27
ダニエルは兄のジョージとともに次にダンスをする者たちの様子を確認した。ファーストダンスの後、五組のカップルがダンスをしており、次にここにいる五組が交代してダンスをすることになっている。
ダニエルたちは招待客であり、裏方の役をする立場ではないが、長兄のエドモンドから当日は何かあった場合はフォローをするように言われていた。
「エドモンド兄さんの心配が的中だ」
ジョージは、アンダーソン氏の指示通りに次のダンスをする者たちが用意されていることを確認しながら、この会場の警護の責任者へと視線を向けた。
「ダンスを中止するような事態にならないように頼むよ」
「もちろんです。クラーク様」
ジョージとダニエルがこの会場に着いたとき、エドモンドが待機している部屋に呼ばれた。エドモンドはその部屋で、アンダーソン氏と警備責任者に舞踏会の進行責任者と話をしていた。その最終確認の場にダニエルたちも同席するように求められた。
アイリスの姿は見えなかったが、片方の扉が大きく開かれ、エドモンドが始終そちらの方を気にしていたので、おそらく、あちらの部屋にアイリスがいたのだろう。
ダニエルたちは招待客側として会場内に入り、エドモンドたちに何かトラブルがあったときはエドモンドの指示で動くように言われた。アンダーソン氏もそのことは了承し、その際には警備側も進行側も協力するとのことであった。エドモンドは、ダニエルたちが動きやすいように警備と進行の責任者がいるこの場に呼んだということであろう。
エドモンドがあらゆる事態を想定して動いていた。その兄の懸念が当たり、ファーストダンスが始まる前にあのカメラを持った男が飛び出してきた。二人は会場内が大騒ぎの中、主催者や元首の動向に注意を払いながら兄の指示を待っていた。
そして中止になるかと思っていたファーストダンスが始まることになったとき、エドモンドがジョージたちの方を見た。次のダンスの準備をさせろと、口の動きで合図を送ってきたのだ。
「ギリギリ間に合ってよかった」
ダニエルは今ごろになって冷や汗が流れた。
ダニエルたちは兄の意図を読み取り、すぐに進行責任者のもとに行き、次のダンスをする者たちがいつでも出られるように整えさせた。二人は、きっとエドモンドが次の出番をアンダーソン氏に合図をするだろうと考えていた。そのため進行責任者に、登場のタイミングはアンダーソン氏の合図どおりにするように指示をした。
「本当に。エドモンド兄さんは絶妙なタイミングでアンダーソン氏から指示を出させたね」
「ああ。進行の責任者は、あのタイミングで次の者たちを出場させるなど思ってもいなかったからな。俺たちが話をしなかったら、出てくるタイミングを逃し、また主催者側が無様な姿をさらすところだった。まったくエド兄さんはかなわない」
ダニエルは、もう自分の役目は終わったと会場に戻ることにした。あとはアンダーソン家の者たちの仕事だ。
会場内に入ると、華やかな音楽とともに数組のカップルがダンスを踊っているのが見えた。主賓席では王太后と元首がダンスを見ながら、なごやかに会話をしている。
会場内はまだ先ほどのファーストダンスと王太后の言葉の感動の余韻が残っており、誰もが興奮冷めやまなかった。ダニエルは兄のジョージとともに人ごみをさけながら移動し、母とエミリーを見つけると二人の側に向かう。母とエミリーの側にはサムエル・ライダーがおり、彼がいることに心強さを感じた。
「彼に二人をお願いしておいてよかったな」
ジョージにそういうと、ジョージはエミリーの顔を見て、小さく鼻を鳴らした。
「エミリーにはもったいないね」
「なんで、そう憎まれ口をたたくのだ。妹たちの中で一番気にしているくせに」
ジョージが、サムエルとエミリーが恋人同士になったことを一番に喜んでいたのだ。
マチルダはジョージとダニエルがこちらに来るのに気がつき、エミリーに声をかけてサムエルとともに壁際の方に向かうのが見えた。ダニエルたちもそれを見て、ダンスを見ている人たちの中を抜けて端に行くと、マチルダたちと合流することができた。
「アイリスとエドモンドは大丈夫なの?」
「ええ、お母さん。うまく警護の者たちに守られて安全な場所に逃れましたよ。この会場の采配をしている者をつかまえて聞きましたら、こちらがしばらく落ちつくまで、二人には人のいない庭園を散策してもらうと言っていました。ですから、当分戻ってこないでしょう」
ジョージはにんまりと笑うと、エミリーが顔を赤らめて小さな声で笑った。二人は二卵性の双子だが、こういうところは息があったように似ている。ダニエルは姉と兄の楽しそうな笑い声と母の満足そうな顔にようやく肩の力が抜けた。
「あの乱入してきた男が現れたときは、どうなることかと思いました。誰もがもうだめだと思ったでしょうね。本当に信じられないことをします」
サムエルはそのときのことを思い出したのか、うんざりとした表情で軽く首を左右に振った。
エドモンドとアイリスがダンスのために会場に現れたときは、めったに緊張しないダニエルでもさすがに緊張した。王太后や元首など、この大陸を支配する階級層が集まった場所で注目されて踊るなど、並大抵の精神力では耐えられない。そんな視線の中、二人の男女は堂々と登場し、美しさと気品でこの場の者たちを魅了した。
そんな重要な場面で、あの記者らしき男がすべてを台なしにしたのだ。会場の中央に出てきて、フラッシュをたいて写真を撮る男に誰もが呆然とした。
「何が事実を伝える義務があると言えたものだ。金の亡者がよくいう。あれではあちらの者たちに俺たちが蛮族と呼ばれてもしかたがない」
ダニエルは思わず吐き捨てるように言った。
普段、礼儀には大らかなダニエルでさえ、あの男の行動と姿を見たとき、恥だと思った。無礼なふるまいを自分の行動が正しいと主張する姿に、恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。
もう場の雰囲気は壊れ、会場内は騒然とし、危険な侵入者により舞踏会が中止になると思った。
「騒ぐ者はいなくなりました。さあ、舞踏会を始めましょう」
そのとき貴婦人は自分に従うことをさも当然かのように、周りにいる者たちに告げた。あのときの光景を思い出すと、今でもダニエルは感動で心が震える。
そして、まるで物語に出てくる気高き姫君のように、ディーンマーク女侯爵は視線だけで人々を従え、美しい所作でダンスをするためにエドモンドと向き合ったのだ。ダニエルは興奮した気持ちで、ダンスが始まるのを待っていた。会場内は再び、静けさを取り戻し、これから始まるダンスのために誰もが邪魔にならないように端により、固唾をのんで待った。
音楽が始まると、二人は流れるような足取りで動き出した。ダニエルが知っているダンスとは違い、一見そのように見えないが複雑なステップが多くあった。それなのに二人は細かくステップを踏みながら息は乱れることなく、流れるような美しい動きで軽やかに踊った。二人はくるくると縦横無尽に床を回転して動いた。
「本当に美しかった。とてもすばらしいダンスでした」
感嘆の思いをこめて、サムエルは言った。エミリーは夢心地で頷き、マチルダは当然と言うように悠然と笑った。
「さすがとしか言いようがありませんよ。さすがディーンマーク女侯爵閣下、完璧なダンスでした。エドモンドはまだまだ修行が足りないけど、まあ、よくアイリスの動きについていけたと見直しましたよ。あの子、きっと必死に踊ったことでしょうね」
ダニエルの目から見たらエドモンドのダンスもすごかったと思うのだが、母の辛口の言葉に長兄も気の毒にと同情した。
「ダンスを終えたあとがすばらしかったわ。もう、私はどうなるのかと緊張しましたとも。アイリスと王太后陛下との間でのかけひきに、年甲斐もなく胸が高鳴ったわ。確かに、今回の来日に対して、こちらの対応は良いところがなかったわ。舞踏会でもあの乱入ですもの。最悪としかいいようがないわ」
「お母さん、かけひきというのは?」
エミリーが不思議そうな顔で首をかしげた。ジョージやサムエルは気がついているのか、苦笑いした。情けない気持ちなのはダニエルも同じであった。結局は事を収めたのは古き大陸の者たちだからだ。マチルダは周りに注意しながら声をひそめた。
「外交の失敗は何もこちら側の面子がつぶれるだけではないのよ。王太后陛下の立場もよくないものよ。お互いに今後につなげるためのアクションがほしかったのよ。そこで見事にファーストダンスを披露した場面で、王太后陛下は駆け引きに出たの。王太后陛下のお言葉は舞踏会の最後にいただけると聞いていたのに、あの場面で席を立ってお言葉を言われた」
母が言うように、誰もがあの場面でまさか王太后が言葉を発するとは思わなかったであろう。ロビアナの王太后とディーンマーク女侯爵とのやりとりに、この会場の全員が長きにわたり人を導いてきた者たちの権威にのまれていた。あの場を制したものは、確かにこの大陸にはない古き力であった。
「お母さん、アイリスはお会いするのはあのときが初めてでしょう?それで王太后陛下の思惑をわかっていたというの?」
エミリーは信じられないとため息をついた。マチルダは楽しそうに笑った。
「当然です。王太后陛下も相手がディーンマーク女侯爵だからお声をかけられたのよ。何もかも読み取って、一番良い着地点につけられる相手だからこそ、席を立ってお声をかけられた。見事に古き大陸のプライドは守られ、この国は友好を手にし、今後の外交がつながった。見事なパフォーマンスだったわ」
確かにとダニエルは同意した。ダニエル自身も古き大陸への見方を変えた瞬間であった。我々こそが価値観を覆され、改めて伝統と文化を見習わなければならないと思わせた。
ダニエルは大きく息を吐き出した。
二人の高貴な女性たちの言葉とあの場を制した威厳に、ダニエルの気持ちを表すとしたら奇麗な言葉ではないが、この言葉しかなかった。
「あれは、しびれた。ああ、心がしびれてしまった」
そういうと、ジョージとサムエルは噴き出して笑い、マチルダはあきれた目で息子を見た。
「あなたも紳士としての教育が必要のようね。なんて言葉を使うの。高貴な方々に対して失礼ですよ」
ダニエルは素直に母に謝罪をすると、この舞踏会が終わったあとのことを考え、楽しい気分になってきた。明日の新聞のトップはファーストダンスを踊った二人が全面に載るだろう。何といっても、古き大陸の女侯爵とエディオン海運のCEOのカップルである。大陸を隔てたロマンスとか、大恋愛とか見出しが想像できる。思わず、ダニエルは笑いをかみ殺した。
「おまえ、何を笑っているの?」
訝しげな表情のジョージにダニエルはにんまりとした。
「いや、明日の新聞の見出しが楽しみだと思っただけだ。きっと世紀のロマンスとか書かれているのだろうな」
エミリーとサムエルは輝く瞳で夢見るような顔になった。しかし、反対にマチルダとジョージは渋い顔をした。
「ああ、会社と屋敷の警備を強化しないとな」
「ジョージ、お願いするわ。うっとうしい報道陣が殺到するでしょうから」
ダニエルは笑みを引っ込め、今後の手配を頭の中でめぐらせた。
夜空には月だけが輝き、星はとても小さな光が数えるほどしか見えなかった。
アイリスはゆっくりとエドモンドと二人で夜の庭園を歩きながら、目の前に広がる幻想的な世界をどこかぼんやりと眺めていた。まだ、アイリスの中に先ほどのダンスの余韻が残っており、夢を見ているようであった。
細い石畳の道は、どこからともなく甘い花の匂いがし、街灯が明るく道を照らしていた。都会の真ん中にいるにも関わらず、左右は森のように木々が生い茂り、それは遠くの方まで続いている。
アイリスにとって、ここはこの世の世界とは思えないほど不思議な世界であった。夜なのに昼間のように明るく、木々の隙間からたくさんのネオンと高層ビルが見え、その光景は幻のように非現実的であった。静寂の中に、たまに聞こえてくるのは虫や動物の声ではなく、クラクションやサイレンの音だ。
「月は出ていますが、星はあまり見えないのですね」
エドモンドはアイリスの言葉に空を見上げ、少し残念そうな顔をした。
「そうですね。これが私たちにとって当たり前の夜空なのですよ。この都市は夜でも明るいので、星の光が見えにくいのです。あなたが住まわれている場所は星が見えるのですか?」
「はい。月よりも明るいほどです。無数の星を見ることができます」
故郷の星空を思い出す。月の光が霞むほどの星屑が夜の世界を覆っていた。深い森の中は静かであったが、よく耳を澄ませば静かではない。たくさんの動物たちや虫、そして幻獣や神獣たちがその静けさの中に存在していた。そんな深い森の世界がアイリスの世界だった。この場所には古きものたちはいないのだと思うと、一つにつながっている世界とは思えなかった。
「無数の星はとても美しいでしょう。羨ましいですね」
エドモンドは夜空を見上げ、そう呟いた。
エドモンドと会話をしながら歩くと、少し先は広くなっており、休憩するようにベンチが置いてあった。この場所はとても眺めのよい場所なので、スポット的なところなのだろう。アイリスは深く息を吸い込み、この美しい空間を堪能した。木々がなくなり、目の前がぽっかりと開け、その先にはいくつもの光り輝くビルがそびえ立っていた。アイリスはあまりにも幻想的な景色に、あのビルも幻ではないかと瞬きを繰り返した。花の香りを強く感じたとき生暖かい風が吹き、木々がざわざわと音を鳴らす。夜空には月と明るいビル群が見えた。
アイリスにとってこの光景こそが、まるで物語の世界に見えた。
「どうぞ」
エドモンドのエスコートでアイリスはゆっくりとベンチに座る。エドモンドはアイリスの隣に座ると、このときになってようやく気が抜けたのか、大きく息を吐き出した。
「本当に何とかなってよかった」
気を抜いた言葉に、アイリスは笑みがこぼれた。こんなに気を抜いているエドモンドを見るのは初めてであった。この人は、これまでどれだけ気を張りつめて過ごしていたのだろう。そう考えるともっと楽に過ごしてほしいと思う。もっと色々なことをエドモンドにしてあげたい。
「平然とした顔をしていらしたのに?」
「うん?それはやせ我慢ですよ。内心はひやひやしていました。アイリス、あなたが平然としているのに、私が取り乱すわけにはいきませんよ」
「‥‥平然としていたわけではないのですよ。ただ、そう、私はディーンマーク侯爵ですので、どのようなことが起ころうとも、やるべきことをやるだけです。侯爵ではなくアイリスの私でしたら、取り乱していました」
「あなたのそういうところは、無理していないかと心配するところですが、でもその反面、その強さにあこがれます」
エドモンドの言葉に、思わずアイリスはため息をついてしまった。エドモンドはそんなアイリスのため息に、どこか不安げな表情になった。
「なぜ、ため息をつくのですか?」
「ふふ、この大陸の男性は、そのように女性を褒めるのが普通なのでしょうか?それともあなただからですか?」
「おかしいですか?みんな、女性を褒めますよ。父もさんざん母を褒めていました。それは母の動き一つをとっても美しいと言っていました」
アイリスはなぜ大叔母が恋に落ちたのかがわかったような気がした。それほど自分を認めてくれる男性であれば、惚れてしまうだろう。もしかしたらエドモンドは、外見は祖父に似ているが、中身は父であるサイモンにも似ているのかもしれない。
「私の故郷の男性は女性をそのように褒めないのです。女性としての美しさは褒めますが、個人の、そうこちらで言うのなら個性は褒めることはありません。あなたがあまりにも当たり前のように私のことを褒めるので、少しとまどっています」
アイリスは正直な気持ちをいうと、エドモンドはどこかほっとした安心した表情になると小さく頷いた。
「そうなのですね。では、私の言葉は嫌ですか?」
「嫌なはずはありません。でも、聞き慣れていないのでとまどっているだけです。‥‥とても嬉しく思います」
そうアイリスが答えると、エドモンドは優しく笑った。
「そう、それなら慣れてください。言葉を惜しみたくない。言わなかったことを後悔したくないのです」
エドモンドは言葉を切り、少し真剣な表情になって続けた。
「今、このときが確かな時間で現実です。私は、あるかどうかわからない未来ばかりをみるのではなく、過ぎ去った過去を振り返るのはなく、今を大切にしたい。今、このときをあなたと一緒にすごし、今をずっとあなたと一緒に続けたい」
その言葉は、アイリスの心に確かな意味をもって届いた。エドモンドが言うように、今が大切で、この瞬間一緒にいることが奇跡であった。アイリスは素直に彼と一緒にいたいと願い、そして彼を慰め、大切にしたいと心から思った。
心臓がどきどきしてくる。アイリスは自分の気持ちを男性に言うのは初めてであった。エドモンドが否定的な言葉をいうとは思わなかったが、それでも気持ちを言うのは怖かった。この怖さがただの臆病であることは、もうわかっている。
手が小さく震え、緊張する。それでも心はすでに決まっており、あとは進む勇気だけだ。
「エドモンド、わがままを言ってもいいですか?」
不思議な色合いの瞳がこちらをみて、どこか楽しそうな表情をした。
「わがままですか?楽しいことを言うのですね」
「あなたにとって、楽しいことではないかもしれません。大変なことだから嫌になるかもしれません」
アイリスは言葉を切り、そして唾を飲んだ。エドモンドは何も言わずに、何かを期待しているようなわくわくした顔でアイリスの言葉を待っていた。
「初めてお会いしたときから、私はとてもあなたに惹かれていました。冷たいことを言われたときも同じでした」
「初めて会ったときの私の態度は忘れてほしいのですが‥‥」
エドモンドは少し情けない声で言った。そんな彼の姿も好ましかった。
「ニューキャッセスに来て、一カ月です。本当になんて一カ月だったのでしょう。大叔母様に会いに来て、クラーク家の皆さまと出会い、そして私はあなたに恋をしました。最初は冷たい方だと思いました。でも、それは家族を守るためであった。あなたが兄弟たちに向けるやさしさをうらやましく思ったり、あなたが時に見せる孤独に心配になったり、こんなに感情が乱れたことはありません」
エドモンドの瞳が輝き、じっとアイリスの言葉を聞いている。彼の口もとは今にも笑いそうにピクピク動いている。でも、もう少し待ってほしかった。
初めて、大切な人に言葉を伝えるのだから。
「エドモンド、私はあなたが好きです。愛しています。あなたのプロポーズをお受けします」
エドモンドの瞳が輝き、息を飲んだ気配がした。アイリスは激しくなっていく鼓動を抑えるように胸に手を当てた。そしてもう一つ、大切なことを告げるために息を吸い込む。アイリスは何度も、これからどう生きるのかを考えた。その中で、どうしても捨てられない思いがあった。
”私は故郷のために何かをしたい。あの場所を守りたい”
震える両手を握りしめ、大好きな人の瞳を見つめた。
「私はディーンマーク家の当主の座を降りることはしません。私はディーンマーク家が守る土地を守り、人々を守りたいのです。故郷のために力をつくしたい。それが、私が行いたいことです」
「はい」
エドモンドはやさしい表情で答えた。
「私はあなたにわがままをいいます。私がディーンマーク家の当主であることをゆるしてください。セロースに帰ることをゆるしてください」
アイリスは深く息を吸った。
「でも、私はあなたと一緒にいたい。そのためならどんなこともしましょう。どんな苦労もいといません。どんなに離れていても会いに行きます。だから、お願いです。私と一緒にこれからのことを考えていただけますか」
それが悩んで出した答えだった。もし、それでこのプロポーズがなくなったとしても、それでも偽ることができない気持ちであった。アイリスは震えながら、エドモンドに左手を差し出した。
エドモンドはまるで笑うような顔になると、ためらうことなくアイリスの左手を取った。そして、アイリスの手の甲にキスをした。
「それはわがままではありませんよ。私はあなたと一緒にいたい。そのためなら、どんなことでもしましょう。あなたの望みをかなえるために、一緒にいくらでも考えます」
その言葉はとても重みがあり、しかし、とても心が軽くなる言葉であった。アイリスは右手でもエドモンドの手を握ると、正面に向き合った。胸がいっぱいになり、涙が出そうになった。
恋が実ったことがうれしかった。それよりも、一番うれしいのはこうやって手をつなぎ、ともに行こうといってくれる人がいることだ。暖かい腕がアイリスの体を覆うと、優しく抱きしめられた。
アイリスが抱きしめられたのは、遠い昔の子供のころだ。もう、誰も抱きしめてくれる人はいないのではないかと思っていた。しかし、これからは何度でも抱きしめられるだろう。そして、同じようにアイリスも彼を抱きしめるだろう。
遠くの方から声が聞こえた。そして、こちらを歩いてくる音が聞こえてくる。
「ああ、残念です。どうやら、そろそろダンスが終わるころなのでしょう」
舞踏会の終わりが近づいてきていた。そんなに時間が経っていただろうかと、アイリスは顔を上げた。すると、とても近くにエドモンドの顔があった。まるで触れ合うほどの距離に顔が赤くなる。
「邪魔が入りました」
とても残念そうな声とともに、エドモンドの体が離れると、ちょうど給仕の姿をした男性がこちらに来るところであった。アイリスも少し残念に思ったが、正直なところ今はありがたかった。思わず悲鳴を上げるという、淑女としてはみっともないことをしそうになったからだ。
こういうことには慣れていない自分にはまだまだ刺激が強すぎる。
「ディーンマーク女侯爵閣下、クラーク様、どうぞお越しください」
給仕は真面目に伝え、エドモンドは立ち上がると、アイリスに手を差し出した。アイリスは内心はともかく、淑女として毅然とした姿で立ち上がると、エドモンドの腕に手を置いた。エドモンドは笑いを堪えるような顔のままエスコートをする。そして、耳元でそっとささやいた。
「慌てていませんか?両手両足が同時に出ていますね。危ないですよ」
「なんて、いじわるなことをいうのかしら」
少しむっとした気持ちでそう言うと、横で笑う声が聞こえる。エドモンドは静かにアイリスの姿に見惚れながら、ため息をついた。
「夜の庭園を歩くあなたは、まるでおとぎ話に出てくる妖精の女王のようです。私は子供のころ、妖精や神獣が出てくる童話がとても好きでした。一番好きだった童話にはとても美しい森の女王が出てくるのですよ。今のあなたの姿は、森の女王のように本当にきれいだ」
ロマンチックな人と思いながらも、美しいと言われて素直にうれしい。アイリスはお返しにと、少し恥ずかしく思いながらも告白した。
「あなたの今の姿はとても素晴らしいですが、でも私はあなたの背広姿が好きです。私の好きな小説に登場するCEOのようでかっこいいです。私のあこがれの主人公は背広姿が素敵なのですよ。そのあこがれの主人公よりもあなたの方が素敵です」
その言葉にまじまじとエドモンドはこちらを見て、大笑いをした。そして、ゆっくりと端正な顔が近づいてくると、覆いかぶさるように影ができ、周りが見えなくなる。
唇にやさしい温もりを感じ、アイリスの目に映ったのは光り輝くビル群と近くにある銀の瞳であった。お互いの顔が離れると、アイリスの心臓が口から出るのではないかと思うほど激しく動いていた。
「アイリス、さあ、行きましょう」
ゆっくりと二人で歩き出す。アイリスはエドモンドにエスコートされながら、今あったことにふらふらと夢見心地で歩いた。
翌日、アイリスは臨時号令新聞で、舞踏会のことよりもエドモンドとのことが世紀のロマンスとして大々的に載っていることに、卒倒しそうになった。




