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 アイリスはまだ日が昇る前に目が覚めた。

 今日という日を迎え、驚くほど不安も緊張もなかった。すぐに不安など考えられないほど慌ただしくなるのだが、それもどこか楽しい気分であった。

 とうとう、ロビアナの王太后を招いた舞踏会の当日を迎えた。


 屋敷の中は早朝から騒然としており、人の出入りが激しく慌ただしかった。アイリスの部屋には数人のエステシャンが頻繁に出入りし、入念に肌や髪のお手入れから、全身のマッサージに爪の処理に至るまでアイリスを磨いていく。

 パーティー会場は五時から入場となり、開始は六時からである。まだ時間があるとは言え、アイリスが着るドレスは着付けだけでも二時間はかかり、お化粧や髪形まですべてを完成させるのに少なくとも四時間以上はかかると見積もっていた。


 クロエは朝からアイリスの部屋に入り浸り、楽しそうにエステシャンたちの仕事を見ていた。今日の着付けの段取りはすべてマチルダが手配したもので、そのマチルダは忙しくアイリスの部屋を行ったり来たりしている。アイリスの予定は、エステシャンたちによる施術が終われば次はプロのヘアメイクアーティストが入り、最後にドレスの着付けをするという段取りであった。


「お母さんがすごくはりきっている。アイリスはよくじっとしていられるわね。朝からずっとじゃない。もうお昼よ」

 クロエは自分には無理だと言うように首を左右に振ると、アイリスはクロエのげんなりした顔が面白くて笑ってしまった。


「慣れればそんなに大変ではありませんよ」

「はあ、慣れるほどこんなことをしているのね」

 クロエは異邦人を見るような目で見て、あきれた顔をした。

 

 ようやくアイリスの髪型と化粧が終えたころには、二時になっていた。ここからはドレスの着付けである。今回のドレスは古き大陸での貴族の正装であったため、ドレスを着付けることができる人は限られていた。マチルダは何とか着付けのできる人を探し出し、貴族に長い間仕えていたという年老いた女性にお願いすることができたのは運が良かったと言えよう。

 老女は孫と一緒にお昼ごろに来ると、早速とばかりにドレスが置いてある部屋に行き、ドレスを見て悲鳴を上げたという。年老いた女性と年若い孫はアイリスの部屋に来ると、アイリスの手を握り、感涙するというハプニングもあった。


「光栄でございます。これほどのすばらしいドレスを見たことがございません」


 老いた表情が明るく華やぎ、興奮しながら何度もドレスのすばらしさを称えた。

 アイリスはドレスの着付けのために、ドレスが飾られている広めの応接室へと移動した。さすがにアイリスの部屋では、ドレスを着るには狭すぎたからだ。アイリスがドレスを着るときは、邪魔になるとクロエは部屋に入ることができず、マチルダも自分の準備に取りかかっていたため、アイリスと老女と孫の三人だけであった。

 ドレスを着たあとは、ヘアメイクアーティストが再び部屋の中に入ると、最後の仕上げで化粧と髪型をきれいに整えた。そして、最後にブルーダイヤモンドの髪飾りを高く複雑に結い上げた髪につけると、この場にいる者たちはぽかんとした顔で見惚れた。

 

「終わったのね。皆さま、ご苦労さまでした」

 ニューキャッセス風のドレスに着替えたマチルダがロベルトと一緒に颯爽と入ってくると、満面な笑みを浮かべて完璧な仕事をした者たちをねぎらった。


「いいえ、よい体験をさせていただきました」

 心からの称賛の言葉をいいながら、その者たちは満足した表情で部屋を出ていった。

 マチルダは部屋の中にアイリスとロベルトだけになるのを確認してから、ロベルトに手を上げる。ロベルトはマチルダの隣に来ると手に持っていた金属の箱を開けた。金属の箱の中身はディーンマーク家の至宝と言われる宝飾品が入っており、これを身につければ完成である。


「さあ、アイリス、ネックレスをつけるので動かないで」

 マチルダは少し緊張した顔で、ロベルトが手にする箱から大きなブルーダイヤモンドを中心に、その周りをたくさんのダイヤモンドでちりばめたネックレスを手に取ると、アイリスの首につけた。そして大粒のブルーダイヤモンドのイヤリングをアイリスの耳につけると、大きく息を吐き出した。


「すごいわ。本当にすごいわ。こんな美しい装いを見たことがないわ」

「ありがとうございます。大叔母様のおかげで準備が整いました」

 アイリスは応接室に置いてある等身大の鏡で自分の姿を見て、鏡に映る清楚な美しい女性に驚いた。まるで自分とは思えないほど、普段とは違って魅力的に見えたからだ。そして、ディーンマーク家が所持する宝飾品を身に着け、当主の妻たちを飾ったネックレスを見て不思議な気分であった。


「驚きました。とても腕の良いヘアメイクアーティストでしたのね」

「ふふ、あなたは自己評価が低すぎるわよ。あなたはもともととても美しいのよ、ねえ、ロベルト、あなたもそう思うでしょう?」

「もちろんでございます」

 アイリスはマチルダとロベルトの言葉に恥ずかしそうに頬を赤くした。そのとき大きな音で扉がノックされると、扉が少し開き、マーシュがかわいい顔をのぞかせた。


「お母さん、はいっていい?」

「ええ、全員いるのかしら?準備は整ったので入っていいわ」

 母の言葉に扉が大きく開き、真っ先に入って来たのはやはりマーシュだ。そのあとイーサンがマーシュを追いかけるように入ると、クロエがキョロキョロしながら入り、兄弟たちに呆れたような視線を送る正装したジョージとダニエルが続けて入ってきた。そして、一同はアイリスを見て動きを止めた。


「すごい!お姫様だわ!物語に出てくるお姫様がいるわ!」

 まずクロエが叫び、マーシュは顔を赤らめてその場で飛び跳ねた。

「ちがう!妖精、妖精の姫君だ!うわあ、うわあ!」

 大きな声で叫ぶと、そのあとアイリスに少し近づき、キラキラした目でうっとりと見惚れる。アイリスがそんなマーシュをほほ笑ましく思い、にっこりと笑うとマーシュの顔が輝いた。


「す、すごいな」

「ああ、これが本物の貴族の力か」

 ジョージが一言呟くと、ダニエルは少し意味がわからないことを言い、二人はそのあと黙ったままアイリスを見つめた。イーサンは真っ赤な顔で口を開けたまま、ぽかんとしている。そして、開きっぱなしにされた扉からドレスを着たエミリーがミアの腕をつかんで入ってきた。


「ミア、けじめをつけなさい」

 ミアはうつむきながら腕を引っ張られるままに入ってくると、少し呼吸を整えるように息を吐き出し、顔を上げた。その前にエミリーはアイリスの装いを見て立ち止まり、一気に顔を赤くして見惚れていた。そして、ミアもアイリスの姿を見て、目を見開いたまま固まった。


「私の子は揃いも揃って同じような反応しかしないのかしら。どう、アイリスは素敵でしょう。セロースでもここまでの装いで出席するのはデビュタントか王家主催の式典のときぐらいだから、普段のパーティーではこんなクラシカルなドレスは着ないのよ」

「お母さん、アイリスのウエストが信じられないほど細いわ」

「クロエ、それはそうよ。コルセットをしているのよ。ドレスのスカートも重ねているからけっこうな重さもあるのよ。エドモンドの用意はできたのかしら?」

 

 今日のパーティーに出席するのはジョージとダニエル、そしてマチルダとエミリーであった。マチルダはミアに当分パーティーどころか上流階級に関わることを禁止した。これは親としてというよりもクラーク家としての決断であったため、ミアはおとなしく従ったという。そして、もう一人ジョージの妻も出席を見合わせていた。最近になって妊娠がわかり体調が悪いため、今日も屋敷に来ていなかった。アイリスも二週間前にようやく紹介され、それ以降、親しくされてもらっている。


 最後にエドモンドが扉から入ってきた。エドモンドの装いはアビ・ア・ラ・フランセーズという古き大陸の正装で、ニューキャッセスの人たちから見たら時代劇のような服装であった。

 ロベルトはドレスだけではなく、男性用の正装も持ってきていた。アイリスが着ているドレスと対になる正装は祖父の先代ディーンマーク侯爵が着ていたものだ。アイリスのドレスの色と合わせており、ブルーと白を基調として、ひざまであるコートと中に着ているウエストコートには豪華な金の刺繍がされ、シックでありながらも美しい衣装であった。現代のタキシードとはまったく違うものであったが、アイリスのドレスに並ぶのならタキシードでは合わなかったであろう。


 アイリスはぽかんとエドモンドに見惚れてしまった。これまで、これほど正装が似合う人を見たことがなかったからだ。誰もが理想とする貴公子が目の前にいた。


「きゃあ、エドモンド兄さん、かっこいい!騎士だわ!王子様というより、騎士だわ!」

 クロエが悲鳴を上げながら、涙目でまくし立てた。兄弟たちは長兄の姿にまたまた言葉なく見つめ、堂々と歩く姿は王族のようにも見えた。エドモンドはまっすぐとアイリスを見つめ、側にくる。この部屋に入ったときから、エドモンドの瞳にはアイリスしか映っていなかった。


「とても美しい。あなたは誰よりも美しい」

 いつもの丁寧な口調が少し荒々しいことに本人は気がついていないのか、熱に浮かされたかのようにアイリスを見つめ、言葉を綴る。

「妖精の女王のように気高く、美しい人だ」

 エドモンドはアイリスの手を取ると、その指に口づけた。


「きゃあ!!」

 クロエの悲鳴が響き、周りがざわめく。アイリスは真っ赤な顔で石のように固まりながら、エドモンドから目が離せなかった。そんなアイリスに甘い表情でにっこりと笑った。


「やべえ、エド兄、やべえ。あんな人だったのかよ。え、ナチュラルに指にキスしていた」

「イーサン、エドモンド兄さんがずるいよ。僕もアイリスにしたい」

「マーシュ、おまえは少し慎め」

 ダニエルの声がし、マーシュの泣き声が聞こえた。そして、ジョージは半ば呆けた顔で変なうめき声をあげた。

「うわああ、あんな歯が浮くようなセリフを言うのか。初めて知ったよ。うわああ、もう周りが目に入っていない。首ったけじゃないか」

「ジョージ、あなたが言うことって、なんでそう古くさいの。ぞっこんラブと言いなさいよ」 

「エミリー姉、それもかなり古くせえ」


 兄弟たちが言いたい放題で騒いでいる中、一人だけ暗い顔をしていたミアがアイリスのほうに歩きだした。エドモンドはすぐにミアとアイリスの間に入った。


「ミア」

「エドモンド兄さん、ごめんなさい。お願い、アイリスに謝罪したい。これから大切なパーティーに行くことはわかっている。だからこそ、今、謝罪したい。少しでも憂いを取り除いてほしいから」


 兄弟たちが一気に緊張した顔で動こうとしたが、マチルダが手を上げて、それを止めた。アイリスは必死な形相でこちらを見ているミアの顔を見つめながら、小さくため息をついた。マチルダは許さなくていいといったが、アイリスはミアのことをそれほど怒っていない。彼女は年齢よりも精神的に幼く、不器用で愚かな人だ。でも、悩んで苦しみもがく姿に共感を持っていた。

 エドモンドがこちらを見たので、アイリスはうなずいた。エドモンドは何も言わずにアイリスの隣に並んだ。


「あやまれば許されるとは思わない。それでも、謝らせてください。あなたに心から謝罪します。私が愚かなことをしたばかりに、あなたを危険な目にあわせてしまった。知らなかったではすまされないし、言い訳する言葉もありません。私は‥‥」

 ミアの顔が泣き顔になったが、ぐっと顔を引き締めると拳を握りしめた。


「かつて私は義姉になるはずの人に感情のまま不用意な言葉を言ってしまいました。私の言葉が最後の言葉となってしまった。私は取り返しのつかないことをしました。自分の軽率な言葉や行動が時に取り返しのつかないことになることを私は知っていたのに、また繰り返してしまった」

 ミアの顔は苦悩で歪んだ。それでも必死に言葉にしようとしていた。兄弟姉妹たちははっと何かに気がついた顔で、ミアを見つめた。


「私は前の過ちを後悔ばかりし、罪悪感だけしか見ていなかった。それがそもそも間違っていたのに気づかなかった。自分のことしか見ていませんでした。アイリス、あなたが無事でよかった。本当に良かった。あなたが無事であったことで、ようやく私がしなくてはならないことは、後悔や罪悪感ばかりに囚われることではなく、自分の言動を戒めることだと気がつきました。自分の愚かさを正すことだとわかりました」

 ミアはしっかりとした眼差しでアイリスを見た。

「ごめんなさい。私が愚かでした。心からお詫びします」


 彼女は自分が何を誤っていたのかに気づき、自分の意思でアイリスに謝罪した。もうこれでミアのことで思い悩む必要がなくなったのだと思うと、アイリスの心がふっと楽になった。


「あなたの謝罪を受け入れます」

 アイリスは背筋を伸ばし、表情を変えることなく、一言だけ答えた。ミアは一瞬体を震わせ、そして胸に右手を添えて、少し首を下げた。


「さあ、行きましょうか」


 大叔母の張りのある声が室内に響くと、一気に緊張感が霧散した。マーシュやクロエが軽い足取りで動き出し、ジョージやダニエルが扉へと向かう。


「エドモンド、行きましょう」

 エドモンドの手を強く握りしめほほ笑むと、エドモンドがとろけるような笑みを浮かべた。彼の表情がアイリスの胸を熱くさせる。エドモンドのエスコートで歩きながら、喜びと楽しさで心臓が高鳴った。


「すごいわ。なぜ、あのような重そうで動きにくそうなドレスを着て歩けるの。足音もしないし、流れるように歩く姿が美しいわ」

 クロエの声が聞こえてきた。アイリスが部屋から出るときにクロエとマチルダとの会話が聞こえてくる。


「お母さん。お母さんが言う本物の淑女というものがわかったように思うわ」

「クロエ、あなたはまだまだわかっていませんよ。ミアと一緒に厳しくしつけるから覚悟しなさい」


 アイリスは思わず小さく笑ってしまった。











 首都カサノバで最高級と称されているホテルシャングリラには続々と要人が到着していた。招待客は三千人で、国内外からも多くの要人が出席するとされている。ロビアナの王太后の帰国前に出席される舞踏会であったため、元首をはじめ政府関係も参列することで、ホテルの周りは物々しい警備が配置されていた。

 この日のために通常の宿泊者は入れておらず、ホテル内は従業員と警備の者を含めてパーティー関係者以外は立ち入り禁止となっていた。そのため、ホテルの中に入れない報道陣たちがホテルの玄関口に群がっていた。


 玄関口に続々と車が到着するとパーティーの出席者が降りて、中に入っていく。出席者が来るたびにフラッシュがたかれ、写真が撮られた。

 そのホテルのエントランスのポーチに後部座席が広い車が止まると一組の男女が降りた。その一組の男女の装いに周りからどよめきが起こる。周りから眩しいほどのフラッシュがたかれる中、若く美しい二人は周りを気にすることなくエントランスの中に消えてしまった。


 アイリスはホテルの中に入ると、エドモンドとともに案内に従って、二階にある会場へと向かった。ホテルシャングリラが誇る国内屈指の舞踏会場である。

 エドモンドから説明されている舞踏会の流れは、主催者のアンダーソン家の当主ジョンソン・アンダーソンからの挨拶から始まり、元首の挨拶と乾杯と続く。そして、少し時間をおいて舞踏会が始まる流れであるが、その最初のダンスをアイリスとエドモンドの二人が踊ることになっていた。そのダンスを終えた後に他の者たちのダンスが始まる流れである。

 王太后のお言葉は最後になると聞いていた。王太后が今回の舞踏会に出席することで何とか及第点を得られたが、彼女が最後に言う言葉によって今回の外交の成果が判明する。彼女がこの舞踏会を気に入らなければ、お互いの友好の懸け橋になるような言葉は賜れないということだ。


 ロビアナの王太后の来日は当初に比べて注目度が上がり、報道でも外交の失敗かと騒がれた。注目度が上がった理由は、王太后が舞踏会を出席するうえで提示した内容が新聞記事に載ってしまったからだ。帰国前の舞踏会でダンスは成功するのか、それとも笑いものになるのか、そんな面白おかしく書かれた記事さえもあった。そのため、人々の関心はファーストダンスを誰が踊るのかに向けられた。

 ファーストダンスを踊る者たちがどこの誰なのかは明示されていないことが、より報道を加熱させた。


 加熱する報道に対して政府は規制をしているが、ホテル内や会場内に潜り込もうとする者たちが後をたたない。そのためアイリスとエドモンドはホテルに入るとすぐに別室に案内された。

 別室はジョンソン・アンダーソンの気づかいであり、本番までなるべく疲れさせないようにするためであった。そしてファーストダンスを終わるまでは、二人の周辺は要人に匹敵するほどの厳戒態勢がとられていた。


「エドモンド、大変なことになっていますね」

「ええ、報道が過熱しているせいで、かなり危険な方法で会場内に潜り込む者も多いらしいです。スクープを取るためでしょう。私たちには護衛がつきます」

 

 エドモンドの説明では、このまま会場には入らずに元首のスピーチや乾杯は横にある待機場所で会場内を見ることになるということであった。一緒に来たマチルダたちは、他の招待客と一緒に会場で始まりを待っているであろう。

 アイリスは体力を温存するために素直に椅子に座った。


「アイリス、少し隣の部屋にいる警護の者たちと話してきます。扉を開けておきますので、何かあったら声をかけてください」


 アイリスが頷くと、エドモンドは入ってきた扉とは違う扉を開き、扉を閉じることなく隣の部屋にいった。一人になると、ほっと息を吐き出す。

 アイリスはこのような大舞台で踊ることに緊張するかと思っていたが、平然としていた。考えてみれば、これまでもセロース内の王室主催のパーティーや他国の要人が出席する式典に晩餐会とディーンマーク家として出席していた。各国の王侯貴族や元首とも会話をしてきたのだから、いまさら緊張するようなことはなかった。

 アイリスには要人たちと会話ができる知識とマナーが身についていており、当たりまえのように対応できるようになっていた。


「あら、不思議だわ。まさか別の大陸に来てまでディーンマーク侯爵をしているとは思わなかったわ。これから舞踏会でセロースのディーンマーク侯爵と紹介されるのよね。最初はただ、大叔母に会いにこの地にきただけだったのに」


 なぜか笑いが込みあげてくる。ロベルトに当主であることに揺らいでいると言っておきながら、当たり前のようにこれから大勢の前でディーンマーク侯爵としてダンスをするのだ。


「昨日はあれほどロベルトに泣き言をいったのに」


 あれからアイリスは、ロベルトの問いをずっと考えていた。


”あなたがもし何も持っていなく、何をしても自由であった場合、あなたはこれから自分が生きるうえで何をしたいですか?”


 この質問を何度も自分自身に問いかけてみた。そして、アイリスの中で思い浮かぶことはいつも故郷のことであった。今年の作物はどうであろうか。綿花は順調に成長しているだろうか。ああ、町にある病院をもっと改善する必要がある。ディーン城の修復工事をしないと、予算は、人手はどうするのだろうか。

 そして、あの美しい深き森に住む幻獣たちを思い出し、いとおしかった。


「私は故郷を愛している。私は故郷のために何かをしたい」


 あまりにもはっきりとした答えに、アイリスは声を上げて笑ってしまった。ディーンマーク家や当主など関係なく、それは純粋な思いであった。


 静かな部屋の中で扉が叩かれる音が響き、アイリスは思考の中から戻り、扉のほうを見た。返事はしなかったが少したって扉が開かれた。

 レイナ・アンダーソンがいつもとは違い少しクラシカルなドレスを身に着け、立っていた。


「少しお話をしてもいいかしら」

「ええ、どうぞ」

 レイナはアイリスの姿をしばらく見つめていたが、どこか沈んだ顔で部屋の中に入ってきた。


「お座りになったらいかがですか?」

「いいえ、すぐに去りますので、このままでもよろしいかしら」


 レイナはアイリスの前に立つと、まっすぐとアイリスを見据えた。アイリスはレイナを見つめながら、彼女が自分に会いにくるのではないかと思っていた。レイナにとっては、アイリスがエドモンドとダンスを踊ることは苦しい現実であるからだ。

 

「本当に今日はいろいろとありますのね」

 アイリスはぽつりと小さな声で呟いた。レイナが不思議そうな顔をしたが、軽く首を左右に振り、話を促した。


「私は今日のダンスのパートナーをエドモンドにお願いしました」

 アイリスはレイナの突然の告白に驚きながらも、真剣に彼女の話に耳を傾けた。


「ええ、でも」

「私はエドモンドに断られました。‥‥あなたはエドモンドの元婚約者であったルーシーの話は聞いているかしら?」

「はい。エドモンドから話をうかがいました」

 アイリスの答えにレイナは驚いたように目を見開いた。そして、小さなうめき声を上げると唇を震わせる。

「エドモンドはあなたを本当に信頼しているのね。この三年間、私から話すことはあっても彼からは一切、ルーシーの話はしなかった。私には見せなかったのに、あなたには苦しさを見せるのね」

 レイナは少し視線を下に向けた。


「私の話を聞いてもらえるかしら」

「ええ、聞きましょう」

「エドモンドの元婚約者だったルーシーは私の大切な従妹だった。でも、私は彼女の恋人だったエドモンドのことを好きになってしまったの。もちろん、あきらめたわ。好きになってはいけない理由をたくさん考え、何度も自分に言いきかせてきた。ルーシーと婚約してしまったのだから、あきらめるしかないでしょう。そのルーシーが事故で亡くなって、私はやっぱりあきらめきれなかった」


 レイナの率直な言葉に、アイリスは深く息を吸い込んで心を落ち着かせた。レイナの顔が泣きそうなほど歪んだ。

「ルーシーに罪悪感を持ったけど、それでも自分の心に嘘はつけないわ。ルーシーの話を聞いたというのなら、私がルーシーを追い詰めたことも知っているのでしょう?」

「いいえ」

「エドモンドは知っていたはずよ。だから私の気持ちを受け取ることはなかったし、私をゆるさなかった。私はルーシーを家族として愛していて、そしてとても彼女に囚われていた。私はエドモンドと婚約したルーシーを見るのが嫌で、心が疲弊してしまった。そんな私の状態をルーシーはわかっていたから、アンダーソン家に帰らなかったのよ」

 

 アイリスはレイナの話を聞きながら、心が乱れることはなかった。なぜなら、これはすべて過去の話だからだ。すべては終わったことで、誰もどうすることもできない過去の話だ。


「だから父は、私のためにルーシーをアンダーソン家から追い出した。ルーシーはアンダーソン家から見放されたと絶望して事故を起こしたわ。私のせいなのよ」

 

 レイナの告白はとてもつらいものであった。エドモンドもミアも、そしてレイナもそれぞれが自分を責め、後悔と罪悪感に囚われていた。


「愚かだと思うでしょう?ルーシーの事故は私のせいなのに、それでも彼を思う気持ちが消えないのよ。彼が私を選ばないとわかっていても、それでも彼が大切なの。彼を幸せにできるのなら何でもするわ」


 その言葉がレイナの本音なのだろう。アイリスは、エミリーが言っていた‟本当に可哀そうなほど健気な人"という言葉の意味を知った。レイナは真正面から燃えるような目でアイリスを見た。


「ここに来た理由は、あなたの気持ちが知りたくて来たの」

「私の気持ちですか?」

 アイリスの心臓が大きく鼓動する。


「私はエドモンドを愛しています。心から大切に思っているし、彼をあきらめきれない」


 アイリスはレイナの情熱とまっすぐな心を素直に称賛した。レイナは本当に新しい大陸、新しい国の女性であった。古き大陸でははっきりと物をいう女性は良く思われなく、意思の強い女性は周りからたたかれる。何も言わずに男性に従うことが、特に貴族の女性の美徳とされてきた。

 アイリスもこれまで自分の気持ちを言うことは控えてきた。淑女として、彼女のようなあからさまな言葉を言うことは恥ずかしいことだと思ってきた。


「あなたはどのように思っているの?あなたは彼を置いて古き大陸に帰るのなら、私はあきらめないわ」


 その強さとエドモンドに対する真剣な思いを見せられ、レイナの情熱が恥ずかしいことだとは思えなかった。その真剣なむきだしの思いに、目が覚めるようであった。そして、アイリスはこのときロベルトの言葉を思い出した。


 ”時代は変わりました。古き大陸も新しい大陸も近くなりました。良い時代になりましたね。”


 そう、時代は変わり、もう古き大陸で培われてきた価値観にこだわる必要はない。ここは新しい大陸で自分の心を告げることは恥ではないのだ。レイナは真正面からアイリスと向き合ってきた。それなら、アイリスもそれを受けとめる必要がある。エドモンドを思う気持ちなら負けるつもりはない。

 アイリスは毅然とレイナを見据えた。


「私はエドモンドを愛しています」


 アイリスは自然と笑みを浮かべていた。これまでの考えに囚われる必要はない。やれることはやればいいではないかと新しい考えがうまれる。そう、やりたければ全部やればいい。

 大切なことさえわかっていれば、あとはいくらでも変えることができる。


「私は確かに自国に帰らなければなりませんが、こちらにはいつでも来られます。離れていることが永遠の別れとは思っていません。どんなに距離があろうとも、あなたと同じように諦めるつもりはありません。一緒にいるために色々な方法を考え、行動するでしょう」


 レイナは言葉を失い、ゆっくりと視線を床へと落とした。彼女は静かにアイリスの言葉を噛みしめ、軽く目を閉じた。アイリスには彼女の気持ちがわかるような気がした。彼女は自分の心に整理をつけるために、アイリスのもとに来たのだ。

 レイナがこちらを見たときには、まるでずっと肩肘を張っていた体の力を抜いたかのように、彼女の顔から険しさがなくなっていた。


「答えてくれて、ありがとうございます。これから舞踏会が始まるわ。わが家にとってとても大切な式典です。あなたのダンスが成功することを心から祈っています。でも、あなたにとってこれから起こることは挑戦ではなく、当たり前にこなすことの一つなのでしょうね」

 レイナの美しい顔がほほ笑んだ。

「あなたは緊張も気負いもないわ。悔しいけど、このような大舞台で、私にはあなたのように踊ることはできないでしょう。本当に、私はあなたのことが好きではないわ」


 レイナの言葉にアイリスは心の中で「私もあなたのことは苦手です」と答えた。レイナが言うように緊張などなく、それどころかエドモンドと踊ることが嬉しく、楽しみでさえもあった。


「あなたも舞踏会で踊られるのでしょう。気負う必要などありません。ダンスを楽しみましょう」  


 レイナは何も言わずに軽く会釈すると、まっすぐと顔を上げて部屋を出て行った。アイリスはほっと息を吐き出すと、胸に手を当てた。そして、なぜか楽しくて笑いたくなってきた。自分の気持ちに正直になることが、こんなにも楽になることだとは思わなかった。


「アイリス」

 エドモンドが隣の部屋から戻ってくるとアイリスの側に来る。


「どうかしたのですか?誰か来たのですか?なぜ、笑っているのですか?」


 銀の瞳がアイリスの顔をのぞき込むように見つめた。アイリスは瞬きを繰り返し、そんな彼の視線がいつでもまっすぐに自分を見ていることに気がついた。これまで恥ずかしくて、エドモンドがこちらを見ているときはすぐに視線をそらしていたので、気づくことができなかった。

 これまで自分に自信がなかったせいで、どれだけいろんなことを見過ごしてきたのだろうかと、アイリスは情けない気持ちになった。


「いいえ、何もございません」

「そうですか。アイリス、さあ、始まりますよ。会場に行きましょう」

 アイリスはまっすぐとエドモンドを見つめ、差し出してきた手を取り、立ち上がった。


 この大陸に来たときに感じていた孤独は、もうアイリスの中にはなかった。





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