15
「いろいろと順調に進んでいるわ」
ひとりパーティー会場の壁際で流れてくる生伴奏を聞きながら、この一週間ほどの楽しい日々を思い返していた。
アイリスがニューキャッセスに来て三週間がたち、大叔母マチルダの屋敷に滞在するようになって二週間がたっていた。
アンダーソン家のパーティーで偶然会った元婚約者のこともダニエルが調査をしているというが、どのようになっているのか聞いていなかった。少し心配ではあるが、この件に関してアイリスができることはなく、マチルダたちに任せるしかなかった。
ミアの態度も相変わらずよそよそしく、レイナとはあのパーティー以降、会うことはなかった。彼女が言っていたルーシーという女性のこともいまだにわからず、ずっと心に引っかかっている。そのような気にかかることもあるが、楽しいことの方が多い日々であった。
アンダーソン家のパーティー後、エドモンドは約束通りにエディオン海運の船倉に案内し、ダニエルも一緒に三人で有意義な商談をすることができた。それだけではなく、エドモンドは屋敷を訪れると、必ずアイリスをサロンに誘い、お茶をするようになった。家族やディーンマーク家に仕える者たち以外で、あれほどアイリスと対等に活発な意見交換をしてくれた男性はいなく、エドモンドはとても稀有な存在であった。エドモンドは一度もアイリスを下に見ることも容姿を貶すこともしなかった。
「好きになるのも当然ね」
思わず呟いてしまい、慌てて周りを見回す。人々はそれぞれ楽しそうに談笑し、アイリスを気にしている者はいなかった。
楽しいという気持ちと同時に、常に不安が心の中にある。エドモンドに惹かれれば惹かれるほど、不安が募っていく。エドモンドを好きにならないほうがいい、好きになってはいけない、そんな思いに縛られるようになった。
「この思いは報われることはないから」
少し離れた場所で知り合いと談笑していたエミリーがアイリスのもとに戻ってくる。最初と違い、エミリーもアイリスに気さくな態度を取るようになり、フォスター家から来た者ではなく、歳の近いはとことして見てくれるようになった。それにお互いに仕事を持っているので、その点でも話が合った。
マチルダに連れられてパーティーに参加するのもこれで三回目となった。
一回目は早々に帰ることになり人と話す機会がなかったが、二回目のときには一回目の大規模なパーティーと違い親しい間柄だけの小規模な集まりのパーティーであったため、いろいろな方と知り合うことができた。
アイリスは経験豊富な事業家たちと話をするのがとても楽しかった。年配の紳士やご夫人たちも暖かくアイリスを迎え入れてくれた。今回はその中の一人がパーティーに招待してくれたのである。
「オークラウド卿のパーティーにご招待されるなんて、とても光栄なことだわ」
エミリーは嬉しそうな顔でアイリスの側にくると小声でささやいた。オークラウド卿はアイリスの国セロースから少し離れた王国の出身で、貴族としての称号を持っていた。若いころに新しい大陸ニューキャッセスに渡り、会社を創設して主に都市部の建設を請け負って、一代で強大な建設会社を立ち上げた人物であった。
このパーティーの出席者は建設業界関係者が多いらしく、インテリアデザイナーであるエミリーは少し興奮しているようであった。
「わかっているわよ。この間のようなことにはならないわ」
少し離れた場所からミアの声が聞こえ、エミリーは少し眉をひそめた。
二回目のパーティーのときにマチルダはエミリーとアイリスだけを連れて行き、ミアは連れて行ってもらえなかったことに盛大に怒っていた。本来なら今回のパーティーもミアを連れて行かない予定であったらしいが、彼女の猛抗議にマチルダが折れた形となった。
「ミアが何かしないかと不安だわ」
エミリーの不安はアイリスも同じであった。
キャンベル夫人の一件があってから、ミアは兄弟姉妹の中で孤立するようになった。機嫌が悪く部屋にこもることが多くなり、母のマチルダの言うことも聞かなくなった。
キャンベル夫人の言葉はエミリーを辱める言葉ではなく、ミアの勘違いであったことはマチルダから説明をして、夫人に謝罪するように話したという。エミリーも妹の気持ちは嬉しいが、どのようなことを言われようとミアの言動はよくないと叱った。
ミアは母と姉からの言葉にうつむいたまま黙って聞き、キャンベル夫人に謝罪の手紙を送ったが、それからは母や姉ともあまり話さなくなった。
そのような中で、ミアは今回のパーティーに出席するために反対する母に抗議しもめた。三男のダニエルがミアの味方になって、自分が側にいるから大丈夫だとマチルダをなだめたことで出席が許されたのである。エドモンドも、自分も出席してミアを様子を見ると母にとりなした。
「エドモンド兄さんもダニエルも一緒だから大丈夫だと思うけど」
「ええ、エミリー大丈夫だと思います。でも、お二人はよくパーティーに出席させるのですか?」
「ビジネスとして必要なパーティーは出席するでしょうけど、二人ともあまり行かないわね。社交界は母の役目なので、母が出席しているのよ。今日はミアのお目付け役ね」
マチルダはミアの方を何度も不安そうに見つめたあと、あきらめたようにエドモンドに話しかけた。アイリスはエドモンドが気になって、どうしてもちらちら見てしまう。
「ねえ、アイリス。今日の母のターゲットはあなたよ」
エミリーはコミカルな表情を浮かべ楽しそうに笑った。
「ターゲットというのはどういうことでしょうか?」
「前々回のパーティーでは私がターゲットだったから、いろいろな子息たちと知り合いになったわ。今日はあなただから、母はあなたに何人かの子息を紹介すると思うわ」
アイリスはその話をマチルダから聞かされたときから心配であった。マチルダからこの大陸の男性も婚約者として考えてはどうかと言われ、嫌だとは言えなかった。ディーンマーク家のためにも結婚は必要なことであり、いつまでも恐ろしいと逃げているわけにはいかなかったからだ。
頭ではわかっていることであるが、過去の出来事が頭に浮かび、どうしても自信が持てなかった。
「そうなのですね。エミリーは新しい方を見つけられましたか?」
エミリーに起こったことを考えたら彼女がこれまで独身であるのにも傷が癒えていなかったのだと思う。彼女はパーティーに参加し、積極的に男性と知り合っているということは先に進もうと思ったからだろう。
「いい方ばかりだけど、私に積極的になってくれる方とはまだ出会っていないわね」
「怖いですものね」
思わず口にした言葉に、エミリーはアイリスを慰めるように手を握った。エミリーは過去にアイリスの婚約が破談になったことを知り、アイリスに同情していた。
「でも、大丈夫よ。前に進まないといけないわ」
力強いエミリーの言葉に、アイリスも素直な気持ちで頷いた。
「さあ、エミリーにアイリス、行きましょう」
マチルダの力強い声にアイリスはエミリーと顔を見合わせ、気合の入った母の言葉にお互いに笑みを浮かべた。
「はい」
アイリスは自国にいるときのように背筋を伸ばし歩き出した。
「ミアは大丈夫そうですね」
エドモンドは少し離れた場所で友達の令嬢と話をしているミアの姿を横目で見ながら、手に持っていたグラスから一口シャンパンを飲んだ。
「ミアの知り合いの令嬢がいてよかったよ。そうでなければお母さんにくっついてエミリーたちと一緒に行くと言っていただろうからな。今回はアイリスに将来有望な男性を紹介したいそうだから、ミアによけいなことを言わせないようにしてくれと言われている」
ダニエルの言葉にエドモンドは大きくため息が出そうになり飲み込んだ。母はエミリーの結婚相手を探すのに熱心であったが、それにアイリスも加わったようだ。
「よけいなおせっかいをするのですね」
自分でも驚くほどにいらだった声であった。ダニエルは少し驚いた顔でちらりとこちらを見たが、すぐにミアに視線を戻した。
「別におせっかいとも思わないけどな。エド兄は不満そうだけど、悪いことではないだろう。彼女には親身になってくれる両親がいない。母がいろいろと見るのも当然のような気がするけどな。ああ、母が紹介している男性たちはなかなか良い奴らだよ。はとこ殿の年齢に合わせて若いから、坊ちゃんばかりのようだけどな」
ダニエルは母とアイリスたちの姿を見ながら楽しそうであった。今、アイリスと話している男性は二人目である。確かに一人目も二人目も性格は良いが、エドモンドの目から見てアイリスとはつり合いが取れているようには見えなかった。
「つり合いがとれているようには見えません。実力不足ですね」
「エド兄、それは仕方がないだろう。彼らはまだ本格的に仕事をしていない、おそらく大学生の身分だ。まあ、アイリスは実力者だからつり合いがとれるほどの男となると、そうそういないだろうけどな」
ちらりとダニエルと見るとキラキラとした瞳でアイリスを見ている。いつのまにかずいぶん仲良くなったものだと、面白くない気持ちが湧き上がった。仲良くなったというのなら、イーサンもそうであった。まさか、イーサンがフォスター家の屋敷に興味を持つとは思わなかった。屋敷に興味を持つのはいいのだが、どうやら毎日のようにアイリスと屋敷をどうするかの話をしているらしい。
マーシュとクロエもアイリスに古き大陸の話をねだって、アイリスの部屋に入り浸っている。
「フォスター家の屋敷の改修の件ですね。屋敷の運用にかんして、イーサンはなかなか面白い案を出してきましたね。アイリスもその案に乗りきでした。彼女はとても頭の良い女性ですが、ディーンマークの後継者として相当の努力をされたのでしょうね」
「イーサンが、ミアはアイリスに嫉妬していると言っていた。ミアは普通だ。ミアの年齢だったらあんなものだろう。アイリスがすごいのさ。ディーンマーク家の重みか。俺には想像がつかないが、どれだけの学問を積み、貴族社会で場数を踏んできたらあのようにできるのだろうな。嫉妬できるような相手ではないのだけどな。ミアが何も見えていなさすぎて心配になる」
「ずいぶん称賛するのですね。まあ、事業家として先を見通す目も持っていますが、人を惹きつける魅力があるのでしょうね。イーサンがあれほど楽しそうにアイリスと話すとは思いませんでしたよ」
フォスター家の遺産に関して、イーサンが名乗りを上げたことは兄弟たちにとっては良い誤算であった。イーサンが興味を持っているのは爵位ではなく屋敷であるが、イーサンの考えも取り入れるので屋敷を具体的にどのように活用するのか考えるように言ったところ、面白い案が出てきた。その案を現実化するには、まだまだ練らなければならないことが多いが、イーサンは現実化するために取り組んでいる。
「アイリスに古い屋敷を専門に改修や改築をしている人を紹介するのだろう?エド兄がそうそうに日程を決めたとイーサンが喜んでいたぞ」
「実際に郊外の古い屋敷を工事している最中だそうなので、見せてもらうことになりました。彼がどれほど古い屋敷を改修できるのかは、アイリスに見てもらったほうが早いでしょう」
ダニエルは声を殺して笑っている。じろりと睨むと、弟は噴き出して笑った。
「何ですか?言いたいことがあるならはっきりと言ってください。ダニエル、失礼ですよ」
「いやいや、アイリスのためならフットワークが軽いなと思っただけだ。いろいろと早すぎだろう。船倉を見せるのも無理して調整していたし、忙しいのに頻繁に屋敷に行くようになるし。父さんが亡くなってから楽しそうな顔など見たことがなかったが、最近、とても楽しそうだ」
エドモンドは弟の言葉に返事をせずにアイリスを見つめた。
アイリスは他の女性たちと比べると露出の少ない地味なドレスに化粧も控えめであったが、目が離せないほどの美しさを感じていた。その動きは体重を感じさせないもので、精霊かそのような不可思議な存在かのように大勢の中をすり抜けていく。
アイリスは、かつてエドモンドが愛した女性とはまったく違うタイプの女性であった。エドモンドが愛した女性は誰もが目を引く美しさを持ち、朗らかで明るい人であった。大富豪の一族の者として生まれたが恵まれた環境とはいえず、明るい笑顔の裏に孤独を抱えた人であった。
彼女が望むのは安定した生活と誰かに庇護されることであった。自ら働くことも、何かをしたいと思うこともなく、彼女はエドモンドとの結婚だけを望んだ。彼女と一緒にいるとき、どんな会話をしていただろうかと思い出せないほど、今思うと彼女とはそれほど共通点がなかったのだと気がつく。
「彼女はとても不思議な女性だな。お母さんのお勧めにケチをつけるなら、自分が立候補すればいい」
思いもよらないダニエルの言葉に、エドモンドは不覚にもとっさに言葉が出なかった。
「突然、何を言っているのですか」
「いや、はとこ殿にはエド兄が似合っているなあと思っただけだよ」
「あなたは昔からたまに突拍子もないことを言うのですね」
「そうかな。いいと思うのだけどな」
ダニエルの言葉にエドモンドは内心動揺しながらも平静なふりをしながら、冗談のような口調で言う。
「あなたは、私に婚約者がいたときなどまったく興味がない顔をしていたので、人のそういうことには興味がないと思っていましたよ」
「‥‥お似合いだと思わなかったから言わなかっただけだよ」
ダニエルの言葉に真実を言い当てられたような気持ちになった。
「ごめん、エド兄さん。よけいなことを言った」
「いいえ。もう過去のことですし、気にしていませんよ」
確かにもう過去のことであったが、深い心の傷として残っていた。エドモンドはかつて愛した人の姿を脳裏から振り払うように軽く頭を振る。再び、アイリスの方を見ると、彼女をじっと見ている男性に気がついた。そして、その男性の顔を見た瞬間、男から目を離さずにダニエルの腕を軽くたたいた。
「ダニエル、あそこにあの男がいます」
視線で示すと、ダニエルもあの男ランドルフ・クリスティンに気がつき、露骨に顔をしかめ声をひそめる。
「お母さんに言われてあの男のことは興信所を使って調べているが、財産持ちの未亡人に取り入っているとだけわかった」
「あの男がアイリスの元婚約者であることは聞いていますよね。具体的に婚約を解消した理由は聞いていますか?」
「俺は直接アイリスから聞いた。別の女性と関係があったことと、あとは恐ろしい目にあったと言っていた。他の女性に詐欺まがいなこともしていたと言っていたな。顔色が悪かったから、彼女はよほどひどい目にあったのだろうとしかわからない」
「私は母から聞きました。あの男は彼女の命を狙い、財産を奪う計画を立てていたようです」
母は実際に何があったのかは聞いていなかった。それにしても人を害する計画など尋常ではない。彼女の怯えかたを見れば、どれほど深く傷つけられ恐ろしい目にあったのかがわかる。あのパーティーでエドモンドの腕の中で気丈にも震えながら、必死に耐えている姿に、誰にも頼ることができないアイリスの孤独が見えるようであった。
「そこまでする奴なのか。信じられない」
ダニエルはショックを受けたようにランドルフを睨みつけ、絞り出すように呟いた。ああ、本当に信じられないやつだ。そして、許せない男だ。
「あの男は、またアイリスを狙っているのかもしれません」
「ああ、兄さん。報告書にはあいつは頻繁にパーティーに出席していると書かれてあった。おそらく今の未亡人から乗り換えようとしているのだろう。その未亡人の財産も底がつきそうになっているらしい。アイリスは危ないかもしれない」
「ミアを連れてきてください。私はお母さんたちの側に行きます」
ダニエルが頷くのを見て動こうとしたとき、ミアの興奮した声が聞こえてきた。ミアは友達の令嬢と仲良さげに話していたはずであったが、今はお互いに言い合いをしていた。「違うの、違うの」としりきりと言うミアに対して、令嬢は顔をしかめて小さな声で何かを言った。
いったい今度は何を言ったのか。エドモンドはミアに呆れながらもあとはダニエルに任せることにして、アイリスたちがいる方へと振り返った。そして、一瞬、その光景に頭が真っ白になった。
「ダニエル、私は母の方に行きますので、後で来てください!」
「え、どうしたんだ?」
それに答える余裕もなく、エドモンドは辺りを見回しながら母たちがいる方へと向かった。さっきまで母とエミリーと一緒にいたアイリスの姿がどこにもなく、そしてあの男、ランドルフ・クリスティンの姿も消えていた。嫌な予感とともに息がつまるほどの不安を抱きながら、エドモンドはアイリスを探した。
アイリスはマチルダに紹介されて、自分と同じ歳の青年と話をしていた。マチルダとエミリーは少し離れたところで年配のご夫人と話しており、青年と二人になるようにと二人が離れたのは少し前のことであった。
アイリスは丁寧に話を聞き受け答えをしていたが、相手がつまらなさそうな顔をしていることに気がついていた。彼の話題は最新の車やヨットの話に、話題の映画や学校の話がほとんどであったから、アイリスも知らない話ばかりで話題に乗ることができなかった。この青年が学生であることを楽しんでおり、遊ぶ話が多く、遊ぶことはせずに仕事ばかりしているアイリスとは話が合わなかった。
「君は古い大陸の人だよね。そういえば、確かロビアナだったかな、その国の王太后が来日するそうだけど、君の国の王族かな?」
「いいえ、他国の王族ですが、ロビアナの王太后がこの国に来日されるのですね。驚きました」
アイリスの驚いた表情を見て、青年は不思議そうな顔をした。
「驚くことなのかな?」
「ええ、おそらく、公式でニューキャッセスに王族が来られるのは初めてではないでしょうか」
アイリスはすぐにこの来日に政治的な意図を理解し、これはおそらく歴史的に重要な事柄になるのではないかと興奮した。
「そうなんですね」
青年はあまり興味なさそうに返答すると、それ以上話は進まなかった。アイリスは、この国の人が、王族が来ることにあまりにも興味がないことに愕然とした。その後もお互いに話すことがなくなり、青年はアイリスの側を離れていた。これで二人目だとため息が出そうになる。
うまく男性と話せなかったことへの落胆と、あの青年とお付き合いすることにならなかったことへの安堵と複雑な感情が自分の中に存在していた。結婚相手を見つけたいという気持ちと、見つけたくないという気持ちを同時に抱えており、少し気分が落ち込んだ。
マチルダとエミリーの方を見ると、今度は別なご夫人と話をしていた。アイリスは少し休憩をしようとそっと端の方へといき、この会場の出入口に向かった。少し外の空気を吸ってすぐに戻ってくるつもりであった。
扉を抜けて廊下に出ると廊下には誰もおらず、会場から賑やかな声と音楽が聞こえてくる。扉から離れ、誰もいないことを確認してからうつむき、ほっと息を吐き出すと少し気持ちが落ち着いた。
先ほど出てきた扉から誰かが出てくる気配がし、アイリスはすぐに背筋を伸ばしてドレスを整えた。
「久しぶりだね、アイリス」
その声にぞっと寒気がし、アイリスは声がする方へと振り返った。
「ランドルフ様‥‥」
「元気そうだね。こんなところで会うのも運命を感じるよ」
穏やかにほほ笑みながらも、その瞳は殺伐としていた。その瞳には、三年前にアイリスに向けられていた嘲りと嫌悪を変わらずに宿していた。
なぜ、彼がここにいるのか?なぜ、自分に声をかけてきたのか?様々な疑問が浮かび、パニックになりそうになる。
アイリスは後ろへと退きながら、体が恐怖で思うように動かなかった。三年前、ランドルフと最後にあったのは両家がそろい正式に婚約解消を取り交わしたときであった。今でも彼が恐ろしくてしかたがなかった。
アイリスはランドルフと婚約し、一年後には結婚する予定であった。婚約が正式に決まったときから、ランドルフの態度は丁寧であるが、いつも冷たい視線を向けられていた。
彼は美しい女性が好きで、アイリスが地味で野暮ったいことを遠回しにいつも言ってきた。アイリスの自信を少しずつ奪いながら、しかし、なぜか逆らうことができないように言いくるめられていた。ディーンマーク家の事業も表立っては態度に見せなかったが、まったく興味を持っていなかったことを知っている。
彼はアイリスより五歳上でありながら、働きもしないで怠惰な生活をするのを好んでいた。すべては端正な容貌と人の良さそうな雰囲気で隠し、アイリスもあのとき彼の悪事が発覚しなければ、おかしいと思いながらも気づかなかっただろう。
「わ、私はこれで失礼します」
息絶え絶えにこれだけをいうと、彼とは反対の方へと踵を返した。しかし、ランドルフはアイリスの腕をつかみ、力ずく自分の方へと引っ張った。
「婚約者同士だったじゃないか。逃げることないだろう。ゆっくりと昔の話でもしようじゃないか。そう、君は今では侯爵閣下だったね。跪き敬意を払ったほうがいいのかな」
鳥肌が立ち、恐怖でパニックになりそうになる。アイリスはそれでも平静を保ったふりをしながら、掴まれた腕から逃れそうとした。
「失礼でしょう。離してください」
「相変わらず気位だけは高いのかな。あなたは変わらず、美しくないなあ」
アイリスの心臓が激しくなる。美しくないという言葉はアイリスにとって呪縛であった。彼はアイリスに毒となる言葉を流し続けた。
「まだ結婚していないのでしょう。あなたを選ぶ男などいないよ。なぜだと思う?あなたと一緒にいるといらだつからだ。ディーンマーク家であることも、何もかも腹立たしいのさ」
過去、彼の口から魅力がないことをどれだけ聞かされてきたことか。アイリスは小さく息を吸い、静かな声で離すように言った。
「なに?聞こえないよ。あなたは強情な人だね。そういえば、この間、あなたを守っていた人がいたな。ふふ、あの男、どこかで見たことがあると思ったら思い出した。アンダーソン家の女性と婚約していた人だろう?」
アイリスは動きを止め、ランドルフを見つめた。ランドルフはにんまりと笑った。
「何を‥‥」
「三年前にこの国に来たとき、初めて出たパーティーに来ていた。美しい二人だったからよく覚えている。金の髪に青い瞳をした本当に美しい女性だったよ。彼があの女性を見つめるまなざしは、深く彼女を愛しているものだった。あの一度きりで、それ以降見たことがなかったから、今まで忘れていたよ」
ランドルフはアイリスの顔を覗きこんだ。
「彼女はあなたと比べようもないほど美しかった。そうだ、また婚約を戻せばいい。私と婚約しよう。それが正しいと思わないかい?」
アイリスは体を震わし、唇を噛みしめた。この人は今でも人の心をかき乱すのがうまかった。でも、今はこの話術がこの人の戦法だということをわかっていた。
「ありえない話です。正式に婚約は解消されました。それにあなたはもう子爵家の者ではありません」
「そう。貴族籍から除籍されたよ。でも、あなたと結婚すれば、私はディーンマーク家の一員となり貴族に戻れる」
薄い青い瞳がにらみ、アイリスの顔に近づいた。
「あなたのせいで私は国を出ないといけなくなった。本当に腹立たしい。あなたは私と結婚するべきだよ」
嫌悪のため体が大きく震えると、アイリスはおもいっきりランドルフの体を押した。しかしランドルフの体はアイリスの弱い力で動くはずもなく、腕をつかまれたまま引きずられるように歩き出した。
このままでは危険なことはわかっていたが、助けを求めようにも辺りには人の気配がなかった。アイリスは大きく息を吸い、悲鳴を上げようとしたとき、扉からエドモンドが飛び出してくるのが見えた。
エドモンドは見たことがないほどの怒りの形相で、すぐにランドルフの腕をつかみ、ひねり上げた。
「うっ、誰だ」
アイリスはすぐにランドルフから離れると、エドモンドはランドルフの腕を後ろへとひねりながら壁に押しつける。
「離せ!暴行されたと騒ぐぞ」
「暴行していたのはどちらですか?女性の腕をつかみ、どこに連れて行こうとしていたのでしょうか」
エドモンドは静かにそういうと、ランドルフを強く壁に押しつけた。腕の痛みに耐えかねたのか、ランドルフの顔色は真っ青になり、うめき声を上げる。アイリスは震えながらその光景を見ているだけしかできなかった。
騒ぎを聞きつけたのか、給仕の者たちが数人こちらに向かってくるのが見えた。エドモンドはそれを見てつかんでいた手を離すと、ランドルフから離れ、アイリスを庇うように前に立った。ランドルフはよろけながらも人が来ていることに気がつき、エドモンドを睨みつけ、何も言わずに近くにある扉から会場の中に入った。
ランドルフの姿は消えたが、アイリスは恐怖とショックで平静ではいられなく、足がもつれそうになり今にも倒れそうになる。
「どうされましたか?」
給仕の制服を着た数人の男性がエドモンドとアイリスを交互に見て、エドモンドに話しかけた。
「いいえ、少し行き違いがありましたが問題はありませんよ」
「お客様、本当に大丈夫ですか?」
エドモンドがアイリスを支えるように肩を抱いた。
「はい」
エドモンドが大事にならないようにアイリスを守ってくれていることに感謝した。このような大勢いる場所で異性と問題が起こったことが知られたら、アイリスの評判に傷がつくからだ。
「私たちも会場に戻ります」
エドモンドはにこやかな笑みを浮かべて給仕たちに告げると、アイリスの肩から手を放し、腕を差し出した。アイリスは呼吸を整えながらエドモンドの腕に手を添えると、エスコトートされるまま会場の中に入った。会場の中は異変もなく、先ほどのことは誰も気がついていないようであった。
「アイリス、母たちがいるところまで歩けますか?」
ひそやかな声が耳元で聞こえ、びくりと体を震わせる。よほど不安そうな顔でエドモンドを見ていたのだろう。エドモンドはそっと自分の腕に添えられているアイリスの手を握った。
「あの男はいません。大丈夫です」
その力強い声に不思議と気持ちが緩んだ。今でも男性は怖いと思う。しかし、エドモンドは怖いとは思わなかった。
「はい」
アイリスは必死にエドモンドの腕にすがりながら、マチルダたちがいる方へと歩いた。
「アイリス」
マチルダとエミリーが不安な顔で側にくると、アイリスも大叔母の顔を見て一気に安心した。マチルダはエドモンドを見ると小さく頷いた。
「今日は帰りましょう」
一人だけ状況を理解していないミアは困惑した顔で険しい表情の兄を見て、そして非難がましい目をアイリスに向けた。エドモンドはダニエルに何かを耳打ちすると、ダニエルが少し離れてどこかに行く。マチルダとエミリーはアイリスにつきそうと、エドモンドはさりげなく辺りに注意を払いながら、会場から出るために歩き出した。
「お母さん、ダニエルが車の手配をしています」
「ええ、わかったわ。エドモンド」
「まって、いったいどうしたの?」
ミアが母と兄に聞いたが、二人ともその問いに答えることなく、帰ることだけを告げた。
「何なの、いったい」
ミアは小さく呟くと苛立ちを隠すことなく顔を歪めたが、ふっと左の方へと視線を向けた。ミアが何を見ているのか、アイリスは彼女に注意を払う余裕などなく、歩くだけで精一杯だった。ダニエルが戻ってくると、アイリスはマチルダたちと一緒に会場を出た。
「ミア、早く来い」
そんなダニエルの声だけが聞こえていた。




