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 アイリスは逃げるようにサロンを出ると自分の部屋に戻り、ソファに座った。エドモンドからダンスのパートナーに申し込まれたことに、冷静になればなるほど落ち着かない気持ちになる。


「どうしましょう。とても嬉しい」

 今までにないほど嬉しくて、心臓がどきどきするが、同じぐらいに不安なことばかり頭に浮かんだ。エドモンドのことが好きで恋をしている自覚はあったが、自分でもびっくりするほどエドモンドを思う気持ちに涙が出そうになった。


「こんなに好きになっていたなんて‥‥」


 王太后が出席するパーティーに、エドモンドがアイリスをパートナーとして選んだ理由は、古き大陸と外交を成功させたいからだ。アイリスも選ばれた理由をわかっていたが、それでも心の奥底で、もしかしたらという期待があった。

 もしかしたら、エドモンドも自分を求めてくれているのではないか。そんな期待と、そんなことはないという否定の気持ちも同時にあった。なぜなら、エドモンドは今でも元婚約者を思っているからだ。

 アイリスの心はエドモンドと踊ることを引き受けるかどうかで大きく揺れていた。エドモンドの申し出は、アイリスにとって、ただ、ダンスのパートナーとして踊るだけのことではなかった。家族以外の男性とパートナーになるのは、恋人や婚約者、そして夫であった。エドモンドがそのように思っていなくても、アイリスは重く受け止めていた。


「なんてことでしょう」


 これは叶わない恋だ。

 エドモンドの気持ちがわからないこともあるが、アイリス自身の問題もある。それは、エドモンドとは住む世界が違い、お互いに立場があるからだ。ミアが言ったように、アイリスはエドモンドと離れて自国に帰らなければならない。


「ディーンマーク家の当主でなければ、恋をあきらめなくてもいいのでしょうか‥‥」 

 

 そんな現実的ではない考えがよぎり、すぐにその考えを否定した。ディーンマーク家の当主であることと、エドモンドに対する気持ちを天秤にかけてはいけない。ディーンマーク家はアイリスにとってとても大切なもので、当主の座を恋のために降りれば、あとでかならず後悔するとわかっていた。


「それに一緒にいたいためだけにこの大陸に残って、私はいったいどうするの?この屋敷に住まわせてもらうの?イーサンと計画していたフォスター家の屋敷はどうするの?それに、彼に誰か新しい恋人ができたときは?私はどうやって生きていくの?」

 そうなれば、ここにいられるはずもない。そんなアイリスの混乱した思考を現実に戻すかのように、扉がノックされた。


「アイリス様」

 慣れ親しんだ声にほっと安心する。返事をすると扉が開かれ、老紳士が立っていた。


「先生、どうされたのですか?」

「ええ、少しお話をしたいのですが、よろしいですか?」

 アイリスは立ち上がり、バルフォアドを室内に招き入れた。大きな二人掛けのソファに座るように勧め、老紳士はゆっくりとした足どりでソファに座るとお茶は必要ないと言った。アイリスもバルフォアドに並んで座った。


「フォスター家の遺産の件です」

「ええ」

「マチルダ様との話し合いも進み、クラーク家の皆さまがフォスター家の屋敷を含め、今後フォスター家に関わることが決まりました。これからはより具体的に話を進めるためにもセロースに戻られたほうがいいでしょう」

 バルフォアドの言葉に、帰国を勧められることはわかっていたが動揺した。エドモンドとディーンマーク家との間で揺れ動き、心が引き裂かれるような痛みを伴った。


「ええ、すぐに帰国したほうがいいでしょうか?」

「フォスター家のことを早く解決させたいのなら、早いほうがいいでしょう」

 もっともな話に、アイリスはそれでもすぐに帰国するとは言えなかった。

「何か、問題でもありますかな?」

 バルフォアドの真剣な表情に、アイリスはうろたえながら小さな声で「いいえ」としか答えられなかった。ふっと、老紳士の厳めしい顔が楽しそうな柔和な顔に変わった。


「確かに早い解決を望むのであれば帰国をお勧めしますが、そう急ぐことでもないでしょうな」

「え?」

「パーティーにご出席をやめてまで、急ぐことではないでしょう」

「え?ええ?」

「マチルダ様からお聞きしましたよ。王太后陛下がご出席されるパーティーにご出席されるのでしょう? エドモンド様とダンスをされると聞きましたよ」

 老紳士はいつもなら考えられないほどの嬉しそうな笑顔で言った。アイリスはまさかバルフォアドからそのようなことを言われるとは思っていなかったので狼狽した。


「ま、まだ、はっきりとはお答えしていません」

「それは、なぜですかな?」

「正式な場所でダンスのパートナーになるということは、その夫や婚約者ですので‥‥エドモンドとはそういうわけではありません」

「うん?まあ、そうですな。でも、ここはニューキャッセスです。ダンスぐらい、いいではありませんか」

 あの堅苦しいほどの真面目な老紳士が、あっさりと常識を覆してきたのだ。あまりのことに目を見開き、バルフォアドを見つめていると、老紳士はおかしそうに笑った。


「そんなに堅苦しく考えることですかな?ダンスをしたいのであれば、すればよいだけですよ」

「で、でも、とても大切なパーティーです。失敗はゆるされないのですよ。そ、それに私ではみっともないと思われるかもしれません」


 エドモンドと並んだときにみっともないと思われるのではないかと怖かった。バルフォアドは笑みを引っ込め、大真面目な顔でアイリスの顔を覗き込んだ。


「どうでもよいことですよ。ええ、本当にどうでもよいことですな」

「どうでもよいなどと‥‥」

 あまりの言い方にとまどった。

「アイリス様、そもそもすでにこの国は失敗しています。この国の誰がダンスをしようと、失敗なのですからな。奇跡的に成功するとすれば、アイリス様がダンスをされることだ。主催者側はダンスの良し悪しなど期待などしていないでしょう。王太后陛下がパーティーに出席すればいいのですから」

「ええ、それはそうですね」

 多少、ダンスの振りが失敗したとしても、古き大陸のダンスを行なったということが大事なのだ。そう思うと、少し気持ちが楽になった。


「それにアイリス様が、まあ、これもありえない話ですが、万一、アイリス様のことをみっともないと思うものがいたとして、これこそがどうでもよいではありませんか」

「どうでもよい‥‥」

「エドモンド様も、マチルダ様たちクラーク家の方たちもそのように思う人はいないでしょうな。もちろん、私も思いません。この都市には何百万人といるのですから、全員に承認がほしいなど無理なことですぞ。どこにでも悪くいうものはいるものですよ。アイリス様、ここはセロースではないし、あなたに皮肉を言う貴族たちはいません。あなたのことを知らない者たちばかりの世界です」


 自分のことを知らない者たちばかりの世界。アイリスは、確かに自分の考えていることはとても自意識過剰だったと恥ずかしくなった。パーティーに出席する人たちの関心は王太后の動向であって、アイリス自身ではない。ダンスの良し悪しは気になるだろうが、アイリス自身にはさほど興味がないだろう。

 そう考えると毒気を抜かれ、体から力が抜けた。


「正直になられたらよろしい。難しいことは考えず、ダンスをしたいかしたくないかでいいのですよ。何事もそうだ。最後は自分の心に問いかけなさったらいいのです。頭の中で理屈をつけていてはわからなくなります。ご自分の本音がわかれば、難しいと思っていたことでも、案外簡単だったりしますよ」

 老紳士はまるで身内の者のように助言を与えると、ふっと扉の方に顔を向けた。そのタイミングで、扉がノックされた。


「はい」

 アイリスは返事をしてソファから立ち上がると、扉が開かれ、エドモンドが立っていた。エドモンドの姿を見た瞬間、緊張と嬉しさで胸が苦しくなった。


「それでは、私は失礼しましょう」

 バルフォアドが立ち上がり、アイリスに会釈する。アイリスは困惑した気持ちでバルフォアドを見送り、エドモンドは扉の横で、老紳士が出て行くのを待っていた。バルフォアドはエドモンドの横を通り過ぎる際に軽く会釈し、そして何か言っているように見えた。

 エドモンドはどこか真剣な表情で小さくうなずいているのが見えた。エドモンドはアイリスに向き合うと、穏やかな表情と声で尋ねる。



「お話がしたいのですが、今、よろしいですか?」

「ええ」

 エドモンドを部屋に招き入れるとソファに座ることをすすめ、アイリスは高鳴る気持ちを抑えて隣に座った。バルフォアドと話したことで、ダンスのパートナーの件で混乱していた気持ちは少し落ち着きを取り戻していた。


「ダンスのパートナーのことで、あなたに知っていただきたいことがあります」

「ええ、もちろん、古き大陸と新しい大陸の懸け橋となる大切なパーティーです。私も今回のダンスの重要性はわかっております。私も」

「アイリス、知っていただきたいというのは、パーティーの重要性ではありません。私の気持ちです。パーティーのためだけに、あなたにパートナーを申し込んだわけではないのです」


 アイリスの心臓がいよいよ大きく鼓動し、息を飲んでエドモンドの言葉を待った。もしかしたら、やはりパートナーはやめてほしいと言うのではないかと身構えた。


「私は今回のパーティーだけのパートナーとしてではなく、今後も私のパートナーになってほしいと思っています」

「え?」

「突然だと思われるのはわかっていますが、今、告げないと伝わらないように思いましたので告白します」

 エドモンドはアイリスの近くまでくると、アイリスの両手を握った。

「私はあなたと結婚をしたいと思っています。生涯のパートナーになってほしい」


 これまで学んできた淑女としての教育も忘れ、アイリスはまぬけにもぽかんと口を開いた。結婚という言葉の次に脳裏に浮かんだのは、いろいろと納得ができないたくさんの事柄があった。


「私に?」

「はい。アイリスと結婚したい」

「家同士のつながり‥‥はありませんね。それでは‥‥」

「もちろん、家同士は関係ありません。あなたが好きだからです。あなたを守りたいし、一緒にいたいと思ったからです」


 エドモンドの真摯な言葉に喜びが湧き上がった。しかし、臆病にも目の前の現実から逃げるかのように、この恋が叶わない理由ばかりを考えた。遠く離れたセロースに帰らないといけない。美しくない自分に思いを寄せる人などいない。それに彼はルーシーを愛していたのではなかったのか。

 前の婚約者のことを持ち出すことは自らこの幸運を壊すようなものだとわかっていたが、アイリスの口からはその名前が出ていた。


「元婚約者ルーシーさんのお話を聞きました。今でもその方を思っているのだということも」 

 アイリスはそう切り出したことが恐ろしくなり、言葉を止めてエドモンドを見た。しかし、エドモンドはこの質問を予知していたかのように、とても平静であった。


「おせっかいな者たちがあなたに色々な話をしたのでしょうね。そのように話をするのはきっとミアですね。ミアはどのように言っていましたか?あの子はルーシーの亡霊に囚われている」

 そう感情を交えずに淡々と語るエドモンドに、なぜか寒気がした。


「ええ、ミアから‥‥あなたは今でもルーシーさんを愛しているのだと聞きました」

 エドモンドはあきらめたかのように、小さく息を吐き出した。


「あなたには元婚約者のことを話さないといけないと思っていました。私があなたに求婚すれば、ルーシーのことをあなたに話す者たちがいることをわかっていましたから。しかし、その前に話をされるとは思いませんでした。よほどあなたに対する私の態度がわかりやすかったのでしょうね。アイリス、私の話を聞いていただけますか?」

 エドモンドの瞳は暗く悲しみに満ちた鈍いグレーの色であった。アイリスは静かに頷いた。アイリスが頷いたのを見て、エドモンドは深く息を吸い込んだ。


「ルーシーとは十八歳の時に、アンダーソン家のパーティーに父と出席したときに知り合いました。彼女は十五歳で学生でしたので、もちろんパーティーには出席していませんでした。彼女は部屋を抜け出して庭園をうろうろしていたところで、偶然に会ったのですよ。とても心細そうに歩いている姿が今でも記憶に残っています。彼女の話をするには、彼女の生い立ちを聞いてもらう必要があります」

 少し懐かしむように遠くを見つめると、エドモンドは話を続けた。


 ルーシー・アンダーソンの生い立ちは複雑なものであった。彼女の父は当主であるジョンソン・アンダーソンの弟で、生涯結婚をすることはなかった。彼は、突然、三歳ぐらいの子供を連れてきて自分の娘だと言い、戸籍上も娘として届けていた。ルーシーの父親は兄の側でアンダーソン家の事業の手伝いをしており、アンダーソン家の屋敷に住んでいた。そのため、ルーシーも父とともにアンダーソン家の屋敷に住むことになった。しかし、母親が誰ともわからなかったため、ルーシーはアンダーソン家で常に懐疑的な目にさらされ、つらく寂しい幼少期であった。

 アンダーソン家の娘として生活に不便はなかったが、誰も彼女に関心を向ける者はいなかった。父親でさえも娘に興味がなく、ほとんど顔を合わせなかったという。特に叔父であるジョンソン・アンダーソン氏は関心がないどころか、いないものとして扱った。彼の妻も彼女に一線をひき、疎んじてはいなかったが身内としての情を持たなかった。そんなアンダーソン家の中で唯一例外だったのが、三つ年下のジョンソンの娘であるレイナであった。


 エドモンドの話を聞きながら、アイリスの中でルーシーという女性の印象が変わっていった。アンダーソン家という大富豪の令嬢として愛され、何不自由もなく幸せな人なのだろうと漠然と思っていた。しかし、そうではなかった。


「レイナには姉妹がおりません。そのせいか、子供のころから彼女の後を追って離れなかったそうです。ルーシーはあの家に生きていくために、明るくてやさしい人という仮面を被りました。誰にでもやさしく、穏やかに接し、嫌われないように常に周りに気をつかっていたのです」

「とても美しく、華やかな人だと聞きました」

「最初に会ったときの彼女はとても地味な人でしたよ。十八歳で社交界に入ったときに、アンダーソン家の令嬢として美しく、華やかな女性に変わっていました。レイナはルーシーの美しさに心酔していましたが、他の者たち、父親も叔父も見向きもしませんでした。彼女はアンダーソン家で居場所がありませんでした。だからなのか、クラーク家に頻繁に来ていました。私の兄弟や両親と話をすることで家族の一員になったように思えてうれしいと言っていました」

「とてもにぎやかだったのでしょうね」

 エドモンドは寂しげな笑みを浮かべた。


「ええ、よく両親や兄弟たちと会話を楽しんでいましたね。ルーシーは仮面を被らなくても、根は明るく楽しい人でしたよ。でもそれ以上に臆病でやさしい人でした。明るい表情の下には常に不安を抱えていました。私は彼女を守ってあげたかった。だから、二十二歳のときに彼女と婚約しました。結婚を半年後に控え、とても幸せなときでした。しかし結婚を前に父が急死し、結婚を延期せざるをえなかった」


 それは仕方がないことであっただろう。それにクラーク家の長男であるエドモンドが兄弟たちを守らなければならなかった。


「ルーシーは、結婚が延期になったころから少しずつ変わっていきました。いら立つようになり、何かに焦っているように見えました。私はエディオン海運のCEOになったばかりでしたので余裕もなく、ルーシーと話す時間が少なくなっていった」

 エドモンドはちらりとアイリスを見ると、ため息をついて話を続けた。


 少しずつ二人の間がすれ違っていったと、エドモンドは感情を交えずに語った。ルーシーに会うたびに結婚の時期を問われたが、エドモンドはエディオン海運と弟たちを支えるだけで精一杯で、はっきりとした返事をすることができなかった。父、サイモンが亡くなってから一年近くがたったとき、ルーシーはアンダーソン家に帰らずにホテルに泊まり、日中のほとんどをクラーク家の屋敷で過ごすようになっていた。エドモンドはルーシーがアンダーソン家に帰らずに、ホテルに泊まっていることを知らなかった。


「母にルーシーとどうなっているのかと責められました。すでに一年近くがたっていたので、これ以上結婚の時期をのばすことはよくないと、私は結婚を進めることを決めて、ルーシーにも話しました。でも、今度は彼女の父親が病気になったことで、彼女のほうから待ってもらいたいと言われました」

「また、決まらなかったのですか?」

「そうです。うまくいかなくなったことは、とことんうまくいかないものです。私はルーシーがアンダーソン家に帰っていなかったことも、レイナがクラーク家にルーシーを連れ戻しにきたときに知りました。彼女たちはクラーク家で言い争いをしていて、私が屋敷に帰ってきていたことを知らなかったのでしょう」


 エドモンドは視線を下に向け、ぴくりとも動かなくなった。唇だけがかすかに動いた。


「レイナはアンダーソン家の立場を主張し、正当な理屈でルーシーを追いつめていました。アンダーソン家に戻るように言い、なぜ、帰ってこないのかと聞いていましたね。ルーシーはアンダーソン家が嫌いだからだとはっきりと言っていました。それから、あの家から離れられるから結婚を選んだのだと感情的に言っていました。あの家から離れられるなら誰でもよかったと聞いてしまった」


 アイリスはその残酷な言葉に胸が苦しくなった。エドモンドはその言葉に傷ついたのだ。

「エドモンド‥‥」

「私は彼女に対する気持ちが、そのときから揺らいでしまった。彼女が感情的になっていった言葉だとわかっていますし、それを信じるのは馬鹿げたことだとわかっています。それでも結婚さえできれば自分でなくてもよかったのでなかったのかと、疑念を抱いてしまった」

 アイリスは何と答えていいのかわからなかった。


 レイナはルーシーとのいさかいの後、父のジョンソンにルーシーがホテルに泊まれないようにしてもらいアンダーソン家に戻らざるをえないようにした。それから、彼女は病気の父の看護のため半年近くクラーク家を訪れなかった。エドモンドとも会う回数も会話も減った。しかし、彼女にとってアンダーソン家にいることは耐えられなかったのだろう。ルーシーの父が亡くなったのと同時にアンダーソン家を出て、クラーク家に来た。

 エドモンドはぎくしゃくしてしまったルーシーとの関係をやり直すためと、彼女の様子がおかしかったことからマチルダに相談し、しばらくクラーク家に滞在することをゆるしてもらった。しかし、クラーク家としてはアンダーソン家の令嬢をいくら婚約者とはいえ、結婚前に長期滞在させることは世間的にもアンダーソン家に対してもよいことではなかった。


「彼女から結婚を進めようと言われたとき、私の心はすんなりと進めることができなくなっていました。いつのまにか二人で楽しい時間を過ごすこともなくなり、彼女も笑わなくなった。私の中で彼女を思う気持ちはありましたが、彼女を信頼することができなくなっていました。それは彼女に対して不誠実だったと今でも思っています」

 エドモンドは自嘲の笑みを浮かべた。

 この話の終着点が見えてくると、息苦しさを感じた。アイリスはルーシーの事故は偶然に起こったことなのだと必死に思いたかったが、もしかしたら違うのかもしれないと恐ろしい想像をした。


「ルーシーの事故にはいろいろな要因が重なったのだと思います。事故が起こる前の週にジョンソン・アンダーソン氏が、ルーシーに父親の遺産を渡すので今後アンダーソン家に関わらないように告げていました。レイナは父親の決定を認めることができず、父親と言い争になったそうです。レイナはルーシーを必死に引きとめようとしましたが、ルーシーはジョンソン氏の言葉に従うつもりでした。アンダーソン家を出たい理由の一つは、レイナの愛情から逃れるためでもあったからです」

「レイナさんの愛情‥‥」

「ルーシーはレイナといると心から笑えなかった。レイナという情熱的で本物の太陽の側にいることは苦しかったのでしょう。それにレイナとの言い争いにも疲れ切っていたのだと思います。アンダーソン家で起こっていたことは後になってレイナから聞いたことです。そして、事故の前日に私は彼女と話をしました」


 アイリスは思わずエドモンドの手を強く握りしめていた。

「大丈夫ですか?つらいのなら‥‥」

 エドモンドの顔色は悪かったが平静であった。

「大丈夫です。あなたの方こそ、こんな話を聞きたくないというのなら、もうやめます」

「私は大丈夫です。話を聞かせてください」

 エドモンドは大きく深呼吸をすると、話を続けた。


「早く結婚の日程を決めたいという彼女に、私は今後のことをよく話し合ってからだと告げました。婚約したときと状況が変わっていましたから。君の本心を知りたいと言いましたが、彼女は何もいいませんでした。何も言わずに帰ってしまった。私は引き止めようとも、追いかけようともしませんでした。お互いに冷静になって、次のときにはわかってもらえるように話をしようと思ったからです」


 アイリスは、エドモンドが誠実な人だと話を聞いていて思った。彼女と続けていくためにも、しっかりと相手と向き合うことを選んだからだ。ルーシーはアンダーソン家との絶縁、そしていつのまにかエドモンドと心が離れてしまっていたことを感じ、失望したことだろう。そして事故の当日、最後に彼女と別れたのがミアだった。


「‥‥ルーシーさんの身にいろいろなことが重なっていたのですね。ルーシーさんと最後に別れたのがミアだと聞きました。イーサンはミアがルーシーさんを玄関で見送っていたのを見たそうです。ミアとルーシーさんの間に何かあったのでしょうか?」

 エドモンドは目を見開き驚愕の表情を浮かべた。そして、このときになって初めて泣きそうな表情になった。

「イーサンが見ていたのか‥‥。ミアは母やエミリーにルーシーを玄関まで見送ったことを話していません。私にだけ懺悔するように話してくれました。ミアはあの日、ルーシーを玄関まで見送ったときに不満の言葉を言ってしまったそうです。ミアは家族ではないルーシーが、常に屋敷にいることをストレスに感じていました。ルーシーが母に対して自分の母親のように接している姿にいらだち、私とルーシーが口論している姿も見ていたので、不満が溜まっていたと話してくれました」

 エドモンドは少し言葉を切り、そして視線を落とした。


「ミアは彼女に、いつアンダーソン家に戻るのかと聞いたそうです。あなたはまだクラーク家の人ではないのに、この屋敷にいるのはおかしいと彼女に言った。ルーシーはミアの言葉に何も返さなかったそうです。ただ、とても疲れた顔で車に乗り、行ってしまった」


 アイリスはその言葉の重みに胸が痛かった。ルーシーはアンダーソン家からも縁を切られ、どこにも行くあてがなく、孤独だった。その孤独な人に、ミアの言葉はとても強く響いたことだろう。なんて間の悪いことであろう。でも、ミアはきっとルーシーの状況を知らなかったのだ。


「ミアの言動はつたないものでありましたが、ミアが悪かったとは思えません。いくらあなたの婚約者であったとしても、この屋敷にずっといるのはおかしなことですもの」


「私もミアが原因だとは思っていません。そのような状況を作ったのは私の責任です。でも、その言葉の後に車の事故がありました。その日、ルーシーはレイナに呼ばれてアンダーソン家の屋敷に向かっていました。そして、彼女の車は交差点で止まらなかった。彼女の体からは複数の薬が検出されました。過剰に薬を飲んだことが事故の原因だとされました。もうだいぶ前から彼女の精神は不安定で、夜も眠れずに薬に頼っていたのです。彼女は薬に頼っていたことを誰にも話していなかった。私にも話さなかった。なさけないことです」


「ルーシーさんは、その本当に偶然の事故だったのですか?」

「私はそう思っています。運の悪い事故だったと思っています。しかし、ミアは自分の言葉によって事故が起こったのだと罪悪感と後悔に苛まれました。私にごめんなさいと何度も謝罪しました。ミアの責任ではないと話したのですが、今でも罪の意識は消えないのでしょう」


 アイリスはあまりにも重い話に軽く首を左右にふった。

 ミアが、あれほどアイリスに対して過剰に反応する理由がわかったような気がした。アイリスがエドモンドと親しくすればするほど、ミアはルーシーに罪悪感を抱いていたのだ。アイリスがクラーク家の者たちと楽しそうに談笑すれば、過去のルーシーの姿を思い出していたのだろう。クラーク家の中で、今のアイリスの居場所は本来ならルーシーのものであったからだ。ミアはアイリスを見るたびに後悔と罪悪感に向き合わなければならなかった。


「ルーシーを失ってから、私はずっと閉じこもっていました。私がルーシーに対して抱く思いは後悔と罪悪感、そして寂しさでした。彼女と心がすれ違い、関係がおかしくなってしまったが、彼女がいないことが悲しかった。もう会うことができない現実に打ちのめされました。彼女と会えるのが当たり前のことだと思っていたから、次があることを疑わなかった。私は明日というものが不確かなものだと思い知りました。あのときもっと話をしておけばよかったと後悔しています」


「あなたは孤独を知ったのですね」

 ぽつりとアイリスは呟いた。エドモンドはその言葉に寂しげな表情をした。


「正直に言います。私があなたを気にしたのは、あなたが孤独だったからです。ルーシーと同じように孤独だった。でも、あなたは一人で多くの重責を背負いながらも逃げださない強さがあった。孤独の中に閉じこもらずに、こんな遠い場所まで私たちに会いにきました。とても勇気があって強い人だと思いました」

「強いなど、そんなことはありません」

 ただ、孤独に耐えられずに会いに来たのだ。

 エドモンドはアイリスの手を握りながら、まっすぐ見つめた。 


「私はもう言わなかったことで後悔したくない。だから言います。あなたと一緒にいることが楽しくて、父が亡くなってから笑うことができなかったのに自然と笑っていました」

 エドモンドの銀とグレーの不思議な瞳が輝いた。

「アイリス、あなたともっと話がしたい、いろいろなことを二人でしたい、側にいたい。あなたを守りたい。あなたを愛したい。あなたといるとしたいことがたくさん出てくるのです。私はあなたのことが好きです」 

 顔も体も熱くなり、うれしさと恥ずかしさで心が震えた。エドモンドはやさしい表情になった。


「もっと、私の思いを聞いてくださいね。アイリス、あなたは当主としてとても努力されてきた。あなたの言葉、立ち振る舞い、知識、采配、どれをとってもどれだけの研鑽を積めば得られるものなのかわかりません。私は貴族の社会を知っているからこそわかります。あなたの積み重ねてきた努力はとてもつらく険しいものであったでしょう。自分を高めてきたあなたはとても美しいです。私はあなたを尊敬し、そして強く魅かれています」


 エドモンドの告白はアイリスの根底から覆すほどの威力があった。これまでの婚約者や貴族の子息たちは侯爵を継ぐアイリスの存在を煙たく思い、否定の言葉ばかりであった。事業の話にしても冷たい眼差しを向けるだけで、アイリスの能力を認めようとしなかった。ただ、女性として地味で美しくないと、容姿のことばかりを言われてきた。アイリスは己の力を認められたのは初めてであった。

 エドモンドは愛おしそうにアイリスを見つめ、手を握りながら思いを告げる。


「あなたはとても素晴らしい才能を持ち、優雅な立ち振る舞いができるのに、本当は少しおっちょこちょいですよね。表情には出しませんが、内心焦っていることがよくあるでしょう?」


 びくりと手が震えてしまった。淑女として態度や表情に出さないようにしていたが、実際は内心で動揺していることが多いことを見抜かれていた。そして、エドモンドの追撃は止まらなかった。


「この屋敷に来たばかりのとき、朝食で紅茶に砂糖と塩を間違えて塩を入れていましたよね。変えてもらうように言おうとしたら、あのまま飲んでしまったのであきれました。あの場合はちゃんと淹れなおしてもらいましょう。それに古い屋敷を見学したときのことです。アイリスは車に乗り慣れていませんね。長時間の車での移動はつらかったのではありませんか?何度も休憩を挟み、体調が悪いのなら言ってほしいといったのに、頑なに最後まで言いませんでしたよね。あなたは我慢強く、そしてとても頑固だ」

 顔が真っ赤になるのがわかった。まさか気づかれているとは思わず、必死に空元気をしていたことを知られていたのだ。恥ずかしさのあまり俯き、エドモンドを見られなかった。


「そんなところも含めてかわいいと思いましたし、守りたいと思いました。こんなにはらはらして気になった人はいません。それに事業の話で女性と盛り上がることができるとは、新鮮な感覚でしたね」

「あ、あの」

「アイリス、プロポーズの返事は今すぐに欲しいとは言いません。もっと時間をかけたいですし、あなたのことが知りたい。ただ、王太后陛下が出席されるパーティーのパートナーに関しては早く返事がほしいですね」

 最後の方は少し軽い口調になった。もう処理しきれないほどの告白を、この短い時間で聞いてしまった。アイリス自身、いろいろと落ち着いて考える時間が必要であったが、まず一番に考えなければならないことはダンスのパートナーの件のようだ。


「あ、あのそれでいいのですか?パーティーのパートナーだけを決めても」

「はい。パーティーの件は時間がありませんし、もしダンスを踊るのでしたら練習も必要です。お断りになるのでしたら、次の手を考える必要があります。アンダーソン家のために早く返事をする必要があります」


 アイリスの中で目まぐるしく考えが巡る。エドモンドに対する気持ちと、求婚されたこと、今後どうすればいいのか、そしてルーシーの話と消化しきれないことがたくさんあった。でも今は、ダンスのパートナーを引き受けるかどうかだけを考えればいい。

 エドモンドの方をちらりと見ると、期待と情熱、そして楽しい気持ちがアイリスにも伝わってきた。そんな難しいことではない。老弁護士がいうように、アイリスがダンスをしたいか、したくないかで決めればよいことであった。そのとき、アイリスの中でぱっと視界が晴れたような気がした。

 純粋にエドモンドとダンスを楽しみたい、そう、ここは古き大陸でもセロースでもない。エドモンドが私を認めてくれるのであれば、それでいいのではないか。

 アイリスの中に新しい価値観が芽生えた。まるでこれまでの古い自分を打ち破るかのように、今までと違って、周りも立場も関係なく自分の思うままに決めた。

 この新しい世界、ニューキャッセスで王太后の前で踊ってみよう。


「エドモンド、私はパートナーを引き受けます。あなたとダンスが踊りたい」

 アイリスからびっくりするほどの大きな声が出た。エドモンドも一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに楽しそうに笑顔を浮かべた。


「アイリス、ありがとう。では、私の練習につきあってください。私の方が大舞台で失敗しそうです」

 エドモンドの情けない声に、ようやくアイリスは肩の力を抜いて笑ってしまった。








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