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「大叔母様、もうベッドで寝ている必要はありませんので着替えます」
「大丈夫なの?」
アイリスはベッドから出るとふらつきもなく、何も問題がない姿をマチルダに見せた。エドモンドと話したことで気持ちも落ち着き、何よりもネグリジェの格好のままでいるのが恥ずかしかったからだ。
「それなら、私は少し部屋を出るから着替えなさい」
マチルダが部屋を出て行くと、アイリスはすぐにいつものグレーのワンピースに着替え、身支度を整えた。二人掛けのソファに座って、食事をのせたトレーをテーブルに置くと、マチルダが戻ってきた。
「大叔母様、食事をいただきます」
アイリスはスープとパンだけの軽い食事をとりながら、大叔母の様子を気にしていた。マチルダは少し顔色が悪く疲れた様子であったが、アイリスの隣に座り、お手伝いの女性が持ってきた紅茶を飲んでいた。
「大叔母様」
「まあ、アイリス、お話は食事を終えてからよ」
そう言われてしまえば、食事に専念するしかない。アイリスが気になっていることはミアのことであった。そして、マチルダが部屋に来た理由もミアの話をするためだろう。食事を終えると、マチルダはトレーをテーブルの端に置き、暖かい紅茶を勧めてきた。アイリスは素直に一口紅茶を飲むと、ようやくミアの話を切り出した。
「大叔母様、ミアはどうしていますか?」
マチルダはアイリスに体を向けると頭を下げた。
「本当に申しわけなかったわ。今回のことはすべてミアの責任です」
アイリスは一瞬息を飲み、マチルダの顔を見ることができなかった。ミアが行ったことは些細なあやまちではゆるされないことであったからだ。
「あの子のことを許してほしいわけではないの。私は母親として、あの子の愚かな行為を謝罪したい」
マチルダの言葉にアイリスは顔を上げた。
「でも、ミアは必死に助けようとしてくれました」
ランドルフにしがみつき、阻止しようとしてくれた。ミアの行動が、本気であのようなことになるとは思っていなかったことを示していた。
「ええ、そのときの状況を聞いたわ。それさえもしていなかったら、私はあの子と本気で絶縁していたところよ」
マチルダの口調はとても厳しいものであった。
「ミアは大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫よ。ただ、元婚約者のランドルフがあなたにしたことや、事の顛末を聞いて、とてもショックを受けている。最初は震えてまともに話せなかったほどよ」
マチルダはミアの不安定な様子に動揺することなく、冷静であった。彼女はミアに対して徹底した厳しい態度を示していた。
「ミアが精神的にショックを受けているのに、同情しない母親を冷たいと思うかしら?私はミアに同情などできないわ。被害者はあなたであって、ミアではない。あの子はあなたを早く国に帰らせたくて、あのようなことをしたのよ。あなたをエドモンドから離したかった。それは、自分を守るためだった。だから元婚約者があなたに気持ちがあり、もう一度関係をやり直したいという言葉を自分の都合で鵜呑みにした。本当に腹立たしいほど短絡的な思考だわ」
「大叔母様、ミアとランドルフ様との間にいったい何があったのですか?」
マチルダは深くため息をつくと、一気に老いた表情になった。マチルダはショックを受けているミアから根気よくランドルフとの関係を問い質したという。
「ランドルフの方からミアに声をかけてきたのよ。もちろん、あなたとランドルフがパーティーで会った後のことです。会ったのは二回だけで、パーティーのときと外で声をかけられたときのみ。あとは電話が一回だけだと言っていたわ」
「それだけで、あれほどうまく私をあの場所に連れて行き、さらうことができたというのですか?」
マチルダは小さくうなずいた。
「ランドルフが相当狡猾な男性だったということね。パーティーのときは、短い時間で自分の名前と貴族としての身分、そしてアイリスの元婚約者というだけの話をした。そして、二回目のときは偶然を装って町でミアに声をかけ、大勢の人がいてオープンな場所ならミアも安心して話を聞くだろうと喫茶店を選び、案の定、ミアは誘いに乗ったわ。女性に慣れている人ならミアは簡単だったでしょうね」
アイリスが喫茶店でミアとランドルフらしい男性を見たのは、二回目の接触のときだったということだ。
「あの方は話がお上手ですから、そうでしょう」
「その二回目のときに、ランドルフはアイリスにまだ思いがあるとことをミアに話した。三年前のことを、お互いに結婚する意志があったのに婚約が解消になったのは、子爵家に問題があったからだと話したそうよ。アイリスと自分はとても思いあっていたのに家のために引き裂かれたとね。彼は、そのときは仕方がなく身を引いたが、家など関係なく、もう一度話がしたいと言ったそうよ」
アイリスは呆れかえった。
「それらしい話に聞こえますが、まったくの嘘ではありませんか」
「そうね。私もあまりの話に驚きましたよ。それから彼は、アイリスは家のことを思って頑なに自分を避け、会ってくれないと言っていたとか。あなたのことも家のためなら自分の思いを封じ、犠牲になることをいとわない人だとミアに話したそうよ」
「腹立たしくなってきました」
「ええ、本当に腹が立つわよね。でも、あの子は完全にランドルフに同情したのよ。ミアにはあなたの家のことや婚約を解消した理由を詳しく話していなかった。パーティーであなたが倒れそうになった理由が、元婚約者に会ったせいだということはエミリーやミアも知っていたし、不穏な気配は感じていたでしょうね。しかし私やエドモンドは、ランドルフが危険な人だとは話していなかった。まさか、ミアに近づくとは思わなかったのよ。ミアはあの男の本性も知らずに、アイリスと会わせてほしいという彼の望みに承諾してしまった」
「大叔母様、ミアはそこでおかしいと思わなかったのでしょうか?まともな紳士でしたら、クラーク家に連絡を取るでしょう。人を使って影で会おうとする時点で、とんでもない方ではありませんか」
マチルダは大きくため息をついた。
「その通りよ。あの子も不審に思ったそうだけど、うまくランドルフの口車に乗せられたのね。ミアは単純ですから、貴族的な話し方でもっともらしい話をされれば騙されるでしょう。ランドルフはミアに、アイリスは家のために自分と会わないようにしていると嘘をついたの。自分の名前を出せば、アイリスは家のために会うことを避けるだろうから、彼女に知られないようにして連れてきてほしいと言った。そこで偶然を装って会えば、アイリスは知らなかったのだから彼女の実家は責めようがないとね」
その話に頭を抱えたくなった。マチルダも同じなのだろう。顔色が悪かった。
「ランドルフは一度だけだとミアに願ったわ。ミアは一度だけならと約束してしまった。それから、ランドフルは会う場所を用意するから、それが整ったら連絡をすると言ったそうよ」
それからマチルダは、ランドルフが、なぜ、あの日に計画を実行したのかを教えてくれた。ランドルフはアイリスに近づくために、クラーク家の屋敷に出入りしている人を調べていたという。この情報はダニエルが依頼している興信所が調べたことであった。
ランドルフはここ最近、頻繁にエドモンドが屋敷に来ていることを知ったのだろう。パーティーでエドモンドがアイリスをエスコートしていたのも知っていたし、ランドルフからアイリスを守って彼を追い払ったのもエドモンドだ。煩わしいエドモンドを屋敷に来させないようにするため、あの日、エディオン海運に古き大陸の貴族である男性を向かわせた。
「ランドルフの悪い仲間というところね。お金を渡して騒ぐように依頼したのよ。その男性は本物の貴族であり、家の爵位だけは高かったわ。エディオン海運が取引している貴族家につながる者だから会社の方でも邪険にはできなかった。その者と対応するためにエドモンドは午後の予定を変更したのよ。ランドルフは計画通りに、前日にミアに電話をしていた。大胆なことにわが家に電話をしてミアと話をしたのよ」
「ミアはその電話で、ランドルフからあの宝石店に行くように指示をされたということですね」
「そう。有名な老舗の宝石店であったことと、そこの応接室を借りているからと言われて信用したのでしょう。少しの時間、話をするだけだと言われたそうよ。ミアは店の中で待ち、終われば一緒に帰ればいいという話だった。そんなに大事になるようなことではないと思ったのね」
「あの宝石店も仲間だったということですか?」
マチルダは苦笑いした。
「あのお店自体は関係ないわね。あのお店の従業員の一人がランドルフとつながっていたのよ。あのとき、ランドルフを裏口から招き入れ、商談室周辺は人払いをしていたということね」
アイリスは何とも言いようがなく、軽く頭を左右に振った。ランドルフがとても言葉巧みなことはアイリスもわかっていた。彼に騙された女性はたくさんいる。それでもミアがあのような行動を取る理由にはならない。それはマチルダもわかっているのだろう。
「あの子は本当にばかなことをしたわ。そもそも、ランドルフが嘘をついてアイリスの元婚約者でない可能性だってあるのよ。あの子が、まだ普通の家よりも資産がある家の娘である意識がないということがよくわかったわ。ランドルフじゃなくても、資産を持つ家の者を狙う危険な人間はたくさんいるのよ。うかつに連絡を取り合い、あのような指定した場所にあなたを騙すように連れて行くなんて、ゆるせることではないのよ」
マチルダの怒りがよく理解できた。確かにミアの行動はとても危険なものであった。
「そのように危険意識がないのではミア自身も危険です。ミアはランドルフにいいように動かされたということですね」
「その通りよ。ミアは警察に事情を聞かれるでしょうけど、罪になるようなことはないわ。しかし、私がゆるさないわ。私は今後、今まで以上に厳しくミアに上流階級のマナーを教えるわ。どんな危険や恐ろしい罠があるのかも含めてね。もう遠慮はしないわ。あの子があなたに何を言ったのかはわからないけど、あの子の自分勝手な言葉を受け止める必要などないのよ」
アイリスはマチルダに向けて小さくうなずいた。ミアとの関係はこれからどうなるのか。そっとこのままお互いに距離を取るしかないだろう。
ミアの言葉を受け止める必要はないと言われたが、一つだけ彼女の言葉で受け止める必要がある言葉があった。国に帰るのだからエドモンドを困らせるな、その言葉はアイリスの心に突き刺さっていた。
「長々と話をしてしまったわね。疲れたでしょう?もう少し休みなさい」
黙り込んでしまったアイリスに、マチルダは優しく肩を撫でて労った。しばらくアイリスの様子を見ていたが、小さくため息を吐いた。
「また様子を見に来るわね」
その言葉を残して、マチルダは部屋を出ていった。
ミアの言葉を思い出すと、目を逸らしていた現実を突きつけられた。エドモンドに対する信頼と思いはアイリスの中で重みを増し、深い苦悩を生みだした。
エドモンドから求婚されてからはダンスを踊ることに集中し、敢えて答えを出さないようにしていたが、もう目を逸らすことはできない。エドモンドと一緒にいる時間が多くなればなるほど幸せであったし、もう自分の答えは決まっていた。ダンスを踊るたびに心が弾み、エドモンドに恋焦がれていた。昨日、エドモンドが助けに来たことで、愛しているのだと自分の心を知った。
「でも、彼との結婚は現実的ではないわ」
エドモンドはこの国からも家族からも離れることはできない。そしてアイリスはセロースから離れることができない。かつてマチルダがしたように家やすべてを捨てニューキャッセスに残るか、エドモンドとの結婚をあきらめてセロースに戻るのか。どちらをとってもアイリスには苦しみでしかなかった。
そして、今こそあの古い屋敷で話したときに、エドモンドに問われた答えを出すときであった。
「私はディーンマーク家の当主をこのさき続けるのか。私はこれからどうしたらよいのか。私は当主として自信など持っていない」
まるで自分の心の中に天秤があるかのようにぐらぐらと揺らぎ、どちらかを切り捨てて決めることなどできなかった。
部屋の扉がノックされ、アイリスは顔を上げた。
「はい」
かすれた声で返事をすると扉が開き、懐かしい人が大きな箱を持って入ってきた。セロースを離れてまだ一カ月ほどだというのに、心強いディーンマーク家の執事の顔を見て安心してしまった。そして、その後ろには弁護士バルフォアドも一緒であった。
「アイリス様、私が参りました。ご安心ください」
老いた顔に笑みを浮かべ、持っていた大きな箱やバッグをテーブルの上に置くと、アイリスの側に立ち、いつもの見慣れたしぐさで右手を胸に当て挨拶をした。いつものきっちりとしたモーニングコートの姿は、ここオーガスト国では見慣れない服装であり、とても時代がかった雰囲気であった。
「ロベルト、来たのですね」
「はい。ご無事でようございました。本当にクラーク家の方々には感謝しかございません。よくぞアイリス様をお助けくださいました」
「はい」
「お怪我はないと聞いておりましたが、どこかお加減が悪いところがあるのですか?お顔色が悪いですね。それとも、ベッドに横になっていたほうが良いのではありませんか?」
さっそくとばかりに世話をする執事に、一緒に来ていた弁護士はあきれた顔をした。
「ロベルト殿、気持ちはわかるが少し落ち着いたらどうだ」
いつも柔和な雰囲気の執事が珍しくじろりとバルフォアドを見たが、すぐにまっすぐと立つとアイリスに謝罪した。
「申しわけございません。お休みになられるのであれば、我々は失礼しましょう」
「いいえ、心配ありません。お二人にもお話がしたかったのです。先生、どうぞソファにお座りください。ロベルトは‥‥あなたは座らないわね」
「私はこのままで」
ロベルトはにっこりとアイリスの傍らに立ち、バルフォアドはアイリスの隣に座った。アイリスはディーンマーク家の執事を見つめ、ランドルフの件でどうしても気になっていたことを聞くことにした。
「エドモンドに聞きました。ランドルフ様のことを秘密裏に調べていたことです。一つだけ確認したいことがあります」
「はい。ご相談せずに行いましたこと、責めを負うつもりでございます」
「ロベルト、私はクラーク家の方々と一緒に動いていたことに関して、咎めるつもりはありません。しかし、この件に関しては少々見逃すことはできませんよ」
「はい、どのような件でしょうか?」
アイリスはじっとロベルトを見つめながら、そのことを口にした。
「あなたはランドルフ様の銀行口座を凍結したのですか?」
ロベルトは動揺することもなく、いつも通りの表情で答える。
「さて、どうでしょうか。あの方はセロースで容疑者となり、国からその証明を発行していただく際にその理由を問われましたので、ニューキャッセスのオーガスト国の警察も動くだろうと進言しました。あちらの国でも彼は同じことをしていますと」
ロベルトがセロースを出発するときは、こちらではまだ警察に通報もしていなかったというのに、よくそのようなことを言ったものだ。
「それでは、セロースの国が行ったというのですか?」
「私は、あの方がオーガストで行ったことを国の機関に話しました。上流階級の夫人の資産を自分の物にし、資産家の令嬢からも多額のお金を受け取っていました。もう、この時点でオーガストに対しても、セロースに対しても税金を逃れております。セロースはこの件も重視し、ランドルフの銀行口座を止めることに踏み切ったのだと思います」
アイリスはロベルトの説明に少し首をかしげた。
「昨日、それが実行されたということでしょうか?とてもタイミングが良くありませんか?」
「物事は決定したからといって、すぐに実行されるわけではございません。ちょうどタイミングよく実行されたのが、昨日だったということでしょう」
アイリスは疑わしそうな目でロベルトを見た。ロベルトはアイリスが誘拐された時点で、ランドルフがオーガストから逃亡する可能性を考えていたはずだ。その逃亡を阻止するために銀行口座を凍結され、お金を引き出せなくさせたのではないかと考えた。
ロベルトが、セロースにディーンマーク家の権威を行使したのではないかとアイリスは思った。それはランドルフがディーン地方はいまだにディーンマーク家の支配下にあり、その権威を侮っていないと言った言葉を思い出してのことだ。
ロベルトの一族は古くからディーンマーク家を守る一族であり、領主として土地と民を支配していた時代には代官として当主の次に権限を持っていた。当主がいないときはディーンマーク家を守るときのみ、その力を行使してきた。時代が変わり代官から執事へと名称は変わったが、ディーンマーク家の中での立場は変わっていない。
「アイリス様、あの方のことでもう悩まれる必要はございません。どうぞ、あとは司法の手にお任せください」
「ええ、そうですね」
「でも、別なお悩みがあるようですね」
子供のころから側にいた執事にとって、アイリスの心など簡単に読めるのかもしれない。アイリスはディーンマーク家を捨てることを考えたと知られたら、どのように思われるのかと心が震えた。
「‥‥いいえ」
「それではご帰国に関していかがお考えですか?」
ディーンマーク家の優秀な執事に誤魔化すことなどできないかもしれない。アイリスは俯きながら観念した。
「ロベルト、昔、両親が亡くなってすぐのときに、私は何度も、なぜ、私が当主になるのかとあなたに聞いたことがありました」
「お懐かしいですね。旦那様にお聞きすることができなく、私にお尋ねになりましたね。なぜ、自分が当主になるのか。ならなくてもよいのかと聞かれましたね」
「ええ、だって、とてもお勉強が大変だったので、なぜこんなことをやるのかと思ったのです。ロベルトはそのときディーンマーク家には私しかいないからだと答えました。私はその答えにそうなのかと単純に思いました」
「はい」
アイリスはロベルトに話しながら、今さらであるが心の奥底で自分が当主であることに、ずっと疑問を持っていたのだということに気がついた。今はエドモンドと一緒にいたいために当主であることを悩んでいるのか、それとももともと当主になりたくなかったのか、わからなくなってきた。
「私はディーンマーク家の当主であるべきか悩んでいます。情けないことに、当主でなければどうであっただろうかと考えてしまいました。両親が生きていたら、私は今と違っていたのだろうかと。今、とても心が揺れています」
この情けなくも自信のない告白に、アイリスは顔を上げて長年仕えてきた者たちを見ることができなかった。
「そのように悩まれるとは、それはすばらしいことです」
明るくはっきりとした声が聞こえ、驚きのあまり顔を上げた。ロベルトは楽しそうな顔でアイリスを見ていた。そして、となりに座るバルフォアドも同じように晴ればれとした顔をしていた。
「すばらしいことなのですか?」
「ええ、アイリス様、歴代の当主たちも散々悩み、自問自答したことでしょう。旦那様も、アイリス様の祖父エドワード様もそれはもう大いに悩んでおられました。エドワード様は、本当は当主などなりたくなかったのですよ。若いころは画家になりたいと散々ごねておられました。それを宥めすかして仕事をしてもらいましたが、早くアンドリュー様に引き継がせて引退したいとおっしゃっていました」
祖父が当主になりたくなかったという話に驚きながらも、それでも逃げる道はなかったのだとアイリスは心の中で落胆した。
「旦那様が当主にならない道もありましたが、結局はご自分で当主になることをお決めになりました。さんざん悩まれて、画家よりも当主になりたいとおっしゃられたのですよ」
「逃げ道がなく、当主になるしか道がなかったからではないのですか?」
ロベルトは懐かしそうな表情で否定した。
「いいえ、本当に当主になりたくなければ、どんな方法を使ってでも人はやりませんよ。マチルダ様のようにすべてを捨てることや、そうですね、ディーンマークの爵位を返上する方法もあります。旦那様もいざというときは、爵位を返上しようと思ったとおっしゃられておりました」
当主をしなくても良い方法がある。そのように執事に言われても、アイリスの心が晴れることはなかった。
ロベルトは少しほほ笑みながら、まっすぐとアイリスの目を見た。
「アイリス様、それではあなたにお聞きします。一旦、ディーンマーク家のことはお忘れください」
「ロベルト?」
「あなたがもし何も持っていなく、何をしても自由であった場合、あなたはこれから自分が生きるうえで何をしたいですか?」
「え?」
「あなたは生きるうえで何を選びますか?」
その問いに、すぐに言葉が出てこなかった。祖父のように絵描きになりたいとか、そういうものが何も出てこなかったからだ。そして、エドモンドと結婚して彼と一緒に住むことだけが望みだろうかと考えたとき、未練のようにこれまでしてきた様々な事業の取り組みを思い出した。
「私は‥‥」
ロベルトはその場にひざまずき、アイリスの手を取った。
「執事としての立場ではなく、私として話をさせてください。何をするのか、どうやって生きていくのかを悩むのは当たりまえのことです。侯爵であろうと店主であろうと誰もが選び決断して進んでいくのは同じなのですよ。私の一族はディーンマーク家に仕え、祖父の代から執事を務めていたため、子供の頃から決められて教育をされました。これがあなたには決められた道のように思われるかもしれませんが、私は自分の意志と誇りを持ってこの道に進みました。何一つとして後悔はありません。どうぞ、あなたさまも自分の心に従い、後悔がないようにお選びください」
それが自分自身で生きるということだと言われたように思えた。アイリスは大きく息を吐き出し、ロベルトの言葉を深く受け止めた。バルフォアドはやさしくアイリスの肩を撫でた。
「心を決めるのは己でも、一人で考える必要はないのですよ。誰かに相談してもよい。自分一人のことでないのなら、よけいにそうです」
「え?」
アイリスは老紳士の言葉の意味がわからずに困惑した。ロベルトもにっこりとうなずくと、バルフォアドに同意した。
「先生のおっしゃる通りです。どうぞ、私たちにご相談ください。それにアイリス様がセロースに帰りたくないとおっしゃるなら、それでも良いと思います。もし当主をされたいけれども、ここに残りたいとおっしゃるなら、その両方を叶える方法を考えればよいだけです」
「え??」
突拍子もない意見に今度こそアイリスは呆けた。バルフォアドは落ち着かせるように、アイリスの肩をまたやさしく撫でた。そして、ロベルトは得意げな顔で笑った。
「アイリス様、ここは自由な国ですよ。新しい価値観があり、自由で、どんな発想をしてもよい国です。 そもそも、もし帰るのか残るのかに縛られているのでしたらナンセンスなことです」
「そ、そんなことは可能なのですか?」
しどろもどろになりながら、ロベルトの手を握りしめていた。老人は茶目っ気たっぷりに、普段真面目な執事がウインクした。
「もちろんです。昔と違いニューキャッセスも近くなりました。ここまで一週間で来られるのですから、必要であれば行き来すればよいだけではありませんか。話しだけなら電話を使えばいいですし、いかようにもやり方があるというもの。二度とこの地に来られないという永遠の別れのような場所ではありませんよ。時代は変わり、大陸間の移動も楽になりました。本当に良い時代になりましたね」
アイリスはぽかんと口を開いたまま固まった。真面目な執事の稀なウインク姿を見たという衝撃もさることながら、まったく目から鱗のような話だったからだ。現金なもので心臓の鼓動が激しくなり、体温が上がって一気に気持ちが上昇した。
そして、もう一人の老紳士も楽しそうに笑った。
「アイリス様、どうぞエドモンド様にご相談されたらいい。お二人のことなのだから、お二人で決められたらよろしい。また、きっとエドモンド様もアイリス様にご自身のことを相談されるでしょう。アイリス様、パートナー、いいえ、夫婦とはそういうものですよ」
「まあ、先生。もしかしたら、エドモンドと私のことを知っていらっしゃるのですか?」
厳格な老紳士がウインクしたのだ。アイリスはその姿に顔を真っ赤にさせ、あっけにとられた。ロベルトはアイリスの手を離し立ち上がると、テーブルの上に置いていた大きな箱を手に取った。
「それは?」
ロベルトは小さく「失礼します」というと、箱のふたを開けて中身を見せた。
「それはドレスですか?」
「ロビアナの王太后陛下がご出席なさるパーティーにご参列になると聞きました。王族の方がご出席になるような格式あるパーティーですので、このドレスがよろしいかと思います。このドレスは、ソフィア様がザビラナ皇室の祝典に参列されたときにお召しになったドレスでございます」
「お祖母様のドレスなのですか?なんて、すばらしいのかしら」
アイリスは手を伸ばし、ドレスに触ると感嘆した。腕から背中にかけては濃いブルーの布地で、胸元からスカートまでの布地は白で、腰からふんわりと広がったものであった。ブルーと白の布地はコントラストが美しく、手首あたりで広がるレースも、胸元からお腹のあたりは白の布地に金の糸で繊細な刺繍がされている様もすばらしかった。そしてスカートはギャザーでたくさんのひだがつくられ、足先までふんわりと広がり、胸元と同じデザインで金の刺繍が施されていた。
この布地も最高級のものであろう。ディーンマーク家が金に糸目をつけずに作ったドレスは店で買えるような品物ではなかった。
「あと、こちらもお持ちしました」
バッグから長方形の金属でできた箱を取り出すと、一度、その金属の箱をテーブルの上におき、ロベルトはポケットから小さな布の袋を取り出し、その中から鍵を取った。慎重な手つきで金属の箱の鍵穴に鍵を差し込むと解除の音がした。ゆっくりと蓋を開き、アイリスに見えるように箱を少し傾けた。
「それはまさか、ディーンマーク家の当主の正妻が受け継ぐ宝飾ですか?」
アイリスも実物は見たことがなく、先祖たちの肖像画に描かれている絵の中だけしか知らなかった。ロベルトは貴重なディーンマーク家の家宝とも言える装飾品を、ここまで持ってきた。マチルダがドレスも装飾品も心配ないと言っていたのはこのことだったのだ。
アイリスはパーティーの件で一つ憂いがなくなった。
「侯爵閣下が身に着けるのにふさわしい品でございます」
ロベルトは恭しく一礼をした。




