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 マチルダは夫のサイモンと結婚してからの四十年近い歳月を思い出しながら、ディーンマーク家の侍女頭と話をしていた。 

 夫のサイモンと結婚したことに後悔はなかったが、姪のセシリアとフォスター家のことを考えると自分の愚かな行動を今でも悔いている。短絡的に自由を求めて家から逃げたことで、両親が亡くなったときも、姪であるセシリアが亡くなったときも力になることができないどころか、葬儀にも出ることさえできなかった。


「セシリアは私を慰めてくれたわ」

「ええ、セシリア様はマチルダ様を慕っていらっしゃいました」

 電話口から聞こえてくる言葉に胸が熱くなる。セシリアのためにもアイリスの力になりたいと心から思った。

「アイリスのことを教えてほしいの」


 ポロニャール夫人は淡々とした口調で、セシリアが亡くなった後のアイリスのことを話してくれた。

 彼女は十一歳で、ディーンマーク家の後継者として多くのことを学ばなければならなくなった。アイリスの祖父のディーンマーク侯爵は学校の勉強だけでは足りないと、政治、経済、科学、語学などあらゆる分野で家庭教師をつけて学ばせ、十五歳からはディーンマーク家の事業も実地で学ばせた。それはいくら後継者教育とはいえ、過剰すぎた教育であったと言える。時間を惜しむかのように、あらゆる勉強を詰め込んでいった。

 ディーンマーク侯爵は、早くに彼女を導き、助ける肉親がいなくなることをわかっていたから必死であったのだろう。マチルダはディーンマーク侯爵の気持ちを考えると、胸が痛かった。

 マチルダがポロニャール夫人から聞いた話の中で一番に悔しかったのは、アイリスの婚約の話であった。二度の婚約の失敗の一因となったのは、アイリスを手助けする年上の女性がいなかったことであった。

 アイリスの父方の祖母であるソフィアは体調がすぐれないことが多く、公の場から退いてかなりの年数がたっていた。自分の母であるヘレナはアイリスが十六歳のときに亡くなっている。もしソフィアやヘレナが健在であったなら、もっとしっかりと婚約者候補を見定め、二度の失敗などゆるすはずがなかっただろう。

 アイリスの婚約者候補として祖父のエドワード・フォン・ディーンマーク侯爵が選んだ相手は、アイリスより十歳近く離れた男性ばかりであったらしい。ディーンマーク家の女侯爵として立つアイリスの隣に並ぶ者として考えた場合、同じ歳の未熟な若者では困ると考えていた。アイリスを影なりに支え、経営能力のある者を必要としていた。しかし、そのような子息がいるはずもなかった。

 ディーンマーク家に婿入りする貴族の子息は、次男以降の子息たちになる。貴族の子息で次男以降となると、プライドだけは高いが生家での居場所がなく、年齢を重ねれば重ねるほど卑屈になるか、野心ばかりが強くなる者ばかりであった。

 そんな男たちにとって、アイリスは扱いやすい子供でよいカモであったことだろう。


「マチルダ様、アイリス様は二度婚約しましたが、どちらも破談となりました。二度目の婚約の際にはお命を狙われました。それ以降、アイリス様は男性に恐怖心を持つようになりました」


 ポロニャール夫人の悲痛な声を聞きながら、怒りで手が震えた。二度の婚約はアイリスにとって悪夢としか言いようがなかった。一人目はプライドの高い卑屈な男でアイリスをさんざん貶して罵り、二人目は財産狙いであった。アイリスが男性に恐怖心を持つのは当然のことであった。特に二度目の婚約者はアイリスの命まで狙っていたという信じられない話であった。


「そんな男性ばかりではないわ。立派な心ある男性もいるのよ。このままではいけないわ」

 マチルダの言葉に電話の向こうでポロニャール夫人の声が明るくなった。

「もちろんでございます。一部の心無い男性のために、アイリス様が不幸せになるなど許せることではありません。アイリス様を大切にするすばらしい男性が必ずおりますとも。アイリス様は自信を失っております。自信を取り戻し、新しい生き方があることを知っていただくためにも出会いが必要です」

「その通りだわ。そうよ、新しい出会いが必要よ。そうなれば、ニューキャッセスの男性でも良いのかもしれないわ。そう思わない?ポロニャール夫人」

「アイリス様自身を見ていただける方であれば、貴族の方にこだわる必要はございません」


 マチルダは興奮しながらも、脳内では冷静に候補者たちを考えていた。そして、その中には長男のエドモンドもいた。子供たちの中で一番優秀で、そして一番心配な子だ。彼が今でも心の痛みを抱えて孤独であることを知っている。エドモンドが心の傷から立ち直り、彼にも幸せが訪れればよいがと祈っていた。


「そう、これはすばらしい機会でもあるわ」

 エドモンドが珍しいことにアイリスを気遣っているのだ。もしかしたらと、楽しい未来が浮かんだ。マチルダは笑いたい気持ちを抑えながら、ポロニャール夫人に告げる。


「私がアイリスの後見人となって、パーティーに出席しますわ」

 マチルダの頭の中でさまざまな計画が浮かんだ。差しあたって、ちょうど三日後にあるパーティーにアイリスも連れて行こうと考える。そのパーティーではエミリーとミアを連れて出席する予定であったが、もう一人アイリスが増えたところで何も問題がなかった。それならアイリスのエスコートはエドモンドに任せよう。

 名家であるアンダーソン家のパーティーには有望な子息たちが出席している。アイリスがその子息たちと知り合えるようにすればいい。もしそうなったときにエドモンドは、どのような反応をするのだろうか。ふっとマチルダはアンダーソン家の娘の顔が浮かんだ。

 レイナ・アンダーソン、彼女のことは嫌いではないがエドモンドに合っているとは思えなかった。彼女が昔からエドモンドのことを好きなのは知っていた。エドモンドは彼女の気持ちに気づいているが、彼女を選ぶことはないだろう。それに彼女では息子を幸せにすることはできない。でも、彼女はいい意味でも悪い意味でもニューキャッセスらしい女性であった。傲慢なまでの情熱と行動力を持った女性は、自ら引くことはしないだろう。


「アイリスは出席してくれるかしら」

 そんな心配に、ポロニャール夫人はさも当然のことのように答える。

「バルフォアド先生を仲間にしてください。先生がアイリス様を説得するでしょう」

「あら」

 にこりともしない厳めしい弁護士の顔を思い出した。彼もおせっかいな老人の一人かと、それは面白いとマチルダは楽しい気持ちになってきた。


「アイリスのドレスを選ばないといけないわ」

 弾んだ声で言うと、電話口の向こうでも楽しそうな声が聞こえてきた。

「マチルダ様、アイリス様のお荷物の中にディーンマーク家の装飾品が入っております。パーティーのときに身に着けていただけるように進言いただければと思います」

「あら、それはすばらしいわ」」

 マチルダの頭の中には次々と計画が浮かんだ。










 アイリスはこの国の流行りのドレスを着ながら、マチルダの側に立っていた。華やかなパーティー会場内を下品にならない程度に見回しながら、なぜ自分が異国のパーティーに出席しているのか不思議な気持ちでいた。


「大丈夫ですか?」

 隣にいるエドモンドに聞かれ、アイリスの心は落ち着かなくなる。隣にいるエドモンドはアイリスが知る男性の中で一番素敵であった。

 パーティーに行くために用意をし、いざ向かうとなったときに、今日のパーティーでのエスコートはエドモンドになると聞かされたときから心臓の高鳴りが止まらなかった。

 アイリスがパーティーに出席することになった理由は、今から三日前の大叔母マチルダとアンダーソン家のパーティーの話をしているときに起こった。

 マチルダは、今回のアンダーソン家のパーティーには長女のエミリーと次女のミアの二人を連れて行くと話してくれた。二人とも婚約者どころか恋人もいないため、二人を独身の男性たちと引き合わせたいという望みがあったからだ。あとはクラーク家としての上流階級での社交のためである。

 クラーク家が上流階級の中に入れたのは、マチルダの社交界での上手な立ち振る舞いによるものが功を成していた。上流階級の夫人たちとの社交はエディオン海運の発展にも大いに貢献することになった。マチルダは上流階級の夫人たちから有望な子息たちの情報を得ており、それだけではなく、これまで出席してきたパーティーの中でその子息たちを紹介してもらっていた。

 今ではエディオン海運の創業者の妻であるマチルダの名は知られており、侮られるような態度を取られることはない。そのマチルダのお眼鏡にかなった男性たちをエミリーとミアに引き合わせるというのだ。


「二人には強制はしていないわ」


 マチルダはにこやかに笑いながら、アイリスに婚約者や恋人がいるのかと聞いてきた。マチルダの顔はとても優しい笑顔であるのに、奇妙な威圧感があり、アイリスは素直にいないことと、二度の婚約を失敗して以降、男性が怖くなってしまったことも正直に告げていた。それにセロースの社交界での自分の評判もひどいことも知っていたので、自信も失っていたのである。

 女侯爵に対する偏見と嫉妬は、アイリスの容姿を貶す方向に向かった。実際はアイリスの容姿は言われるほど悪くはなく、整っている方であったが、派手な美しさはなく地味な装いであったこともありおとなしめで控えめであった。

 そんな話の中で、マチルダは三日後にあるアンダーソン家のパーティーに出席してはどうかと言ってきたのである。アイリスとしては異国に来てまでパーティーに出席するなど考えもしなかったのだが、気分転換にどうかと言われたのだ。

 ちょうど一緒にお茶をしていた弁護士バルフォアドからも、それは大変結構なことだと猛然と後押しされ、マチルダからもエミリーとミアも出席するし、エドモンドとイーサンをエスコート役として連れて行くから心配ないとまで言われた。正直な気持ち、エドモンドが一緒に出席すると言われて、アイリスはパーティーに惹かれてしまった。エドモンドともっと話がしたいと思っていたからだ。エドモンドは姉妹たちのエスコート役で出席するだろうが、それでも話をする機会があるだろうと心臓がどきどきした。

 アイリスがパーティーに出席することがすんなりと決まり、それからは何と忙しかったことか。すぐにマチルダに連れられて店に行き、パーティー用のドレスや靴を購入した。カサノバで流行っているドレスは色も形もアイリスにとっては刺激的であったので、どうにかあまり肌を見せないデザインで、色も派手なものではないものを選んで購入することができた。


「その色はアイリス嬢にとても似合っています。すてきですね」

 パステルグリーンのドレスは長袖で足首まである長いスカートであるが、腰からのラインがきれいな作りであったので野暮ったく見えず、洗練された上品なドレスであった。黒髪を結い上げ、持ってきていた装飾品を身に着けると清楚で美しい女性に変わっていた。だが、アイリスは自分が美しいと思ったことがなかったため、エドモンドの言葉もお世辞として受け取っていた。


「ありがとうございます」

 そう返事をしながらも、周りにいるもっと派手な色合いのドレスや背中を見せるような大胆なドレスを着た女性たちと比べてしまう。きっと野暮ったい田舎者だと思われているだろうと、気後れしてしまう。


「緊張されているのですか?今日は私がエスコートをします。気楽な気持ちで楽しみませんか?」

 エドモンドに顔を覗き込まれ、アイリスは顔が赤くなった。卑屈な気持ちを見透かされたように思い、毅然と顔を上げた。エドモンドが言うように、このパーティーはエミリーとミアのために出席しているのである。マチルダからも気晴らしに誘われたのだから、気軽な気持ちでパーティーに望むほうがいいだろう。そう、隣にいる素晴らしい男性のエスコートを受けて出席するなど、今後自分にはないのだから一緒にいる時間を楽しむことにした。


「まあ、あのように不機嫌なミアとイーサンが何かしでかさないように見ていないといけませんがね」

 不機嫌そうなミアといらだちを隠さないイーサンの様子に、エドモンドはあきれ混じりであった。ミアはもともとパーティーなど出たくないと何度もマチルダに言っていたし、姉たちが出席することでエスコート役にされたイーサンはこういう場が嫌いなのか不満を隠さなかった。


「エドモンド、アイリスをお願い。私はエミリーを連れてお友達のところにご挨拶に行ってくるわ」

「ええ、わかりました」

「ミア、あなたもこの世界になれるように努めなさい。イーサン、嫌なのはわかるけどそのように態度にするのはやめなさい。あなたも十八歳ですし、今年で学園は卒業するのですよ。今後、ビジネスをする上ではこのような場所での振る舞いも大切になってきます」


 ミアは嫌そうに顔を歪めたが、諦めたように小さく頷いた。イーサンは乱暴に前髪を乱し、何も言わなかった。アイリスはそんな二人の態度を見て、彼らのいらだちはこのような場所に慣れていないからだということを理解した。


「お二人はあまりこのような場所に行かないのかしら」

 アイリスはこのようなパーティーに出席することには慣れていた。女侯爵になる前からディーンマーク家の後継者としてパーティーだけではなく、国の式典や王家主催の晩餐会にも出席していたからだ。アイリスの小さい呟きをエドモンドが聞き取ったのか、そっと内緒話をするかのように顔を寄せた。


「わが家は、昔は貧しい家庭でした。ミアとイーサンは幼かったのでそのことを覚えていませんが、私やエミリーは貧民層の住宅に住んでいたことをよく覚えていますよ。父はこのような上流階級とは無縁でしたから、このような方々との交流は母が中心でしてね。父もこのような場所は苦手としていました。その父の方針でミアとイーサンは豊かな家庭で育ちましたが、贅沢をさせずに学校も一般的な家庭の子が通う学校に行かせました。ミアは十八歳まで、イーサンは十五歳まで普通の学校でしたから、上流階級に慣れていないのです」

「そうなのですね。でも、エドモンド様はとても慣れているように見えます。まるで貴族のように態度も言葉遣いも身についております」

 アイリスの言葉にエドモンドはくすりと笑った。

「あなたに敬称をつけられて呼ばれると不思議な気持ちになります。前にも言いましたが、敬称は不要ですよ。ぜひ、エドモンドと呼んでください。他の姉弟たちと同じようにお願いします」

「まあ、でも」

「お願いします。私が貴族のようなふるまいに見えるとは、本物の貴族であるあなたに言われるととても嬉しいですね」

 エドモンドの親密な雰囲気に顔が熱くなり、素直に頷いた。

「ええ、とても紳士でいらっしゃる」

 エドモンドはアイリスの言葉に楽しそうに笑った。

「それは光栄です。私は母にとって待望の第一子でした。母が名家フォスター家のことを何度も語って聞かせ、貴族としての言葉遣いや振る舞い、思想に至るまで教えられました。そのようなことは兄弟姉妹の中で私だけでしたからね。私の弟妹たちが生まれると母も余裕がなくなり、父も貴族としての振る舞いを子供にさせるのを望まなかったのです。私は両親を軽んじるフォスター家に対して対抗意識もありましたので、下品で野蛮と思われないようにしようと努めていたこともあります。今はそのように思っていませんが、すっかりと身についてしまって、これが自然なのですよ」


 そこまで話をすると、エドモンドはちらりとマチルダとエミリーが離れるのを見ながら、この場に慣れていない妹と弟に視線を向けながら話を続けた。


「あなたはこのような場所に慣れているように見えます」

「ええ、幼少期からお茶会という交流の場に出席していましたので、慣れていると言われればそうかもしれません。この国のパーティーもわが国のパーティーとあまり変わりないのですね。色々なしきたりがない分、こちらのパーティーの方が気楽です」

「ふふ、あなたの国ほどではないかもしれませんが、わが国の上流階級にもマナーはいろいろあります。この世界に入ってくるときに、最初に洗礼を受けるものなのですよ。上流社会にいる者たちはプライドが高い者が多い。馬鹿な振る舞いをすればすぐに噂になり、ビジネスにも支障をきたします」

「まあ、面白いこと。権力を持つ階級は新しい国でも同じなのですね。貴族のしきたりの中でも無意味なものがたくさんあります。例えば、具合が悪く今にも倒れそうであっても自分よりも上位のものが退出しない限り退出できないとかでしょうか。もし失神して倒れれば不敬罪で没落することもあります」

 エドモンドは大きく目を見開いた。

「そのぐらいで没落とは確かに大変そうですね。ああ、困りましたね。ミアがキャンベル夫人に引っかかってしまった」

 引っかかってしまったという言い方に、アイリスは意識をミアたちに向けた。ミアはマチルダに言われた通りにイーサンと一緒に知り合いの者たちに挨拶をしていたが、一人の年配のご婦人がミアの側に行くのが見えた。少し離れた場所で見ていたアイリスとエドモンドは、そのいかにも厳格そうな年配のご婦人がミアに話しかけ、ミアがぎこちなく挨拶をするのを遠慮なく冷たい目で見ていることにひやひやした。


「あのお方はどのような方なのですか?」

「キャンベル財団の総帥の母君です。この国の医療に関して、なかなか権威を持っている財団ですね」

 アイリスは目をぱちくりした。そして、なるほどと苦笑した。

「キャンベルという家名は、古き大陸にある国エールマーシャルの伯爵家ですね。その流れをくむ家柄でしょうか。古き大陸より大勢の貴族たちが新しい大陸に渡ったと聞きます。ご年齢からしたら貴族としての教育を受けた方なのかもしれません」

 その考えが間違っていなかったかのように、キャンベル夫人がミアの言葉に鋭い視線を向けた。ミアの挨拶は確かに完璧とは言えなかったが、目くじらを立てるほどひどいものではなかった。この老婦人の機嫌を損ねたのは、その後のことだろう。ミアはマチルダのことを聞かれ、慌てていたため、途中で老婦人の言葉を遮り、あろうことか知りませんと身も蓋もない回答したからだ。


「ああ」

 思わず漏れてしまったエドモンドの声に、アイリスも内心同じような声を上げていた。

 マチルダがクラーク家の社交の中心であることから、彼女に挨拶をしようと来る人も多いだろう。幼い子供ならいざしらず、二十歳を過ぎた女性がどこにいったのか知らないと回答するのは悪手であった。アイリスはマチルダが今、どこで何をしているのかを把握していたし、マチルダたちがどこにいるのかも目で追っていた。今回のパーティーを出席する上で、大叔母から簡単な交友関係と重要人物や気をつけないといけない相手を聞いており、いつものように目を配っていたからである。


「あなたはおいくつだったかしら?子供でももう少しまともなお返事ができるものよ」

 その棘のある言葉にミアは顔を赤らめ、ちらりと助けを求めるように隣にいる弟を見た。しかし、イーサンは顔を背け、頑なに口をつぐんでいた。

「やれやれ」

 エドモンドがアイリスに目配せするのをみて、小さく頷いた。エドモンドと二人でミアとイーサンの側に行くと、近づいてきたことに気がついたのか、キャンベル夫人の視線がこちらを向いた。


「お久しぶりです。キャンベル夫人、妹が申し訳ございません」

「エドモンド、お久しぶりね。あなたのお母さまのことをお聞きしていたのですが、子供のように知らないと繰り返され困っていました。それに私の話を遮って話をされて、とても失礼です。マチルダ夫人は完璧な淑女ですのに、この方は学ばなかったようですね」

 キャンベル夫人は、昔はさぞかし華やかで美しい人であっただろう。年を経ても美しく整った顔を歪ませ、ミアを睨んだ。ミアの礼儀のない態度に相当怒っているようであった。おそらく、怒っているのはミアのことだけではなかったのかもしれない。ずっと不機嫌にそっぽを向いているイーサンの態度にも思うところがあったのだろう。その冷たく厳しい目がアイリスに向けられた。エドモンドがすかさずにこやかな笑顔でアイリスの手を取った。


「ご紹介させてください。私のはとこのアイリス・フォン・ディーンマーク嬢です」

「はじめまして、キャンベル夫人。私はアイリス・フォン・ディーンマークと申します。マチルダ様は私の大叔母になります」

 少し目線を落とし挨拶をすると、キャンベル夫人の目が大きく見開かれ、そしてほっとため息をついた。夫人の態度が一変し、声音が変わり、胸に右手を置いて腰を下げた。

「お会いできて光栄でございます、アイリス・フォン・ディーンマーク様。カサンドラ・キャンベルでございます」

 アイリスは身分の上の者にする作法で挨拶をする夫人の手を取って、にっこりとほほ笑んだ。

「キャンベル夫人、ここはニューキャッセスです。どうぞただのアイリスとして接していただければ幸いです」

「まあ、ディーンマーク家の方にそんな失礼なことはできません。それも本家のお方ではありませんか」

 キャンベル夫人が今でも貴族社会に精通していることに驚いた。アイリスがディーンマーク家の本家であることに察したのは、おそらくアイリスの左手にしている腕輪の意味を理解したからだろう。


「ニューキャッセスは自由な国と聞きます。どうぞ、ここにいる間だけでもお気になさらずにいてください。キャンベル夫人は大叔母様をお探しでしたね。大叔母様ならあちらにいらっしゃいます」

 老婦人の頑固そうな顔にアイリスはすかさず話をそらした。アイリスはちらりと視線を少し遠くで談笑しているマチルダの方へと向けると、キャンベル夫人も自然なしぐさでそちらの方へと視線を向け、同情するような表情になった。


「あらまあ、彼女も大変なこと」

 どこか苦笑いを浮かべた夫人の表情に、これまであぜんとしていたミアの目が厳しくなった。

「何が大変だというのですか?!」

「なぜ、あなたは私に声を荒立てているのですか?」

「あなたが母や姉を辱めているからです。どちらが失礼なのか、あなたの方が失礼だわ」

 アイリスはミアの言葉に思わずめまいがした。キャンベル夫人が今言った言葉は、別にマチルダたちを辱めたわけではなかったのだが、ミアはそのように受け取ったようだ。

 その物言いにキャンベル夫人がミアをあきれたような目で見た。そして相手にならないと言わんばかりにエドモンドに視線を向けた。

「今の若者は自由だのなんだの言いますが、自由ではなくただの無知で、何でも言葉にするのは教養がないと言っているようなものです。社交界に関わるのなら最低限のマナーを身につけた方がよろしいでしょう。あのような様子ではいずれ大変なことになりますよ」

 夫人の言葉に食って掛かりそうなミアをエドモンドは止めると、失礼をしましたと謝罪した。謝罪した兄に、ミアは顔をこわばらせて怒りを隠さずに拳を握りしめた。キャンベル夫人はアイリスに軽く挨拶をすると離れていった。イーサンはようやくほっとした顔をし、ミアは怒りが収まらないのか不満を口にした。


「どちらが失礼なの!あんな嫌味ばかりで、嫌な人だわ」

「ミア、いいかげんにしなさい」

「でもエドモンド兄さん、あんな、あんな言われ方をされたのよ。なんて性格が悪いの」


 ミアが上流階級に慣れていないと言われる理由がわかったような気がした。キャンベル夫人はとても誠実な人だ。性格が悪い人ならミアの態度を指摘せずににこやかな顔で、上流社会にいられないように裏で悪評を流しただろう。わざわざどこが悪いのか教えてくれる人の方が珍しいのだ。

 上流社会で失礼な女性というレッテルを張られれば誰も相手にしなくなるだろうし、結婚相手も見つけるのに苦労するだろう。特に女性たちの中で評判を悪くすることは上流社会で居場所を失うに等しい。家を背負っている男性なら、家門の女性の言葉は無視できない。それが母や姉、妹といった身近な人たちの言葉なら一層そうだろう。


「キャンベル夫人はとても誠実な方のように思います。助言をいただけるのはありがたいことです」

 とりなすようにそう言うと、ミアの目がアイリスを睨みつけた。

「さも自分は知っているような口ぶりだけど、貧乏なあなたが上流階級の何を知っているというの?よけいな口を挟まないで」

 アイリスは思わず首を傾げた。彼女は度々、自分に向かって貧しいという言葉を使う。なぜ何度も貧しいと言うのかがわからずに困惑していると、エドモンドがここにきて初めて険しい表情をみせた。

「ミア、今日のあなたの態度には我慢がならない。もうこのままパーティーには参加せずに帰りなさい」

「私はもう成人しているわ。エドモンド兄さんに指図されたくないわ」

 ミアは怒りで体を震わせ、エドモンドに背を向けて歩き去った。

「イーサン、アイリス嬢の側にいてください」

 エドモンドはそうイーサンに言ってミアのあとを追った。


 ミアが言った、母や姉を辱めているという言葉が気になった。アイリスはクラーク家の兄弟姉妹の中で、ミアの次に話しにくいイーサンに視線を向けた。







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