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 アイリスはダンスのパートナーを引き受けることが決まると、毎日が忙しくなった。

 舞踏会に出席するうえで最初に問題になったのが、アイリスが着るドレスがないことであった。王族の前でダンスを踊るのであれば、この国のタイトなスカートのドレスでは踊りにくく、舞踏会では不適切であった。今から用意するとなると既製品を購入するしかないが、果たして古き大陸で着られているドレスを売っている店があるのかは、この国に疎いアイリスではわからなかった。


 マチルダに頼るしかないのだが、そのマチルダは、

「ドレスのことは問題ないわ」

 この一言のみで理由を説明することなく買いに行く必要はないと断言するだけだ。

 さすがにエドモンドも母に反論したが、マチルダはにっこりとほほ笑み、エドモンドの服もこちらで用意するから問題ないとまで言い切ったのである。


「私が用意したいのですが‥‥」

 そんなエドモンドの言葉もマチルダは次回にしなさいとそっけなく却下し、装飾品に関してもこちらで用意するからの一点張りであった。そうなれば、アイリスもエドモンドもマチルダに任せるしかない。そしてパーティーまであと七日というとにかく時間がないなかで、午前中は一人でダンスの振りを練習し、午後はエドモンドと練習することになった。


 最初はアイリスもエドモンドと二人になることに、嬉しさと緊張でどぎまぎしていたが、すぐにそんな甘い雰囲気は消えた。二人ともやるならば最高のダンスをしたいと、戦場さながらの緊迫感とスパルタ式の反復練習で時間がある限りくり返し踊った。特に問題はエドモンドの方にあり、子供のころに覚えたダンスは一通り踊れるが精度が低く、アイリスの動きについてこられないパートもあった。このときエドモンドの闘争心に火がついたのか、帰る時間ももったいないと、そのまま屋敷に泊って夜も一人でダンスの振りを練習するようになった。

 クラーク家の者たちは、お似合いの二人だとあきれていた。

 

 パーティーまであと二日と迫るなか、アイリスは昼食を終えたころにエドモンドから帰るのは夕方になるとの電話を受けた。


「夕方までどうしましょうか」

 アイリスはこのところの練習で疲れを感じていた。夕方まで体を休めることにして部屋で書類を眺めながらくつろいでいたが、どこか落ち着かない気分であった。


「まだドレスを見ていません」

 マチルダにいくらドレスのことを聞いても、もうすぐ届けられるというだけで詳細を教えてくれないのだ。やはり店に買いに行ったほうがいいのではないかと思うのだが、どこの店で買ったらいいのかわからなかったので行きようがない。

 アイリスはため息混じりでフォスター家の改修工事の書類を読むのだが、集中できなかった。書類をテーブルの上に置くと、ノックの音が聞こえた。


「アイリス、いい?」


 扉を開けて入ってきたのはミアだった。ミアがアイリスに話しかけてくることは珍しく、一週間前にサロンで話して以来、会話らしい会話をしていなかった。


「どうしたのですか?」

「最近、あなた忙しそうじゃない。屋敷にこもりっきりでどこにも出かけていないし、気分転換にこれから一緒に出かけない?」

 ミアは少し口ごもりながら誘うと、アイリスの側にきた。

「いいえ、夕方にはエドモンドと練習がありますので、それほど時間がありません。また次のときに行きましょう」

「夕方までには帰ってくるわ。あなたとは気まずくなってしまって、このままではよくないと思っている。少しでも改善したい」

 ミアの方から関係を改善したいと言われると、無下に断ることができなかった。時計を見ると二時間ぐらいならミアにつきあって外に出るのも良いかと考え直した。


「わかりました。夕方までに戻って来られるのであれば行きます」

 アイリスは立ち上がると、ちょうど扉が開き、クロエとマーシュが入って来た。

「聞いたわ。二人で出かけるでしょう。私たちも行く」

 無邪気にクロエが言うと、ミアが目を見開き、険しい表情になった。

「なぜ?あなたたちは来なくていいのよ」

「なぜ?ミア姉さん。僕たちも一緒だっていいでしょう」

「装飾品の店に行こうと思っていたの。子供がついて来るような場所じゃないわ」

「ねえ、何でそんなに拒むの?おかしいよね。何かやましいことでもあるの?」

 マーシュの顔が真顔になり、ミアをうろんげに見た。ミアはマーシュから視線を逸らすと、小さな声で好きにしたらいいと答えた。


「行きましょう。アイリス」

 ミアがそういうと、すかさずクロエとマーシュがアイリスを挟み、両方から手を握った。ミアはあきれたような顔をしたが何も言わなかった。


 ミアは運転手付きの車を手配しており、早速とばかりに全員で乗り込み、車は高級ブティックの店舗が多いエリアへと向かっていた。アイリスは隣に座るミアを横目に見ながら、何を考えているのだろうかと心配になった。そう思ったのはアイリスだけではなく、助手席に座るマーシュもちらちらとミアを気にしていた。


「どのようなお店に行くのですか?」

「アイリス、あなたはネックレスとかイヤリングを見たいと前に言っていたでしょう。だから、有名店に案内しようと思っているの」

「え?ミア、そんなお店知っているの?」

 不思議そうな顔でアイリスの隣に座るクロエが可愛い顔をしかめた。

「当然よ。私を何だと思っているの」

 ムッとした顔でミアがアイリスを挟んだ隣にいるクロエを睨むと、クロエは「ふうん」と気にない返事をし、それ以上何も言わなかった。アイリスはにぎやかなクロエとマーシュに一緒に来てもらえてよかったと安心する。ミアと二人だとどうしても気まずいと思っていたからだ。

 車は有名ブティックが並ぶ通りをゆっくりと通り、真ん中あたりにある店の前に止まった。玄関はガラス張りになっており、ショーウインドーには個性的なデザインのネックレスが飾られていた。


「ミア、よくこんなお店知っていたね」

 元気よくクロエが降りると、続いてアイリスにミアも車から降りた。マーシュは運転手に何かを言ってから車を降りると、車が動き出した。


「大丈夫だよ。近くの駐車場に止めてくるよ」

 にこにこしながらマーシュがアイリスの側に来ると、アイリスの背中を軽く押して早く入ろうといった。

 店内はかなり広く、モダンエレガントな照明や雰囲気でまとめられており、白の壁に黒い台座のショーケースがおしゃれであった。アイリスはショーケースに入った宝飾品の数々を見ながら、デザインも宝石の品質もなかなかだと思い、真剣に見ることにした。パーティーのときにつける装飾品が買えるかもしれないと思ったからだ。

 ミアはなぜかぴったりとアイリスにつきそい、クロエとマーシュは好きなようにショーケースを覗いていた。


「ミアは見ないのですか?」

「見ている。アイリスは買うの?」

「良いものがあれば買おうと思っています」

 肩から下げているショルダーバッグの中に、しっかりと小切手帳を入れてきていた。ミアはなぜか疑わしげな表情でアイリスを見ていたが、ふっと視線をそらした。

 エドモンドはアイリスに求婚したことを、まだ兄弟たちには言っていないといっていた。ミアがこの話を聞いたらどのように思うのだろうかと、少し心が重くなった。ミアは反対するのではないかと思ったからだ。そう思うと宝飾にあまり目がいかなくなった。


「アイリス、あなたはエドモンド兄さんとダンスを踊るのでしょう」

「ええ」

 小さな声で聞かれ、ショーケースから顔を上げるとミアが真剣な顔でこちらを見ていた。

「あなたはどうするの?」

「それは」

 どういう意味かと聞こうとしたとき、ミアのほうが先に言葉を発した。

「あなたは自分の国に帰るのよね」

 アイリスはその質問に答えられなかった。黙り込むアイリスに、ミアはにらむように見つめ、そしてふっと店の奥へと視線を向けた。


「ねえ、あちらの方にあるものは高級品なの。あちらに行ってみない?」

 ミアはアイリスの手を取ると、店の奥へと歩いて行く。アイリスはとまどいながらもミアに連れられるままに店の奥へと向かった。奥のほうは少し狭い部屋になっており、一段とグレードが高そうな内装であった。その場所には店の者も他の客もいなかった。


「ミア、ちょっと待ってください」

「あなたに話があるの」

 こちらを振り返らずにそういうと、ミアはその先へと歩いた。


「こんな場所まで入ってはいけないのではありませんか?」

「大丈夫よ。商談室よ」

 少し通路になった先に重厚な扉があり、ミアは扉を開くと応接室のような場所にアイリスを連れて入った。内装は豪華な造りで、テーブルにソファが置いてあり、壁には絵画が飾られていた。確かにここは大切な顧客と商談する場所のように見えた。


「ミア、話とは何ですか?なぜこんな場所に来たの?」

「あなたには婚約者がいたのでしょう?」

 アイリスの脳裏にミアと男性が一緒にいた光景が過った。


「ミア、何を言っているの?」

「あなたには婚約者がいた。家の事情で婚約は解消されたと聞いた。でも、彼は今でもあなたのことを思っていると言っていたわ。よく話し合う必要があると思う」 

 まさかと嫌な予感がし、ミアの手を取ろうとした。


「あなたはその人がいるじゃないの。あなたと同じ国の人だわ。あなたは国に帰るのでしょう?エドモンド兄さんを困らせないで」

「ありがとうございます。クラーク嬢。あとは二人で話をさせてください」

 ゾッとする声が背後から聞こえてきた。アイリスが振り返ると、アイリスたちが入ってきた扉とは反対の位置にある扉が開かれ、ランドルフが入ってきた。


「ミア、待って!」

「あなたはその人とよく話し合ったほうがいいわ。それがあなたのためよ」

 ミアが背を向けて入って来た扉へ向かうのを、アイリスはミアに向かって体を動かしたが、その前にランドルフに手首をつかまれた。アイリスは必死に腕を振って、ランドルフの手から逃れようとした。そんなアイリスの動きを、ランドルフは背後からアイリスの上半身を押さえつけた。アイリスは恐ろしさのあまり、必死に声をあげた。


「ミア!助けて!」

 叫ぶような声に、ミアは扉の前で振り返り、もみ合っている二人の姿に愕然とした表情をした。

「あなた、何をしているの!」

「クラーク嬢、あなたは大人しくそこから出ていてください。私はこの人と話がしたいだけですから」

 アイリスは必死に両手両足を動かした。ミアは二人の側に戻ってくると、ランドルフの腕にしがみつきアイリスから離そうとした。


「何をしているの!離しなさいよ!大声を上げるわよ!」

 ランドルフの顔が歪み、空いている手でミアを払いのけた。

「ミア!」

 ミアが悲鳴を上げて床に倒れた。


「困りましたね。私はアイリスとゆっくりと話がしたいだけです。ここでは話ができません」


 ランドルフは左手でアイリスの口を覆い、右手でアイリスの上半身を拘束したまま、彼が入って来た扉へと歩いていく。アイリスは暴れようとしたが身動きができない。

 ミアは起き上がるとアイリスが連れて行かれるのを見て、必死にランドルフの体にすがりつき、止めようとする。


「やめて!やめて!誰か!誰か来て!」 

 大声を上げてすがりつくミアに、ランドルフは力づくで振り払うと、ミアは勢いよく床に倒れた。


「アイリス、あなたがおとなしくしていないと、彼女もどうなるかわかりませんよ。あなたと話ができる場所に行くだけです」


 アイリスはランドルフに引きずられるように歩かされ、廊下に出る。恐怖で震え、荒い息を繰り返しながら、ランドルフに従うしかなかった。店の裏口から外に出ると、そこにはビルとビルの合間の細い道路になっていた。アイリスはランドルフに拘束されたまま歩き、道の先にある車まで連れて行かれると後部座席に乗せられる。ランドルフはすぐに運転席に座り、車を発進させようとしている。

 アイリスは扉を開けようとしたがロックされており、助けを求めようにも周りには誰もいなかった。


「あまり騒ぐようでしたら、騒がないようにさせましょうか?」

 運転しながらじろりと睨まれ、アイリスは後部座席で身を縮めた。

「大丈夫ですよ。ただ、私の望みを叶えてもらえれば危害は加えません」

 ランドルフはミラー越しに、穏やかにほほ笑んだ。








「クロエ!ミアとアイリスがいない」

 マーシュは先ほどまでいた場所に二人がいないことに気がつき、焦りながら店内を見渡した。広い店内には二人の店員が少し離れた場所で接客をしており、客も店員も変わった様子はなかった。ショーケースの中を見ていたクロエは顔を上げると、辺りを見回し、異変に気がついたのか顔色が変わった。少し耳を澄ませるようなしぐさをすると、店内の奥を見た。


「マーシュ、何か奥のほうから声がしたわ!」

 クロエはそういうとすでに店の奥へと向かう。マーシュもクロエの後についていくと、奥は狭い部屋となっており、その先にまだ部屋があるようであった。クロエは一番奥の部屋を指さすのを見て、マーシュはクロエよりも先に前に出てドアノブを握った。この店の店員に声をかける時間がもったいないと、扉を開けて中に飛び込んだ。


「ミア!」

 床に倒れているミアを見つけ、すぐに部屋の中を見回したがアイリスの姿がなかった。マーシュはミアの側に駆け寄ると、ミアはよろよろと上半身を起こした。マーシュは直感的に、この姉がまた何かやらかしたのだと思った。


「マーシュ」

「アイリスはどこ!」

 ミアは真っ青な顔でこの部屋にあるもう一つの扉を指さした。

「アイリスがさらわれた。お願い、早く」

「誰に!なぜ? こんなところにいるの?」

「わ、私がここまで連れてきた」

 荒い息遣いでそういうと、今にも倒れそうな姉をクロエが側に来て支えた。マーシュたちが入ってきた扉の方から人の声が近づいてくる。おそらくこの店の店員が騒ぎを聞きつけて来たのだ。


「誰がさらったの?」

 ミアの掠れた声がその名前を言ったとき、マーシュはミアが指さしたドアへと駆けていた。扉を開けて出て行く前に、早口でクロエに指示をする。


「すぐにエドモンド兄さん、ダニエル兄さん、ジョージ兄さんの順番にアイリスがランドルフに攫われたと連絡をして!」

「わかった!」

 クロエがすぐに立ち上がり、店内のほうに向かうのを見て、マーシュは廊下に出た。廊下の先にはこのビルの裏口が見え、おそらくあそこから外に出たのだと全力で走る。裏口から外に出るとビルとビルの間の細い道になっており、左右を見回すと、左のほうに車の影が見えた。


「あれだ!」

 車がある方へと走ると、あともう少しというところで車が発進し離れていくのが見えた。マーシュは車を追って走ると、後部座席には確かにアイリスがいるのを確認できた。車はスピードを上げていき、離されていく。マーシュはとっさに車のナンバーを見て、頭の中にその数字を繰り返した。車が見えなくなると、肩で息をしながら立ち止まり、息を整えながら悪態をついた。


「最悪、本当に最悪!」

 マーシュはすぐに次の行動に移るために店へと走り出した。








 車はビル街を抜けて郊外へと向かっていた。ランドルフは一言も話さなかったので、アイリスも話しかけることをしなかった。それよりも今は何が起こっているのか自分の中で整理する必要があったからだ。

 いろいろと冷静になってくると、これはあきらかに計画された犯行であった。やはり、あのとき喫茶店で見たミアと一緒にいた男性はランドルフだったのだ。

 アイリスはちらりと運転席へと視線を向けると、ミラー越しに目が合い、ぞっと寒気がした。


「ミアにどんな話をしたのですか?」

「そのままですよ。婚約者であったことも、家の問題で婚約が破談になったのも本当のことでしょう」

「きっと、パーティーで声をかけたのですね」

 ミアとランドルフが知り合うには、その場所しかない。

「そうです。クラーク家の令嬢だと知っていましたから。ずいぶんとあか抜けない人だ。それに、上流社会にいる人とは思えないほど警戒心のない人で驚いた。私の願い通りに、あの店まであなたを連れてきてくれたのですから」

 

 アイリスは、ランドルフの現状と婚約が解消されてからの三年間のことはエドモンドから聞いていた。この大陸に来てからも多くの女性たちとつきあっていたことも、今は未亡人の恋人がいることも知っている。そしてお金に困っており、借金もあることも聞いていた。エドモンドからは、借金の返済のために危ない橋を渡ることもいとわないかもしれないから注意するように言われていた。

 エドモンドは妹たちに詳しく話していなかったが、エミリーとクロエは兄弟たちの雰囲気で、何か危険なことがあると感づいているようであった。特にエミリーはパーティーでアイリスの様子を見ていたので、自分たちの側にくる男性には注意を払っていた。


「本当に抜け目ないわ」

 アイリスは小声でつぶやいた。ランドルフがミアに目をつけたのは、クラーク家の中で一番狙いやすい人だと見抜いてのことだろう。エドモンドもこんなにあっさりと、ミアがパーティーで知り合っただけの男性の話に乗るとは思わなかったはずだ。

 ミアは無事だろうか。アイリスは床に倒れたミアの姿を思い出し、不安で押しつぶされそうになった。エドモンドたちはランドルフを探り、マークしていると言っていた。それなら、今頃、マーシュやクロエが異変に気がつき、エドモンドに連絡を取っているだろう。そう、エドモンドならば必ず見つけてくれる。次第に冷静になってくるとやるべきことが見えてきた。

 アイリスがすることは、ランドルフの目的を探ることと、エドモンドたちが助けにくるまで時間稼ぎをすることだ。


 周りは次第に建物がなくなり、大きな屋敷が多く点在する地区に入った。この辺りは広い敷地に贅沢な屋敷を建てた高級住宅街になっており、一軒一軒の間はかなりの距離があった。そのためか、人の姿もなく、行き交う車も少ない。

 ランドルフは小さな屋敷の敷地内に車で入ると、屋敷の玄関から少し離れた場所にある駐車場に止まった。玄関から男性が出てくると、その男性に車の鍵を渡し、後部座席のドアを開けるとアイリスに出るように促した。


「このような場所で騒いでも無駄だよ」


 アイリスはおとなしく車から降りると、ランドルフに肩をつかまれた状態で歩き、屋敷の中に入った。屋敷の中は人の気配がなく、物音一つしなかった。ランドルフに連れられるまま二階に上がり、左側にある階段から一番近い部屋に入った。そこはとても狭く、窓のない物置のような場所であった。雑多に家具などが置かれており、薄暗い電灯がついていた。ランドルフは無造作に置かれた椅子を手で示した。


「どうぞ、座ったらどうですか?」

 肩から手が離れたすきに、アイリスは部屋の奥へと逃げた。

「なぜ、このようなことをしたのですか?」

「なぜとは?ただ、あなたと話がしたいだけですよ」

 ランドルフは腕を組み、閉めた扉に背中をつけて寄りかかった。アイリスは震える手を握りしめると、冷静になれと自分に念じた。 


「話とは何でしょうか?」

「お金の都合をつけてほしいのです」

 ランドルフは平然と笑顔で言った。お金がほしいというはっきりとした要求に、エドモンドたちが調べた情報が正しいことを証明していた。

「お金ですか?」

「そうです。明日までにほしいのですよ。私たちはかつて婚約者同士だったのですし、古い知人の願いを聞いていただけないでしょうか?」

「‥‥このように連れ去ってお金を要求するなど、あなたは警察に捕まりたいのですか?」

 ランドルフは穏やかな表情で首をかしげた。


「なぜ、捕まるのですか?私はただあなたにお金の都合をつけてほしいとお願いしているだけです。そうお願いをしているだけ。ここには、ゆっくりと話し合いが必要だからお招きしただけです。それのどこに捕まる要素があるのですか?」

「私がお断りしたらどうなるのですか?お金など都合がつきませんと言いましたら?」

「私はあなたに願うしかありませんね。どうにかしてくださいと。話し合いが終わるまで滞在していただくしかありません」

 彼の目は真剣であった。今はまだ願うだけだと言っているが、時間が経てば何をしてくるかわからない。


「私がお願いする金額など、あなたにとってはした金でしょう?」

 アイリスは呼吸を整え、ランドルフとの駆け引きに集中した。昔はランドルフの言葉に逆らうのが怖かったが、今はエドモンドが助けに来ると思えば怖さなどなかった。


「いったいあなたはいくらほしいと言っているのですか?」

 ランドルフがにんまりと笑った。アイリスは、欲にまみれた異様な目つきの中から焦りを見つけていた。


「明日までに五億を都合つけてほしいのです。銀行に手続きをとられるのなら電話をお貸ししますよ」

「あなたがどんなにお願いしても、私が断った場合はどうされるのですか?」


 明日にほしいという期限をつけてきたことで、余裕のなさが見てとれた。よほど切羽詰まった状態なのかもしれない。そうでなければ、これまで尻尾をつかませなかったランドルフがこのようなあからさまな手段を取るはずがなかった。

 ランドルフは小さくため息をつくと、いきなり扉を大きな音がするほど拳で叩いた。


「さあ、どうなるのでしょうね」


 そう呟いた瞬間、女性の悲鳴が聞こえ、そして助けを求めて叫ぶ声が響き渡った。その助けを求めて叫ぶ声の中に彼に詫びる言葉が聞こえ、これからも何でもするという懇願する声が響いた。

 アイリスはその女性の言葉から、ここがどこであるのかがわかった。ここは、おそらくエドモンドが言っていたランドルフの恋人のディベロ夫人の屋敷だ。そして、今泣き叫んでいるのはディベロ夫人に違いなかった。少したって声がきこえなくなると、再び静寂が戻ってきた。


「すみません。あの女性は少し錯乱しているのです。すぐに落ち着くでしょう」


 ランドフルは愁いを帯びた表情で、夫人が病気を患っているかのように言うと、アイリスとの話を続けようとした。アイリスがディベロ夫人のことを知っているとは思っていないようであった。ランドルフはすでにディベロ夫人にまで危害を与えている。その事実が追い詰められている証であった。

 アイリスはランドルフのやり口を知っていた。ランドルフはおそらくディベロ夫人を盾に、アイリスに金銭を迫るだろう。アイリスがこのような場面で、赤の他人を見捨てることができない甘さを持っていることを熟知しているからだ。ランドルフから助かるためにも、まずはディベロ夫人の様子を知り、可能であれば夫人と一緒にいる方が良いだろうと判断した。


「あなたの望みどおりの金額を都合つけましょう」

「本当ですか?五億を明日までにお願いしているのですよ」

 ランドルフの顔が瞬時に変わった。穏やかだった顔が獰猛な表情となり、欲深くアイリスを見据えた。やはり余裕がありそうな態度は見せかけだったのだ。アイリスは慎重に駆け引きを続けた。


「ええ、本当です。私にとってその金額は問題なく動かせられます。私はディーンマーク家の当主ですよ」

「そう、あなたはあのディーンマーク家の当主でしたね。古き血筋の方、あなたたち一族が長い年月ためこんだ財産が山のようにあるというのは本当のことなのですか?夢物語のように金貨がつまった部屋があると言われていますよね。城の中を見て回りましたけど、それらしい部屋はありませんでしたけどね」

 欲にまみれた話にあきれて、小さくため息をついた。そんなアイリスの表情にランドルフの顔が面白くなさそうにかすかに歪んだ。


「今は現実のお金の話をしましょう。お金の都合をつけるのはかまいませんが、一つだけ望みがあります」

「望み?」

「あなたはお金を受け取るまで私をここから出さないのでしょう?私は一人でここにいるのは嫌です。さきほど声を上げていた女性と同じ部屋にしていただけませんか?」

「なぜ?」

「一人が嫌だからです」

「何を考えている?」

「難しいことを言っているわけではありません。問題がありますか?」

 ランドルフは探るようにアイリスを見つめていたが、肩をすくめて小さく頷いた。


「いいでしょう。それで金はどのような方法で受け取れるのですか?」

「その女性がいる部屋でお答えします」

 静かになったディベロ夫人の安否が気になる。すぐにでも彼女の様子を知る必要があった。

「何を考えているのでしょうね。余計なことをしたら、私も紳士的ではいられませんよ」

「その女性がいる部屋に行くだけで何があるというのですか?私はお金を渡すとあなたに約束をしたのですよ。私は約束を違えることはしません」

「‥‥だからあなたは嫌なのですよ。ディーンマークの者は侮れない。いいでしょう。どうぞこちらに」

 

 ランドルフは扉を開けると先に廊下に出て、アイリスを促した。アイリスは胸に手を当て呼吸を整えると部屋を出て、ランドルフとともにさらに奥へと向かった。ランドルフは廊下の突き当りにある部屋の扉に鍵を差し込んだ。

 部屋の中は薄暗く、窓という窓に網戸が閉められ、湿った匂いがし、人の気配がした。ランドルフが近くにあるスイッチを押すと電灯がついた。

 アイリスは目を細め、部屋の中を見回すとベッドに座り込んでいる寝間着姿の若い女性がいた。震えながらきょろきょろと辺りを見回し、ランドルフに気がつくと口を開こうとした。


「静かにしてもらえますか?声を出すようでしたら、ゆるしませんよ」

 ランドルフの脅しの言葉に女性は言葉をのみこみ黙り込んだ。

「さあ、アイリス嬢、私の願いを叶えてください。銀行に電話をかけるのであれば電話がある場所におつれしますよ」


 アイリスは肩からかけていた小さなショルダーバッグから小切手を取り出した。そして、同じく万年筆を取り出すと小切手に金額とサインをし、小切手帳から切り取るとランドルフに差し出した。ランドルフは少しぼうぜんとした顔でその紙を受け取ると、小切手とアイリスの顔を交互に疑りぶかく見た。


「この小切手ですむというのですか?」

「ええ、それを銀行に持ち込めば現金でも口座に振り込みでも、どちらでも手配してくださるでしょう」

「私をだましていませんか?ここはセロースでもあなたの住む大陸でもないのですよ。あちらではこの紙きれは通用したかもしれませんが、ここニューキャッセスで通用すると思っているのですか?私を無知だと思っているのかな」

 ランドルフの目が鋭さを増し、憎々しげに言い募った。アイリスは平静な表情を崩さず、子供に言って聞かせるように丁寧に答える。

「あなたは本当にディーンマーク家を知らないのですね。その小切手を発行している銀行は古き大陸にあるすべての国家が認める銀行です。そしてニューキャッセスの事業家たちが古き大陸と取引する際に使用する銀行でもあります。ニューキャッセスでは自国の銀行よりも信用があるでしょう」

「それなら、これがこの都市の銀行でも通用するというのですね」

「当然です。その場でそこに書かれた金額がすぐに用意されるでしょう」

 

 ランドルフの手がかすかに震え、そして自分の腕時計で時間を確認した。おそらく今から銀行に向かっても通常の取引時間には間に合わないのだろう。ランドルフは小さく舌打ちした。


「アイリス嬢、あなたに感謝します。それでは私は少し席をはずさせていただきます」

 ランドルフはほとんどアイリスを見ることなく部屋を出て行くと、扉に鍵をかける音がした。静まり返った室内の中、アイリスは振り返り、ベッドにいる女性に近づいた。


「あなたがディベロ夫人ですか?」

「ええ。あ、あなたは誰?」

 またランドルフが戻ってくる可能性を考えて、アイリスは手短に名前とランドルフに無理やり連れてこられたことを説明した。そして、ディベロ夫人がなぜこのような場所にいるのかを尋ねた。彼女は少し動揺していたが、意外に冷静さを失っていなかった。

 ディベロ夫人の話では弁護士からランドフルの素性を聞き、遺産相続をランドフルに指定したことで命の危険があると言われた。最初こそランドフルを信じて彼の言うとおりにしていたが、最近はおかしいことに気がついていたとアイリスに語った。


「私の資産がほとんどなくなったのも、彼に渡していたからよ」

 ランドルフから遺産相続人に入れるように言われたとき、さすがに夫人は彼の目的がお金だけであることを理解した。しかし、逆らうのが怖かったという。


「弁護士から言われて、やはりそうなのだと思ったわ。今は遺産相続人の手続きはしないで、したことにしている。私は怖くなって、それで彼から距離をおくようになった。そうしたら彼が私をここの屋敷に連れてきて、私を閉じ込めたのよ」


 夫人はそれほどやせ衰えた姿ではなかったので、長い期間を閉じ込められていたわけではないようだ。しかし、体に力が入らないのか体がよろけていた。

 彼はディベロ夫人にも疑われ、このような凶行に及んだ。もうなりふり構わずに行動していることから、三年前にセロースから消息を絶ったときのように、この国から逃げようとしているのかもしれない。


「ここは、あなたの屋敷ではないのですか?」

「違うわ。私の知らない屋敷よ。私もここに連れて来られた」


 アイリスはここがディベロ夫人の屋敷ではないことに、唇を噛んだ。エドモンドたちがここを見つけるのに時間がかかる可能性が出てきた。ここから女性二人で逃げることも考えたが、夫人の様子を見ても厳しかった。やはり一番良い方法はエドモンドの助けを待つことである。それまでこの部屋に閉じこもるしかない。

 アイリスは扉を塞ぐものはないかと辺りを見渡した。この部屋の出入口はあの扉だけで、あの扉を塞げばここに入ってくることはできない。扉から少し離れた場所にアイリスの腰の高さほどの大型のタンスを見つけ、そのタンスを扉の方へと押した。


「何をしているの?」

「この扉を塞ぐのです。ランドルフが入ってこられないようにします」

「この部屋に閉じこもるというの?」

 夫人はよろけながらベッドから降りるとアイリスのそばにきた。

「これ以上、どこかに連れて行かれないようにするためです。私の大切な人が私を探してくれています。きっとこの場所を探し当ててくれるでしょう。助けが来るまで、私たちは自分たちの手でランドルフから守らなければなりません」

「彼を怒らせることは、逆に危険だと思うわ」

「彼はもう取り返しのつかない行動を起こしました。言うとおりにしても結果は同じです。ここから出てくるように、彼は言うでしょう。交渉することで時間稼ぎになります」

「‥‥そうね。手伝うわ」

 夫人も一緒にタンスを押していくと重いタンスが動き、扉をふさいだ。他に塞ぐものを探し、椅子やテーブルなどあるものはすべて扉の前に置いていった。


「彼はお金が目的なのでしょう?あなたは彼に小切手を渡したわ。その小切手を現金化するまで彼はここには来ないのではないの?」

 夫人は疲れたようにその場に座り込むと、憔悴しきっていたときと違い少し元気が出たのか、しっかりとした眼差しで聞いてきた。

「彼はとても欲深い人です。私が小切手を切れば、お金が手に入ることを知りました。また必ずここにきて、あれ以上の金額を要求するでしょう」

 ランドルフは明日金さえ手に入ればそのまま逃亡するかもしれない。アイリスを誘拐し、夫人を監禁してしまえば、いつまでもこの国にいることは危険だということもわかっているはずだ。そして、この国から逃亡するときに、ランドルフはアイリスを連れて行くだろうと予測していた。

 お金はあればあるほどいいはずだ。アイリスはそれこそ莫大な金をもたらす、彼にとっては金のなる木だ。

「ええ、その通りだわ」


 アイリスは腕時計で時間を確認すると六時半を過ぎていた。店から連れられてから五時間が経過していた。ランドルフはどうしたのだろうか。彼がいなくなってから二時間がたっていた。そのとき、廊下を歩く音と、少したって扉の鍵を開ける音が聞こえた。

 アイリスはディベロ夫人の手を握り、二人で身を寄せ合って息を飲んだ。扉が開かれるが目の前に置かれたタンスや家具類が邪魔で扉が開かないことに対して、扉の隙間からランドルフが怒鳴りつけた。


「開けろ!」


 ガンガンと扉を蹴る音が響き、タンスや椅子にテーブルが激しく揺れる。しかし、大きなタンスも椅子やテーブルも頑丈で重量があり、扉が開くことはなかった。扉の前のタンスやテーブルが揺れ、木のきしむ音だけが響き、あまりの恐ろしさのあまり体の震えが止まらなかった。

 突然、音が止むと、少したって扉を何かで打ち付ける音が響き、扉が大きく揺れた。


「まさか‥‥」

 ここまでするとは思わなかった。ランドルフの行動は、アイリスにとって大きな誤算であった。

 扉の前にあったタンスやテーブルが少しずれ、小指ほどの隙間が開いた。その隙間からランドルフの血走った目が覗かれ、ディベロ夫人が悲鳴を上げた。

 その後、扉を何かで何度も打ち付ける音が響き、タンスやテーブルが押され、少しずつ扉が開いていく。一番大きな音が響いたとき、扉を塞いでいたタンスが横にずれ、人ひとり通れるほどの隙間ができた。

 その隙間からランドルフが体をねじ込ませて、強引に中に入ろうとしていた。




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