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「すごい、本当に素晴らしい玄関だわ。外観も白を基調としているけど、内装の壁はアイボリーなのね。あの窓ガラスは百年以上たっているものなの?それともガラスは最近のものを使用しているのかしら?」
「ああ、サムエル、あのシャンデリアの美しいこと。職人がひとつひとつ丁寧に作ったものなのね。今ではあのような繊細なガラス細工の製品をつくることなど困難だわ。あら、ここには二階に上がる階段があるわ。こちらは少し趣を変えているのね」
エミリーの話が止まらず、興奮しながら子供のように部屋を眺めている。そんな姿をサムエルはにこにこしながらずっとエミリーの側から離れなかった。そして、もう一人興奮冷めやらない人がいた。イーサンはいつものつまらなそうな顔でぶっきらぼうな様子はなく、始終楽しそうに笑みを浮かべて部屋の中を見て回っていた。エミリーが屋敷のインテリアやデザインに興奮しているのに対して、どうやらイーサンは年代物の屋敷であることに興奮しているようであった。
アイリスも興味津々で屋敷内を見ていたが、二人のあまりのはしゃいだ様子に少し冷静になってしまい、つい温かい目で二人を見てしまう。
「サムエル、今日は工事が休みだったのですね」
サムエルは振り返ると、エドモンドに申しわけなさそうな表情をした。
「ええ、さすがに工事中に案内は危険ですので、実際の作業を見たいと思われていたのならすみません。でも、今日は私たち以外誰もいませんのでゆっくりと見学できますよ」
「いいえ、危険な場所もあるのですから当然のことです。十分に満足しています」
「この辺りはすべて改修工事が済んでいるところです。四分の三は済んでいる状態でしょうか」
サムエルの説明にエドモンドが先ほど見た改修前の部屋を思い出したのか、考え深げに顎を撫でた。何かを考えているときに顎を触るのがエドモンドの癖のようだと、アイリスは失礼にならない程度にエドモンドを見て思った。
「サムエル。この屋敷は確か飲食のチェーン店を経営するオーソン氏の依頼だと言っていましたね。ここに住むには都市部から離れていませんか?」
サムエルは大真面目な顔でエドモンドに頷いた。
「ええ、ここは別荘にするそうです。あとはお客の接待場所や、パーティーを開くときに使用すると言っていました。都市部では味わえない雰囲気がありますし、野外劇場などもあって招待するには良い場所でしょう。部屋数は二十室しかありませんが、部屋数よりも玄関ホールやバルコニー、人が集まれる会場を豪華にして広くとっているのが特徴です。革命時代の雰囲気をそのまま残してほしいとのご依頼ですので、建物の外壁も内部のものも壊したものはほとんどありません」
エミリーが興奮したようにサムエルの側に来た。
「先ほど改修前のお部屋を見たけど、ぼろぼろで幽霊屋敷の部屋のようだったわ。この辺りもあのような感じだったのかしら?」
「そうなのです。この屋敷は五十年近くも放置されていました。都市部からも遠いわりには購入価格も高かったのです。修復にも莫大なお金がかかることからなかなか買い手がいませんでした。私が最初に見たときは本当に幽霊屋敷かと思いましたよ。ひどい荒れようでした」
「それをここまで修復したのですね」
エミリーの目が尊敬のまなざしになり、うっとりとサムエルを見つめた。エドモンドは妹のそのような姿に少しあきれながらも、サムエルの気持ちを自分のほうに向けさせるように話しかけた。
「幽霊屋敷など想像がつきませんね」
サムエルはずっと手に持っていた書籍らしいものを開いた。それは書籍ではなくアルバムであった。
「見てください。この屋敷の最初のころの状態です。すべて写真にとってあります。工事をしたときの写真もありますよ。出来上がるまで写真に撮っているのです」
全員がサムエルの周りに集まり、サムエルの手元にあるアルバムを眺めた。草木におおわれた古びた屋敷に壊れた噴水、倒壊した野外劇場が写っていた。
「すごいなあ。本当に幽霊屋敷だ。こんな状態だったんだ」
イーサンは素直に感心すると、写真と建物を交互に見ながら何度も興奮しながら歩き回った。
「すごいですね。今は古びた趣のあるだけで、荒れ果てた雰囲気はありませんし、とてもきれいです」
エドモンドも感心しながら、壁や天井を見上げた。
「特殊な技巧を持った職人が丁寧に壁や建具を塗り直しました。歴史的に価値があるものを修復する職人たちで古き大陸から移住してもらったのです。ビルや新築の家を建てる職人たちとは違い、代々作り上げるのではなく修復するという点で技術を磨いてきた職人たちです」
「なるほど、本当に素晴らしい。しかし、修復しただけではこの屋敷に住めないでしょう?」
「エドモンド、もちろんです。百二十年前に建てられ、五十年も放置されていた屋敷ですから、キッチンを含め昔のままでした。水道や下水の工事、電気の配線やガスの設置などインフラを整える必要がありました。百二十年前の革命時代のままの設備であったため、キッチンなど窯でしたよ。感動で心臓がどきどきしました」
サムエルの話はとても面白く、アイリスも思わず興奮して会話に加わっていた。
「さきほど、壊したものはほとんどないと言われていましたが、革命時代の設備を変えるのでしたら壊さざるをえない場所もあったのではありませんか?」
サムエルはアイリスの方を見ると誇らしげににっと笑った。
「お嬢様、そこが私の腕のみせどころですよ。私が古い屋敷を扱うプロとして自負しているところです。水道や下水を工事するために床をはがす必要がありましたし、電気の配線のために内装を壊す必要がありましたが、床は修復を専門とする職人たちの手により一枚一枚壊さないようにはがしました。壁や内装も同じです。腐っているものはしかたがありませんので取り除きましたけどね。あとは、どうしても配線や管を通す必要がある箇所だけ、元に戻せるように取り外しました。戸棚や収納場所の扉はそのままで中だけを新しく変えましたけどね」
アイリスは小さく驚きの声を上げた。
「では、本当に当時のままなのですね」
「ほとんどはと申しておきます。さすがに歴史的建造物として屋敷を残すための工事ではなく、あくまでも別荘として使用するためのものですので、どうしても壊して変えないといけない箇所もありました。シャワー室とトイレ、それにキッチンですね。あ、キッチンにあった窯は残しましたよ。窯で作る料理もあるためもったいないのでそのまま残しましたが、それ以外は最新の設備を入れました。キッチンやシャワー室など工事は通常の業者に頼みましたし、ええ、もちろん職人たちと連携してもらい、他の部分を壊さないようにしてもらっています。そんなこともあり、なかなか時間がかかっていますが、あと三カ月程度で完成する予定です」
アイリスは、これは素晴らしい腕前だとエドモンドに視線を送った。エドモンドもサムエルの才能を認め、頷いた。これならフォスター家の屋敷に宿泊できるように改修することも、現実的な目星が見えてきた。
「サムエル、とても素晴らしい仕事ですね。ぜひ、あなたの力をお借りしたくなってきた」
エドモンドの言葉にサムエルは不思議そうな顔で瞬きを繰り返し、イーサンは顔を輝かせた。エミリーも面白そうに兄の言葉を待っているようであった。
「私の力ですか?それは建築家としてということですか?」
「そうです。計画中のことがありまして、あなたにお願いするのがいいようです」
「私はビルとは作りませんよ」
サムエルは肩をすくめて笑った。エドモンドはどこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「ビルではありません。それこそ古い屋敷を専門とするあなたにうってつけの案件です。セロースにある子爵家の屋敷なのですが、およそ二百五十年前に建てられたもので、その屋敷の改修を考えております」
「はあ?」
サムエルの口があんぐりと開き、目を見開いたまま固まった。
「今も人が住んでいますので、このような幽霊屋敷ではありません。屋敷の規模もここよりも大きなものです」
そうですよねと言うようにエドモンドがアイリスに同意を求めた。
「ええ、部屋数も四十室ほどありますのでここよりも広いですね。庭園やガラス張りの温室がありますし、歴代当主たちが力を注いだ屋敷でとても美しいものです」
見る見るとサムエルの大きな体が震え出し、唇が何度も開いたり閉じたりをした。
「古き大陸の太古の国セロースの貴族の屋敷‥‥に、に、二百五十年‥‥」
アイリスはふっと自分の城や数々ある屋敷も、もう少し使い勝手よく改修してほしいという気持ちが湧き上がった。自国に修繕する職人は多数いるので、城や屋敷の修復は何度も依頼してきた。しかし、このような最新の設備を入れるとなるとお願いしていた職人では勝手が違うだろう。ぜひともこの屋敷のように人が使っている場所だけでも設備を入れてほしかった。
「あの、できましたら私の城や屋敷も見ていただいて、新しい設備を入れていただきたいです」
少し遠慮しながらそういうと、エミリーとイーサンがぎょっとした顔でこちらを見た。サムエルは顔を真っ赤にさせ、小刻みに震えながら、絞り出すような声が聞こえた。
「今、屋敷ではなく城といいましたか?」
「はい、小高い山の上に建つ城です。少し古い城で千年近く前に建てられたものです。これまでも設備を入れ替えてきましたが、それも今では古いものなので使い勝手が悪くて困っています」
「え?千年で少し古いのかよ。少しじゃないだろうが」
イーサンの呟きに誰も反応せず、サムエルはがたがたと震え出し、死にそうな声音で聞く。
「す、すみません、もう一度、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?いいえ、先ほどご挨拶したときに聞いておりますが、もう一度だけお願いします」
アイリスはサムエルに尋ねられた意味がよくわからなかったが、素直に頷いた。
「アイリス・フォン・ディーンマークと申します。あ、そうですね。ご心配はいりません。私が当主でありますので、城も屋敷も私の判断で行うことができます」
「セロースのディーンマーク家‥‥千年の城‥‥まさか幻の名城と言われたディーン城‥‥」
「お詳しいのですね。ディーン城もですが、他にも‥‥」
アイリスは新しい設備になると思うとうれしくて続けようとしたが、横からストップが入った。
「アイリス、サムエルが今にも興奮で倒れそうです。彼も少し落ち着いたほうがいいでしょう。サムエル、ソファに座ったらどうですか?エミリー、付き添ってあげてください」
どこかあきれた顔でエドモンドが話を止めると、サムエルはよろよろと大きな体を傾かせながら、近くにあるソファに座った。エミリーが心配そうにつきそい、サムエルの隣に座った。何が悪かったのかとエドモンドとイーサンを交互に見ると、兄弟は似た笑顔を浮かべながら何も言わなかった。
「アイリスって、何かすごいんだな」
「はあ、何かって、イーサン、あなたはまったくわかっていませんよね。まあ、いいです。それよりも結構な時間が経っています。サムエルはエミリーに任せれば大丈夫でしょうから、帰る時間まで見学をしたらどうですか?この辺りであれば一人で見て回っても大丈夫でしょう」
「うん、そうするよ」
元気に返事をするとイーサンはさっそくとばかりに階段の方に向かった。うろうろと階段を踊り場まで昇ったり下りたりを繰り返し、壁に掛けられた古びた年配の男性の肖像画をまじまじと見ていたりとせわしなかった。
アイリスはエドモンドと二人になったのだが、このときは自然な形で隣にいるエドモンドに話しかけていた。
「このお屋敷を見学させてもらって本当によかった。私もですが、お二人は大興奮ですね。エミリーはデザイナーなのでこのようなお屋敷に興味があるのはわかりますが、まさかイーサンがここまで興奮するとは思いませんでした」
「ええ、私も正直驚いています。最近は誰とも話さず、話しても乱暴な言動が多かったので、何を考えているのかわからなかったのです。まさかイーサンがここまで興味を持つとは思いませんでした。イーサンはフォスター家の屋敷のことを本気で取り組んでいます」
エドモンドは弟の姿を優しい目で見つめながら、柔らかな表情で満足げに笑った。彼は本当に兄弟を愛しているのだ。アイリスにはそれがとても羨ましくもあり、苦しくもあった。愛して守る人たちがいるエドモンドを羨ましく思ったのか、エドモンドに当たり前のように守られている兄弟たちを羨ましく思ったのか、アイリスにはこの感情の正体がわからなかった。
ただ、寂しいという気持ちだけははっきりと理解できた。
「イーサンは、まだ何をしたいのかわからないようです」
アイリスはイーサンを思い浮かべながら言った。
十八歳のイーサンは自分の進路について悩んでいる。でもそれは真剣に自分の将来を考え、これから何をしていきたいかと自分に向き合っているからだ。これまでアイリス自身進路に関して悩んだことがあるかといわれれば、悩んだことがなかった。しかし、やりたいことがわからないと言ったときのイーサンの表情を思い出し、ふっと自分も同じではないかと思った。
「私はなにをしたいのだろう」
アイリスは思わず小さくつぶやいていた。イーサンの悩んでいる姿やフォスター家の屋敷に情熱的に取り組む姿を見ているうちに、もしディーンマーク家を選ばなかったら、私は何をしていたのだろうかと思ってしまった。
イーサンのように自分の未来のために必死に悩んだことがあっただろうか。
そのとき、耳元で悪い妖精がささやいた。このままセロースに帰らず、ここに残ったらどうだ。そうしたら、これからも今のようにこの人の側で同じ時間を過ごせるよ。
「エミリーとサムエルが屋敷の奥を見に行くようですね」
エドモンドの声にアイリスは現実に戻ってきた。エミリーにサムエル、そしてイーサンもいつのまにか姿が見えなくなっていた。
「ええ、そうですね」
心臓が不安でどくどくと音を鳴らす。あの悪い妖精のささやきはクラーク家に滞在したころから、ひそかに思っていたアイリスの本音であった。考えてはいけないとふたをしてきたが、あの空虚な城に帰る意味を見いだせず、どこかでセロースに帰ることを拒んでいた。
ディーンマーク家の当主であるのだから、それはゆるされないことであるのに。
「二階に行きませんか?」
エドモンドの誘いにアイリスは頷くと、エドモンドはゆっくりとアイリスの歩調に合わせて歩き出した。
「イーサンの楽しそうな姿を見て安心しました」
「ええ、そうですね」
イーサンがしかめっ面ではなく、目を輝かせて屋敷を見ている姿に、アイリスも嬉しい気持ちになった。
「今は迷っていますが、そのうち見つけることができるでしょう」
「自由に好きな道を選べるイーサンがうらやましいです」
「イーサンを?」
「ええ、私はそろそろ国に帰らないといけません。自由で楽しい時間は終わりです」
ぽろりと本音が零れた。そして、すぐにアイリスは自分の言った言葉を後悔した。
「エドモンド、あなたはイーサンがフォスター家に関係してもいいのですか?」
別の話にすり替えると、エドモンドはその前のアイリスの言葉に言及しなかった。
「ええ、それがフォスター家に関連することだとしても、本当にやりたいことであれば私は応援しますよ」
「ずいぶんお変わりになられました。最初はフォスター家を嫌がっていらっしゃったのに‥‥」
冷たく帰ってほしいと言われた時のことを思い出しそう言うと、エドモンドはアイリスの方を見て苦笑いをした。
「私はフォスター家が好きではありませんでした。昔から母は私のことをことあるごとに、フォスター家の男性らしいと言いました。フォスター家の当主に似ていると、そう言われるのがたまらなく嫌でしたね。母を許さず、父をけなす当主に似ていると言われて嬉しい子供はいないでしょう」
アイリスは失礼ながらもまじまじとエドモンドを見つめながら、同意するように頷いた。初めて会った時からフォスター家の人だと思っていた。ふっと若いころの祖父の写真を思い出し、思わず声を上げてしまった。
「どうしました?」
「申し訳ございません。はしたない声を上げてしまいました。それが、私は一度若いころのおじい様の写真を見たことがあるのですが、エドモンドは若いころのおじい様にそっくりなのです」
エドモンドの顔がよけい渋い顔になり、右手で頬を撫でた。
「母がフォスター家の当主に似ているといっていたのは、本当に外見が似ていたからなのですね。嫌だなあ、本当に似ているのですか?」
「ええ、髪の色も瞳の色も同じですし、顔もそっくりです。ふふ、フォスター家の男性らしいというのはその通りかと思います。フォスター家の男性は銀の髪にグレーと銀が混ざった不思議な瞳が多いのですよ。曾祖父もそうでしたし、これは大叔母様から教えていただいたのですが、私の母の兄、おじい様の息子も銀の髪にグレーに銀が混ざった瞳だったそうです。それにフォスター家の男性はとても頑固で誰かを守る意識が強いのだそうです。フォスター家は騎士の家系で代々騎士になる方が多かったと聞きます。戦って守る血筋なのかもしれません。そして何でも自分一人で背負いこんでしまう。おじい様はフォスター家を自分の代で終わりにする覚悟をしていました。ご病気になられる前に、私に爵位のことは何も心配ないとおっしゃっていました。だから、誰か遠縁の方に引き継がせるのだと思っていましたが、そうではなく爵位の返還の手続きを進めようとされていたのですね。でも、間に合いませんでした」
祖父は屋敷以外のすべてを現金にし、煩わしいことを整理していた。
二階も豪華な部屋になっており、バルコニーに出られるようになっていた。アイリスは話を続けながらエドモンドにエスコートされバルコニーに出ると、青空が見え、穏やかな風が吹いていた。
「叔父は病気だったのですか?」
エドモンドの声はどこか淡々としていた。
「もともと年齢とともに心臓が弱くなっておられたので、無理はできないお体でしたが、まだいろいろと采配をふるうことはできていたのです。でも、あの年は質の悪い風邪が流行り、おじい様も風邪にかかってしまわれました。本当に信じられないほど早かった。風邪にかからなければまだお元気でしたのに、ベッドから起き上がれないようになって二週間もたたずに帰らぬ人となりました」
あのときのことを思い出すと今でも胸が痛む。お歳であったためいずれはと思っていたが、まだまだ元気であったから一緒にいられる時間はあるのだと思っていた。当たり前のように会いに行けば、そこにいて会えると思っていた。
「当たり前などないことを私は知っていたのに、突然二度と会えなくなることがあるのだということをわかっていたのに‥‥。私はその度に何度も気づかされるのです。当たり前にある時間などなく、今ある時間の中で、その方々に会えることはとても幸せなことなのだと」
アイリスは自分の気持ちを素直に言葉にしたとき、はっとなり、おそるおそるエドモンドの顔を見た。自分の気持ちを話すことがとても恥ずかしく思え、そして楽しい話ではなかったと後悔したからだ。
エドモンドは遠い目で青空を見つめ、そして寂しげな表情で苦笑した。今のエドモンドはたまに見ることがある孤独な姿をしていた。冷めた表情で自分自身を嘲るように笑う。なぜ、そのように孤独で自分自身を嘲るのだろう。
「あなたはとても誠実で優しいのですね。人と誠実に向き合っているから、大切な人の心を受け取り、大切な時間を共有し、亡くなった人も自分自身さえも慰めることができる。私にはできないことです。私は大切な人とのことを後悔と罪悪感しか持てなかった。情けないことです」
その言葉はエドモンドの本音に聞こえた。彼が後悔と罪悪感を持つほど何があったのかわからないが、ただ、この人は自分とよく似ていると思った。
「あなたこそとても誠実で優しい方です。誠実でなければ、後悔も罪悪感も持たないでしょう。本当に損な方‥‥」
思わず呟いた言葉にエドモンドは目を見開き、アイリスを見つめた。心あらずと遠くを見ていた瞳が今はまっすぐとアイリスを見ていた。銀とグレーの交じりあった不思議な光を宿していた。その美しくも不思議な瞳に見つめられ、アイリスの心臓が大きく動いた。
美しくも整った唇が動けば、その美しい唇から似合わないほど力強い声が響いた。
「私はあなたにお聞きしたいことがあります」
心臓が苦しいほど鼓動する。
「あなたはディーンマーク家の当主で、あなたの責務はとても重いものです。あなたにはあなたを助ける者が国にいらっしゃるのですか?私よりもあなたのほうが損をしているように見えます」
「巨万の富を得ている私が損をしているというのですか?」
「その富を得ているために、多くの重責を背負っている。私も会社を預かる者です。自分の立場の重責や恐ろしさを理解しています。富や権威、利権は人を狂わせ、命さえも狙われることがあります。あなたも当主でなければ、危険な目に遭うこともなかったことでしょう。あなたは当主になることを望んでいたのですか?」
アイリスは彼の質問に雷を打たれたかのように、ショックを受けた。当主になることを望んでいたのか、自分の意志で当主になったのか、そう聞かれたように思えた。そして、自分は当主など望んでいなかったと心の中から本音が零れた。
当たり前のようにアイリスが当主になることが決まっており、それ以外の道などなかった。アイリスは同年代の者たちよりも、さらに自分より年上の者たちよりも厳しい勉強をこなし、子供としての時間は短く、大人の世界に入らざるをえなかった。
アイリスを支える者たちは多くいたが、それは対等の関係ではなかった。年配で経験が豊富なたくさんの大人たちが古き習慣によりアイリスに仕えた。それは選択肢もなく逃げることもできず、疑問にさえも思わせない道であった。
ああ、そうかとようやく納得した。
最後の肉親だと思っていた祖母が亡くなったとき、操られていた糸が切れたかのように何をしてよいのかわからなくなった。誰のために何のために、あの城にいるのかがわからなくなった。そして、本当はディーンマーク家の当主であることに自信がなかった。自分に自信など持てなかった。
この新しい大陸に来て、ディーンマーク家とは関係ない世界に触れ、見るものすべてにこれまでの価値観を崩されて、ようやく自分の心がわかったような気がした。エドモンドはそんな見て見ぬふりをしていた自分の心を言い当てられたような気がした。
アイリスは周りに言われるがままにディーンマーク家の当主の座についた。自分で一度も悩むことも考えることもせず、みんなに言われるがまま当主になった。自分の意志で選んだ道ではなかった。
「誰もいなくなったとき、何をしてよいのかわからなくなったのも当然のことだったのですね」
「アイリス?」
「自分で選んだものではなかったから」
それでも、当主という椅子から降りるわけにはいかない。
「私はディーンマーク家の最後の一人です」
あの深き森の景色を思い出し、広大に広がる麦畑やたくさんの人々の顔が浮かんだ。
「一族の者たちは消え、もう私しかおりません。でも、私はその理由を盾に、自分から逃げてはいけないのかもしれません」
アイリスは静かに答えた。あの広大な城の中で常に、これからどうしたらよいのかわからないと嘆き、ぐらついていた気持ちは消えていた。
アイリスは大好きな不思議な色の瞳を見つめた。
「この国に来て驚くことばかりです。建物も人々の会話もいろいろなことが自国とは違っていました。私が住む場所が古き大陸と呼ばれる理由がわかるような気がします。ここでは新しい価値観が生まれ、新しい物が生まれ、それを自由に選択することができます。そして、誰もが正面から私にありのままの言葉を言ってくる。エドモンド、私は、私が持っているものはそう簡単に手放してはいけないものなのだと知っています。だから私はもう少しこの地に留まり、自分の心と向き合う必要があるのだと思います」
「あなたは本当に純粋で強い人です」
エドモンドの言葉はこれまでと違い、どこか深い情がこめられた響きがあった。明るい陽射しの中、エドモンドの笑みはとても優しく甘さを含み、アイリスに手を差しだした。その手は力強く自信に満ちており、この手を取れば何かが変わる予感がした。
アイリスは手を伸ばし、大きな手に自分の手を重ねた。そのとき、この手が魔法使いの手のように世界が大きく変わったかのような不思議な感覚になった。
「二人ともこんなところにいたのね」
エミリーがサムエルと一緒に階段を上ってくる姿が見え、その後ろにはイーサンもいた。エドモンドはアイリスの手を握ったままエミリーたちを迎えると、からかうような目でサムエルの手を見た。
「ずいぶん親しくなったのですね」
エミリーとサムエルは手をつないでいたからだ。サムエルは手を放そうとしたが、エミリーが離さなかった。
「あら、エドモンド兄さん、それはお互い様でしょう」
イーサンは顔を背け、サムエルは赤い顔で目をそらした。エドモンドは余裕な顔で少し息を吐き出すと、日が陰りだした空に目を向けた。
「さて、そろそろ帰った方がいいようですね。サムエル、今日はありがとう」
最後の言葉のときはサムエルを見て言った。
「こちらこそ、ありがとうございます。私も帰りますので、ここを閉めます」
サムエルはにっこりと笑った。




