八章 母のように
闇の殻の奥、闇の檻は等しく海底であった。そこに沈む狂気との接触をララナはつい最近まで自らの意志でしたことがなかった。負の感情が胸を押し潰さんとしたとき気泡の如く浮上し肉体を奪う狂気は忌むべきもので、自分の一部でありながら拒絶したい気もしていた。
娘を傷つけて生き延びた過去を経て暮らしている自分を狂気と称するオトがいたように、ここに至ればララナも狂気の人生であった。多くの悪神を葬り、多くの仲間を謀って、実妹を犠牲にして、生き延びたのだから。
狂気とはいったいなんだろうか。そのものずばり狂った気であるのだろうか。そうなるまでの過程がない設計においてはそうであるといえるのかも知れない。が、抜け落ちた過去を埋め合わせるような経験を経て発せられる狂気であるなら、それはもう狂気などではなく、立派な感情ではないだろうか。
闇の中へ意識を傾ける。己の分身を形作ると確かに存在する狂気たる彼女に面した。何十年も一緒にいたから初対面の気は全くしなかった。塵のように、雪のように、あるいは、溢れ出した血潮のように降り積もったものを互いに共有して、ララナは彼女メリアと、何時間も話し込んだ。
背中を流し合い、横になれば温かい腕の中。ララナの体質もあろう、触れられているだけで欲求が高まってしまうが、そのお蔭でメリアは心安らかに眠れた。
目が覚めるとオトを起こさないようになごり惜しくも布団を抜け出し、朝食を作る。
……今はわたしが竹神家の主婦です。
神界のことをうまく回す主神の仕事と家のことをうまく回す主婦の仕事は少し似ている。ひとにやらせていたことを自分がこなすようなもので、家事全般が主婦メリアの仕事である。
ララナに比べれば何もかも不慣れだ。手順や味つけを頭の中で予習しつつ調理器具を準備して、頭の中に流れをなぞって、見落しがあれば修正項目を付け足して、朝食を作り終える。
次は洗濯。これについてはじつは担当の分祀精霊が洗濯機で全自動的に代行してくれる予定もある。まずは全部自分で。それがメリアの基本方針だ。魚と石竜子のような特徴を持つ小さな竜もとい洗濯担当のアドバイスを受けて、一つ一つ確認して洗濯を終えた。竹神姉妹が合流して洗濯の量が増えたら、精度や効率の面を考慮して分祀精霊に任せることになる。とはいえ、できることを丸投げするからには大変さを知っておきたくて、アドバイスしてくれた分祀精霊にお礼を伝えて、洗い終えたものを洗濯籠に詰めた。
洗濯籠を持って寝室に入ったメリアを、
「おはよう」
と、中腰のオトが抱き締めてお腹に顔をうづめた。
「ふにゃぅっ」
メリアは力が抜けて洗濯籠を手放してしまった。ひっくり返りそうになったそれをオトが摑んで畳に置く。
「これくらい慣れて」
「体質ですっ。音さんだってっ」
「ふぇぁっ!」
腋や腰に手を伸ばしてやると布団に倒れ伏すオトである。
「軟弱です」
「はぁっ、はぁぅっ、はぁ……っ否めん。まあ、ご愛嬌ってことで」
一撃で息を切らしたオトから洗濯籠を受け取って、メリアは庭に洗濯物を干す。
布団を畳んだオトが洗濯籠の横、縁側に胡座を搔いて、洗濯物を観察した。
「音羅め、やっぱ短パンとか穿かずに来やがったな」
「スカートに短いパンを合わせるのでしたね」
「短パンね」
「わたしはきちんと実践していますよ」
肉体の主導権をやり取りする上で、ララナが求めたことの一つだった。
「あれはオトさんの要望だったのですね」
「分厚いタイツとかズボンもいいが村じゃ重ね着はきついし、要は防備の意識を持てってことで。どこでどんな男、いや、女でも、狙っとるか判らんから」
ララナ曰く、いや、恐らくオトの見識であろう、人間界では撮影機器が発達し、同性が盗撮することもあるそうで不届き千万である。
「肌着にそこまで執着するひとがいるものですか」
「同年におったな」
「けしからずですね」
「やから、お前さんにも羅欄納にも娘にも外に出てほしくない」
現実的ではない要望をオトも強制していないが隠すべきとの方針を示している。
「わたしなどは肌着をつけていることに違和感があるくらいです」
「耳にせんかったが古代メークランは素裸やったん」
「ミントさんが広めなければ服を着る文化が発展しなかったでしょう。わたしは着ていませんでしたがおかしいですか」
「貞操を保てばでいいけど古代の文化が羅欄納にも影響しとると思うと複雑」
ワンピース以外の何かをほとんど身につけないララナの感性は古代を生きたメリアのそれを引き摺ってのこととオトは観たようだ。オトの要望を聞き入れると同時にオトの作ったボレロを愛用するなど偏った着回しはするようになったが、靴下を身につけることに前向きではないとも。
メリアはオトの下着を干して、
「音さんも短いパンを穿いてはいかがです」
「また同じ言回し、をいやすまん、なんか行き違ってないか」
「そうですか」
「ちょっと訊くが短パンをなんやと思っとるん」
「身につける短いパンです」
「虫に食われるわ。っていうか、やからか、さっき抱きついたときの異物感は」
「ほわっ」
ふわりと抱きかかえたメリアからオトが素早く脱がしたのは、「ほら、ご所望の短いパンですよ。外へ出るときは必ず穿いていますからご安心くだ──」
「厚みの安心感が架空合金ばりやけど魔物とのバトル中も穿いとったかと思うとこれまたどこぞのRPGばりの滑稽さやな、特殊な効果はないやろうけども、ははは、はぁ……」
肌着とほぼ同サイズに刳り貫いた小型のパンを見やったオトが笑うや否や溜息をついた。
「ほんのり温かくていい香りもしてよかったです。お二人が推奨するだけはありますね」
「してへんけど、んなこたぁどうでもいい。カビてないってことは新しい。今までどうやって処理しとったん。洗って再利用なんてできんやろ」
「食べました」
「お腹壊すわよ……」
「壊れません。魔力還元体質ですから」
「悪用やな」
「実用です。害はありませんでしたよね」
「よね。食卓に上がっとったの」
「ちゃんと火は通していましたから大丈夫ですよ」
「衛生っ」
オトが疲れきった顔でパンツパンを掲げた。「これをどうするか、答えなさい」
「(な、何やらお怒りですね……。)クルトンにでもして一緒に食べ──」
「ません。魔力からすると主原料は村で挽いた米粉」
「ええ、卵も水も酵母も」
「自分で処理なさい。なお、食べ物を粗末にしてあまつさえ棄てることは許さん」
「っはい」
有無を言わさぬオトが、ふうっ、と、息をついてパンツパンをメリアの膝に置いた。
「短パンってのは短いパンツ、俗にいう半ズボンとかのことなんやけど」
「…………、さておきっ」
「さておき、なあに」
「むむうっ」
微笑の彼に押し負けそうだ。メリアはなんとか怺えた。「要望するだけでご自分が実践しないのでは説得力に欠けませんかっ」
「駄目男の下着や体なんて興味の対象にほぼならん」
……ほぼ。あ、少数はわたしのことですね。
「俺にはだらしない恰好が相応しいのよ。引籠り体質が治るでもなければ改める気もないんやから小綺麗にする必要もない」
「そうですか──」
メリアが変なのだろうか。オトの仕種や声、仄かに香る彼の服や些細な接触に、逐一どきどきしてしまう。出逢ったときから無精髭のオトに小綺麗にしてほしいとは確かに思わないが、身につけているものには興味が湧く。例えば、露出の少ない黒色の軽装を好み、寝間着もほとんど同じような服装で装飾品をつけないこと。それらが彼の趣味・嗜好で成り立っていると思うと興味が尽きない。きっとララナも同じだろうが考察が進まず答に及んでいないことを教えてくれるオトではないとはララナの言で、
……どこかちぐはぐな気はしているのですが、はっきりしません。
オトの服装についてはメリアも考えが及んでいない。時折の内面の幼さに反して子が好む原色を選ばないのはなぜか。モノクロームでもあえて黒を選ぶ理由は何か。確信がない。
一方、メリア自身を取っ掛りにして推測できるララナの消極性がある。
「羅欄納さんが重ね着に後ろ向きなのはわたしがそうだからでしょうか」
今日のメリアは枕許にあった服──オトが作ったもの──を着ている。昨日のワンピースドレス同様、重ね着不要かつ家事がしやすいすっきりとしたデザインである。無論、靴下を履いていない。
「羅欄納さんにもこういう服をお作りになれば悦ばれるはずです。可愛いのに動きやすくて家事にも支障がありません」
「可愛いを理解できん羅欄納の服は簡素なデザインで生地を工夫しとるよ」
オトが言うようにほかの服と手ざわりが違うのがララナのワンピースだ。
「少しごわごわでした。工夫というより劣化させているように感じます」
「その通りやよ。最近はもっぱら安物っぽくしとる。着飾らんくてもあの子は可愛い」
「べた褒めですね、いいですね」
「妬いとるん」
「ちょおおっぴり!」
「圧」
肌触りがよく高級感のある生地でメリアの服を作ったオトである。
……着飾らないと可愛くない、と、いうことでしょうか。
「ほら、今もお前さんはころころ髪色が変わっとるから」
「え、あ……」
「お前さんだって着飾らんくても可愛いよ」
……っん。
「髪色の変化が馴染む服がいい。少し話が戻るが、お前さん達が変に目立たんような色合やデザインを意識しとるんよ」
ララナの服も、メリアの服も、目立つ外見的要素を密かに相殺していたようだ。
「そこまで考えて作ってくださったのですね」
「敵が増えるとメンドーやから特に外着で目立たせたくない」
「嬉しいですっ。今後とも束縛してください」
「きもっ」
「束縛が肝ですよ!」
「それ誤解やし、前のめりで口にする台詞じゃないわ」
「ところで敵って」
「そこもか。恋敵よ」
「わたしを受け止められるのはもう音さんだけです」
「そうかね」
オトが微苦笑した。「一見頼りない相手にも恋敵ってのは動くもんやからね」
「おや、驚きました」
「ん」
「今の発言は、まるで音さんが頼り甲斐のある男性と自負しているようです」
「お前さん達に取ってはそうなのかと思っとったけど、違ったん」
「ええ、違いますね」
頼りにはしている。でも、いつでもどこでも頼れるとは思っていない。特に、普段のオトは腑抜けだ。怠惰そのもので悪戯っぽい、我儘っ子のような駄目夫っぷり。ララナはよくこんなオトを立ててきたものだと感心してしまう。
「わたしも羅欄納さんも頼りないあなたと添い遂げる覚悟の身ですから、ご持論を拝借するなら音さんに恋敵は現れないことになります」
「逆に、」
「いい男性が現れたとしても同じですよ」
死を厭わず受け止めてくれた恰好のいいオトにもメリアは惹かれている。オト以上に心を摑む男性が現れるとは考えにくい。
「あえて申し上げます。アデルさんは活動的で民のためなら命も賭すことを厭わない、宇宙一恰好のいい戦神です。でも、わたしが選んだのは対極のあなたです」
「対極か」
仕事半ばの洗濯籠を見るようにしてオトが何か考えていたが反応は早い。
「責任を取ってください。いうまでもなく羅欄納さんのこともです」
「いわずもがな」
ララナの一部だからメリアを求めたのではない。厄介な人生に関わることを決めていなければ彼はメリアを惹きつけられなかっただろう。
……わたしと、羅欄納さんの人生、……。
縁側から下りて洗濯物を干し終えると木木から青空が覗く。オトとララナのほかにこれからメリアが関わってゆくひとがいる。二人の子である竹神姉妹、中でもまずは長女。
……音羅さんの人生に、わたしは──。
前向きかつ積極的に接してゆかなければ駄目なのではないか。本人から過去を聞くくらいしなくては駄目なのではないか。オトがしてくれたように懐に踏み込まないと心を開くのは難しいだろう。
「俺は一つ勉強した」
「はい。何をですか」
「お前さんは成長が遅そうってことをね」
「一度死んだ身ですから成長がないのが普通ではありませんか」
「いや、そういうことじゃないけど、まあ、それはいい」
オトが立ち上がって、「ご飯作ってくれたんやろ。食べよ」
「はい」
音羅が起きるのは昼だろうと観たオトとともにメリアは食堂に入った。白米・味噌汁・魚の切身・キャベツの千切り、と、本当に簡単なものだがオトが褒めてくれた。メリアはララナの指導力の高さに感謝して、ゆっくりと味わったのだった。肉体を借りるようになってから当り前のように食事を摂ることができるが、まさかまた何かを食べたり飲んだりすることがあろうとは闇の檻では思いもしなかった。さまざまな偶然や出来事、オトとララナの存在、与えられたものや状況に感謝せずにはいられない。
「『ごちそうさまでした』」
と、挨拶を合わせて、メリアはオトを向く。
「わたし、音羅さんとまた仕事をしてみます。それで、しっかり踏み込みます」
「関わる覚悟ができたんやね」
「無神経なことをいって踏み込んだわたしに隠し事されるよりいいと微笑みかけてくれた音羅さんを、家族として信じたいの」
「ん。頑張りぃ」
「はい」
食器を片づけると、メリアは引続きララナの仕事を代行する。オトとの生活の中心地である一階に加えて、今日は子の部屋も掃除する。出入りしていなくても埃が溜まるので定期的な掃除が欠かせない。
帰宅した子の部屋は自分で掃除してもらう方針だそうなので音羅の部屋はスルーだ。メリアは部屋に向かいつつララナに確認を取る。
(えっと、二階は音羅さんの部屋だけなので三階に直行ですね)
(はい。北西と北東の部屋です)
(ほかは客室ですね)
(その用途もあれば、普段は上下階の物音を回避する目的もございます)
オト、ララナ並びにメリアの寝室は一階南東に位置し、子達の部屋も含めて縦に並ばない部屋割りになっている。それにしても客室が多すぎる。
……音さんには子どもを増やす将来像があるのでしょう──。
三階北東の部屋に入ると、床板の隙間からもこっと湧いて出た糸主がメリアの掌に載る。
「始めようかのぅ」
「はい、今日もお願いします。(この綺麗なお目目がどうやって隙間を通ってくるのか、いつも不思議です)」
箒に化けて埃を巻き上げることもなく食べてくれる糸主。生態が謎だが掃除用具を持ち運ばなくていいので毎度頭が下がる思いだ。
掃き掃除を始め、メリアはララナに尋ねる。
(神界宮殿は地殻で作ったので意図せずとも音や振動が別の部屋や階層に伝わりにくかったです。ここは木造。重力によって撓ったり、気温・湿度の変化によって軋みます。耳の利く音さんが防音構造にしなかったのはなぜでしょう)
(移り変わりゆくものですが、普通を意識されたのでしょう。防音設備のある家は惑星アースでもフリアーテノアでも多くが高級で一般的とはいいがたい。防音を徹底した家を建ててそれを普通と子が考えると外に出たときに大変ですからね)
(メークランでも集合住宅での生活音問題はよく聞きましたがマナーやモラルに委ねるしかないことでした。音羅さんを始め、羅欄納さん達の娘はしっかり躾をしたあとでは)
(これから生まれてくる子に関しては最初から躾をする必要がございます)
(音さんと羅欄納さんは仲良しですから納得です)
(私はメリアさんにも子を授かってほしいと考えています)
(えっ──)
子作りの予定にはそこまで驚かなかったが、我が事となると話は別だ。(わたしは、飽くまで羅欄納さんの体を借りている身なのです……)
ララナに子を許されたことは嬉しい。が、竹神家全体の気持を無視することはできない。
(子どもがほしくないわけではありません。でも、竹神家に波風を立てたくありません。今は音羅さんのこともあります)
(将来の話です。そのときが来たら、オト様に気持を伝えてください)
(そういえば──)
オトと最初に契った日に言われたことがある。
──子がほしいと思ったときはいってね。
契りは何度も交わしているが子はできていない。
(音さんの判断で子どもができるのですね)
(少し異なります)
(と、いうと)
(細胞のみでは子ができない。それが私達の特徴の一つです。ただし、条件つきで授かれるようオト様が魔法を構築されました)
(お得意という創作魔法ですね)
(オト様は勿論、私やメリアさん、パートナ同士の積極性があれば子を授かれます)
魔法の概念に当て嵌めるなら融合といったところ。ただし、創造神アースの魂を切り取りそれを主たる魂として活用することが前提であるため魂に干渉する特殊な術式である。魂への干渉ができるのは創造神アースの転生体と一部創造物のみ。創造神アースの転生体であり魔法構築に長けたオトにしか子を作る特殊な融合魔法を創れず、相手のおもいを受動的に叶えるのが得意なオトにしか行使できない。
(わたしはまだ、子どもを授かれません)
メリアは本気でそう思っている。ララナやララナ達の娘、それからまだ見ぬ自分の子の気持を考えていたら前向きになんてなれなかった。
(羅欄納さん達に甘えてばかりで申し訳ないです)
(持ちつ持たれつです。オト様の甘えん坊や癇癪は私一人でどうにかなるものとも考えにくいので、より多くの支えが必要。メリアさんは一助となったのですから、気兼ねすることはございません。何より、メリアさんはオト様を受け入れ、オト様に受け入れられたのです)
子を作ることに前向きになってもいいといってくれたララナがさらなる後押しをする。
(子を成すか否かはパートナ同士の問題です。体が私のものでも気にしないでください。と、私自身がいっているのですから障壁はございません)
ララナが独占欲の塊でオトとメリアの関係を快く思っていなかったら、メリアは彼女の姿勢や考え方に反発しただろう。ララナの寛容さが、メリアを、竹神家を、丸く包んでいる。産衣のような丸さの中でメリアは、同じように丸い存在として皆を支えたく思うのである。
(子どものことはゆっくり考えていこうと思います。今はとにかく音羅さんやほかの子達と仲良くなって家族の一員と認めてもらえるように頑張ります)
オトとララナの娘の立場になってみればメリアの積極性は子どもほしさの根回しのようにも見えるだろう。メリアは、慎重に、誠実に、噓をつかず、接してゆく必要がある。
(よい心懸けと思います。頑張ってください)
(はい)
気合を入れて掃除を終えると、一階への階段を下りる途中で挨拶があった。
「おはようございます、メリアさん」
「おはようございます。起こしてしまいましたか」
音羅だ。メリアに続いて階段を下りる。
「糸主さんがいるということは部屋を掃除してくれていたんですね。ありがとうございます。ぐっすり眠れましたから大丈夫ですよ」
「それならよかった。音羅さんの部屋は音羅さんにお任せすることになっていますが」
「時間を見つけてしっかりやります。糸主さん、手伝ってくれるかな」
「うむ、引き受けるぞぃ」
「ありがとう」
気持のいい挨拶というのは、自然と皆を笑顔にするものである。
メリアは音羅の快諾を得て仕事に同行するようになった。モカ村のものがそうであるようにハンタ紹介所の多くは支部で、斡旋している仕事は各支部の近場に集中しており、行きも帰りも徒歩で向かうことができた。
メリアは数日置きにララナと交替するため、同周期で音羅の仕事に同行した。別の仕事をしているララナと交替した間、一人で魔物討伐を行っていた音羅が徐徐に慣れた雰囲気を醸し出していた。同じ仕事を繰り返せば当然のことだが、メリアはその慣れに懸念を覚えてもいた。気持と裏腹にハンタ業は順調そのもので、実績に伴ってランクが上がり、少し難しい仕事も任されるようになってゆいた──。
さらに数日が過ぎた朝。
「ただいま帰りましてよ」
と、玄関を開けた美少女をメリアは、「おかえりなさい」と、出迎えた。外見や口調から、六女の夜月と判断できたが、夜月のほうはと言えば、
「アナタ、誰かしら」
と、冷めた目で見抜いていた。「母様にしてはやたら髪が青いわね、水属性や氷属性でもなく染めたふうもない」
初めて目にする子に対する緊張で染まった髪。気づかれないはずがなかった。
「わたしはメリアといいます」
と、名乗ってから、オトのいる居間で夜月に事情を説明した。
「──もとから母様の中にいたアナタと人格交替してるって感じなのね」
「今は二日周期で交替しています。竹神家の皆さんと相談して、交替周期や交替の時期を調整していく予定で──」
「ワタシへの相談は結構よ。そこのところは本人達の自由よね」
夜月が立ち上がった。「ワタシはワタシの生活を邪魔されなければそれでいいのですわ」
「そう、ですか」
「そうよ。父様はどう考えてるの。ワタシと同じでしょ」
「一応ね」
と、オトが答えると夜月が荷物を片手に天井を仰ぐ。
「三和土の靴。姉様が帰ってるのよね」
「はい、音羅さんが──」
「父様に訊いたんだけどまあいいわ。積もる話もあるし邪魔しないでちょうだい」
「はい……」
立ち去る夜月の勢いに圧されたままメリアはうなづいていた。
「すごい子ですね、夜月さん……」
「まだまだ幼いと思うけど」
「音さんと羅欄納さんの子だけあって、物凄く達観しているといいますか、口調は厳しいですが、個を尊重する優しさを感じました」
「優しさはあるかもね。外にもう少し目を向けたほうがいいとは思うけどもね」
……外。
夜月のほかに、オトが不足を感じている娘がいた。
「刻音辺りも戻るかね。あの面倒な性格はできるだけあとに回したいが」
「音さんでも躾けられないほどの子がいたのですか」
「良くも悪くも羅欄納を極振りしたような子やからな」
表情変化の乏しいオトが疲れた顔をした。
言葉遣いに棘がある駄目夫の彼が優しいように、少し変わっていても刻音もきっといい子だろう。会う前と比べれば、メリアは竹神家の面面とうまくやってゆけそうな予感を得ているので後ろ向きには考えないようにした。
オトの予想通りか、その日の昼までに、四女鈴音がリュック一つで帰宅、次女納月が身の丈ほどもある巨大な荷物とともに帰宅し、納月のほかの荷物を背負わされる形で三女子欄と八女納雪も合流し、メリアは自己紹介とともにララナとの交替制を説明した。メリアの存在に驚きこそしても、転生に至る事情を聞いて拒絶する子はいなかった。納雪は第二の母親とさえ表してくれて、メリアはほっとすると同時にララナの背負う母親としての立場を守ることが大切であると気持を引き締めた。
……主神時代とは異なる責任を果たしていきましょう。
残すは五女謐納と七女刻音というところで、音羅との仕事でメリアは外へ出た。業務内容を確認して徒歩で現場へ向かう森の中、
「みんなの印象はどうでしたか」
と、音羅が訊いた。彼女の妹のことであるのは言うまでもない。
「みんな懐が深いように感じました。羅欄納さんの中にいたとはいえ突然現れたも同然のわたしを受け入れてくれるなんて、普通は考えられないことです」
アデルの中に全く知らない別人格が存在してそれが表に出てきたら、そして別人格も一緒に暮らすのだと宣言されたら、メリアは悲鳴を上げたに違いない。
「雪ちゃんについては、ごめんなさい、いきなりすぎて重荷になっていませんか」
音羅に限らず、納雪の母親発言にぎょっとした子が複数いた。
「いいえ、思わぬ嬉しい出来事で、重荷とは思いませんでした。勿論、音羅さん達にそういった関係を催促するつもりはありません。できる範囲で母親らしくしたいと思いますし羅欄納さんの立場や威厳を損ねないようにしなくては、と、責任を感じますが、わたし自身の意志で決めたことですから、音羅さんが謝る必要はありません」
「ならいいんですが、潰れちゃいますから背負いすぎないようにしてください。いろいろ決めるのは五女や七女にも会ってからがいいと思います」
「解りました。決めて掛からず、皆さんと会うのを愉しみに待ちます」
刻音にはオトも手を焼いている様子だったので、音羅が言うようにあとでゆっくり考えることも出てくるだろう。
……家族の一員として、みんなの意見を聞いていきましょう。
森を抜けるとナゴエド平野。全容知れぬ大地の裂け目フロートソアーを目印にして背丈の低い草原を南西へ行くと地図のような境目などなくテラーブ平野に入る。フロートソアーに沿うように南下し、ぽっかりと口を開けた洞窟を見つけて踏み入った。ここが本日の現場である。音羅が宙に放った小さな火で照らして、ひんやりとした洞窟を慎重に進む。魔力を頼りに魔物の反応をいくつも発見できた。ちょくちょく崩落しているのか足場が悪い。
「放棄された坑道とのことですが、ここまで荒れているとは……」
「メリアさん、足下、水が……川みたいに流れています」
「(視界に山はありましたがフロートソアーで水の流れは断たれているはず。)たぶん、地表に降った雨の通り道ですね。濾過されて地下水となっていきます」
「ダゼダダでおいしい地下水が多かったのはこういう自然の働きがあるからなんですね」
「洞窟や坑道では壁面や床が浸食されて崩れやすくなる原因でもありますから慎重に進む必要があります。有毒なガスは……今のところはなさそうですね」
「少しずつ温度が下がっている気がします」
「(風穴か氷穴……。)水や氷があるところだと冷えることが多いですね。なだらかな坂を下っているので、熔岩が流れてできた風穴、たぶん、フロートソアーに分断されて風の流れができて涼しくなっているものと思います」
「ママからはこういうことを聞く機会はないのですごく勉強になります」
「どういたしまして。(受け売りでも役に立ててよかったです)」
豊富な鉱物があったトリュアティア。主神として採掘を指示していたアデルから採掘場や天然の洞窟の知識をメリアはよく聞かされていた。
壁際で岩石に埋もれているのは下へ続くレールに歯車を嚙ませた昇降機。あれを使って深いところから鉱石を運び出したり、補給物資を届けたりしていたのだろう。埋もれていないものも動力が失われているようで動く気配がない。洞窟に手を加えたタイプの採掘場であろう、砂礫の多さから考えるに放棄されて久しい。
洞窟の成立ちを見立ててしばらく歩くと、足場の悪さと気温低下とともに、メリアは嫌な感覚が強まってゆく。
……この感じは……。
死角を作り出した大きな岩を乗り越えると、両サイドの壁に赤く輝く鉱石が露出しており、近くの分岐路を照らしていた。
「放棄されたあと浸食などで自然に露出した鉱石でしょうか……」
「燃えるようで綺麗ですね。わたしと同じ炎の魔力を感じます」
「魔力結晶の一種ですね」
宙を浮く火が少し強まったのは魔力結晶から炎の魔力が供給されている。このような自然環境の影響を抑え込んで魔法を維持するのはじつは結構すごいことで、音羅の感覚的調整は見事である。ひとによっては暴発させて危険だが、この調子なら燭台替りに音羅の火を頼って問題ない。
「音羅さん、さらに慎重に進みましょう」
「魔物はこの奥ですか」
「ちらほら。左手のほうが強く、数も多いようです」
「わたしが左に行きます。メリアさんは右の道をお願いします」
口早に言った音羅がより多くの魔物を討伐したがっていることをメリアは察した。やる気こそ認めているが、
「二人で行きましょう。雨水が通るなら頭上の岩盤に亀裂が多い可能性があります」
「そうだと、何かまずいんですか」
「落盤の危険度が。一人きりのとき落盤に遭えば退避や万一の救助が遅れて危険です。それに、音羅さんの火がないと見通しが悪い」
「あ、そうですね、一緒に行きます」
「激しい立ち回りはなるべく避けましょう」
今回の仕事は魔物の勢力・生息域・環境の再調査。紹介所の情報が古く、魔物の強さや討伐に投入すべき人手が判断できないため戦闘を避ける。天然の壁が脆弱化している可能性もあるこの坑道は、万一の退路が少なくこれまでになく環境が悪い。たとえ弱い魔物しかいなくても生き埋めになって助けを呼べなくなる危険性があるので大立ち回りはNGだ。
「見つけて素早く斃せば問題ないように思うんですが、ダメですか」
「ここは今や魔物のテリトリです。そのネットワークを甘くみては、壁や天井が崩れなくても袋小路に追いつめられて食べられてしまいますよ」
「食べられるのは……!解りました、戦わない方向でいきます」
出発直後に確認したことをメリアは再確認しておく。
「重ねていいますが今回は調査です。その方向でお願いします」
「魔物に見つかったらすぐ逃げるんでしたね。逃げ道を塞がれたりしたらどうしますか」
「わたしがサポートしますから、追いつめられたときは戦うことも考えましょう」
「頑張ります」
「それから、火をもう少し小さくして距離を取れますか。わたし達が魔物に見つかっては十分な調査ができません」
「火は囮にもなりますね」
魔物の勢力を把握するなら強い魔力を持つ個体とより多くの魔物を観ておく必要がある。視界の限界近く、天井すれすれまで火を移動させた音羅とともにメリアは左の分岐路を進む。入口から分岐路までと違って定期的に誰かが通っているかのように足場が綺麗だ。天井や壁の耐久力に違いはなさそうで脱出経路として使えるだろうが入口から約二キロメートル歩いて分岐路は先程のもののみで、来た道を戻るほか脱出経路がない坑道とも言える。かつては換気口であったはずの穴も長年の放置で詰まっているよう。ガスが充満した様子はないが進むにつれて空気の淀みを感じた。それが空気の流れの停滞によるものか魔物の巣窟になっているせいなのか、やがて判明した。
穢れを探知した地点。そこは大きめの換気口が空けられた広い空間であった。火を消して壁に寄って空間を覗くと音羅が息を吞んだ。壁面に散りばめられた多種の魔力結晶が放つ仄かな光が、赤黒い影を照らし出していた。
「大きい……」
蠍型の魔物デザートスピアだ。毒らしき液体が壁のいたるところに吹きつけられており、それが空気の淀みの一因と考えられる。問題は魔力反応がほかにも固まって存在していること。
「更新すべき情報が、魔物の背中にありますね」
「子ども……」
蠢めく無数の白色はデザートスピアと同じ形をしている。巨大なデザートスピアは親。背の白色を守って周囲を警戒しているのだ。外敵の行動範囲を狭めるため、迫る外敵を仕留めるため、経皮性の毒液が壁に撒き散らされている。毒液は揮発すると無害化するので淀んだ空気を吸っても不調にはならない。再調査が企画されたのは、古い情報をもとにあのデザートスピアを討伐せんとしたハンタが返り討ちになった。子を守る親。そんな魔物は普段以上の力を発揮する。
音羅が腕組、光景をしばし見つめて質問した。
「あの子達が育ったらどうなりますか」
「坑道に巣食う魔物が勢力を増します」
メリアの魔力探知によればデザートスピアはいま見えているものに限らない。そこの空間は横に広く、距離を置いた死角にほぼ同じ規模の個体魔力がある。また、デザートスピアとは違う個体魔力がいくつも存在している。そのどれもが穢れを持っていることから魔物と判別できた。別種の魔物の連携はまず考えられないので一気に討伐する必要はないが、一部魔物の勢力増強により別種の魔物が坑道の外に進出する危険性がある。増長して巣が狭くなればデザートスピアが坑外に進出することも予測できる。
「これまでは坑道の魔物が外に出ることはなかったんですよね」
「協会によればそうです。情報が古くなるのは監視しきれていない。穴があるのです」
「親か子どもだけでも、斃しておくべきでしょうか……」
焦る状況だが突撃は危険極まりない。
「全て討ち取るのは難しいと解っているようですね。ほかの蠍型の逆鱗に触れることも不可避です。業務通り調査して協会で討伐作戦を練ってもらうのが最善です」
「刺激したら、あの魔物を外に誘導してしまいますか」
「子……幼体を持ったことで警戒と守備の範囲が狭まり追尾の危険性は低いでしょう。ただし、例外はあり得ます。村まで追われたりほかの地域の迷惑になってもいけません。幼体発生の報告にとどめます。手を出しては生き埋めに直結するおそれも」
毒にやられる危険性もある。どちらにせよ、脱出できずに死亡する。そうなっては仕事どころではない。
「じゃあ、戻りましょうか」
と、言った音羅が、少しだけ安心した表情だった。
……魔物とはいえ親や子を斃すこと、引き離すことに、躊躇いがあるのでしょうか。
これまでに相手をしたのは成獣らしき魔物。明らかに親子と判る魔物を手に掛ける覚悟が音羅にはないのである。
いずれは誰かに討伐される。メリアと音羅がやらなくても別のハンタがやる。そう解っていても、自ら手を下さずに済んで安心したに違いない。魔物が危険な外敵と理解していても、退治や駆除や討伐といった言葉で濁しても、紛れもない殺害であると捉えている。それか、貧しいひとびとと接してきた彼女の経験から親子を引き離すという行為自体に抵抗がある。音羅の魔物討伐への意欲の根底に何があるのか、その輪郭が少しずつ見えてきたようにメリアは感じた。
「音羅さん、静かに後退しましょう」
「はい。ん……!」
足下を確認して物音を立てないように後退したメリアは、先に後方を振り向いた音羅に手を摑まれて止まった。振り返って、メリアは目を見張った。壁のようなものが、音もなく坑道を進んできている。
「嫌な感じがすると思ったら……魔物」
……穢れがあります。
メリアは初めて見たが、「厄介ですね、無魔力個体とは……」
「魔物にも無魔力が……」
知得性である二〇の属性魔力を持っておらず不知得性魔力の穢れは持っている、と、いうのが正確だが細かいことを説明している暇はない。
「物音も立てずに近づいてくるなんて」
「想定外ですね……」
魔力を捉えていたメリアも耳の利く音羅も、完全に不意を衝かれていた。
ララナと共有している精神力を無駄遣いできないメリアだが、星の魔力を用いた穢れ探知は精神力の消耗が激しい。二〇属性魔力に属する魔力で反応を確認、網に掛かったもののみ星の魔力で穢れの有無を確かめていた。それが仇となった。
文字通り目前に迫っている問題は、脱出困難ということだ。
……突破しようにも、後ろには蠍型がいます。
迫る壁のような魔物が厄介だ。見上げて余りある大きさ、硬そうな外皮で滑らかに削った壁や床を口らしき前方の穴から吸い取ってゆく。突破できるか判らず、突破できても騒音や振動がデザートスピアに届くだろう。分岐点から出入口までの劣悪な足場を逃げきれるかどうかも怪しい。デザートスピアが子を守るためあの場から動かないでいてくれることを願うしかないか。
「分岐以降の坑道が綺麗だったのは壁型の魔物が掃除したからでしょう。壁型を突破して出入口へ戻るか、蠍型のテリトリで壁型をやり過ごして改めて出入口へ戻るか」
「どちらがいいんでしょうか」
リスクだらけでどちらも正解ではない。こうならないように警戒していたのに。
……どちらのリスクが少ないか!
硬そうな壁型を突破するには相応の力で攻撃するしかなく落盤を招くおそれがある。が、凶暴化している蠍型を一時でも相手にするのはもっと危険だ。戦いのさなか毒に冒されたり、やはり落盤に吞まれる危険性も。
壁型をやり過ごすべく広い空間に出れば魔力結晶の明るさで蠍型に見つかってしまう。暗がりにとどまろうにも、十数秒もすれば迫る壁型に広い空間へ押しやられてしまう。
猶予はない。
「わたしが落盤を抑えてみます。どの道サソリには気づかれます。音羅さんは全力で壁型の突破をお願いします」
「解りました、急ぎます。──ハッ!」
両手に極大の炎を灯して壁型の魔物に突撃する音羅。その衝撃が伝わるであろう天井をメリアは星の魔力で支えた。音羅の炎は装甲のような壁型の魔物を突き破り焼き払ったが、
「二体目が……!」
リカランスの粒子を振り払うように後退した音羅が、奥に控えていたもう一体の壁型を見据えて気勢を保つ。「続けて突破します!」
メリアはうなづく。星の魔力で支えた天井や壁はびくともしないが、一体目を突き破った炎や騒音に気づいて後方の蠍型が前進している。
「音羅さん、止まらず進んでください!」
「はい!ハァッ!」
引力をも覚える炎を両拳に灯した音羅が二体目の壁型を突き破って先行、メリアは星の魔力で坑道を支えて続いた。ところが、分岐点を前に蠍型が立ち塞がっていた。別の分岐路からやってきたのだろう。
後方には凶暴化した蠍型が迫っている。前方は、一回り小さな、恐らく成体に近い蠍型が複数体おり、坑道全体に毒液を撒き散らしている。逃げ道は後方しかないかと思われたが、その後方にも、間もなく毒液が撒き散らされ──。
「メリアさん……」
「これは、本当に、まずいです……」
封殺された。メリアの星の魔力で落盤を防げても逃げ道が毒液塗れでは意味がない。かと言って星の魔力を解けば碌に戦えない。
……前のハンタを返り討ちにしたときから外敵の再来を予期していたのでしょう。
魔物にも知能がある。凶暴化していても生存に関わる思考は高まっていただろう。これほどスムーズにメリア達を包囲できたのは、坑道を住処とする魔物が外敵対策を練っていた。
なんとしても音羅と一緒に脱出しなければ──。
(羅欄納さん、どうしたらいいと思いますか)
メリアが逐一報告していたので、ララナが状況を把握している。
(空間転移で切り抜けます。私ならそれが可能ですが交替しますか)
(わたしの力では、どうにもなりませんか)
メリアは、自分と音羅とでこの窮地を脱したいのである。
(オト様のように五本指で複数の魔法を同時に操ることができれば策がございます)
あんな器用な真似はアデルにもできないだろう。
(メリアさんの今の力では時間を稼ぐのが精一杯だと考えます)
(……)
無駄だ。時間を稼いだところで救援などない。一方、魔物の気配は増えてゆく。
(戦闘ではできることのみ選択できます。交替してください。一秒で切り抜けます)
(……)
一秒。ララナに一秒でできることを、メリアはできない。
「メリアさん来ます!」
「っ!」
凶暴化した大型デザートスピアが詰め寄り毒を纏った尾を突き出していた。狙われた音羅が回避するも、前方から迫った中型デザートスピアが続けざまに狙い、毒針が腕を掠めた。
「音羅さん!」
「平気です……」
突き出された尾を空中で蹴り飛ばして眼力でデザートスピア達を牽制するも着地した音羅が膝をついて立ち上がれなくなった。
……わたしが、考え込んだせいで──。
(メリアさん、交替を)
ララナが強く言うか否か、
ヒュンッ!
坑道内を何かが突き抜け、直後、全てのデザートスピアが脚を崩してリカランスの粒子を発し始めた。
「サソリが……」
呆然としたメリアの横で、
リンッ……。
少女が刀を鞘に治めた。
「あなたは……」
「不躾ながら忠告を。魔物の前で迷えば滅びが訪れまする」
「……はい」
ララナに任せればよかった。意地を張ったばかりに音羅を危険な目に遭わせてしまった。
「メリアさん、気にしないでください。わたしは、大じょ……んぅ」
「姉上、無理をなさらず」
倒れそうになった音羅を少女が抱えて、ほんの一部しか残っていない安全な壁を器用に跳び伝って、引き返す。
「あなたも脱出を。母上の体を傷つけたら許しませぬ」
「……」
音羅を姉と呼び、ララナを母と呼ぶ少女に、救われた恰好だ。メリアは、星の魔力を纏って少女を追った。
……そうです。音羅さんにもこうすれば、毒液を逃れられました。
そも、アデルがララナの身を守るために授けた障壁を音羅にも纏わせることができた。そうすれば毒に対処でき、蠍型の攻撃や落盤に怯える必要がなかった。後手後手だ。身を守らずとも攻め滅ぼすことができた昔──、そうであってはならない今。不測の事態に対応しきれなかったのは考えを纏める以前に姿勢を正しきれていなかったのではないか。
脇目も振らず竹神邸に向かった少女が音羅の治療をオトに任せた。一方、動揺を治めきれていなかったメリアはオトの指示を受けて音羅の部屋の前で待機した。
個体魔力の死後還元現象。滅ぼした星で何度も感じたそれを音羅から感ずるのではないか。不安と恐怖が隣合せの待時間がどの程度あったか、部屋を出てきた少女が、
「一命を取り留めました」
と、音羅の無事を伝えてくれた。部屋の中で治療を続けるオトと目を交わしてメリアは安堵し、少女の招きで居間に下り、それぞれの席についた。
「鍋座に座るあなたは父上の伴侶か其に準ずる立場ですね」
「紹介が遅れました。わたしは──」
名乗って諸諸の経緯を伝えたメリアに、少女が応える。そのときには彼女が誰なのかメリアは察していたが名乗りを聞いた。
「こちらも申し遅れました。わたしは竹神家五女謐納と申しまする。よもや母上に別人が同居しておろうとは思いもしませんでした」
「改めて謝ります。音羅さんが危険な目に遭ったのは、わたしのせいです。ごめんなさい」
「メリア殿、姉上、どちらも不用意でした。あえて申せば強制交替し空間転移せぬ母上も。三者の責任です」
裏で父オトを助け、家族を守ってきた子だから、要らぬ問題を招いた要因を指摘できる。
「謐納さん、窮地を助けてくれてありがとうございます」
「礼は不要です」
「謐納さんがいなければ音羅さんの治療が間に合ったかどうか……。速やかな判断と行動、謐納さんのお蔭です」
重ねて頭を下げたメリアに、
「メリア殿は母上ではありませぬ」
謐納が重い口調で述べた。「判断・行動・魔法などの能力、全てにおいて母上には及びませぬ。其を認識しておられるなら、今後、戦闘では母上に交替すべきです」
防戦に不向きであることはいたく理解した。それでも音羅とともに切り抜けたかったと今もメリアは思っている。ララナに窮地を押しつけるとして、体を借りた責任を果たせるのか。親として、どうなのだ。
「メリア殿は母上ではありませぬ」
謐納が重ねて言った。
「……代りは務まりませんね」
「事実を受け止めてください。メリア殿は母上には成り得ませぬ」
オトとララナの子の母親には成り得ない。その言葉を、メリアは吞み込むほかなかった。
子を産んだこともない身だ。母親になるのは難しい。子側の謐納にはっきりと言われて解りきっていた事実がいまさら重く伸しかかったようだった。
……覚悟が、足りなかったのでしょうか。
否応なく首を垂れたメリアに、謐納が加えて述べる。
「わたしが申したのは飽くまで現状のこと。問題あらば解消すべし」
謐納が天井を仰ぎ、「納雪はあなたに懐いておりまする」
「あ、はい……」
メリアにも理由は解らない。それはそれとして、「……あれ、なんでそれを」
初対面の謐納は必然的に今日帰ってきたはず、と、メリアは思ったが、
「わたしは姉妹で最も早くこちらに合流しておりましたので」
「(全く気づきませんでした。)今までどこにいたのですか」
「村や森、周辺地域で魔物の警戒を。湯をいただくため家の中にいたこともありまする」
……全く気づきませんでした。
家の中のオトがときたま異次元な移動をしていてメリアは驚かされることがあった。謐納にも同じような才能があるのだろう。
家族の和に加わろうとしているメリアを密かに観察していたのか、謐納がこう言う。
「あなたは悪人ではないと納雪は判断した。あなたには母親の素質があるのでしょう」
納雪が懐いたのはそれゆえ、と、いうことか。音羅を傷つけたことが事実でも経験として活かせばいい、と。
(羅欄納さん、わたし……)
(謐納ちゃんの指摘通りの失策でした。経験を活かすことでひとは成長できます)
(死者で、悪神でも、そうでしょうか)
(意志あらば同じです)
消沈してしまっていたメリアも、意志を失ったわけではない。
(羅欄納さん。踏ん張りますから、もう少し見守ってください)
(はい)
魂の彼女に支えられて、メリアは謐納を向き直る。
「納雪さんに第二の母親であるようにいわれて自惚れていたのだと思います。意地を張らず交替を受け入れるべきでした。でも同時に、羅欄納さんのように、わたしは母親になりたい。そうなれるように努力したい。謐納さん。頼りないわたしですが、観ていてくれますか」
「竹神家の一員です。皆が観ておりましょう」
母親に相応しいかどうかは別問題。父であるオトに関わる女性として、同じ屋根の下に暮らす家族として、謐納は迎え入れてくれていたということだ。その謐納の観察によれば、謐納以外の娘も同じように受け入れている。
……やはり、皆さん、とても優しく、寛容なのです。
まさしく、オトとララナの子だ。
そう思っていたから──、治療を終えて元気になった音羅とみんなで昼食を摂った後、遅れて竹神邸に合流した七女刻音の態度にメリアは戸惑わざるを得なかった。
メリアが表に出るまでの経緯を聞いた刻音の第一声は、
「お母ちゃんに会えないのは嫌です」
であった。「なんでお母ちゃんがお父ちゃんとの時間を削ってまで体を貸さなきゃいけないんですか。意味が解らない……」
メリアの前世での事情に続いて現世でララナを救った側面もあったことを粗方聞いての、その意見だった。
横座のオトが木尻の刻音に厳しい目を向けた。
「羅欄納や家族のためになることやよ。それを理解できんほどお馬鹿さんやったん」
「むうぅ……理解はできるけど受け入れられないんですぅ」
刻音がメリアを睨むようにして言った。「大体、気持悪いよぅ、さっきから髪色がコロコロ変わっているし、得体が知れない……」
納月や夜月も髪色のことを突っ込むことはあったが、嫌悪感を顕にして拒絶までしたのは刻音が初めてだった。
……これが、普通ですよね。
メリアには厳しい現実だが、裏を返せば刻音に取って受け入れがたい現実が目の前にあるということ。相対する考え方や衝突する気持があることを受け入れなければ、相手を理解し、仲を深めることはできない。
「刻音さん。その、髪色についてはどうしようもありませんが、そのほかのことで駄目なところは直していこうと考──」
「どうしようもない?神様なら肉体変化でどうにでもなるはずなのに」
「……」
メリアはあえてそれをしていなかった。
「刻音は」
と、オトが無表情で指摘する。「ひとに気に入らんといわれて姿をころころ変えるん。自分を棄てられるなら簡単に変えられるかもね」
「……そんなの屁理屈です。前向きに変えてほしいだけですよぅ」
「自分の意見は屁理屈じゃないとでも」
「相手を想えば姿くらい変えられるってことですよぉ」
「じゃあ今すぐお前さんの姿を変えろ、目障りだ」
「むぅうっ、お父ちゃんのことなんか想ってない。刻は変えないもんっ」
「屁理屈やな。不快な俺の気持を思えば変えられるやろ。お前さんはメリアにそれを強要しとるんやぞ」
「むうぅううぅ……」
拳を握って眉を集める刻音。オトの言葉通りの状況ではあるが刻音を追いつめても好転しない。
「音さん、そこまでに──」
「刻はお母ちゃんを返してほしいだけ。あなたは刻のお母ちゃんじゃないもん」
メリアの言葉を遮って刻音が訴えた。「できないんですか?駄目なところを直す気でいるっていいかけてましたよね。噓つき!」
突き刺すような目差だった。
……、これは……。
刻音の表情には拒絶しかない。それもそうだろう。知らぬ間に居座っていた奇妙な母もどきと仲良くするよう言われて、新たな家での家族との再会を愉しみにしていた刻音は気持を裏切られたのだ。受け入れたほかの七姉妹が稀有で刻音の態度こそ普通。七姉妹の寛容さに慣れきって、至極普通の感情を向けられたことにメリアは衝撃を受けてしまった。
(羅欄納さ──)
メリアがララナに交替の意志を伝えるのを妨げるようにオトが話す。
「刻音らしくないね」
「どこがです?お父ちゃん、お母ちゃんのこと棄てるつもり?」
「阿呆か。いや阿呆やな、理解しながらくだらん問掛けを続けるんやから」
「くだらないことないもん。受け入れられないことなんだから」
「さっきメリアが話したように交替は周期的に行う。羅欄納が追いやられとるわけでもないし一生会えんわけでもない。なのになんやかんや文句ゆうんやからくだらんやろ」
「くだらんくないっ。お母ちゃんに会いたいだけなのに聞いてくれないこのひとが悪いっ」
不毛な言い合いになっている。
「音さん、いいのです。羅欄納さんに交替します。それで丸く治まることですよ」
「穏便に済ませたいわけじゃないからいいよ」
「え……」
オトが刻音を見やる。
「この際やから歪んだ根性を矯正したるよ。世界を旅していろいろと学んだはずが、家に帰れば甘えることしかできん阿呆には再教育が必要やよ」
「お父ちゃん、本気?」
刻音が怪訝な表情である。「聞いていた話と違う……」
……聞いていた話、ですか。
(悪魔の手段のことやろ)
オトが伝心を寄越した。(魂器過負荷症の寛解行為として視野にあるが飽くまで最終手段。ここだけの話、代替の手段ができたことを姉妹に伝えたって謐納から報告があったし、もう必要ないと刻音も判っとるやろう。ついでに、怠惰な生活を約束した憶えはない)
(ですが、刻音さんはきっと愉しみにしていたでしょう)
オトの推測が正しいなら、刻音がララナと会いたがっているのは今は不要な寛解行為の承諾を得たいからではないか。
(朝もいったが刻音は羅欄納を極振りしたような性格で親と家族への思い入れが特に強い)
その影響で刻音には寛容さが欠けている、と。
ララナの承諾を得て体を借りたメリアでも、刻音本人に家族として認めてもらえないと打ち解けてはもらえない。
その日は結局ララナと交替し、刻音の溜飲を下げるほかなかった。
それで諦めたのでは当然なかった。が、視界に入っただけで「消えて!」と怒鳴られる始末で──。
刻音の態度を軟化させようと時折ララナが話を振ったが、そのたびにあからさまな話題変更をされてしまって取りつく島もなかった。一方、有言実行のオトが火に油を注ぐばかりで刻音との関係が悪化するにとどまらず、厳しい姿勢が気に障ったか、オトに対する竹神姉妹全体の空気まで重くなってゆいた。
ときに強情なオトのことであるから刻音が態度を改めない限り優しく接しないだろう。すると竹神姉妹の空気と刻音の反発が悪化、さらなる悪循環に陥る。メリアはララナとともにオトの説得に掛かったが一向に応じてもらえなかった。
竹神姉妹、オトとララナの子である八人の娘は各各の仕事探しや趣味の時間を持っている。過日ハンタ証明書を獲得した鈴音、謐納、刻音、それから音羅は朝食後に外に出ることが多くほかの姉妹は家の中や村の中で過ごすようになった。みんな揃って食事を摂るのが竹神家であるが、ここのところはさっさと済ませた刻音が謐納を引っ張ってハンタ業務に出てしまう。同業を続けているメリアも追うように済ませて席を立つが、向けられた拒絶感を吞み込まざるを得ず、家に戻ってきた刻音とも言葉を交わせなかった。夕食後は居間にとどまる者が少なく、メリアはオトと二人きりになることも多い。
手を拱いていられない状況、と、いうほど竹神家は切迫していない。戦争のように命を懸けた出来事ではない。重い空気は誰も殺さない。しかしながらこれを放置しては竹神家が崩壊してしまう。メリアはそんな危機感を覚えた。そのきっかけを作ったのは余所者の自分であるという自覚が日を経るにつれて強まったのだ。
──前進どころか後退。関係改善の糸口を摑めないまま刻音合流から約二週間が経ち、二人きりとなった夕食後にオトがふと言ったのだった。
「駄目やな、こりゃ」
「……ごめんなさい、わたしのせいです」
「なんか勘違いしとるやろ。空気のことじゃないよ」
てっきりそうだと思ってメリアは謝ったが。
オトが湯吞片手に、
「少しは成長するかと思ったが、危機感もなんもないんやもんな」
「家族崩壊の、ですか」
「や。『このままでは祝われないかも』ってね」
「お祝い……。もしかして、刻音さんのですか。なんのお祝いですか」
「誕生日」
「──」
それ以上の説明など必要がないほど重要な日だ。
「八姉妹が結束しとるわけじゃないのに空気が変わる兆しもないし、改善しようとする動きも観えん。家族全員がここに揃って初めてやる祝い事は別のことにしよう」
「待ってください、それは、かわいそうです」
「あれから刻音は羅欄納に甘え倒しとる。メリアにはどうなん」
「目も合わせてくれません……」
「やろ。子なら子らしくみんなに甘えろってのに」
「音さん、じつは甘えてもらえなくて寂しいのですか」
「甘えるタイプやから甘えられるのは嫌」
公言する辺りがオトらしい。「甘えん坊のくせに相手を選ぶなんていい度胸やよ。徹底的に理不尽な対応をしてやる」
「っふふ、大人気ないですね」
メリアにもララナにも甘え倒しているオト。彼が彼らしく存るなら自分がいても竹神家は揺るがない。そう信ぜられたからだろうか、メリアは頰が緩んだ。音羅の怪我と二週間の変化で弱気になっている部分もあるが、メリアはまだ膝をつかない。
緩んだ頰を引き締めて、メリアは問う。
「子どもが子どもらしくあるために親は親として接するべきではありませんか。親まで子どもに逆行したかのように接して、子どもはどこを頼るのですか」
「俺は思う通りに振る舞うだけやよ。刻音が気に食わん、とね」
「なぜそこまで強情に」
「好いた相手を拒絶されてなんで寛容になれる。俺は親である前に伴侶なんよ」
……アデルさんを否定されていたら、わたしも音さんと同じ態度を執っていたでしょう。
主神時代にアデルを嫌う者はほぼいなかった。ひとびとのために働き続けていたアデルを称賛する声がメリアは誇らしかった。誇りを踏み躙るような罵詈雑言が聞こえたら神経が過敏になって仕方がなかっただろう。刻音を含めて八姉妹もアデルを嫌った様子はなかった──。
オトのやり方は幼いがメリアは嬉しくもあった。彼の目は本気なのである。そこには、言葉通りの気持が入っている。
「巡り巡る星の欠片に新たな星ひとつ」
「それは」
「独りの星、群れる星、揺蕩う星に爆ぜる星、さまざま結構されど集う星系」
「カゾクボシ……家族の星ですか」
「星系を充てた」
「星系……」
特に説明もなく始まるオトの詩的発言は、何を暗示しているのか。星系を家族に喩えていることは間違いなさそうなので、独りの・群れる・揺蕩う・爆ぜる、それぞれの星は家族を構成する人物を指しているのだろうが、省略しているためか数が合わない。
……爆ぜる星──、
二つの星を破滅させたメリアは、その星が引っかかってしまった。
……その後、弾き出されたり破砕される可能性のある星への言及は……。
情緒がなさすぎるので控えよう。幼くロマンチストな部分もある、そのくせ現実主義を自称する彼にメリアは現実的な目線で答える。
「纏まらなければ、家族とはいえませんか」
「独りの星が拒絶せり。されども夜闇に集う星」
太陽のような恒星を一つ持つ星系でも、その星系に属する全ての星の半面にしか光が当たらないとするなら半分の時間が夜、と、いえるだろう。それでいて夜闇に絞って集う、とは、どういう意味だろうか。それに独りの星とは、姉妹の中でもやや浮いた印象の刻音のことか。それとも重い空気の中心にいるオトか。先の〈爆ぜる星〉が今はその準備段階、つまり圧を上げて熱を上げている段階であるとするなら、そこに刻音が当て嵌まりそうなもので、消去法的に〈独りの星〉はオトになるが、それだと、恒星は誰だ、と、いう話になる。おまけにその恒星がなくなるかのような夜闇の表現である。仮に独りの・群れる・揺蕩う・爆ぜる星が判っても比喩としては間違っているのでは──。
あれこれ考えてみたメリアは首を垂れた。
「唐突に意味が解らないのです……」
「要するに、」
解説するでもなくオトが答を告げる。「俺は誕生日祝いをせん。相応の罰やろう。まあ、羅欄納は祝うんやろうからそれを止めるつもりはないが」
「音さん……」
「……」
口にしたからにはオトは揺るがないだろう。刻音はオトに祝われない。
オトは家族の自主的行動を制限しない。メリアに対しても同じ姿勢である。
まともに言葉を交わしたことがないが刻音の不憫をメリアは看過できない。オトの変化を促すより、八姉妹に働きかけるほうがよほど早いように感ずる。
「刻音さんの誕生日はいつですか」
「六夜後。惑星アースでいうところの来月一日ね」
惑星アースから神界へ移れども盛大に祝われるべき日。家族への気持が強ければなおのこと軽んぜられたくないだろう。
「わたしは、刻音さんを祝いたいです」
「拒絶されとるのに」
他神界との交流など予測もつかなかった頃、海底都市を築いて間もないメークランで、初めて生まれた赤ちゃんを視て親が悦び、祝った。苦労続きで日日疲れた顔だった民が、そのとき見たことのない笑顔になった。いつ時化に吞まれるか知れない自分達に、両手に収まるほど小さな命が希望を観せてくれたのだと、メリアもその命を視て実感した。幼いその手では何もできないとしても、決して無力ではない──。
「生まれてくれたのです。それだけで尊いことなのに、生きていてくれるのですよ」
「そうやね」
「(──。)拒絶されているからといって否定したくはありません。祝福されるべきです」
「べきというのが設計とは思わんの」
「っ、その可能性は、ないわけでは……」
「つんのめるな。自分を見定めろ」
オトが問う。「お前さん自身が、本気でそう思っとるん」
鋭さに、温かさが潜んでいた。
仮に設計だったとして、否定したくなるような宿命や運命づけと異なるのなら、自分のものとして受け入れてもよいのではないか。
メリアは、小さくうなづいた。
「刻音さんは音さんと羅欄納さんのおもいの結晶。命であることもそうですが、お二人の子だと思うとなおさら愛おしく、尊いと感じます」
創造神アースが表立って存在せず俯瞰されることもなく嘲笑われることもなく新たに認識を歪められることもなくなった今、メリアが守りたいのはオトとララナ、そして八姉妹である。
解り合いたい。祝いたい。刻音に限らず、八姉妹に対してメリアはそう思うのである。
「音さんは動かないのでしょう」
「ん」
「わたしの動きを止めないのですね」
「刻音の誕生日は羅欄納に交替しとる日やよ」
逆算済みのオト。「それでも動けると」
「やろうと思えばできることはいくらでもありますよ」
と、メリアは前向きに答えた。
オトが湯吞を仰ぐ。
「あの阿呆には無駄な努力やと思うけどね」
「諦めていては何事も成せません」
「じゃあテキトーに頑張って。俺は口を出さんよ」
「はい」
刻音の誕生日は六日後。メリアが動けるのは残りわずかな今日を含めて四日間。誕生日はララナに委ねることになる。ネックは多いが情報共有でララナにはいくらでも根回しができる。問題は八姉妹への働きかけだ。刻音以外は際立ってメリアを避けているわけではなかったので接触自体は簡単だが話し合いに応じてくれるかは未知数。
早速立ち上がったメリアだが、
「今日は遅い。お風呂あがったら寝なさい」
と、オトに言われて思考を巡らせるのみとなった。焦りはあったが夫婦の営みがなく思考に集中できた。口ではなんだかんだ言うもののオトも積極的に誕生日を祝おうとしているのか。ついそんなふうに捉えてしまうがメリアの行動を妨げないためとも取れる。味方してくれているときは気持を明確に感ぜられるのに、刻音に対してのオトの気持ははっきりと摑めず心細く感ずるメリアであった。
意識が飛ばず朝を迎えたのは希しくて物足りなさを覚えるも、やるべきことのためメリアは立ち上がった。
(──。さて、羅欄納さん)
(そろそろ朝食の時間でしょうか)
メリアが闇の殻の中にいたときのようにオトが夜を通じてララナの精神を支えている。これまでもそうであったように、オトは常にララナとメリアを抱擁しているのだ。昨晩はそれがなかった。起き抜けの物足りなさはララナの気持でもあるのだ。
(ごめんなさい、わたしのために昨日の夜伽が……)
(メリアさんと娘のことをゆっくり話せて愉しかったですよ)
誕生日を祝うため八姉妹に働きかけたいとメリアが伝えた昨晩、ララナが快く相談に乗ってくれたのである。
(音さんは考える時間をくれたのだと思います。わたしが頭のいいほうではないとご存じだからでしょうね)
(娘の合流は決定事項だったので、刻音ちゃんの誕生日を私から話しておくべきでした。私の不備にもオト様はフォロを入れてくださったのでしょう)
頑な拒絶姿勢を崩し得る誕生日というイベントを、問題の発端であるメリアに加えてララナに企画・運営させようとしているとしたら、家族をよく観ているオトらしい対応だ。
メリアは居間で結師に髪を梳いてもらい、クムを台所に連れてゆくと、ヴァイアプトの燈の下で朝食の準備を進めてララナと話す。
(音さんが積極的に参加しないのは、どうしたことでしょう)
(「この際だから刻音の歪んだ根性を矯正する」と、オト様は仰ったのでしたね)
(はい)
伝えたほうがいいだろうことは可能な限り正確に──オトの口調も相俟って一言一句違わずというのは難しいので──メリアの解釈でララナに伝えている。
(言葉がお心のままなら、オト様は状況を限定していらっしゃります)
(状況を限定ですか)
(この際というのは、誕生日祝いをする上で、曰く歪んだ根性が邪魔ということです)
(では、刻音さんの根性をどうにかすれば音さんも積極的に参加してくれると)
刻音が誕生日を一番に祝ってほしいのは父オトだろうから、なんとしてもオトを誕生日会に参加させたいが、
(簡単ではございません。オト様も何かと手を尽くされましたが刻音ちゃんの性質は未だ大きく変わっておりません。オト様も半ば断念したことをあと五日で成し遂げなくてはならない、と、いうことです)
昨晩もそれを聞いてメリアは頭が痛くなりそうだった。刻音は今年一三歳になる。ララナによれば人間の成長過程で一番親の言うことを聞かない反抗期というものに突入している。そんな刻音を、選りに選って嫌われているメリアが教育し直さなくてはならない状況なのである。刻音に好かれているララナの協力があったとしても短期間で成果を挙げられるかどうか。
(従って、構想中の誕生日会にオト様をお招きするのは困難であり、見送りまたは保留にせざるを得ません。それを踏まえて行動あるのみです)
ララナとともにメリアが企画した誕生日会だと知ったら、刻音は素直に愉しめないだろう。だからメリアは隠密に行動して刻音以外の姉妹に協力を呼びかけなければならない。場合によっては呼びかけをララナに任せて、当日の出し物などを考える係に徹する。誕生日は来年もやってくるので、仲を深めるため年単位の努力も惜しまない覚悟だ。
協力を呼びかける順番に関するララナの助言はこうだ。刻音はもとより、メリアに少しでも反感を持つかその可能性がある納月、子欄にはララナが対応するか間接的に働きかける。反感こそ持っていない夜月は動きが読めないところがあるので様子見。納雪はメリアに好感を持っているが真正直で密かな連携には向いていない。残りの三人のうち謐納はいつの間にか家を抜け出していて見つけるのが困難であるから見つけ次第協力を呼びかける。あとは消去法だ。
(予定通り訪ねましょう)
(わたしへの接し方に加えてお祝い事にも積極的な音羅さんは協力してくれる可能性が最も高いので最優先。謐納さんは口が堅く秘密裏の連携に向いているので優先度は音羅さんに匹敵。放任主義の鈴音さんは悪くいえば協調性がないものの姉妹想いで誕生日会に協力してくれる可能性が十分あるため、音羅さんの勢いに任せて説得したい、でしたね)
(重ねていいますがまず音羅ちゃん、次に鈴音ちゃんに呼びかけます。鈴音ちゃんは中立を意識して動く子なので強く押していく必要がございます)
(はい。あ……)
粗方の確認を終えたところで、階段を下りてくる足音が聞こえた。朝早い時間に起きてくるのは大体が子欄、鈴音、納雪。台所の壁の向こう、廊下を抜けて食堂に入ってきたのは、
「おはようございます、子欄さん」
「おはようございます。今日も朝食ありがとうございます」
台所から顔を出したメリアに笑顔で挨拶したのは長い黒髪の美しい三女子欄。
「今日の朝食はなんですか」
と、台所を覗いた子欄に、メリアは大鍋を示した。
「味噌汁です。グリルではアジの開きを焼いています」
「揺るがぬダゼダダの朝食。落ちつきますね。朝はやはり味噌汁に焼魚、お米は──、炊いている最中ですね」
「はい」
クムのサポートもあってメリアはララナから教わった炊事が身についてきた。必要に応じて聞いたレシピを再現できるほどに慣れもした。ほかの家事で離れたときは、火加減を観てくれるクムの呼掛けに急いで対応すればよく、失敗しても問題は最小限で済む。
「みんなが揃ったときには蒸らしも終えていますよ」
「さすがですね」
子欄がメリアを一瞥して、「顔を洗ってきます」
「はい、またあとで」
子欄が洗面所のある西廊下へ戻ってゆく。台所には、わざわざ来たことになる。
……そうは感じませんが、警戒している部分もあるのでしょうか。
心の中のことは判らない。音羅と同じように友好的な子欄だが、ララナによればメリアに反感を持ち得る。
台所に戻ろうとしたところで、東廊下から玄関へ向かう影。メリアは、声を掛けた。
「おはようございます、謐納さん」
謐納の姿はめったに見られない。順番が前倒しだが協力要請のチャンスだろう。
「(今日は、で、いいのでしょうか……、)早いですね」
「おはようございまする。わたしは平時のままですが」
「そう、なのですか」
足音も気配もない。まるでオトのような動きであるからこれまで見逃していた。
「散歩ですか」
「森の空気が清清しい。殊に朝は素晴らしく、心地よい目覚めとなりましょう」
その昔のメークランやトリュアティアにはなかった空気が、モカ村にはある。
「その模造刀で稽古をするのですか」
「素振りが日課です。メリア殿もいかがです、と、誘おうにも朝は暇がないでしょう」
「ごめんなさい。もっとてきぱきできれば……」
「自身のペースでなければ身につきませぬ。此にて失敬」
「はい。あ──」
話が切れて背を向けられてしまった。ここは無理にでも素振りに付き合うべきかとも考えないではなかったが、自分のペースを乱していることを見抜かれるだろう。
「魔物もまだ活性化している時間ですから気をつけていってらっしゃい」
「クム殿がいれば無問題でしょうが、メリア殿も火の元にご用心ください」
「はい、気をつけます」
無表情ながら謐納も拒絶することなく会話してくれる。メリアはそのことに安心しているが鈴音と似て協調性が欠けているのか考えが読みにくい。協力要請のタイミングを逸して、呆気なく背を見送ってしまった。
(解っていたことですが簡単にはいきそうもありませんね)
(諦めず参りましょう。最優先は依然として音羅ちゃんです)
(そうですね。前向き、前向き、です)
台所に戻ったメリアは大鍋の具材が煮えたことを確認して火を消した。炊飯は半ば。やることが多いので洗濯物を分祀精霊に任せてアジの焼き具合を見つつひとまず休憩だ。家の窓が開いていて風通しがいいので謐納の話していた清清しい空気を感ぜられる。
……時間が許せば散歩しましょう。
洗濯を手抜きしても朝は炊事と掃除に追われる。昼は音羅や鈴音と仕事をするため森を抜けるが散歩ではない。買物の道中が散歩といえなくもないが、日が昇るか否かという早朝、歩くためだけに外へ出ることがなかった。
「行ってきたら」
とは、いつの間にか現れたオトが後ろからそっと抱き締めて言ったのだった。
「音さん、(あったかい……、っと、ちょっぴりの触れ合いで腑抜けていてはっ!と、いうか音さんこれは確信犯的誘惑ですね!)
「なんで怒っとるん」
「いいえ怒っとりませんおはようございます」
「怒っとるやん、おはよう。必要なら行ってきぃ」
「朝食の準備を投げ出せません」
「クムと一緒に俺も観とくよ。ま、羅欄納達ほど細やかにはできんけど」
「ご謙遜を」
オトならそつなくこなすだろう。「わたしはみんなの母親になりたいのです」
「自分を犠牲にして」
「──。好きでやっていることです」
「散歩せんの」
「まだ早いのです」
「早いとは」
「家族の一員と全員に認められていませんから」
踏ん張りどき。息抜きならあとでもいい。
「息抜きだらけの俺がゆうのもなんやけど、それ、自沈するぞ」
「……そんなに簡単に沈みません」
「簡単ではないやろうけどね。これは、いつぞや誰かがいったっけ」
「はい、なんでしょう」
「曲がった背に安心して頼るか、とね」
「余裕が、なく、観えますか」
「うん」
何せ、あとがない。竹神家に波風を立てているメリアは崖っぷちである。なんとかして刻音との関係を築かなくてはならない。
「悪い癖やな」
「わたしのせいで波風が立っているのですよ。それを抑えるチャンスは──」
「お前さんがほしいのは偽りの平穏か」
「え……」
「戦争に直走った羅欄納と今のお前さんは、全く同じやな。目的が掏り替わっとることにそろそろ気づきなさい」
「……」
「足下ぐらぐらな気持で祝われても誰も悦ばん」
「……、……」
反論の余地がなかった。
みんなに自分を受け入れてもらい、子を作れる環境。それを得るために波風を立ててしまうと予測したこともあった。そんな環境までまだまだ遠いのに、家庭崩壊を招きかねない波風を立ててしまっていたことに気づいたから、
……わたしは、焦っています。
望みを叶えてくれるはずの竹神家を混乱させて、このままでは不幸にまでしてしまう。
(外へ行ってきぃ。ここは観とく)
(……、お願いします)
(気をつけて)
オトの伝心に背中を押されて家を出たメリアは、村に満ちた森の空気を胸いっぱいに吸う。
「……ああ、本当に──」
深呼吸には解放感があった。森を仰げば眼が癒える。気づかぬうちに全身を支配していた緊張感がすっと抜け落ちて体が浮き上がるような心地もある。
……。
歩き出すと、ひんやりと心地よい空気が血の巡りに乗って総身に行き渡る。思考が冴え、心が鮮明になる。
(この村は、この森は、──ニブリオを思い出します……)
その手で滅ぼした大自然、共生するひとびとと動物の気吹。取り戻せないものが、ここにもたくさんある。
(優しい土地、優しい空気、優しいひとびと。それなのにわたしは、本当は、……恐いです。音さんがこの村を選んだのは、きっとわたしへの罰とするためです)
(過去は、現在でもって乗り越えるほかございません。変えられない過去は飲み干すぐらいでなければ自らが吞まれます)
ララナが問う。(緑に蘇る過去を飲み干し、堪え、立ち上がれますか)
(判りません……。恐いとだけはいえます。ただ……)
冴え渡る思考は、心に応えている。(最初に訪れたときよりも前向きに考えられるような気がします)
狂気の過去を思い出すことで、同じ過ちを繰り返さないと誓うことができる。海の広がる故郷では得ることのできなかった戒めが強みになってゆく。
(羅欄納さん、わたしは……)
(はい)
(わたしは、羅欄納さんのような母親になりたかったです)
(刻音ちゃんのこと、断念しましたか)
(いいえ)
母親となるべく、メリアはララナから教わった料理を一所懸命作って掃除や洗濯をして、ララナのようになろうとしていた。ララナの居場所を借りているからそうするのが正しくそうするほかないとも思っていた。けれども、オトに言われたように無理をしていた。自覚なくだ。それもそう。メリアはメリアであってララナではない。母親という立場を借りることもできないし、慕われる母親でもないし、そもそも八姉妹の誕生に立ち会ってすらいなかったのだから。といっても、断念などするつもりは毛頭ない。
(母親になりたい気持に噓偽りはありませんが、羅欄納さんに成り代わりたいのではないのです。わたしはわたしらしく、わたしとして、竹神家の一員になりたいのです)
出逢った日に謐納が言ってくれた。
──メリア殿は母上ではありませぬ。
窮地を救われた直後であったから戦闘に関してのことだとメリアは捉えていたが、それだけと捉えるにはもったいない言葉ではないか。謐納のみならず多くの姉妹は個を尊重している。ララナのような母親にならんと懸命に働くメリアを不憫に思ったに違いない。自分を見失ってつらいのではないか、と。
(この森が、戒めが、気づかせてくれました。いつから掏り替わったのか、と。ただ受け入れてほしかったのに、と)
(体を借りることが救いであると同時に重荷になっていた。ですからメリアさんは謝りながら時間を過ごしていた。そのことに、私がもっと早く気づくべきでした……)
体を貸してもらうことでララナへの配慮が働く。時間を奪っている身だからララナのためになることをしようと心懸ける。その心は決して間違いではないし、悪しきものでもない。が、それで自分を押し殺したり、自分を見失ってはゆけない。
(羅欄納さんの責任ではありません。でも、今後、何か気づいたときには教えてもらえたら嬉しいです。絶対に活かして、なんとかしたいです)
方策を思いついていないものの、心から前向きになった。
(メリアさんは存外音羅ちゃんに似ているのかも知れません。考えるより行動するほうが得意そうです)
(そうですね)
先先を考えて働く必要があって主神時代は知恵を振り絞ってやっていた。両親や妹、配下たるひとびとに力を借りて。
(メリアさんがメリアさんらしくあるためには、直感で動くのがいいでしょう)
と、ララナがアドバイスをくれたので、メリアはうなづいた。
……直感。それはそれで難しそうですが、やってみましょう。
刻音の拒絶感を拭えず打開策も閃かなかったのだから、思うまま行動したほうが変化を得られるだろう。
村を一周する間メリアは何も考えず頭を空っぽにした。
竹神邸が見えたところで、森に出向こうとしていた早起きの納雪と出遇った。
「メリアおかぁさん、おはようございます」
いつものように挨拶しながら飛びついてきたのでメリアは抱き止めた。
「おはようございます、納雪さん。霜の観察ですか」
「モカはすごいんです。四季があるというのが本当らしくて、ダゼダダでは考えられないことで、朝は毎日のように霜が観察できるんですよっ、すごいんですっ」
スケッチブックと筆記道具を握り締めて熱弁する納雪である。家の中では寡黙だが、観察のこととなると饒舌である。
「そういえばおとぉさんがキッチンに立っていました。メリアおかぁさんは散歩ですか」
「はい」
「もしかしておとぉさん、なんか悪いことしたんですか」
オトの調理をお仕置きと捉えたのか納雪が首を傾げたので、メリアはどきっとした。
「音さんは何もしていません。どうしてそんなふうに思ったのですか」
「おとぉさんがキッチンに立っているなんて初めて見たような気がして」
「初めて、ですか……」
アジの開きが心配だ。
……って、音さんなら要領よくやってくださる、はず。
ララナの制止もないし。
……クムさんもいますし。
小柄な彼女のサポートは主に言葉だが。
……。
心配だ。「納雪さん、一人で大丈夫ですか」
「大丈夫です、うんっ」
納雪が指先をふわり、雪の結晶を作った。「いざとなったら魔法でなんとかします」
「氷魔法ですね」
納雪が氷属性魔力を持っていることは判っていた。詠唱もなく魔法を操れるということは、並外れた素質がある。
「足下の植物と、くれぐれも魔物に注意してくださいね」
「はいっ」
元気に返事をして森に駆けてゆく納雪を見送ると、メリアは家に急いだ。
「ただいま戻りました」
と、挨拶すると台所に直行、「魚はっ無事で、すね」
「衝突を恐れん勢いで台所に飛び込んでこられるほど信用がないとは」
額を押さえたオトの前には、綺麗に仕上がったアジの開き。二つあるグリルに次が置かれ、適切な火力に調節されている。
「音さんがキッチンに立っているところを見たことがないと納雪さんがいったので少し心配になりました」
「ゾーンに入ったような素早い動きで心配が少しとは随分ごまかしたね」
「モカ村は内陸部で川も少ないので水産資源は貴重です。いかに音さんでも無駄にしてはメッなのです」
「さすがは元主神、資源管理が厳しいね」
オトが唇を尖らせている。いじけているのだろうか。
「ごめんなさい、正直、かなり心配しました、焦がしているのではないかと。羅欄納さんが音さんは料理も上手だと話していたのに、なんだか居ても立ってもいられなくて」
「そう」
オトが微笑し、振り向いた。「髪色と顔色よくなったね」
「あ……」
「それでいいんよ」
全てを見通しているかのようにメリアの頭をそっと撫でて、クムを連れたオトが食堂のテーブルについた。
「俺はクムと蜜柑ごっこするからあとはよろしく」
「はい。(羅欄納さん、蜜柑ごっこってなんでしょう)」
(はて、私も記憶にございません)
(ふふふ、音さんらしく、テキトーですね)
(っふふ、ええ、恐らくテキトーです)
ララナの代り。その側面もあるが、台所に立ちたいから立つ。
「わたし、音さんの妻として再出発します。みんなの母親に、なってみせます」
家族の一員と認められた上で。
「表情もよし。その調子やよ。気楽に頑張って、メリア」
「はい、頑張ります」
ここは海水牢でもなければ闇の檻でもない。支えてくれるオトやララナがいる。母と慕ってくれる納雪もいる。分祀精霊のみんなも力を貸してくれる。最良とは言えない状況でも、心強い味方がたくさんいる。その心に応えて、和に融け込みたい。
……立ち向かわなくては、もったいないです。
焦りはあるのに余裕がある。方策はないのに自信が湧いてくる。清清しい朝の空気を取り込む散歩は、心に絶大な効果があった。
皆で囲む食卓を彩るため、メリアは改めて台所に立った。
「さあ、気合を入れ直しましょう!」
──八章 終──