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「ポロニャール夫人からアイリスが二回目に婚約したときに何があったのか教えてもらったわ」
オークラウド卿のパーティーの二日後、エドモンドはマチルダから屋敷に来るように言われた。三年前にアイリスが婚約解消に至った理由を話すと言われたからだ。エドモンドは仕事をかたづけ、夕方に屋敷に着くと母の自室に招き入れられた。
「エドモンド、座りなさい」
エドモンドはソファに座ると、マチルダもエドモンドの隣に座った。
「先日、あのランドルフという男性がアイリスに行ったことはとても危険なことだった。あなたが助けていなければどうなっていたかわからない。ですから、私は三年前に何があったのかディーンマーク家の侍女頭ポロニャール夫人から話を聞きました。あなたは知っておいたほうがいいと思ったので話します」
エドモンドは静かに頷いた。ランドルフが危険な男であることはわかっていたが、アイリスがあれほど恐れている理由が知りたかった。
マチルダはゆっくりと三年前にアイリスの身に何が起こったのかを話しだした。それはとても恐ろしい話であった。
ランドルフ・クリスティンはとても狡猾で、初めからディーンマーク家のすべてを手に入れるつもりであった。その最初の手段として、アイリスの側に自分の駒となる女性を置いた。
婚約が決まってから二カ月たったときに、クリスティン子爵家からの要望で一人の若い女性をアイリスの侍女とするように話がきた。後々は姑になる子爵夫人の推薦で子爵家に勤めていた二十一歳の女性をアイリスの側仕えにするという話であった。
これはランドルフが自分の母にアイリスの側には若い侍女が必要だと進言されたことによるものであった。ディーンマーク家に勤める者たちは年齢がかなり上の者ばかりであるため、自分たちが結婚した後のことを考え、アイリスの側には若い側仕えが必要だといってきたのだ。ディーンマーク侯爵は、その意見を認め、その女性を侍女として迎え入れた。
その女性がランドルフと男女の間柄になり、アイリスを害する計画に加担することになる。
エドモンドはマチルダの話を途中で遮った。そもそも、なぜ、そんな危険な男を婚約者にしたのかが疑問だったからだ。
「お母さん、そもそも、婚約者を選ぶときにわからなかったのですか?」
「ええ、わからなかったということなのでしょうね。もちろん侯爵は慎重にお相手を探していたでしょう。クリスティン子爵家の内情も調べ、子爵もその夫人も良心的なお人柄で、ご長男も人格者だったそうよ。そして、次男のランドルフにも悪い噂はなかった。一回目の婚約が失敗に終わったことで、候補を選ぶのは難しかったと言っていたわ」
アイリスの最初の相手は伯爵家の子息であった。アイリスが十五歳で相手は三歳年上の十八歳であったが、この子息は自分よりも優れているアイリスに嫉妬したという。アイリスを見た目が悪いとからかい、財産だけは価値があると言い、かなりの暴言を吐いていた。伯爵もアイリスを見下していたため、侯爵はすぐに婚約の話をなしにした。
侯爵はこのことがあってからアイリスと歳が近い者は選ばず、十歳近く上の大人の男性を探した。しかし、十歳近く上だと、それはそれでプライドが高く問題があった。なかなかいい相手が見つからない中、ようやく見つけたのが五歳年上のクリスティン子爵の次男ランドルフであった。
「あいかわらず、嫌な世界だ。だから貴族社会は嫌いなのですよ」
「そうね。あなたは人を見下す人が大嫌いですものね。最初の婚約がこんな形でなくなってしまったから、アイリスはこの二回目の婚約ではなんとか相手によく思われたいとおもっていたそうよ。ポロニャール夫人が言うには、あのクリスティン子爵家の子息がその心につけいった」
「つけいるとはどういうことですか?」
「ランドルフはとても演技が上手だったそうよ。穏やかで優しくて善良な人の仮面を被ってアイリスを追い詰めていった。ポロニャール夫人が知ったときには、アイリスはランドルフに精神的に追い詰められていたのよ」
マチルダは悔しそうに言った。
ポロニャール夫人が最初に異変を感じたのは、婚約が決まってから二カ月たったときだった。ランドルフは頻繁にアイリスに会いに来ていたので、周りは順調に仲を深められているのだと思っていた。なぜなら、ランドルフの言葉は優しく、常にアイリスを大切にしているように見えたからだ。ポロニャール夫人はこれまでアイリスの側に控えていたが、若い侍女も入ったこともあり、アイリスの側から離れるようになった。だから、このときに二人の会話を聞いたのは本当に偶然であった。ランドルフは穏やかな声と言葉で、アイリスを否定することばかりを言っていたのを聞いてしまった。
ランドルフはとても言葉巧みに、一見、そのようには聞こえないように話をしていたが、その言葉の裏には明確な悪意があった。ランドルフはアイリスに、頭のいい方で素晴らしいが貴族の男性はそのような女性をよく思わないといい、美しいと評判の伯爵家の令嬢や子爵家の令嬢を褒めたたえ、黒髪は好まれないとアイリスの容姿を批判した。そして必ず、他の者はあなたの良さがわからないし、アイリスの相手になるのは自分だけだと言った。アイリスに自分との婚約がなくなれば、あなたの立場は難しくなるとくり返したという。
気分が悪くなるような話だった。アイリスがあれほどあの男に震えるのは当然のことであった。母の顔色も悪く、小さく息を吐き出した。
「彼は、アイリスの自信を奪うためにそのような話ばかりをしたのよ。本当に腹立たしい。ポロニャール夫人は、それから二人の会話に耳を傾けるようになった。彼は自分との婚約がなくなれば、アイリスの立場が悪くなると言葉を変えて繰り返し言っていたそうよ。それにアイリスの外見のことを悪く言っていた。美しくないとね」
「あの男は自分から離れないように洗脳しようとしていたということですね。この婚約を逃せば終わりだと精神的に追い詰めていく‥‥これも計画のうちだったということですか?」
エドモンドは腹の底から怒りが湧き上がってきた。本当に卑怯な男だった。マチルダも険しい表情で頷いた。
「そうでしょうね。アイリスの様子が変わり、顔色が悪く、いつも自信がない様子でランドルフの言葉に従っていたというわ。ポロニャール夫人は執事のロベルトにこのことを話し、侯爵閣下に伝える前に証拠をつかむことにした。城に仕える者やアイリスに直接かかわる者たち全員でランドルフを見張ることにしたのよ。言葉巧みにごまかされない証拠をつかむためにね」
「そうですね。あの男が何をしようとしていたのか、つかめたのですか?」」
「ディーンマーク家の者たちが一番に警戒したのが子爵家から紹介された女性だった。その女性も見張ったそうよ」
マチルダは話を続けた。
その侍女はディーン城に来て一カ月ほどはおかしなそぶりを見せなかったが、二カ月目になって影で頻繁にランドルフと城内で会うようになった。それも二人は男女の間柄であったという。あの広大な城の中なら気づかれないと思っていたのか、二人はかなり大胆な行動をしていた。
そのころからアイリスの様子が少し変わってきたとポロニャール夫人は言った。少しぼんやりとする時間が増え、勉強も仕事にも手がつかなくなったという。夫人はおかしいとアイリスの身辺に注意を払っていると、あの侍女がアイリスの飲み物に何かを入れていることに気がついた。ポロニャール夫人は侍女に気づかれないように、カップをすり替え、そのお茶を調べた。
「‥‥そのお茶には何が入っていたのですか?」
「その飲み物にはかなりの量の安定剤が含まれていたのよ。ええ、このようなものを大量に飲み続ければ危険であったでしょう」
エドモンドはあまりのことに言葉が出なかった。
「結婚した後にアイリスが亡くなれば、ディーンマーク家は夫のものになるわ。安定剤なら入手がむずかしい薬ではない。それも命を落とすまではいかなくても、アイリスを精神的にあやつることはできる。彼が直接手を下しているようには見えないわよね」
「ええ、そうでしょうね」
「ランドルフはディーンマーク家の者たちを甘く見ていたのでしょう。ディーンマーク家の者たちに監視されていたとも知らずに、城内で堂々と侍女と会い、不貞行為をして薬を渡していた。ポロニャール夫人は、このままではもっと過激な方法で命を狙われる可能性もあると考え、早急に二人が会っているところを侯爵閣下に見てもらう計画を立てたそうよ」
マチルダは一度言葉を止め、呼吸を整えた。そして、ランドルフの悪事が発覚したときのことを話した。
ポロニャール夫人たちはランドルフと侍女が会っている現場に侯爵を連れて行く予定であったが、その前にアイリスは二人が会っているところを見てしまったという。アイリスもランドルフに不信感を抱いており、侍女のことも怪しんでいたのだ。ポロニャール夫人はランドルフたちを見張っていた者たちからその話を聞き、まずはショックを受けているアイリスを保護した。そして執事が侯爵を連れて、ランドルフたちが密会している部屋にいった。そこで言い逃れができない現場を見られ、その場で侍女が大量の安定剤を持っていたことも発覚した。
侯爵は事の重大さに気づき、警察に通報し、ポロニャール夫人たちが集めた証拠を提出したが、侍女がアイリスに薬を飲ませたことは罪になったが、ランドルフまで捕まえることはできなかった。侍女はアイリスの飲み物に薬を入れていたことは自白し、ランドルフに指示されて行ったと証言した。供述ではアイリスが亡くなった後に後妻として自分が結婚するつもりだったと言っていたらしい。しかし侍女の証言はすぐに変わり、精神的不安定から証言もあやふやになり、ランドルフを捕まえる証拠にはならなかった。警察も捜査したが、ランドルフがアイリスを害する計画していたという確たる証拠を見つけることができなかった。
「なるほど、ずいぶんと狡猾ですね」
「ええ、ランドルフはアイリスを害する気持ちなど一切ないと否定した。彼が渡した安定剤は侍女のために渡したと言われればそれまでで、アイリスに飲ませろとは指示していないと言った。彼の罪は侍女との不貞行為のみで、それで警察が捕まえることはできなかったのよ。アイリスとの婚約は解消され、子爵家はランドルフのことを許さず、除籍にしたということよ」
「そして国を離れたということですか。他にも悪事があったのでしょうね」
「そうでしょうね。でも、彼は自分の本性を隠してきたわ。ディーンマーク家で起こったことも、他の貴族家であれば彼の目論見は成功していたかもしれない。ディーンマーク家に仕える者たちが特別なのよ」
マチルダは、ディーンマーク家に仕える者たちが普通の貴族家に仕える使用人たちと比べ別格であることをエドモンドに教えた。現在、城に仕える従者たちは、セロースの神話伝承に出てくるディーンマーク一族を守護する部族のまつえだと言われている。
いくつかの部族は今でもディーンマーク家の所有する土地に住み、千年近くもの間、時には兵士となって守り、文官として仕え、ディーンマーク家を筆頭にディーン地方を守ってきた。
長年ディーンマーク家に忠誠を誓った者たちだからこそ気づき、そして未然に防ぐための対応ができたと言える。
マチルダは話し終えると、一気に老いたようにぐったりとソファにもたれた。さすがに、話をするだけでも精神的に疲れる内容であった。
「お母さん、ディーンマーク家に仕える者たちを紹介していただけませんか?」
エドモンドの頭の中ではたくさんの作戦が練られていった。あの男を野放しにするつもりはさらさらなかった。
「あの男は危険です。必ず、アイリスに接触してくるでしょう。あの男はセロースの人間です。セロース側の助けが必要です」
「ええ、ディーンマーク家の者たちは力になってくれるでしょう。自分たちの主の危機なのですから、今回は本気になるでしょうね。三年前は侯爵閣下がそれ以上調べることを止められたそうよ。侯爵閣下のご容体が悪くなって、彼らは手を引いたと言っていたわ。でも今回は、彼らもゆるさないでしょうね」
母は頷くと、弁護士のバルフォアドに話をする方が早いと言った。
「お母さん、この件、私に任せてください」
マチルダはしばらく息子を見つめ、大きく息を吐き出すと、背筋を伸ばして座り直した。
「エドモンド、彼女は巨万の富を持つディーンマーク家の最後の直系、彼女を狙うのはランドフルだけではないわよ。彼女が未婚である限り、次々とこのような欲深い者たちが現れる」
エドモンドは静かに母を見つめた。
「ディーンマーク家の資産がどれほどすごいものか、あの家がとても特別な家であることをあなたに知ってほしい。クラーク家の資産などお話にならないほどの資産を持っている家よ。資産だけではない。権威も地位もあります。古き大陸で、セロースのディーンマーク侯爵家がどれほど特別か、他国の王族でも礼儀をもって対応する家柄です」
マチルダはまるで祈るように両手を握ると、エドモンドを見据えた。
「あなたが三年前に愛する人を失って、そこから立ち直っていないことは知っています。これまで穏やかな仮面をつけているだけで、感情を失っていたことも知っていましたよ。そんなあなたが、今、いろいろな感情を見せていることに気がついているかしら?アイリスに関わることで、あなたは様々な感情を見せている。私はあなたの幸せも願っています」
「お母さん‥‥」
マチルダは真剣なまなざしでエドモンドを見つめた。
「アイリスとともに歩む者は、本物の伝統と権威に触れることでしょう。古き時代から培ってきた人々の魂と向き合い、継承していくことの重みと誇りを知ることになるでしょう。彼女こそがディーンマーク家そのものです。彼女と一緒に歩む者はそれを理解し、覚悟が必要です。エドモンド、あなたがそれを理解し、アイリスとともに歩んでくれる者であることを願っています」
エドモンドは母の言葉を噛みしめた。本物の伝統と権威、それを理解し始めていた。エドモンドはもう過去のように間違いたくなかった。
二度と失いたくないと心から思った。
オークラウド卿のパーティーから三日後、アイリスたちは予定通りに首都カサノバの中心地から郊外に向けて車で四時間ほどかかる場所にある古い屋敷へと向かっていた。
エドモンドが古い屋敷の改築と改修を専門に行っている建築家と連絡を取り、現在工事している物件を見せてもらえることになったからだ。
当初、見学するメンバーはエドモンドとイーサンにアイリスの三人であったが、このことをどこから聞いて知ったのかエミリーが自分も興味があると名乗り出た。それも、もし可能であればフォスター家の屋敷も見たいと言い出したのだ。
本人はインテリアデザイナーとして私を連れて行くのは当然だとまで言い切った。もちろん、見学に反対する者はいなかった。
アイリスは車の助手席の窓から外の景色を眺めながら、知られないように小さく息を吐いた。
パーティーの後、アイリスはランドルフから受けた数々のつらい出来事から立ち直り、周りにはこれまで通りの姿を見せていた。しかし、彼が吐いた毒のような言葉が頭から離れなくなっていた。エドモンドが愛している女性の存在、そして美しくないという言葉が一人になったときに思い出され、心に暗い影を落としていた。
「もう少しで着きますよ」
運転席から声をかけられ、アイリスの心臓がどきっとする。運転席の方に目を向けると、エドモンドがちらちらとこちらを見ていた。
「具合でも悪くなりましたか?」
「いいえ、景色を眺めていたのです」
笑みを浮かべてそう告げると、楽しみにしていた屋敷にもうすぐで着くことに、次第に気持ちが高ぶってきた。
「今日見せていただけるお屋敷はいつ建てられたものなのですか?」
後部座席に座っていたイーサンとエミリーも楽しそうに会話に加わってきた。
「アイリス、革命時代の金持ちの屋敷だと聞いたけど、ずいぶん大きな屋敷だよな」
「あら、イーサン、あの規模の屋敷だと部屋数は十以上あるはずよ。昔の様式のお部屋もとても素晴らしいのよ。本物の革命時代のお部屋を見られるなんて、なんて幸運なの。それで、あなたたちはフォスター家の屋敷をどうしようとしているの?」
そう、なぜ古い屋敷の工事現場を見学することになったのか、その理由はアイリスとダニエルにイーサンの三人がサロンで話したことがきっかけであった。ダニエルが兄たちに話を通して、フォスター家の屋敷に関してエドモンドとジョージに大叔母のマチルダ、そしてイーサンを入れて話し合う機会が設けられたのだ。
フォスター家の資産の中で一番の問題は広大な敷地に建っている二棟の屋敷をどうするかであった。アイリスもそろそろセロースに戻らなければならなく、あちらに戻れば簡単に顔をつきあわせて話をすることができないことから、せめて屋敷をどうするのか決めてから帰りたいと考えていた。爵位と現金は屋敷をどうするかでおのずと決まってくる。何よりイーサンが屋敷に興味をしめしたことが進展に大きな変化をもたらした。この話し合いの中で、屋敷を売却するなどもったいないと言い出したことから始まった。
「屋敷に関してはどうするか答えは出ていません。イーサンがもったいないと言い出したのですよ。ジョージが置いておくだけなら売却したほうがいいと言っていましたね」
長兄に言われて、イーサンは少し難しげな顔をした。
「いや、本当にもったいないよ。何か活用できないのかって思ったんだ」
そう、この話し合いの中でイーサンは、「事業として活用できる方法はないのか?」と提案してきた。
事業として活用できる方法、あの屋敷を商売として使えないのかというイーサンの言葉はアイリスにとって思いもよらないことであった。伝統あるフォスター子爵家の屋敷は代々の当主が改築をし、長い間守ってきた。王権制から議会制に変わった動乱の時代には、王室を残すために王子を屋敷に匿い、攻めてくる議会制を掲げる兵たちに対して立てこもり防衛したこともある屋敷である。
その歴史的価値のある屋敷を商売に使うなど、新しい大陸の新しい国らしい自由な発想だと感嘆してしまった。アイリスが考えられたのは、せいぜいきれいに直して自国の貴族に売却することぐらいであった。
「それで、どうなったの?」
どこか弾んだように後ろの席から声が聞こえてきた。アイリスは後ろに座る二人を見ると、エミリーがイーサンに詰め寄って聞いていた。
「ちょっと、近いよ。離れろ。だから、例えばホテルのように宿泊施設にするのはどうかって提案したんだよ。俺、新聞で田舎の方で小さな古民家を改装して宿泊施設にして成功した家族の記事を読んでさあ。そんな感じはどうかって思って」
「あら、貴族の屋敷を小さな古民家と同じに考えるのはどうなの?それにあの国の貴族たちに睨まれるわよ」
「はあ、さすが双子だよな。ジョージ兄さんと同じこと言っているよ」
イーサンはどこか呆れたように言うと、エミリーは小声で一緒にしないでほしいと呟いていた。
「アイリスは賛成してくれたぜ」
イーサンはどこか誇らしげに言った。アイリスはあのとき、すぐに必要になるであろう金額を計算したうえで、その新しい思いつきが現実になる可能性を金銭面と労働面からみて可能だと判断して賛成した。
エミリーはアイリスが賛成したのが意外だったのだろう。後ろからアイリスの方へと身を乗り出した。
「え、アイリスは賛成したの?」
「はい、とても面白い提案だと思いました」
アイリスは久しぶりに楽しそうな事業計画であったので笑みを浮かべた。エドモンドがちらりとアイリスを見たが、会話に入ってくるようなことはなかった。
「賛成した理由を聞いてもいいかしら?」
「はい。大叔母様やみなさまにもお話したことですが、まずは貴族たちのことは気にすることはありません。没落して屋敷を手放す家門や放置された屋敷もあるほどです。貴族たちがプライドだけで生きていける時代ではなくなりました」
ちらりと後ろを振り返ると、エミリーは驚いた顔をし、イーサンは何度も頷いていた。その二人の姉弟の姿をほほえましく見ながら、アイリスは続けた。
「あの屋敷を手放さず維持することは、かなりの維持費がかかります。最初から大きな利益は望まず、その維持費を賄うだけの利益を上げることだけを考えるのであれば、屋敷を宿泊施設にしてその利益で運営していくことは良い案であると思いました。最初の設備投資にお金はかかりますし、従業員を雇わなければなりませんが、事業としてなりたつ条件があの屋敷には備わっています」
アイリスの意見にエドモンドは楽しそうな顔で微笑んだ。そしてゆっくりと口を開く。
「宿泊施設としてお客を呼び込めるという話になりましたね」
「ええ、フォスター家の二つの屋敷の近くにはそれぞれ鉄道が通っています。鉄道は首都までつながっておりますので、交通の便は悪くありません。そして、フォスター家の周辺は森林と小さな湖があり、昔から避暑地として交友関係のある貴族の方々を招待していたことがありました。避暑地として王族の方も泊まりに来たことがあるほど有名なのですよ」
「へえ、あのときは交通の便はいいとは言っていたけど、王族の避暑地とは言ってなかったよな」
イーサンの感心した声が聞こえ、エドモンドも好奇心旺盛な表情でアイリスをちらりと見た。
「初めから避暑地として有名な場所ならお客を呼ぶことができますね」
「アイリス、あなたのお話は大きな利益を得るための計画ではなく、屋敷の維持費が得られる程度の利益であれば見込みがあるとのことだけど、大きな利益は見込めないということなの?」
話し合いの場でもジョージから同じ指摘を受けた。エミリーから同じ指摘を受けて、不思議なことに二人から同じような質問を投げかけられることが面白く感じられた。
「ええ、私は難しいと思っています。フォスター家の屋敷の部屋数は四十室ありまして、それ以外に庭園やサロンなどさまざまな娯楽室があります。その屋敷の維持費が年間2憶ギランほどかかります」
「え?そんなに?」
「この金額は最低限です。この維持費を賄えてそれ以上の利益を生むとなりましたら、年間で四十室の八割を常に埋める必要があります。さて、それでは四十室の部屋を使えるようにしたとしても、部屋の八割を埋めるほどの人を呼べるでしょうか?それが何十年と続くでしょうか。なにより宿泊の事業に関して素人である私たちが、いきなり四十室もの部屋を扱うことも難しいと考えるべきだと思います」
「はあ、なるほど」
エミリーとイーサンが同時に呟いた。姉弟で同じ反応をするのがとても面白い。
「アイリス、一番の理由を話していませんよ。エミリー、お母さんがフォスター家の屋敷の部屋をすべて宿泊施設にしてしまうのを反対しているのです。生家にいろいろな人が入るのは嫌なのでしょう。そうなれば、屋敷全体を宿泊施設にするわけにはいきません」
エドモンドが補足すると、エミリーは納得した顔で頷いた。
「ですから屋敷をすべて宿泊施設に改築するのではなく、屋敷を維持できる利益を得られる分だけ宿泊施設にするのはどうかと考えています。おそらく屋敷の三分の一程度を使用することになるでしょう。屋敷の大切な部屋や主人の部屋はそのまま残し、立ち入らせないように分けるのが良いと思います。十部屋から十二部屋程度を宿泊室として、そしてお客様を厳選します」
「アイリスは貴族や金持ちしか泊まらせないとか考えているのかよ」
イーサンはしょうがないとわかっていながらも少し嫌そうであった。
「宿泊料を高くしますし、最初のお客様のターゲットはその階級になるのが現実的ですね。これはあくまでも現在考えられる可能性の話です。イーサンがもっと面白い案を出していただけるのなら、客層が変わるかもしれません」
「面白いですね」
エドモンドの楽しそうな声に、ちらりとイーサンの顔を見ると真剣な顔で何かを考えているようであった。それはエミリーも同じなのか、二人して静かに何かを考えているような表情が面白く、アイリスは笑いそうになるのを堪えた。
「それも、これから行く屋敷の出来栄えしだいとなりますね」
エドモンドはバックミラーで後部座席にいる二人を見て、小さく笑った。そして、アイリスの方にちらりと視線を向けた。
「アイリス、あなたもまるで遠足に行く子供のようにはしゃいでいるのですね」
そんなことを言われ、恥ずかしくなって背筋を伸ばして真面目な顔をした。そんな姿にエドモンドの顔は笑いを堪えているかのように、唇が結ばれていた。意外に意地悪なところもあるのだと、アイリスは少しむくれた気持ちで顔を反対側の窓の方に向けた。
朝からエドモンドが運転する車に乗り込んだときから、ずっと夢見心地であった。みんなで会話をしているのが楽しくて、エドモンドの隣にいるのが嬉しかった。
アイリスはニューキャッセスに来てから、活気があり楽しい時間ばかりを過ごしていた。まるでこの時間が当たり前にある日常のよう感じられた。
「この辺りは何もないのですね」
車は見晴らしのいいハイウェイを走っていた。都市の中心部から外れた辺りから建物が少なくなり、遠くの方で森林が見えるようになり、山の方へと向かっているようであった。
ニューキャッセスの歴史はおよそ二百五十年前に、古き大陸から何もない未開の地に移住したことから始まった。その当時、古き大陸では多くの王国同士で大規模な戦争が起こり、その戦争から逃れた者たちが決しの覚悟で海を渡り未開の大陸に着き、そこで国を作ったと言われている。
その後、土地を求めて人が絶たず移り住み、百年後には革命時代と呼ばれる時代に移った。未開の地を開拓していき、農地を増やし、人が住める領域を増やして爆発的に産業が発展した時代であった。
車は中央ハイウェイを曲がり小道に入ると、少し先に門が見えてきた。門は開いており、その先は森林と建物があった。
この屋敷はおよそ百二十年前の革命時代に建てられ、当時の鉄鋼王と呼ばれ莫大な富を築いた男が贅の限りをつくして建てたものであった。古き大陸の者たちを意識し、未開と呼ばれたこの地はもう未開ではなく文明のある土地であることを示すためであったと言われている。
屋敷の壁は白く、屋根は青く美しい佇まいであった。建物は三階建てで正面の建物と左右にも建物がついており、二階には大きなバルコニーがついていた。バルコニーの左右には一階に降りることができる階段がついており、建物の正面にある大きな噴水につながっていた。驚くことに噴水の左側には野外舞台まであった。
車は屋敷の前までつけることはできず、その手前で降りて歩いて行くしかないようだ。建物の近くで車を止めるとアイリスたちは車から降りて、少し階段を上がり、大きな噴水の横を通って玄関の前まで来た。
「この屋敷はとても広いですね。部屋数はどのぐらいあるのでしょうか」
アイリスが知っている自国の屋敷とは違い、雰囲気が明るく、モダンな屋敷である。百年以上は経っているといっても、アイリスの目から見たら新しい建物に見えた。建物の形や造りに、壁の風化具合を見ても、それほど古さを感じられない。ディーンの町にある小さな家のほうが古いものが多いだろうし、百年ぐらいの建物なら最近できた家だと言われるだろう。そう考えると、本当にこの地は新しいものばかりなのだと面白かった。
「お待ちしておりました。エドモンド、こっちだ!」
二階のバルコニーで手を振っている男性にエドモンドは手を振り返した。
「突然、すみません。サムエル、呼んでくれてありがとう」
背が高く、筋肉質で体格のいい男性が一段抜かしで階段を駆け下りてきた。茶色の髪は短く、茶色の瞳が目尻を下げてほほ笑むと、優しい雰囲気の男性であった。白いシャツにジーパンといったラフな姿に外にいることが多いのか顔は日に焼けていた。
男性はとても身体能力が高いのだろう。すごい速さで目の前にくると、人が良さそうな笑顔でエドモンドと握手し、すぐにアイリスとエミリー、イーサンに向き合うと手を差し出した。
「初めまして、サムエル・ライダーと言います。仕事は古い屋敷の改築と改修を専門に行っています。今日は仕事を見学したいと聞いていますので、ご案内させていただきます」
先にイーサンが挨拶をして握手をし、続いてアイリスが挨拶を交わした。そして最後にエミリーへサムエルが手を差し出したとき、エミリーはぼうぜんとサムエルを見つめているだけであった。
驚いたことにエミリーがサムエルと握手を交わした瞬間、顔が赤くなった。アイリスは、この出会いが思いもよらない展開になるのではないかと感じた。
そして、その予感は当たっていたと思うのに、そう時間はかからなかった。




