の奥にあるその場所は、妖精たちが作り上げた花園で、森の女王は妖精の導きで一角獣の元に辿り着き、契約を交わした。物語はそう語っていた。
ブルっと声が聞こえ、ポカポカと響く足音とともに、奥の木々の間から白い顔がのぞく。
「一角獣だ」
エドモンドはディーン城に初めて来たときに大勢の一角獣と会ったが、それ以降、遠くの方で姿を見かけるだけであった。一角獣たちはアイリスの側にはくるが、エドモンドに近づくことはなかった。近くで見たいと思うが、滅多に会うことがなく、見かけてもあちらから近づいてこない限りは近づくことは叶わなかった。
その一角獣がゆっくりと近づいてくる。
一角獣がアイリスの側にきたことで、エドモンドは遠慮し、後ろに下がった。アイリスは慣れた手つきで一角獣の背中を撫で、顔に触れた。一角獣はアイリスに顔をよせて信頼を示す。そして不思議な虹色の瞳がちらりとエドモンドを見ると、フンと鼻を鳴らした。そして、どこか誇らしげでしたり顔をした。その生意気そうな顔に、思わず顔が引きつりそうになる。こいつはあきらかに自分を馬鹿にしていた。
「まあ」
アイリスは驚きの声を上げる。一角獣がくい、くいと首を動かし、奥の方を示したからだ。ずいぶんと人間臭い表情としぐさをする一角獣であった。エドモンドは、こういう生き物に遠慮するのもばからしいと思うようになった。伝説だろうと幻獣だろうと、今、目の前にいるのは人を小馬鹿にする質の悪い生き物だからだ。
「何かいいたそうですね」
睨みつけるように一角獣を見ていると、一角獣はちらりとこちらを見て、ふうと鼻息を出し、あきらかにため息をついた。この獣、アイリスと自分とではあまりにも態度が違う。アイリスにはいい顔して、人でいうのなら紳士的な態度だというのに、エドモンドに対しては悪童のようであった。イーサンの口の悪さをまね、内心、このやろうと悪態をついた。アイリスはそんな一角獣を気にしていないのか、一角獣が示した森の奥を見つめ、もう一度、「まあ」とつぶやいた。
「アイリス、どうしましたか?」
「ええ、その、ごめんなさい。とても驚いてしまって‥‥。どうやら、あの方にお呼ばれされたようです。ちょうどいいですね。私も夫を、エドモンドを紹介したいと思っていました」
アイリスに夫と言われるのはとても嬉しいが、紹介したいと言う言葉に不穏なものを感じた。アイリスが見つめている方向は、さらに神域の森の最奥である。そんな場所に人が住んでいるというのだろうか。
「どんな方にお呼ばれされているのですか?」
「‥‥そうですね。お会いになればわかると思います」
アイリスは少し困った表情を浮かべ、気遣うような視線を向けてくる。これは来たなと思った。おそらく、これはとんでもない不思議案件なのだろう。
この一年、エドモンドは今のようにアイリスと一緒にいることで度々不思議な体験してきた。大きなフクロウが人間臭い表情でエドモンドの肩に乗り、口にくわえていた五百年前の金貨をご祝儀だというように渡されたことや、ぞろぞろと草かげからたくさんの動物たちが出てきて囲まれたこともあった。それ以外にも、自分の背丈よりも大きな熊が目の前にきて、肩をやさしく撫でられたときは、さすがに大声を出してしまった。そのあと、まるで宥められるように二回ほどやさしく肩を撫でられたときには、心が無になったのを覚えている。
エドモンドは腹をくくり、深呼吸をした。何が出てくるかはわからないが、受けて立とうではないかと気持ちを固める。
一角獣が呼びにきたとなると、どう考えたって人ではない可能性が高かった。
「アイリス、ぜひ、紹介してください。私もご挨拶をしたい」
エドモンドは余裕の笑みを浮かべ、腕を差し出すと、アイリスはほっとした表情になり、差し出された腕に腕を絡めた。
「ありがとうございます。エドモンド、では行きましょう」
アイリスが動く方へと足を向けると、背中からかなり強い力で押された。後ろを振り返ると、一角獣が鼻でぐいぐいとエドモンドの背中を押していた。まるで、早く行けと言わんばかりの横柄な態度であった。
花園から再び草むらに入り、木々に囲まれた細い道を歩いて行く。まるで案内するように歩く一角獣は、たまにこちらに振り返ると、半目で頭を上に上げるのだ。まるで、着いてこいといっているようで、本当に生意気な奴であった。
アイリスは楽しそうに景色を見ながら、ゆっくりと歩く。先ほどはあれほど騒がしかった森の中が、奥に進むにつれて静かになっていった。
不思議なことに、あれほど鳥の声や何かの動物の声が聞こえていたのに、今は聞こえなかった。まるで神の領域に入っていくかのように、身の引き締まる空気になっていく。風もなく葉も草もピタリと固まり動かない世界の中を、虹色の一角獣だけが悠然と歩いていく。その後ろ姿は、なぜか伝説の幻獣としてではなく、遥か昔に当たり前のように見ていた馴染みのある光景に見え、なつかしさを感じた。
「なぜ、こんなになつかしく感じるのだろう」
ぽつりと言葉にしていたのだろう。アイリスはこちらを見ると、少し考え込み、そしてなぜか納得した表情になった。
「フォスター家もこの神秘の森に関係がある一族なのですよ。ですから、何となくそう思うのではないでしょうか」
「え?」
「どのぐらい遠い昔話でしょうか。ある騎士が一角獣と喧嘩するお話があります。むかしむかし勇猛な騎士がいました。その騎士は恋する姫君がいたそうです。ディーンマーク家の当主のご姉妹だったそうですよ。その姫君に求婚したのですが、一角獣が嫌がり、とことん邪魔したそうです。騎士がディーン城に辿り着くまでに、臭い木の実を落としたり、鳥にいって糞まみれにしたり、落とし穴に落としたりといろいろしたそうです」
それは、やりそうだ。実物を見て、エドモンドは真顔でそう思った。
「それで、どうなったのですか?」
「それが、なぜ、そのようなことになったのかは語られていないのですが、騎士が一角獣をつかまえることになりました。姫君と結婚するために、一角獣を捕まえると。それで騎士は一角獣を捕まえるために神秘の森に入り、三日三晩、走り回ったそうです」
「捕まえることができたのですか?」
そう訊ねると、アイリスは楽しそうに笑った。そして、にっこりとほほ笑み、「はい」と答えた。
「一角獣と三日三晩、お互いにボロボロになるほど格闘し、最後は一角獣の背中に飛び乗りました。それで、一角獣とお互いに認め合ったそうです」
「認め合う‥‥」
「その騎士がフォスター家の始祖と言われています。当時の王がフォスターの名と爵位を与え、姫君との結婚もゆるされました」
何とも言えない複雑な気持ちになった。フォスター家の祖先が、森の中を駆け巡る脳筋な騎士とは思わなかった。でも、その執念と頑固さ、そして獰猛さは確かにフォスター家の血とも言える。
もし、自分もアイリスとの結婚の条件が、あの一角獣を捕まえることだと言われたら、幻獣だろうとなんだろうと関係なく、あの首に縄をかけるまで森の中を追いかけるだろう。そう考えれば、祖先を馬鹿にすることはできなかった。
まるで二人の会話を聞いて、内容をわかっていたかのように、一角獣は歩きながらこちらを振り返ると、エドモンドの方を見て、口元を開けて歯茎まで見せた。それは笑っているように見えるが、目が笑っていなかった。あれは友好的に見せて、挑戦的な威嚇だと感じた。
さっきから、何気にこちらを煽ってくる。
もしかしたら、始祖と言われた騎士との確執がまだ一角獣にあるのかもしれない。フォスター家の始祖であれば、優に六百年以上は経っている。その騎士と対決した一角獣が生きているのかもあやしいものであるし、何より一角獣は百近くいる。この目の前を歩く一角獣が、その騎士と対決した一角獣であるはずがなかった。
だが、エドモンドは直感的で、この一角獣がフォスター家と因縁のある一角獣だと感じた。そうでなければ、人に興味がない幻獣がこれほどエドモンドに構うはずがない。
「あら笑顔なんて、とても友好的ですね。一角獣の中でも語り継がれているのかしら?騎士はエドモンドと同じ髪と瞳の色を持っていたそうです。前にエドモンドはフォスター家の方らしいとお話したでしょう。一角獣はきっとエドモンドをフォスター家の者だとわかっているのですね」
アイリスの無邪気な意見に、エドモンドはにこやかに「そうかもしれない」とうなずいた。そして、一角獣の方を見ながら、信用するつもりも油断するつもりもなかった。
アイリスと並んで歩けるほどの細い道が、少し先で完全に草と木で塞がれていた。一角獣はそのままその塞がれた中に入っていく。アイリスは一角獣の真後ろにつくと、一角獣の歩みに合わせて進んだ。不思議なことに、一角獣が前に進むと草や木から垂れるツタなどが横へと動いていく。一角獣は木々に邪魔をされることなく、進んで行く。まるで緑のトンネルであった。エドモンドはアイリスの手を握りながら緑のトンネルを進んで行った。
「驚いた」
そうつぶやくと、アイリスの手がしっかりと握られた。
「さあ、もう着きます」
緑のトンネルを抜けると、小さな空間に出た。周りをぎっしりとかなりの年数が経った大木に囲まれ、そこはぽっかりと空白になっていた。正面にはとても古そうでいて、この木々の中で一番大きな木があった。それから大木から少し離れたところには、湧き水が溢れる本当に小さな水たまりがあった。
周りは大木で囲まれているため、日の光はあまり入ってこないが、それほど暗さは感じない。一角獣はのんびりと湧き水の方にいくと、水を飲んでいる。エドモンドは辺りを見回し、何が出てきてもいいように注意を払った。
またフクロウでも出てくるのだろうか。それとも、伝説の竜でも出てくるのだろうか。どんな生き物が出てくるのかと辺りに神経をとがらせる。
アイリスは正面にある一番大きな木の前で止まると、エドモンドの手を離し、淑女の礼をした。
「お会いできて光栄でございます。私の夫も連れてきました。ご挨拶させてください」
突然のことに驚いたが、エドモンドは声を上げなかった。いったい誰に挨拶をしているのだろうか。アイリスは一番大きな木に向かって話しかけていた。
エドモンドはこの大きな木の裏に誰かいるのかと、首を横にして木の裏を見ようと目を凝らした。そのとき、幹の樹皮が動いたように見えた。いや、確実に動いている。
大木の樹皮がペラっとめくれ、不思議な色合いの瞳がこちらを見ていた。あとになって思い出しても、このとき叫ばなかった自分を褒めたい。さすがに、これは想像を超えていた。いや、想像の世界には存在しているが、現実にそのような存在がいるとは思わなかった。
「主様、私の夫のエドモンドでございます」
アイリスはエドモンドを紹介した。エドモンドは半ば茫然としながらも、とっさに王にしかしない礼をしていた。心臓がバクバクと動き、冷汗が流れる。権力者や王の前でさえも緊張しないエドモンドが、緊張のあまり倒れそうになった。
「拝謁をお許しいただき、光栄でございます。エドモンドと申します。お見知りおきください」
大木は何も話さなかった。いや、話さないのが当たり前であろう。しかし、話が通じていないわけではない。確かにこちらの話を聞いており、理解していると感じた。時間の経過とともに瞳の色が金から白金へ変わり、そして白金から銀になって白になった。再び金へと戻りを、繰り返していた。
その不思議な瞳から目が離せず、じっと見つめていると、瞳がちらりとこちらを見た。その瞬間、全身が畏怖で震えた。
先ほどまで湧き水を飲んでいた一角獣がパカパカと大木の側に来ると、大木に向かって、なにやらヒンとかフンとかブルとか激しく話しだす。不思議な瞳はエドモンドから離れ、一角獣を見た。視線が離れたことで、ようやく息ができる思いであった。しかし、すぐにちらちらとこちらに視線を向けてくる一角獣が気になった。明らかにエドモンドを見て、ヒュンやヒィンとしきりと言っているからだ。何となく、文句を言われているような気がした。
「そちらの一角獣は、私に文句でもあるのですか?」
思わずそういうと、アイリスは驚いた顔でこちらを見た。一角獣はいななきを止めると、エドモンドを見て「ヒィン」と鳴き、蹄で土を何度も蹴った。やはり、好戦的であった。
「また、この森の中で戦いますか?もちろん、負けませんよ」
人ではないものに何を話しているのかと、自分でもおかしく思いながらも、かなり本気であった。一角獣の目が獰猛に輝く。
そのとき、風も吹いていないのに大木の枝がばさばさと揺れた。驚いて幹を見ると、大きな目が細まると楽しそうに笑っていた。樹皮にたくさんの皺ができ、とても歳のとった老人が笑ったように見えた。
枝と枝がぶつかり、バサバサと笑う、笑う。
その瞬間、あちらこちらから枝と枝がぶつかる音がし、大音響となってこの地を大きく揺さぶった。まるでこの広大な森が笑ったかのように、たくさんの木の枝がぶつかる音が鳴り響いた。それこそ、人でいうなら爆笑したのだ。
「もしかしましたら、大昔にあった一角獣と騎士の戦いを見ていらしたのですか?」
あの不思議な瞳がエドモンドを見て、にんまりと笑った。そして一角獣を見て、不思議な瞳からぽろりと一粒涙まで流して笑い転げるように音が鳴り響く。
夢のような光景であったが、この非現実的な現象が、エドモンドには現実のこととして実感できた。この目の前の大木は、夢でも幻でもなく、生きて、ここにいるのだと。
このあと森は静かになり、短い謁見の時間は終わった。憮然とした表情の一角獣とアイリスに連れられ、エドモンドはどこか夢見心地で来た道を戻っていた。再び、ディーンの花園に戻ってくると、アイリスはようやくほっとした表情で息を吐き出した。
「大変なことが起こりました。まさか、主様があれほど笑われるなんて思いませんでした。森全体を揺らして笑うなど、初めてのことです。ああ、でも、エドモンドを紹介できてよかった。久しぶりにお会いしたけど、お変わりなかったわ」
アイリスは満足そうにうなずいた。いまだにぼう然としているエドモンドの背中を、かなりの強さでガシガシと鼻で突くものがいた。エドモンドが背後をにらむと、明らかに険悪な表情で一角獣が立っていた。
まるでおまえのせいだと言わんばかりに、口を開けて歯茎まで見せると、「ヒヒヒ」と声を出した。
「あなたは、さっきから態度が悪いですよ。何を文句言っているのですか?」
エドモンドも憮然とした表情で聞くと、一角獣はじろりとにらむとアイリスの側に行き、まるで守るようにエドモンドの前に立ち塞がった。古の契約に従い森の女王を今でも守っているかのように、虹色の瞳がこちらを見ていた。いや、守っているかのようにではなく、本当に彼らは今でも守っているのだ。
その瞳は、大切な森の女王を守れるのかと問いかけているように見えた。
「本当に驚くことばかりです。でも、どのようなものが来ようと覚悟は決まっていますよ」
エドモンドは大きく息を吐き出し、この美しい花園を見渡した。ここは一角獣たちにとって大切な契約の場だ。ディーンマークの者を守ると誓った場所だ。だからこそ、彼らにとってここでの誓いに意味がある。ゆっくりと一角獣の瞳を見つめながら、一字一句間違わずに誓いを立てる。
「私はあなたに誓います。私はアイリスを生涯守り抜きます。私は伴侶としてアイリスを守り、彼女が大切にしているこの地を守りましょう」
アイリスが目を見開き、微かに震える手で一角獣の首に触れた。一角獣の虹色の体が一瞬、輝いたように見えた。気のせいだと思えるほどの一瞬のことであった。先ほどまで好戦的であった一角獣の雰囲気が、ふっと気に抜けたものになった。そして、なぜか甘えるように呆然としているアイリスにすり寄り、顔をアイリスにこすりつける。
「離れてもらえますか?私の妻ですよ。馴れ馴れしい」
一角獣の目がすっと細くなる。アイリスから離れると、こちらを睨みつけたまま近づいてくる。獰猛と名高い一角獣を相手にしながら、エドモンドに一切の恐れはなかった。
「今度、いくらでもお相手しますよ。でも、今日はこれからアイリスと二人っきりで用事があるのです。花園を二人で歩きたい。少しは空気を読んでくれませんか?」
さっさと帰れという意味を込めて言うと、一角獣の目に殺気が宿った。しばらくお互いににらみ合っていたが、一角獣は人間臭く舌打ちすると、背を向けてパカパカと去っていった。
本当にいい根性している。
アイリスはどこかあきれたようにため息をつくと、エドモンドの手を握った。
「喧嘩をしないでください。一角獣はやさしいのですよ」
「いいえ、獰猛で有名な幻獣ですよ。やさしさのやの字もない生き物です。あれがやさしいのは、美しい女性にだけですよ。最悪だ」
「まあエドモンド、機嫌を直してください。さあ、花園を歩きましょう」
アイリスはゆっくりと美しい花の道を歩き出す。エドモンドも気を取り直して、アイリスの歩調に合わせた。確かに、邪魔者は去り、せっかくの愛する妻と二人でデートなのだ。いつまでも機嫌が悪いのはもったいないことであった。
美しい花に囲まれながら、穏やかな時間が過ぎていく。楽しそうで嬉しそうな妻の顔には、何の曇りもなかった。一年前に会った時の孤独の影は見えなかった。
そしてエドモンドも、もう後悔も孤独も感じることはなかった。そんな感じる暇がないほど、にぎやかで気が抜けない相手ばかりであった。そう、先ほどの一角獣のように、うかうかしていたら大切なものを奪われる。
エドモンドは立ち止まり、アイリスを抱き寄せ、その唇に唇を重ねる。お互いの息づかいと温かみだけが、今、この時を生きていた。
ゆっくりと唇を離し、妻を抱きしめながら幸せを味わう。アイリスの顔が赤く色づき、アイリスの方からそっと頬にキスをすると、エドモンドにしっかりと抱きついた。
「先ほど私を守ると言われました。エドモンド、私もあなたを守ります。どのようなことからも守ります」
「お互いにお互いを守ることができるのは、幸せなことですね」
アイリスは唇を震わせ、小さくうなずいた。ああ、言葉にすることは大切なことだと心から思う。いつかは言えるだろうと思っていた言葉が、永遠に言えなくなることがある。話さなかったことで、言えなかったことで、二度と後悔はしたくなかった。
「あなたの大切な方を紹介してもらえて、うれしかった」
「ふふ、エドモンドは気に入られたようですね。あのようなことがあったのに驚かなかったなんて、すごいことです」
「アイリス、驚きましたよ。腰を抜かすところでした。なんとか根性で耐えたのです。はあ、本当にもうここまで来たら何でも受けて立ちますよ」
「まあ、でも喧嘩は駄目ですよ」
「それは、あちらにも言ってください」
アイリスを少し離すと、腰を抱きながらゆっくりと花が咲き乱れる花園を歩き出した。
「一角獣はわがままですから、言うことを聞いてくれるかしら」
「美しい女性には弱いから聞いてくれますよ。そうそう、昨晩、言い忘れていましたが二週間後にミアがこちらに来ます。無事に卒業しましたので、予定通り一年間はこちらで淑女の勉強をするそうです」
アイリスは何度か瞬きし、そのあとにっこりと笑った。
「いよいよにぎやかになりますね」
「そうですね」
ニューキャッセスから妹のミアが来ることで、今以上ににぎやかで忙しくなるだろう。今からアイリスとの時間を邪魔されないようにする方法を考えないといけないと、エドモンドは幸せな決意をした。
「アイリス、この花園での散歩は日課にしましょう」
頻繁に消える二人にロベルトから苦言を言われるかもしれないが、エドモンドは譲るつもりはなかった。
この後、エドモンドは度々森で一角獣の襲撃に合うようになった。フォスター家の始祖のように臭い実を上から落とされたり、こづかれたり、落とし穴に落とされそうにもなったが、もちろんエドモンドも応戦し、負けてはいなかった。
エドモンドと一角獣との約束は生涯続いた。




