七章 喜怒
闇の殻の中で彼女と長話をする日が訪れるとは思いもせず、じつは機会が訪れることを心待ちにしていたことを、それから、過去の多くの後悔や罪悪感や彼女の知らない裏側を、時を掛けて、メリアは切切と語った──。
彼女ララナは、どれも真摯に聞いて、理解してくれた。驚くことはあっても怒らず、ときに自分の非を認めて受け入れた。肉体の主導権を定期的に渡すという彼女の提案はさすがにメリアも気が引けた。笑顔の彼女が手を引いて、背中を押してくれた。彼女の意志の固さを示すように、メリアは自然に海底から浮上した。闇の殻を飛び出したときには、久しく感じていなかった光に押さえつけられるようで、細い視界が木枠と灰色をしばし彷徨った。独特な木の香りと闇の中の羽織を感ずる。これから暮らしてゆく小さな村は蒼蒼たる森に包まれていた──。
自由と引換えに感ずることのなかった疲労があった。そんなときは、彼女のお菓子をいただいて心をほぐし、彼オトの抱擁に身をほぐした。心と体を包まれることの効能は際立って高くどんな疲労感も逃げ出してゆくようで、それでも足りない、と、建前を用意する欲張りな心をぶつけると、思う以上の高揚と束縛をもらって前世の不満も消えてゆいた。朝も、昼も、夜も、彼女らの心と体がメリアを癒やして、海辺の暖かさで包み続けた。
メリアが我慢せずに済むよう、オトを魂に転移させたり肉体の主導権を渡したりしてララナは一箇月半を過ごした。その間にメリアとやり取りして判ったことがある。悪神討伐戦争突入及び末期まで妹黎水とメリアが言葉のやり取りをしていたということと、それを踏まえて同戦争末期メリアがララナの肉体の主導権を奪ったのは仲間を蘇生させた反動にララナの肉体が耐えられず崩壊しかかっていたためである、と、いうこと──。蘇生効果に加えてメリアの持つ負媒によって強化したことで肉体は崩壊を免れたのである。一方で、負媒の鍵となっている邪心の増幅でメリアは狂気に吞まれてしまった。さらには負媒を解いたあと蘇生効果の延長で肉体が凍結されるという不測の事態が発生してしまった。それに関連して、前世より五感が鈍っている、と、肉体を借りたメリアが感覚を伝えてくれた。全耐障壁の効果で発汗するほどララナの体が再生したとオトが観察したことがあったが再生は極めて緩やかで依然としてヒトとしての体温はないに等しい。汗の正体は、体温のあるオトが触れたことで発生した結露であり、肉体再生は完全ではないということだ。
善意と我慢強さを兼ね備えた神とは言っても、悪神として創られ、邪心を高めなければ最大限の力を発揮できないメリア。その彼女が自らの意志に反するように邪心を高めて救ってくれたことに感謝したララナだが、対話の機会が増えて彼女が自責の念を吐露するたび、感謝以外の言葉を掛けられないことに不甲斐なさを覚えたのだった。
──わたしこそ、あなたに感謝しなければなりません。
と、メリアは言った。アデルの現在を教えてもらったこと、オトと引き合わせてもらったこと、肉体主導権奪取の過去を許したもらったこと、そして感謝してもらったこと。メリアは責任感も強くララナに甘えている現状が申し訳ないようだった。星を滅ぼした罪が彼女を消極的にさせているのは言うまでもない。
生きていればどうしようもない罪を背負うことがある。メリアだけではないのだ。ララナにもオトにもそういう罪がある。問題は、罪とどのように向き合い、どのように生きるか。
前向きに生きようとすれば必ずメリアの罪は重く伸しかかるとララナは考えた。機織りの音と子どもの声が響くおやつどき。羊羹を食べたオトがお茶を一口飲んで囲炉裏の木炭を眺めて言ったのは、実質、メリアは償いようがない。別の神界に出向していて助かったニブリオの民も今はその土地に根づいて子孫を遺している。創造神アースの捏造した記憶によってジーンがメリアを殺害したと認識しているひとびとは合わせて二ブリオ滅亡もジーンの仕業と認識している。ニブリオ滅亡の真実を吞み込ませることはできず報いる方法もなくメリアの償いは自己満足にもならない。
時が流れたことによる罪の消失といえば間違いでもない。けれどもメリアの罪の意識が晴れるはずもない。罪の意識は責任感の強い者を自滅させかねない。償う必要性が失われていたこの事実が示唆しているのは、生き残ることを想定されていた頂点トリュアティアの主神アデルの成長を促すためメリアが踏台となったこと。創造神アースがメリアの転生後の設計を行ったとの推察を踏まえ、想定外の魂の二分によって創造神アースの魂の片割れと踏台となった記憶を有したままのメリアが同時に転生する想定がなかったことは想像に易く、メリアが罪の意識を解消する道筋が用意されていたとも考えにくい。死を宿命づけられたメリアへの創造神アースの救いがジーンへの罪の転嫁であり転生体の設計であった、と、ある種好意的に観るなら裏目に出ている。前世の尻拭いのような形ではあるがどうにかせねばならない──。そこでララナが考えたのは責任ある仕事をメリアに成し遂げさせること。変えられない過去を振り返るのではなく、貢献を積み重ねて、実績で自信を培い、未来に目を向けてもらうのである。
湯吞を置いたオトが、提案する。
「ちかぢか音羅達が集まるやろ。相手させてみたらどうかね」
「メリアさんが音羅ちゃん達と一緒に遊んだり話をしたりするということですか。そちらにはどのようなお見立てがござりますか」
「肩に力が入っとる状態でさあ本番って流れじゃ怪我するよね。長く走るには訓練と準備運動も要る」
長いあいだ海底に独りだった。どんなに前向きで善良なひとでも閉塞感を覚える。負の意識に目を向ける癖がついてしまうこともあるだろう。責任感の強いひとであればなおさら。拗らせれば最悪の末路だ。他者との意志疎通に臆病な節があるメリアに慣れてもらうため策を講じてきたもののアデルを頼りたい部分はなきにしもあらず。関わる意志がないことを既に示したアデルを頼れないので、メリアを手助けできるのはララナとオトだけだ。
「一歩踏み出して、聖水販売を任せてみませんか」
「歩幅が異様で足が攣りそうやな」
「人助けの一種ですから罪の意識の解消にも繫がるのではございませんか」
「罪の意識には大別があるやろ。無料配布が可能な聖水の販売には道徳的な罪が潜む。さて、嫉妬の罪はどんな罪か」
「倫理……、道徳的な罪ということですね」
「金銭的な損得が絡むと罪の意識を増長する危険性が高い」
「道徳に暴力で立ち向かうのも逆効果ですね」
「心には心。けど、それで立ち向かうとしてもできる限り世情と関わりのないことでもって気晴しさせたりたいんよ。モカ織は無理かも知れんから、服や飾り、料理を作ったりね」
創作魔法が得意な彼だから発想も偏りがある。
「オト様の提案は主に作ることですね」
「一定の効果があることは俺が保証できる。お前さんはなんか浮かぶ」
「普段やらないことをする、特に、体を動かす、お金を浪費する、などはよく聞きますね」
「お金の浪費も損得が絡むし、俺の財布が許さんな」
無職ゆえオトは万年金欠である。娘が集まれば出費が嵩むであろうことを考えるとララナの貯金を預けるのも難しい。
「体を動かすのは音羅や鈴音がやってくれそうやね」
「気晴しですので、体を動かしつつ小旅行をするというのはいかがでしょう」
「なかなかいい案かも。俺は留守番で音羅達に丸投げできる」
「オト様」
「嫌やよ」
「何も申し上げておりません」
「一緒に来い、やろ」
「私も参ります」
「意識が魂に引っ込んだ状態でね」
メリアに肉体の主導権を渡せば自然とそうなる。
「オト様が留守番ではメリアさんが行く理由がなくなるとお考えになりませんか」
オトが腕組。
「音羅達とメリアから目を離すのも今は難しいしな」
メリアは必ずしも狂人的精神状態にあるわけではない。それゆえに暴走することもあるとは戦時に証明された。そんなメリア絡みの問題とは別に、オトにも問題があるだろう。
「お兄様の監視にも驚きましたが、かつてオト様を閉じ込めた結界……、あのような強力な魔法を扱う術者が常常オト様を狙っているように感じます。子達とメリアさんが目の届く範囲から外れることより、オト様を狙う者が近づくことを危惧していらっしゃるのでしょう」
「少し違うね」
自ら受けた魔法をオトが観察していないはずがなかった。
「あの結界についてはもう対策を考えたし、俺には耳がある」
名に反することなく視野の外の音も拾う地獄耳。「モカ村、いや、フリアーテノアを引越し先にしたのも小さな星やから。誰がどこにおろうと魔法で助けられる」
「音羅ちゃん達とメリアさんを一緒にしていても目が離せない理由はなんでしょう」
「音羅達が丸め込まれそうやし」
「おや、父親としての私欲でしたか」
「メリアは子どもをほしがっとったからね、お前さん以上に母親らしく振る舞うか、甘やかしまくって音羅達を堕落させるかもよ。どちらにせよ、」
「由由しきことです」
「やろ」
これまでララナ達の子とメリアが接する機会はなかった。また、メリアの意志と肉体の動きに変調がないか観察するため村の子と接する機会も与えていない。オトの観察が正しいならメリアが子どもに強い反応を見せる可能性は高く、注意深く見守る必要がある。子達が堕落することはないとララナは信じているものの、誰しも甘言に乗ってしまうことがあるので一〇〇%大丈夫とは言いがたい。甘言に乗り続ければ積極性を失って怠けてしまう。
オトと意見が一致したララナはお辞儀した。
「オト様、小旅行の際は観察をよろしくお願いします」
「同行するかはその場の判断、観察もしかり」
「畏まりました」
肉体の主導権をメリアに譲った状況下でララナは手出しできない。オトに全て任せて経過をあとで聞くことになる。そのようにオトと考えていたので、予定より一日早く帰ってきた音羅の様子がララナの心配の種となったのである。
惑星アースの三月末、退職した日の夜に帰宅した音羅は、帰宅の挨拶を済ませるや囲炉裏の横で三角座り、膝に沈んだ浮かない顔。ララナが出した夜食にも手をつけず眠ってしまったのかと思うほど言葉を発しなかった。
ぱちり、ぱちり、木炭が囁く。
無限のように時間はあるので黙って見守ってもよかった。十能で木炭を手前に引いたオトが木尻の音羅に初めて声を掛けた。
「音羅、お風呂いいん」
「うん……、まだ大丈夫」
寝てはいなかったが話し出す気配もない音羅。席を立ったオトがその横に膝をつき、崩れた灰模様を灰ならしで描き直してゆく。
「音羅、見てみぃ」
「……」
幾重の斜線と縁取りによって美しく描かれた灰模様を、顔を上げた音羅が黙って見つめていた。
「どう、綺麗やろ」
「うん……、……ほっとするね、なんか、……ほっとする」
音羅が再び顔を伏せてしまったが、小刻みに肩が震えていた。
「音羅ちゃん……」
ララナはオトと顔を見合わせ、音羅の背中と頭をそれぞれ撫でてあげた。「何があったか訊きません。ですが、堪えられそうにないなら、話してくださいね」
「ゆっくりしてきぃね」
「……ありがとう、ママ、パパ……」
涙声だった。
何があったのか。気にならないはずもなく、ララナはオトとともに夜遅くまで音羅の様子を見守った。
音羅がお風呂に入ったのは日づけが替わってしばらくしてから。パジャマに着替えて出てきた音羅をララナは二階の部屋に案内した。子ども部屋は二階と三階に六部屋ずつある。音羅は後に合流予定の夜月と同室で、日当りのいい南中央の部屋だ。今は月明りが柔らかく、ほとんどが平屋のモカ村をベランダから見渡せる。モカ村に近い木木は背丈が高いものもあって森全体を見渡すことはできないが心地いい微風を窓から取り込むことができる。
新生活を象徴するまっさらな部屋。日用品や家具は各人の好みや趣味があるので惑星アースから持ち込んでもらうか移住後に集めてもらう予定であるが、持ち込むものがない子には必要に応じた品を用意している。鞄一つで移住した音羅に、ララナは用意していた布団を勧めた。
「音羅ちゃん、また明日。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい。いろいろありがとうね、ママ」
「必要とあらば頼ってください。私はいつでも歓迎です」
「うん、そのときはお願いね」
布団に入った音羅はすぐに寝息を立てた。
ララナは静かに退室し、一階寝室のオトと合流、同じ布団に横になって抱き締め合う。
……気を張っていたのでしょう。
浮かない様子。涙を怺えるような出来事がモカ村での再会以降にあったということだ。オトが出す試験に比べれば難問でもない。モカ村から惑星アースに戻った音羅が大きな出来事に出会したとすれば相末学の葬儀だろう。
「音羅のこと考えとる」
オトに身を委ねながら、ララナはうなづいた。
「本人が話さんことにはね。あとでゆっくり考えることにして、今はこっちを視ぃ」
甘えん坊のオトである。音羅への心配は尽きないがオトの欲求不満が一番看過できない。
いつものように朝日とともにララナは目が覚めた。メリアとの意志疎通ができるようになってより実感するのは、オトに抱擁されたあとはやはり非常に調子がいい。端的に言えば、「今日も頑張ろう!」と、朝から全力で動ける感覚だ。
朝が苦手なオトを起こさないように起き上がってララナは朝食の準備に取りかかった。今日からは音羅もいるので三人分。下の子が帰宅すれば量を増やす。
竹神一家はもともと食べなくても平気な体質で、ララナとオトの二人きりだと地下冷蔵室をほとんど使わなかった。音羅を始め食生活に馴染んだ子も合流予定なのでなんでも作れるよう冷蔵室に活躍してもらうべくララナは動く。
竹神邸の南に村全体で管理する畑がある。基本は一世帯が一つの畝を世話して、各利用者が忙しいときには誰かが纏めて世話をできるようにしている。竹神一家に割り当てられた畝も充実している。木属性や水属性の魔力が豊富な神界では植物の生長が速く手が掛からないので目移りするような野菜も楽楽栽培できる。次の実りを見通して手際よく収穫を終えたララナは、広場脇に寄ってから不足しているものを町まで買いに出掛けた。
帰宅すると寝室のオトが上体を起こしていた。
「おはようございます。ひとまずの食材を仕入れて参りました」
「ありがとう。音羅には加減してね」
「畏まりました」
大食の傾向があって自制するようになった音羅が、なんらかの要因で食欲をコントロールできなくなっていては困る。栄養バランスを考慮し、一般的な量の食事を作らなくては。
……と、斯様なことを考えるのは久しぶりです。
安アパートで一緒に暮らしていた約一年前まで毎日考えていたことだ。
食材を提げて台所へ向かったララナは、寝起きの音羅と遭遇した。
「おはよう、ママぁ」
「おはようございます、音羅ちゃん」
「ん〜、おはよう」
音羅の寝起きとしてはしゃっきりしているほうか。以前の出勤時間を過ぎているので起きていないほうがおかしいとはあえてツッコまないが、ララナは音羅の起きた時間に注目した。
「思いのほか早かったですね。ゆっくりしてもよいのですよ」
「そうもいかないよ、新しい仕事を見つけないと食べていけないもの」
万年無職のオトには耳が痛そうだが、ララナは音羅の考えに賛成だ。
「では、顔と手を洗ったら手伝ってください。仕事をあげましょう」
「お手伝いってこと」
「料理です。無論、給料を支払います」
思いつきだが、「私の代りに作ってくれますか」
「え、わたし一人で作るってこと」
むちゃ振りされて音羅は一気に目が覚めたよう。昨夜に比べて表情が明るくなったのもいい傾向だ。
ララナはうなづき、重要な仕事を加える。
「その間に、竹神家の長女として聞いてほしいこともございます」
「大事な話」
「ええ。料理がてらですが、聞けますか」
「うん、頑張るから大丈夫」
うなづき返した音羅を信じよう。
惑星アースで何があったかは音羅が話したくなったときに話してもらおう。ララナはオトの妻として、また、メリアの魂を宿している者としての役目を果たす。
顔を洗って普段着に着替えた音羅を迎えると、食堂のテーブルに並べた食材を眺めてララナが作るものを決めた。
「なんだか拍子抜けだなぁ」
「何がです」
「神様の住む世界ではモモやリンゴを食べているのかと思ったよ」
「諸神話・逸話に登場する果実ですね。モモは万病に効く薬になったり食べると不老長寿の効果があるとされます。黄金の林檎は不老を実現するものとして登場したりしますが、オレンジなどほかの果実を指すともされますね」
「そこまで詳しくないけれど、ダゼダダやほかの土地にもあったタマネギやネギやオクラもあって、豆腐や納豆まであるんだもの。ここには庶民派の神様が住んでいるの」
「神も人間も力の差はあれど大して変わりません。モカ村は自給自足が当り前ですから自然の食べ物や手作りの食品を大切にしています。ダゼダダに定住した頃も思いましたがモカ村に移住してからも学びが多いです」
「なんでも知っているママがまだ学べることがあるの。例えばなんだろう」
「知識としてはございましたが、ダゼダダでは家庭で作れる安心・安全な発酵食品の多さと幅広さに目を見張りました。モカ村で驚いたのは調味の少なさで、それでいて塩み、酸み、苦みが揃い、うまみも深く、食材の甘みも自然で、栄養価のバランスも高い。デザートも例外なく代謝に適し、体が自然と調和する食品が充実しています。惑星アースでは技術発展に伴って生産性と保存性を重視し、自然への畏敬を欠いたひとがいくらかいるように感じます」
「畏敬、か……」
思うところがあったか、台所に立った音羅が無言で包丁を取ってタマネギを切る。手際はそれなりだ。昔に教えた基本的なことはできているが練度は低い。
「畏敬って、神社とかのお参りでも聞いたことだね、恐れつつ大切にすること」
「ええ」
音羅に最初に教えたのは生まれて間もない頃だった。
ララナの相槌を聞いた音羅がぽつりと言う。
「……結局、わたしは──」
とん、とん、とん、と、切られてゆくタマネギに紛れるような声だった。
「あ、卵を六つ取ってくれる」
台所脇から下りられる冷蔵室に使わない食材を収めていたララナは、注文通り六つの卵をトレイに載せて音羅に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
高難易度の料理ではなく家庭的かつ簡単なもので十分。音羅が作るのは玉子綴じだ。
タマネギを炒める傍ら卵を割って攪拌、フライパンに作ったスペースに卵を注いで軽く火を入れてからタマネギと和えるようにしてさらに炒め、軽く塩を加えて完成した。
「うん、いい感じにできた、よね」
「割とですね」
「パパに似て棘があるよ」
「夫婦ですから。音羅ちゃんは磨けば光ると思うのでもったいなく感じてしまったことを伝えておきましょう」
「う〜ん、わたしはママ達のが食べたいかな、自分で作ったものは味気ないよ」
音羅の料理の腕が上がらないのはそのせい。
……食べさせたい相手がいたら、などというのは酷ですね──。
メリアの話をする予定だったが調理の観察で終えてしまったので、音羅が盛りつけるあいだにララナは口を開いた。
「音羅ちゃんは憶えていますか」
「ん、何をかな」
「私とオト様の前世についてです」
「魂が生まれ変わって現世があるっていう、占いとかでよく聞く話だね」
……やはりそのくらいの認識ですね。
オトも寝室で聞いているだろう。ララナは音羅の認識を正しておく。
「忘れるのが自然のこととして私もオト様も改めて教える方針にございませんでしたが、事情が少し変わって話したいことができました」
「例の大事な話だね」
玉子綴じの皿をテーブルに運んだ音羅が、炊き上がっていた白米を茶碗に盛りつつ聞いた。
「ツインレイなどともいうのでしょう。創造神アース。世界創造の神の魂を分ち合った転生体、それが私とオト様です」
「……っえ」
落としそうになった杓文字を音羅が握り直した。「ママに限って冗談じゃないよね。それにしたってぶっ飛んでないかな」
「素直な感想だと思います」
音羅に限らずほとんどの子はララナやオトの記憶を継承していたので、ララナとオトが創造神アースの転生体だということを最初は知っていた。時を経て経験を積むと継承記憶の多くが消えると子達をしばらく観察して判った。
「そういえば、夜月ちゃんが生まれた頃にそんなようなことをいっていたな。わたし達みたいにパパやママを特別視していたからだろうって鵜吞にしていなかったんだけれど、あれは本当だったってことか」
「ええ。生活する上で大切なことでもないのでこれまでは話題にしませんでした」
「込み入った事情があるんだろうね」
「ええ。ここからは──」
「俺も加わろう」
「あ、パパ、おはよう」
「おはようさん。朝食のあとにゆっくり話そうね」
普段着のオトが顔を洗ってテーブル席についた。続いて、朝食の準備を終えたララナと音羅も席についた。
「『いただきます』」
声を揃えて。モカ村では初めての、家族三人での朝食で早速オトが指摘した。
「のっぺら味やな」
「うぅ、だからママやパパに任せたいんだよ」
「たまにはいいんやない、天日塩は微量に入っとるし」
オトがララナを一瞥。「うまいのが当り前と思い込んでありがたみを忘れるのはいかんね」
「そ、そう。褒めてくれているのかな」
「ママを見習いなさいって意味やよ」
「だよねっ」
音羅が微苦笑。「ご飯、お替りもらうね」
「我が家の長女、味気ないといいつつなんたる食い気」
「えっ、玉子にも力強い味があるし、タマネギはきちんと甘みがあるし、ご飯は嚙んでいれば産地の香りとかが……、ダメかな」
「どうぞ」
と、ララナは音羅の茶碗を受け取り、白米をよそって戻った。
「ありがとう、ママ。こういうのも久しぶりだ」
「次からはもっと嚙んで風土を愉しみましょう」
「あはは……、そういうのも久しぶりだ」
一人暮しを経験した音羅がある種の郷愁に駆られていたことはオトが推測していた。大切な相手と一緒にいたいと思い、それを実行するのは自然なこと。
「音羅ちゃん、どこかで働きたいとのことでしたが当てはございますか」
「ううん、これっぽっちも。人脈もないし、あ、ジュピタさんが『来たいならうちに来てよ』なんていっていたね」
惑星アースからここフリアーテノアへ渡る中継地点として回遊神界の神界ジュピタがある。ララナの伝で音羅達が神界ジュピタの保有する魔導機構こと空間転移装置を使えるようにしてもらっている。どうやら主神ジュピタは音羅に興味があるようだが、
「本当はママに来てほしいんじゃないかな」
と、いうのが音羅の見方である。「『君の母は優秀かつ美しい女性だよ』って、いっていたからね」
「きも。ジュピタって少女趣味なん」
「それはブーメランだよ」
「音羅ちゃんもブーメランかと」
「えっ」
「母親を幼いといったも同然なのですが気づいていますか」
「そんなつもりはなかったごめんなさいっ」
「オト様も。再三申し上げますが、」
「年上、やろ」
「ええ」
「俺を受け入れてさえくれれば外見年齢なんかどうでもいいわ」
だろうとも。一周回ってメリアと似たような質のオトである。「話を戻しましょう。音羅ちゃん、この家から通うなら私が神界ジュピタに送ります」
「緑いっぱいでいいところだけれどやめておくよ。やりたいことがあるから」
経験を活かせる職場を。そう考えているのだろうとララナは思ったが、音羅の方針は、
「ママやパパは知らないかな、魔物討伐の仕事のやり方」
「食品会社に勤めたいのではないのですね」
「食べ物を得られても駄目になることがあるって判ったから」
魔物の襲撃や友人達の死を経て、音羅はそう学んだようだった。「パパは、嫌いだよね、こういう考え方」
と、窺う音羅に、オトが首を傾げた。
「俺の気持はもう伝わっとるやろ。その上でお前さんが出した答なら頑張りぃね」
「うん……、ありがとう、パパ」
ひとびとを害する魔物を討伐しなければならないと音羅は考えた。それもまた一つの考え方だ。
「神界の魔物は惑星アースのものとは総じて比べ物になりません。音羅ちゃんに対処可能かどうか、オト様はいかがお考えでしょう」
「できるできると軽軽にはいえんが音羅が斃した魔物はかなり高位のもんやよ。それに比べて神界のは下位。相性が悪ければほかのもんを頼ればいいんやからなんとかなるやろう」
音羅だって自分一人で全ての魔物を対処できるとは考えていない。学んだことを活かすなら職場の仲間との連携も意識するから特段の心配はない、と、オトが観ている。ララナも同意見だが音羅の注意を促しておく。
「戦闘は危険です。十分に備えて、気をつけて臨んでください」
「うん、解った」
その返事も、久しぶりのようだった。
思わぬ薄味はともかく充実した朝食を摂ると食器を片づけて、囲炉裏を囲った。
そこで音羅が上を見た。目線は梁の高さに設けた棚をぐるりと一周。
「じつは少し気になっていたんだけれど、希しい鉢植えが並んでいるね」
「私はモカ村に訪れて初めて見ました。音羅ちゃんも同じですね」
「うん。惑星アースでも一時的に光る植物はあったけれどこんなに明るくはなかった……。それに、氷砂糖みたいで──」
「摘まみ食いすな」
「まだしてないよっ」
「まだ」
「ごめんなさい、ちょっとおいしそうとは思いましたっ!」
「素直やよし。絶対食べんな」
「わ、解った。それにしても……不思議と優しい光だね」
昼間、南に面した部屋は外光を取り込んでいるので必要ないが、南向きの部屋を含めた全ての部屋と廊下、台所や浴室に至るまでその鉢植えを置いている。
オトが紹介する。
「挨拶して、〈ヴァイアプト〉」
「ヴァイアプトっていうんだね。おはようご、っわ、すごく光っている……!」
ぽわぽわと明滅している鉢植えの植物改めヴァイアプト。
「あ、もしかして、ヴァイアプト、さん」
「音羅はなんとなく判るわな。そう、その子らも分祀精霊やよ」
「やっぱり」
略称ギフト。ダゼダダ特有の精霊や神で特定の相手に力を貸す使い魔のような存在だ。
「ヴァイアプトさんは暗がりを照らせるギフトなんだね。この光には、ヴァイアプトさんの気持が入っているんだな……」
「言葉は喋れんが充分やろ」
「うん、なんか伝わってくるものがある」
「日陰が好きやから日干しせんように」
「日向に置いてあげたらもっと元気になれそうなのに」
ララナは注釈する。
「直射日光に当たると弱ります。オト様が家をお出にならないのと同じような理由です」
「すごく解りやすい」
「手短な説明と納得に悲しむほどの威厳が俺にはないね」
オトも納得したので、ララナは音羅の積極性を促す。
「仲良くしてくださいね」
「たくさんいるもんね。手、届くかな、水遣りしてあげなきゃ」
「根腐れせんよう俺らがやるから、替りに声を掛けてやって」
「声を」
「ちゃんと聞いとるからね」
「あっ、そうか、反応してくれるってことは、ちゃんと聞こえているってことだものね」
音羅が鉢植え群を見渡して、「これからよろしくお願いします、ヴァイアプトさん」
ぽっ、ぽっ、と、一部のヴァイアプトが明滅した。ほかのヴァイアプトが程良い光を維持することで居間が強く照らされることも暗くなることもない。
「連携が完璧だ。みんなとっても仲良しなんだね。ほかにどれくらいいるの」
「こちらの数に一七・五を掛けた数ですね」
「わたしの個性にも寄り添ってっ」
「上手な言訳ですね」
電卓を持てば計算できる音羅だが、暗算は難しかったようだ。竹神邸全体からヴァイアプトを集めると三一六株になることを、ララナは教えた。
「大家族だね」
「喧嘩したら大変な数ではあるね」
「この調子ならクムさん達もいるよね」
「ああ。そこら辺におるからあとで挨拶しときぃ」
「うん、そうするよ」
竹神邸にいる分祀精霊はオトに力を貸すものがほとんどで、オトの家族であるララナや娘を手助けしてくれることも多い。頭に花を咲かせた小人クム、掃除が得意な毛玉の糸主、手斧を持った力自慢の小人刃羽薪などなど惑星アースで一緒に暮らしていた面子が揃っている。ほかにも、初見のものも含めて多数オトにくっついてきたので、全ての分祀精霊をララナも把握していない。
「さて、そろそろ本題やな」
オトが炭を入れて灰模様を描き直すと、潮時である。
「中断していた話だね」
「羅欄納が伝えた通り、俺達は創造神アースの転生体だ」
オトが灰ならしを置き、今後音羅以下の娘にも同じことを伝えると前置きをして話した。魂を両断された創造神アースがオトとララナに転生したこと、その魂の一部を切り取って生まれたのが音羅達であること、魂の性質により寿命がない不老生者であること──。ララナが観察し損ねていたこと、創造神アースの魂を両断したジーンの動機もオトは語った。以前の見解では妻子を殺したアデルを怨む中でのこととしていたが、アデルはジーンの妻子を殺めるようなひとではなく取引で罪のない民を処するようなひとでもなかった。疑わしき人物は創造神アースのみ。ジーンもそう考え、転生阻止のため魂を両断した、と。
「ここからが本題ね。創造神アースの持っとった力をゆえあって今の俺は使わんが、羅欄納はその限りでもない。と、いうのも、羅欄納はアデルの前妻メリアの魂を持っとる。ひとの魂を自分の魂として引き込んだり、そうして手に入れた魂と対話できる。また、〈魂氣〉とでも仮称しようか、魂を破壊して何かしらの効果を発生させられる。それらが魂鼎の力といわれるもんやけど、別人格を刻んだ魂は制御できんこともあり、過去にはメリアの魂の影響で暴走状態に陥ったことがある」
「ママがママの意志で動けなくなる、みたいなこと。昔の花みたいに……」
音羅の親友野原花は穢れの影響で自らの意志に反して暴走、通っていた学園を破壊しそうになった。
「そんな感じ。メリアの暴走は悪神が持つ負媒の力を介した強力なもんやから、ちゃちな暴走とはわけが違う」
「わたしが止めきれなかったあれがちゃちだなんて……」
「飽くまで被害範囲を比較した表現であって本人も周りも命懸けってことは同じやけどね」
「だよね。さっきの話にあったジーンさんもそうだけれど、悪神っていうのは悪い神様なの」
「絶対の善も絶対の悪も、」
「はっきりとした白黒も存在しない、だね。パパ達が助けようとしているならいいひとだ」
「鼠講に引っかかるよ」
「余所では気をつけるよ」
「重要なのは対策。羅欄納が羅欄納として動くためにはメリアとの意志疎通や暴走回避のためのストレス発散が不可欠になった」
「それはもうやっているの」
「少しはね。効率的にやるには欲求に応えるのが一番。その間、羅欄納の肉体はメリアの意志で動くことになるから、音羅には心の準備をしておいてほしいと思ってね」
「ママはそのこと、もう受け入れているんだね」
音羅の目線にララナはうなづいた。
「オト様曰く、メリアさんに委ねた私の肉体はいつもより赤く、感情によって髪色が変わるので見分けがつくでしょう」
「体や髪の色が変わるなんて愉しそう。けれど、うん……」
音羅が心配する。「肉体を委ねるって、ママはそのあいだどうなっちゃうの」
「眠ったような状態になります」
そのあいだは長年メリアがいた闇の殻に入る。何回も人格交替するうちに自然と光の橋を維持できるようになりララナ、メリア、どちらからでも対話できるので閉塞感はない。
「一定時間後に入れ替わることで話が纏まっていますので問題ございません」
「戻ってこられないなんてことはないんだね」
「ええ、私達や妹と同じくメリアさんを家族として迎え入れてくれると嬉しいです」
「それは勿論。ママの中にずっといたひとならきっといいひとだよ」
うなづいた音羅がオトを見る。「一つ訊いていい」
「なん」
「メリアさんのこと、どう思っているのかな、って」
娘としてはやはり気になるよう。「ママの体を貸すんだから不安がゼロとはいえないよね。それでもメリアさんの欲求に応えるのは暴走予防だけが理由じゃないように感じるよ」
「理由がないと駄目なん」
「え」
音羅も知っているであろうその気持を、オトが伝える。
「強いていうなら好きやからやけどそんなもんは理由じゃなくて現状やね。俺は好悪にこだわらずメリアを見殺しにはしたくないんよ」
「……そうだよね」
一桁の歳だった頃に音羅も知った気持であろう。「わたしも、助けることができたらよかったのにな……」
「助けるには力が要るか」
「うん、わたしには必要だった」
「でも、力以上に大事なもんを音羅は持っとるよ」
「……うん、ありがとう」
オトに通ずる大切なもの。確かに学び、継承し、棄てられないもの。音羅にはそれがある。
「具体的にはどうしたらいいかな。メリアさんは亡くなってからかなり経っているんだよね」
音羅らしい優しい目線だった。「わたしの普通が普通とは限らない……」
「時代の錯誤をメリアさんも覚悟しています」
「そうなの」
「意識の相違は同年でも起こります。それでも、お互い素直に歩み寄っていくことで仲良くなれるとは音羅ちゃんも知っていますね」
音羅がうなづいた。
「ですので、音羅ちゃんの考えに任せます。対応次第で私は浮上できなくなるかも知れませんが信じています」
「急に責任が重くなった感じが……」
音羅が不安そうに言う。「頑張るけれど、みんなも早く合流してほしいな。一人じゃうまくできるか怪しいし、いろいろ相談したいことが出てきそうだ」
「俺もできることをするけど、必要に応じてすべきかもね」
「いっていることがよく解らないよ。パパも相談に乗ってね」
「解決策を持ちすぎとるから無用な横槍になるかもよ」
「解決策が横槍なの」
首を傾げた音羅にオトが泰然と述べる。
「心の問題やからね、俺の解決策が絶対正しいなんてことはないんよ。それに、可能な限り正しいと思える対策を自分達で考えんと頭が腐るやろ」
「パパらしいね。解った、苦手だけれどみんなで考える」
と、安堵したような微笑で言った音羅がはっとした。「ママ、いつ入れ替わるの」
「音羅ちゃんにもメリアさんにも準備運動が必要です」
「そうだ、お互い初対面──、みんなが集まらないうちが逆にいいんだね」
不安は拭えないようだが、音羅は前向きだ。「みんなと相談するにもメリアさんと話したことがないままじゃ意味がないし、最初から諦めていたら話にならない。早速頑張るよ」
気持が決まれば「いつでも来い」の姿勢に切り換えられる音羅をララナは頼もしく感じた。オトにネックレスを預けて、メリアに語りかける。
(昨夜戻った音羅ちゃんと話せます。いかがですか)
(音羅さんは長女でしたね。……大丈夫でしょうか。わたし、お婆さんみたいなものですし、お話についていけるかどうか……)
片や一五億年もの時を経て現代にいるメリア。片や生まれて一〇〇年に満たない音羅。生まれた時代の違いはさることながら、メリアと音羅は性格が違う。問題点があるか・ないか、接してみなければ観えないこともあるだろう。
(オト様が見守ってくださります。致命的なことにはなりません)
(それはそう、ですが)
オトへの好感や信頼感では拭えない不安、あるいは、問題があるのか。
立ち止まっていると昔のオトとは別方向でメリアが引籠り同然となる。今も昔も引籠りのオトを責めないララナだがメリアに関してはそうはゆかない。想いは無限だ。配る場所は多いに限るが慣れが必要でメリアにはそれがない。このままでは暴走する狂人として生きるほかなくなってしまう。
(じきに音羅ちゃん以外の娘も帰ってきます。こちらの家で生きたいのでしたら、娘には慣れる必要がございます。チャンスは有限です)
(解っています……。でも、この不安が爆発しないか、恐いのです)
娘と顔を合わせることはメリアが受け入れて決まったこと。そのときから不安を口にしていた。ララナは長年メリアの傍にいながら本意を見抜けず、いま抱えている不安をどうにかすることもできないが、背中を押すことはできる。
(その不安、爆発させてしまいましょう)
(それは……)
できない。メリアはそう思っている。一種の感情の爆発で星を滅ぼしてしまった彼女だから躊躇うのもうなづける。
(私は少し前、音羅ちゃんにこのようにいいました。迷っても構いません。そのあと、素直になってください、と。本音を語らないことで自分を守ることができます。一方で、自分を追い込むことにもなっているのです)
(……ええ、解っています)
ララナもまだ探り探りだ。オトのようにうまく説得することはできない。ただ、正直な気持を伝えることでしか歩み寄ることも距離感を摑むこともできないとは思っている。
(オト様とほかの娘、みんなが音羅ちゃんを育てたと考えています。そんな音羅ちゃんを信じて、一度、ぶつかってみませんか。不安は数えたら切りがこざいませんが、歩み出さなければ未開の道を知ることはできません)
一時の沈黙を経て、メリアが応えた。
(わたしは……、──手放さなかったあなたのことも信じています。そんなあなたの言葉を疑う余地はありません)
(私も、メリアさんの想いを信じております。いざ、参りましょう)
ララナはオトを一瞥して、メリアに肉体を委ねた。
肉体を支配する人格の交替は、両者の合意を経て行われる。ララナがメリアの存在を認めていなければそんな仕組にはなっていないから、そこに至るよう事を運んでくれたオトだけでなく受け入れてくれたララナにも、メリアは深く感謝している。
人格交替で起こる悪いことは特にないが、あえて挙げるなら、肉体的な疲れだろう。軽い霊体から一転、重力の影響をもろに受けるのである。いいことは非常に多い。感覚共有がなかったのでララナの体験を全て知覚してこられなかったが、彼女の肉体を借りれば囲炉裏の香りや彼の目差を直接感ぜられる。
……それと、もう一つ。
左手から向かってくる目差。ララナと似た少女が正座している。
(下座の少女が音羅さんですか)
(簡単なやり取りから慣れましょう)
(そうでした。音羅さんに訊かないと……)
音羅も済ませたというヴァイアプトとの挨拶は、メリアの第一関門だった。相手が喋らず動かないということもあってなんとか平気だった。それからほかのみんなとも少しずつ接した。クム、糸主、織師、刃羽薪、プウ、そして結師──、一部分祀精霊の勢いには不慣れで、少しずつ距離感を摑んでいるものの、自ら動いて話す相手への緊張感が拭えない。それがオトとララナの娘、正真正銘彼らの肉親であるなら躊躇も。
臆病者になりすぎては音羅も戸惑うだろう。肉体に増して重い口を、ゆっくり開いた。
「あ、あ、暖かいですよね、囲炉裏」
「そうやね」
「そうですね」
「そ、そうですよね」
オトと音羅が一言ずつ答えてくれたが、メリアは冷や汗をかいた。
……だ、駄目です、これは、マズイです。
主神として多くの配下に命ずる立場にあって人前に立つことも慣れていたはずなのに、長年の引籠り生活が祟ったか、緊張して言葉が出てこない。
話のタネを過去から探るのは難易度が高い。時代錯誤を覚悟していても話が伝わらなければ会話にはならない。
アデルがくれた全耐障壁の中に物を取り込む方法をララナに教わったので、それを用いて五感を働かせて体感を伝えることにした。
「い、いい香りもしますね、灰というか、炭というか」
「モカ村の木は香りも一級品らしくてね、線香に使われとるよ」
「そうなのですね」
オトが答えてくれたが、移住してきたばかりの音羅には伝わらなかったか、反応を得られなかった。目を向けていなかったのがまずかったか。少し勇気を出して、メリアは音羅に目を向けてみる。
「そ、それと、何か、別の香りもしますね」
それはトリュアティアで食べた料理の香りに似ていた。
「甘いような、香ばしいような、……玉子ですか」
「朝、わたしが作りました」
と、音羅が答えてくれた。「味気ないものになってしまいましたが、玉子綴じです」
「音羅さんが。料理、よく作るのですか」
「今日は母にいわれて。食べるのが専門でいつもは作らないんです」
苦笑ぎみに話してくれる音羅を、メリアは思わず凝視した。
……なんと愛らしいのでしょう。
心遣いを感ぜられる優しい声音は、一朝一夕のものではない。ララナから聞いていた通り、他者に心を砕ける優しい子。初見のメリアに対しても分け隔てのない姿勢だ。ここまで成長するのにひとは何年掛かるのだろう。オトやララナの教育あってこそだろうが音羅本人の努力もあったに違いない。
メリアはそう考えて、思い出す。
「自己紹介がまだでした。わたしはメリアです。ライトレスやハルモニウムなど苗字やミドルネームらしきものがほかにもたくさんあるのですがまずは名前だけ。今は特に働いていませんが将来的には何かしたいと思います」
「ご丁寧に」
音羅が会釈して、「わたしは竹神家の長女で音羅といいます。昨日までは食品会社で宅配などをしていました。これからは魔物討伐の仕事をしようと考えています」
「食品の宅配というと、食べ物を皆さんに届けていたのですね」
「はい。食べ物を作っているほかの部から味見役に呼ばれたりもして忙しい仕事でした。わたしの部では貧しい家庭に質のいい食べ物を少しでも多く届けようと──、あ、この話は長くなりそうですね」
「いいえ、よければ聞かせてください」
メリアの知らない時代の、メリアの知らない社会の話だ。それ自体に興味もあれば、音羅がどのように働いていたかも興味があった。
音羅がオトを振り向く。
「話したいことを話しぃな」
「うん。じゃあ、」
音羅がメリアを向き直って、話を再開した。「ほかの企業、小売店や飲食店など食品を扱うところと幅広く契約して食品を安く仕入れて届けていました。上司の話ではわたしだと円滑に交渉が進むようだったので、昇進前は特に契約交渉をしていました」
「条約制定の擦り合せみたいなものですか」
「法律で守られた約束事、それが契約だと聞きました。難しい書類作成はほかのみんながしてくれたのでわたしは詳しくないんですが、」
音羅が囲炉裏に目を落とした。「みんなが普通の生活を送れるようにしたかったので、少しは貢献できたかな、と、思います」
音羅が真剣さが判ったのは、同じ目を過去にも見た。
「きっとできていると思います。音羅さんは物凄く頑張ったのでしょう」
「できることは、したと思います」
後悔か不満か、はたまた別の何かが潜んでいるような微妙な声調だった。
お茶を飲んだオトが沈黙の場に言葉を投げる。
「お前さん、貯金はどうしたん」
音羅への質問だ。
「全額会社に寄付したよ」
「寄付ですか」
「はい。会社本体にはできないらしくて、関連企業の募金窓口やクラウドに」
「くらうど、雲……」
「クラウドファンディング、個人・団体を問わず期間的に出資できて、活動報告にとどまらん物理的な返礼品がある場合もあるかね。プロジェクトには世界規模のもある」
「カンパの大規模版のようですね」
オトの解説で理解を深めたメリアに音羅が話を再開した。
「三一年頃や三八年頃から大流行した光冠ウイルスの影響で牛乳の大量廃棄とか店舗縮小とか損失がたくさんあったので、所属した部署の活動や長年お世話になった会社を応援するためにはそれが一番いいと思いました」
「ウイルス、疫病ですか」
「多角的に観たら人災やと思うけどもね」
「人災。なっちゃん達が対策を頑張っていたはずなのに」
なっちゃん達とは治癒魔法研究者である竹神姉妹の次女・三女のことである。
「頑張っとったら本質が変わるわけじゃないし損失は人命だけじゃないやろ」
「損するのは、そうだね」
オトによれば生活様式を激変させるほど猛威を振るった曰く人災であった。多くの企業が倒産に追いやられ音羅が務めた企業の損失も計り知れないとのことだ。個人の寄付は微力だろうが、メリアは音羅の考えに共感した。
「務めていた会社やひとびとを想って。素晴らしい行いです」
対して、
「一概にそうともいえんな」
と、オトが否定的だ。音羅がまじめに受け止めた。
「やっぱりダメだったかな……」
「民間・企業レベルでお金の巡りを促すのはいい。離れる故郷に資するべくよく考えたほうやろう。けど、リターンはどうした」
「相手や企業との、やり取り……」
「寄付にせよクラウドファンディングにせよ、個人や企業の挑戦を応援すること、挑戦をともにする気持を共有すること、その経過や結果を知り将来に活かすこと、また、不正流用がないよう監視すること、それらを通じて社会参画の意識を醸造・普及すること、それらが醍醐味だ。惑星アースとの通信も往き来もままならん神界で醍醐味を味わうことができんと解っとってお金で全て終わらせた感がある。おまけに、お金ってのはひとびとからの信用度やからお前さんが全てのそれを突き返してきたように俺は感じた」
「音さん、後半は少し感情的な意見では──」
「いいえ」
と、音羅が否定しなかった。「わたしには、父のいうような気持もあったと思います」
「……はっきりとしていないのですよね」
「地元への寄与や社会貢献のためだけかといわれると、少し、自分でも疑問で。パパ」
「ん」
「なんでも知っているんだね」
「見聞きしとるからね。見聞きせんでも家族のことはなんとなく解るよ」
「だよね。パパらしいや」
音羅との理解が進んでいるようなので、オトの対立的意見を止める必要はなかったか。
「そうだ」
と、音羅が手を合わせた。「メリアさん、その服でいいんですか」
「服ですか」
ララナの肉体であるためか、フィット感や肌触りに違和感がないワンピースだ。
「パパ。わたし達みたいに服を作ってあげたらどうかな」
「構わんけど」
「構わんのですか」
音羅の発案だがじつはメリアも少し気になっていることがあった。
「メリア、その服で気に食わんところはない」
「メークランではミントさんの作った服をよく着ていたので少し違和感があります」
前世でよく着ていたのは袖や裾にフリルがついたふわふわのドレス。正装を逸しないデザインで職務中も着ることができた。ララナのワンピースは装飾のかけらもなくシンプルだ。不満ではないが物足りない気がしないでもない。
「メリアさんはどんな服が好きなんですか。父なら要望に応えてくれると思います」
「そうなのですか」
と、訊いたメリアだがオトが手際よく羽織を作ってくれたのをすぐ思い出した。
「要望に寄せることはできると思うよ。いってみぃ」
「では──」
メリアはミントの作ってくれた服の感じをオトに伝えた。
要望を聞いたオトが魔力の糸を編み上げて生地を作ると裁断して──、月明りを灯す漣のような生地が観る者すべてを恍惚とさせよう。
「生地質はこういう感じでいいかね」
話をされているのに、メリアはぼんやりとしか口を開けなかった。
「すごいです……」
物的素地、要するに物体に魔力を変換させている。星の魔力を神界宮殿に仕立てるのと同じような技術でしかしオトはそれより繊細である。糸状の魔力で複数の生地を織りつつ裁断や縫製まで淀みなくこなしている。細かな作業を併行するのも困難だが、それを一〇本の指で効率的にこなすのはもっと難しいだろう。
「こんなことは、普通にできるものではありません」
「威力増大を狙って指先や掌に魔力を集中させるのが魔法の基本。本来指先は繊細な作業に向いとるから各指に役割を持たせて使わんのはもったいない」
「研ぎ澄ましたのですね」
「父は簡単にやってしまうんですよ、こういうこと」
音羅は慣れた様子で受け止めているが、メリアは驚きを隠せなかった。創造神アースにその技術があったかと言えば不明で、メリアの価値観からは圧倒的と言わざるを得ない。
「掌で連続的に魔力を束ねることは可能ですが、わたしにもこんなことは……」
「この技術にはなんの生産性もないけどね。趣味であって金にせんし」
「売ればいいのに、って、昔にもいったっけ」
「この技術に価値があるとしたら、」
生地に灯る光がふわりと消えると完成、オトが服を差し出した。「お礼を示すくらいやな」
その目差や行為を受けると、つい頰が熱くなる。
「(恰好いいのです。)ありがとうございます、いただきます」
「こちらこそ、俺の趣味に付き合ってくれてありがとさん」
淡い色合の可愛らしいワンピースドレス。今やモカ村の住民に過ぎないメリアには堅苦しさは必要なく、正装に寄る必要もない。
「メリアさん、早速着てみてください、わたしの部屋、貸しますから」
「あ、はい、ありがとうございます」
音羅に促されるようにして立つと、音羅の部屋に移動して着替えた。着ていたワンピースを畳んで腕に掛けて部屋を出ると、出迎えた音羅が息を吞んだ。
「わぁ、っ綺麗、すごく綺麗ですよ」
「そ、そうですか。音さんの腕が素晴らしいからですよ、きっと」
体の隅隅まで隙がないフィット感。そうとは外見では判らないふわっとしたシルエット。
「なんだかすごくいい気持です。彼に包まれているようで──」
温かい。作り手だから当然だろうか、どことなくオトを感ずる服に、メリアは心が和んだ。
「メリアさん、父のこと、好きなんですね」
「っ……」
舞い上がって、娘である音羅の気持を考えていなかった。「ごめんなさい……」
「謝らなくていいんです。父を好きなひとがいてくれて嬉しいくらいなんですよ」
「そう、なのですか」
「え」
「……え」
「あ……、嬉しいです、はい」
「そうですか──」
妙な間とやり取りは、音羅がそう思っていないからか。それとも、オトを嫌っている者が多かったからか。オトと音羅の雰囲気を感ずるに後者のような気がしたメリアであるが、
「音羅さん、音さんのこと、好きですか」
「はい。大嫌いなところもありますが、大好きです」
「それならよかったです」
音羅は素直だ。致命的な確執がないようでメリアは安心した。
父娘──。メリアと創造神アースの関係は互いに一方的だったか。観察者である創造神アースをメリアは大嫌いとしか思えず好感など皆無で、認めざるを得ないのは圧倒的な創造の力のみ。もし音羅がオトに対してそのような冷めた気持や感覚を持っていたら、メリアは、なんとなく嫌だった。が、その心配はなかった。大嫌いなところもあるが大好きなところもある。そんな気持をメリアは知っている。
「あの、よければでいいんですが」
躊躇いがちに音羅が尋ねる。「父のどこを好きになったか、教えてもらえませんか」
「わたしを観ていてくださることですね」
即答できるのは自分の気持を見定めていた。気持を改めて固めることができたのは、このワンピースドレスのお蔭。ララナの体に合わせればフィット感には説明がつくが、メリアの心に寄り添っていたからデザインに正装の色がない。
「音羅さんが先程いっていた音さんらしさ、同感です」
「メリアさんも何か見抜かれたんですか」
「ええ、この服が証明です」
主神メリアは、心のどこかで、自分の性格と仕事の不一致を感じていた。民を守り、繁栄に導く。それはやり甲斐があり、愉しくもあり、注目されれば満たされもした。ミントに服をもらって着たとき一瞬、我に返った。いろんな服を着てみたいとか、外で遊びたいとか、誰もいないところで寝転がってのんびりしたいとか──。
「わたしは、無責任になりたかったのです。誰にも咎められることなく、は、さすがに難しいかも知れませんが、そんな心を察して彼はこの服をくださった」
ミニ丈で仕事はできないし、仕事用の外着にするにはもったいない。できるなら、デートで着たいのがこの服だ。それで、ちょっぴり誘惑してみたりもしたい。彼が外に出たがらないならお家デートでもいい。どう迫ったら、どう尽くしたら、悦んでくれる。どう触れたら、どきどきしてもらえる。大胆に迫るなら却って家がよく、想像が膨らんで止まらない。
「音羅さんも服を作ってもらったことがあるのですよね。その服でデートなどしませんか」
「っ……、デートですか」
音羅が背を向けるように階段のヴァイアプトを視た。「父は引籠りで、買物くらいです」
「──気持が高まる服で出掛けたらきっともっと愉しいでしょう」
「はい、まあ、家では話せないようなこともいろいろと話せますから、きっと」
オト以外は女性のみの竹神家。母ララナにしか話せないことは多いだろうが父オトにしか話せないことも多いだろう。けれども、音羅の応答はずれている。メリアはオト製の服を着て出掛けるときの話を振ったのであって相手をオトに限定していない。
……特別な気持があるから受け取り方が偏ったのかも知れませんね。
取っ掛りになる話をメリアはララナから少し聞いている。音羅を始め、娘は父であるオトを異性としても愛している部分が確実にある、と。自分の記憶が土台にあるからで、継承記憶が消えれば感情の根本部分が失われるともララナが話していた。起源は結果に大きく結びついているので起源が失われれば結果も大きく異なる、と、いう考え方だ。ララナ達の観察によれば娘の感情にはそういう部分がある。ただ、起源と結果のあいだに横たわった経過もとても大事だとメリアは思うのだ。メリアの過去に当て嵌めるなら、疑う余地もなく兄アデルを好いたことが起源、ぐじぐじした部分も含めてアデルを好いたのが経過、性質を問わず近親恋愛を否定する気持がなく想い合う仲なら肯定するのが結果。忌むべき創造神アースに創られた起源が無に等しく虚ろだったとしても、経過があり、結果もある──。
背を向けたままの音羅に、メリアは尋ねる。
「わたしの存在を知ったとき、音羅さんはどう感じましたか」
「どう、って、例えばどんなふうですか」
「わたしは、」
口にしていいか迷ったがメリアは踏み込む。「音さんと夫婦の関係です」
「っ」
「そんな関係のわたしに対して、音羅さんは何を感じますか」
階段を見下ろす木製の欄干に手をついて、音羅が立ち止まった。
「メリアさんは、どうなんですか」
振り向いた音羅は、不安そうな顔だった。「父の妻同然ならわたしは娘も同然ですよね。それなのにメリアさんへの心境を訊くのは、なんか、変な気がします」
父への好意のみならずメリアへの嫉妬も覗かせている。それでも父オトの感情を優先し、受け入れるべく気持の整理をしている。健気で優しい子だ。メリアは音羅をいじらしく感じた。ただ、娘としての心配りであるならそれは不自然ではないか。強く想っている相手を独占したい気持と裏腹に相手の気持を尊重したい気持も強くあるから健気なほどに心配りができるのではないか。
「音羅さん。本音をいいますね」
メリアは、音羅の横顔を窺った。「わたしは羅欄納さんにさえ嫉妬しています。娘同然のあなた達にも、会ってすらいない子にも、嫉妬しています」
「……。どうして、そこまで」
音羅が目を視て言った。「関係があるから、そこまでできるということですか」
「いいえ。彼に惹かれたからです」
真先に嫉妬したのはララナに対して。強くて重い嫉妬と羨望だった。最初から肉体の主導権が自分にありオトと出逢っていたのが自分だったら第一夫人の座は自分に与えられ、堂堂と妻となり子を作って尽くすことができた、と、メリアは思った。無いものねだりだ。第一夫人になったのも子を作ったのもララナだ。今以上に引籠りで消極的かつ受動的で理解不能なほど達観し、先の先まで読み尽くして動いていたオトの死の意識を変えてゆいたのは、絶え間なく果てなく尽くすことを諦めなかったララナにほかならない。ララナと同じことができた、と、メリアは言えない。苦しんでいたオトを救ったのは間違いなくララナだった。その上での第一夫人の座であり子の誕生なのである。妬みもあれば羨みもあるが、ララナの努力がなければメリアはオトに出逢うこともなく消えていたかも知れない。ゆえに、メリアは彼と同様に彼女を想っている。ただし、生まれた妬みや羨みは常にどこかにあって、そちらへ気持が引き寄せられてしまうこともある。
音羅に限らず、オトと接触してきた全てのひとに対しても、ララナへの気持に近いものをメリアは感じている。オトと出逢うのが遅かった自分の不幸を僻んでしまうくらいに。でも、オトの娘である音羅達に関しては、感謝の念がある。オトが生き存えたのは音羅に加えて五女謐納のお蔭であるそう。オトが生きようと思えたのはララナと娘の存在があったから。竹神家全員が何かしらの形でオトを支えている。そうでなかったらオトはとっくの昔に死の選択を回避できなくなっていただろう。
メリアは幸いにもオトと出逢うことができた。みんなのお蔭だ。オトを支えた全てのひと、オトに取って大切な家族の存在は、メリアにも既に殊に大切なのである。
「気持は海のようです。優しく包みたくても、抗えないうねりがあります。打ち消せないうねりは、強まるばかりです。なので、できるだけ気持に素直でいたいのです」
「……答えてくれて、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀して、今度は音羅が答えた。「わたしは、正直、メリアさんを、恐い、って、感じています」
「どういう意味ですか」
「父を、奪われたみたいに感じて……」
時折の沈黙はメリアへの嫉妬の顕れ。「母は父が複数の女性と仲良くなることに寛容で、わたしも両親がよければ従うつもりはあるんです。わたし自身はどんどん父が遠くに行ってしまっている気がして、どんどん距離を置かれている気がして、不安で、それも恐くて……。メリアさんがこうして現れて、母の恐ろしさが二倍になったようにも感じています。それでも父は止まらない。どこまで遠くに行ってしまうのか……」
好きで好きでたまらない。けれどもいろいろあって伝えられない。音羅は、そういう状況にあるのだろう。
……音さんは、きっとそれを察していて何もしないのです。
音羅を娘として扱っている。五女謐納のように音羅が迫らなければ受け入れないか。
考えるのが得意ではないと言いつつも音羅は親子という一種の壁を捉えてしまい、オトに慎重になってしまうよう。ぽっと現れたメリアにも積極的かつ優しく接することのできる音羅がオトには積極的になれない。兄に迫った経験からか、メリアは音羅を不憫に思ってしまった。
すべきでないような踏み込んだ話題を進められて音羅が応えてくれる確信を持てたからか、メリアはさらに踏み込みたくなった。
「音さんはどれだけの女性と仲良くなったのでしょう。音羅さんは知っていますか」
「母の前に何人も付き合っていたらしいです。ここに引っ越してからはテラスさんを妻にしたようですし、村に限らなければほかにも恋人や奥さんを作っているかも知れません」
メリアが聞きたいのはその先、音羅の気持だ。
「音羅さんはそれを否定しないのですか。放っておくのはつらくありませんか」
「父は引籠りですけれど、良くも悪くも、動き出したら止まらないんです」
苦笑の音羅であった。
オトの気持と行動を尊重するも全てを前向きに受け入れているわけではなく、音羅は心に重いものを感じているようだ。それは苦しみといえるだろうにオトが自由に生きているのはどうなのだろう、と、メリアは思うも、保身であろうか、全否定はできなかった。
音羅も気になることがあったようで、メリアに質問した。
「ネックレスは父に預けられていますね。母と交替するときはいつも外すんですか」
「はい。羅欄納さんへの想いをわたしが身につけるわけにはいきませんから」
「体は母でも中身はメリアさん……。贈り主の父も複雑ですよね」
装飾品に話題を縛ったのでもないが、メリアも音羅の髪留めに注目する。
「音羅さんの髪留め、綺麗ですね。もしかして音さんのプレゼントですか」
「はい。蜻蛉玉が気に入っていてゴムを替えながら何十年も──、って、メリアさん」
「はい」
「父、待ちくたびれて眠ってしまうかも……」
「そろそろ下りましょうか」
「お話、聞いてくれてありがとうございます」
「あ──」
ずかずかと踏み込んだ自覚があったメリアであるから、真先に感謝してくれた音羅の心根を再確認して、
「こっちこそ、いろいろと話せてよかったです」
と、お礼を伝えた。「でも、無神経なこともいって……ごめんなさい」
「いいえ、隠し事をされるよりずっといいです」
微笑みかけてくれた音羅にメリアは小さくうなづいた。
音羅に続いて居間に戻ったメリアはもらった服の感想をオトに伝えつつ、どうしたら音羅がオトに対して積極的になれるか考えていた。語弊がありそうだがオトに仕掛ける策も併せて考えていた。煮えきらずどん詰りだった。思考の原点に立ち返れば決定的なことを知らないことに気づかされ、立ち止まることとなった。音羅がなぜオトを好きになったのか。感情の起源や経過を本人から聞きたいが、アシスト目的の踏み込んだ質問はお節介と煙たがられるか、などと考えていると昼になっていた。
「パパ、仕事の相談に乗ってくれないかな」
と、音羅が尋ねると、オトがあろうことかこんなことを口にした。
「メリアと一緒に探してきぃな。魔物討伐ならメリアがおってくれれば安心やし」
メリアは透かさず挙手した。
「お言葉ですが音さん、わたしは争いごとが好きではありません」
「力を揮うのは恐いしな」
……この方はっ。
いろいろと知っている。
「音羅をアシストするんやろ」
……っこれは方向性が違うのですよ。
しかしだ、事実、魔物退治に危険は付き物。
「パパは来ないの」
「メリアと仲悪いん」
「そんなことないよ。ですよね。も、もしまだ仲良しじゃなくても仲良くしたいです!」
熱心な目差を向けられてメリアはきゅんとした。
「音羅さん──、わたしも同じ気持です」
「互いに意欲があるならすぐ仲良しやね。畑を下って広場の西脇に行ってごらん」
と、オトが玄関を指した。「〈ハンタ紹介所〉ってのがあるから訪ねてみぃ」
そこでは魔物討伐の仕事を斡旋しているため、音羅のやりたいことができるとのこと。
オトの情報に感謝した音羅が疑問に思ったのは、
「魔物の情報ってどうやって集めているんだろうね。惑星アースでも魔物の侵入なんかを国が防衛機構で見張っているって話だった」
「似たようなもんやよ。発見された魔物を外見や魔力反応から一定の枠に嵌めて、粗方の性質と行動を分析、危険度を判定する。パソコン等で電子情報として蓄積・共有しとるとこもあるみたいやけど、フリアーテノアはほとんどの地域が紙媒体やね」
「新入生には上級生の強さが判らないってことがあったな」
「経験や知識の差による誤認や欠落は神も人間も大差ないよ」
「観察する神様次第で穴があるかもってことだね」
「魔物討伐に携わったことがあるひとが観察するって話やけど」
「同級生でも力量差があった。ところで、ひととはいうけれど神様なんだよね」
「人型なら神だろうがなんだろうがヒトやろ」
「テキトーだなぁ」
「俺やもん」
「そうだね」
……説明になっていないのに納得できるのですね。
やり取りの慣れた父娘である。メリアは一つだけ注釈を入れることにした。
「神は神同士で『ひと』や『ひとびと』と表現しますから、音さんのテキトーはそれなりに合っていますよ」
「パパも意外と根拠があるんですよね」
……それを判っていて。つうかあ、と、いうものでしたか。
「話を戻すが、環境変化による盛衰とかでも情報違いが起こるかもね。実害のなさそうな魔物を放置して魔物同士の淘汰を狙ったり、ひとを害した魔物には大人数での討伐作戦を企画して人材募集したりするのが紹介所やから、魔物退治に携わるひとは仕事場として訪ねるんよ」
「なんにせよ、そこに行かないとわたしは仕事がないわけだね」
「料理を作るのが嫌ならそちらへ行ってみるといい」
「うん、食べるほうが好き」
音羅がメリアを振り向き、「と、いうことなので、よければついてきてもらえませんか」
争いは避けたいが相手が魔物では問答無用で襲われることもある。
「(音羅さんを傷つけられたら嫌です……。)状況を観察して必要なら手助けしますね」
「ありがとうございます!じゃあパパ、」
音羅が立ち上がった。「夜ご飯はお願いね」
「碌なもん作れんけどね。いってらっしゃい」
「いってきます」
音羅が先に家を出る。
メリアも、
「いってきますね」
と、声を掛けると、オトが微笑で、
「気をつけていってらっしゃい」
と、返してくれた。
背中を見送られて家を出るという経験は、ララナに肉体を借りてからもほとんどなかった。
……心地いいですね。
玄関扉を閉めて少し歩いてから振り返る。帰る場所が、香り豊かに佇んでいる。
……これからは、「ただいま」をいえるのですね。
音羅とまともに話せないのではないかと不安に思っていたときと打って変わって、足取りが軽かった。
……畑を下って……、あれがハンタ紹介所。
中央広場の西、景色に馴染む木箱のような小屋に音羅が先着していた。書類をやり取りするのだろう、小窓と筆記台のみ設けた簡素な造りだ。
……資本と人材を無駄にしない堅実的な運営。景観を壊さない配慮も立派ですね。
「メリアさん、これに名前を書くようですよ」
氏名を書き込む欄のある紙が差し出された。ハンタ登録の申請書類らしい。
……見知った文字。何億年も経つ現代にまで設計が生きています。
一つの大きな驚きであったが、輪廻転生の仕組や緋色童子の呪いなどあらゆる設計がなくなっていないのだから驚くことでもなかったか。
仕事の話を進めよう。
「仕事をもらうにはハンタにならなければならないのですね」
答えてくれたのは受付の男性である。
「危険だからね、知らないひとには任せられないし、堅くいえば人員管理が必要なんだ。君達は見ない風体だ。あのオトんとこの関係者だろう」
「なぜ判ったのですか」
「モカ村は他民を受け入れない。わたし達も村長の許可をもらって特別に紹介所を置かせてもらっているだけで住んではいない。永住を許された特殊なケースでも有名だよ、彼は」
……でも。活動的な村で閉じ籠もっているからでしょうか。
「オトというのはわたしの父なんですよ」
と、名前を書いた音羅が言った。
「驚いた。ララナさんに似ているとは思ったが、お姉さんかい、いや、それだと──」
「はい、わたしは娘です」
「そ、そうか、勘違いしてすまなかった。間違えたこと、ララナさんには秘密にしてくれ」
「少し気にしていることだと思うので、そうしておきます」
「助かるよ。お得意様に粗相したくはないんだ」
「母もハンタをしているんですか」
音羅は初耳だったようだ。
受付の男性が遠い目で答えた。
「コスト的に助けられているんだ。どうやっているかは、まあ、聞かないことにしているが、とにかく一騎当千の凄腕だよ」
人並外れた戦闘能力はララナに取ってつらい過去の産物でもあるが、家計を助ける力にもなっている。強力な魔物を討伐することで世にも貢献しているという認識で間違いない。
音羅と並んでメリアは書類に名前を書く。ライトレスでもウオイキャでもなく、
〔竹神メリア〕
……わたしは、もう……今は、そうなんですよね。
竹神家の一員。オトやララナに受け入れてもらえたから、そう名乗ることができる。音羅を始めとした竹神姉妹にも心から受け入れてもらえたら名実ともに──。弾んだ胸を密かに確かめてメリアは書類を窓口へ。
「あ、君も彼の関係者だったのか」
「親類です」
ララナとの肉体共有は創造神アースの魂とジーンの行動が絡んで経緯が複雑だ。当面の話だが、特に説明する必要がないときメリアはララナの姉で通すことになっている。音羅の意欲もあって仕事に早く取りかかりたいので今回はマニュアル的な対応をした。
「なるほど、あのララナさんの関係者なら魔物退治くらいわけないだろうな。だが、試験を受けてもらう必要はある。準備はいいかな」
メリアは音羅と目配せ。
「試験とは、どんなものですか」
「簡単な魔物退治だよ。ハンタには協会が定めた格づけが与えられる。最下級であるFランクが斃せるレベルの魔物を退治し、証拠を持ち帰ってほしい」
窓口から差し出されたのは討伐対象の情報が手書きされた書類で、写真が貼られている。ハンタはこれで仕事内容を確認するそう。
「水牛みたいな、二本の角を持つ魔物。この魔物は、斃すだけじゃダメなんですか」
と、音羅が尋ねると、受付男性が説明した。
「君達を疑うわけじゃないがときどきいるんだ、討伐したと噓の報告をして報酬を掠め取ろうとするヤツらが」
「魔物はどこからともなく湧いてきます。討伐直後もそうです。その生態を悪用するひとがいるのですね」
「そういうことだ。お互い気持よく仕事するために退治の証拠がほしい。それに加えて、今回の討伐で持ち帰ってほしい角は薬になるんだ」
話しつつ、受付男性がカメラを差し出した。「これでリカランスの粒子を撮ってもらってもいいが、角のほうが助かる」
リカランスの粒子は魔物が息絶えたとき発する白色や薄黄色の光で、討伐の証たり得る。
差し出された魔導カメラを音羅が受け取ると、メリアは採取後の角の扱いが気になった。
「角は煎じて販売するのですか」
「ああ。効き目は証明済みだ」
「流通経路もありそうですね」
「今回に限らなければ毒物もあるが、痛み止めになったり傷薬になったり有用なものがいくつもある。安定供給できるものでもないから小さい市場だが需要があるよ」
「(恐らくは怪我の多いハンタへの販売で実質的なコストカットも見込んでいますね、)魔物被害抑制と薬品流通、防衛持続性、一石三鳥に納得です」
動植物には、体や組織の一部にひとに取っていい成分を持つものが数多く存在する。使い方を間違わなければ毒も有用だ。普通の動植物だったものが魔物化した場合、いい成分をそのまま持っていることもあれば成分が濃縮されていることもある。話が変わるようだが、生物が宿す個体魔力はその生物の死後、自然魔力に還元されて自然界に放出されるため体に残らない。死後還元というその現象によって魔物が持つ穢れが失われるため遺物を使っても健康被害は起こらない。なお、試験で斃さなければならない水牛もどきの角には咳止めや解熱の効能があり風邪薬として用いられるそうである。
……緊急性の低い薬です。三鳥はいいすぎでしたね。
手術に用いるような薬はともかく、対症療法薬はそのほとんどが自然免疫と食事療法で治まる症状にしか使えない。一時の症状コントロールなら看過できるが肝臓ほか内臓諸諸のドミノ的・連鎖的ダメージを考慮して薬の使用は控えるのが一番である。薬に依存するようになると薬物相互作用を招くリスクが高まり重大な害を被ることもある。
……音さんの仰っていた人災とはそういうものかも知れませんね。
などとメリアが考えているうちに、
「そこに書いてある通り川辺のほぼ全域にいるからすぐ見つかるだろう」
と、受付男性がアドバイスを添えて試験の開始をゆるりと告げた。「頑張って」
「『はい』」
揃って返事をすると、業務内容を確認がてら書類片手に緑香る森をくぐる。
……モカ村、ペンシイェロの木、独自の生態を有する豊かな森──。
「この近くで川ってどこにあるんでしょうね」
「音羅さんも周辺地域に詳しくないですか」
「ほとんど空間転移で往き来していたので村の中も空覚えです」
「それでは、水属性魔力が流れている場所を魔力探知で探しましょう」
既に探っていたメリアは北西を指し、次に北北西を指す。「一番近いのはあっちですが、もう少し右のほうが魔力反応が多いです。恐らく、討伐対象です」
「そこまで判るんですか。メリアさん、仕事が早いですね」
「討伐は主神の仕事の一つでした」
「いろいろ学べるように父はメリアさんをつけてくれたんですね」
「そうでしょうね。──」
音羅が目を細める横で、メリアは少し思うことがあった。
……音羅さんは、魔物討伐の経験がほとんどないようですね。
魔物と思しき魔力を探る作業は積極的討伐・動向分析・安全確保における初歩であるから、何度か魔物討伐に携わればおのずとやるようになる。そのことから、音羅は能動的に魔物と関わったことがないか魔物討伐に不慣れか消極的と考察できる。そんな音羅が魔物討伐の仕事をしたいと言ったのはなぜか。
……頭に入れておいたほうがよさそうですね。
新天地で新たなことに挑戦しているというなら構わない。何かの迷いというならやめさせることも視野に入れる。危険の多い魔物討伐は積極的に勧められる仕事ではない。
固有の植物群を踏み荒らさないよう木の根を辿って森を抜け、目の前に広がる平原を見渡して北北西に歩を進める。
「音羅さん、魔物の数が多いので気をつけましょうね」
「はい。そろそろ撮影の準備もしないと……」
首に下げた魔導カメラを音羅が両手に収める。「討伐前に練習をしたほうがいいですよね。使い慣れないと、なんとかっていう粒子の撮影が心配です」
「わたしは機械の扱いを知らないので、音羅さんが慣れていてくれると助かります」
大地にやや高低差があって目視できないが約二キロメートルの位置に魔物らしき群れ。通常の魔力探知で不知得性魔力の穢れは探知できない。同じく不知得性である星の魔力で穢れを探知すれば魔物かどうか判別できる。
……穢れは……ありますね。水牛もどきで間違いないでしょう。
魔導カメラで撮影できなくても角が手に入れば試験は合格。仕事は常に完璧を目指すべきであろうが、
……高望みは失敗のもとです。
魔物討伐に慣れている集団なら危険性の除去や態勢立て直しなど状況回復を見越した中長期的作戦を立てられる。今回はそうではない。音羅が初心者であることを考えると生き残ることを先決してもいいくらいだが、それでは試験に合格できない。それに、実戦を通した成長は継続の力になる。音羅に経験を与えつつ最低限の仕事をさせられるよう、メリアが安全に気を配るのがいい。水牛もどきを一体以上討伐し、リカランスの粒子を撮影するか角を手に入れる。これが今回の最低限の仕事だ。
……環境も探っておきましょう。
緩やかな曲線を描く川の近くに町と町を結ぶ土曝しの街道があり複数のひとの流れがある。
……川を跨ぐところ、街道には橋もあるようですね。
書類によると近寄らなければ水牛もどきは害を及ぼさないとのことだが、川辺を移動する群れが街道に近づかないとは言いきれず、街道を行くひとびとが川で給水を行うこともあるやも知れず、橋ではその危険性が高まる。
魔物はいくら斃しても湧いて出る。全滅させても一時的な安全しか得られないが、怪我人が出れば治療に人手が要り、被害の事実はひとびとの生活に影を落とす。一秒でも長く一人でも多く救うことが魔物討伐業務の目的で、これの継続が平穏を保つ秘訣である。とは、飽くまでプロの思考だ。そこまで考えて動けと強いては音羅へのプレッシャになる。今回はメリアが配慮すればいい。
「音羅さんも戦いますか」
「はい。カメラを壊さないようにしないと」
「参考のため訊きますが、音羅さんは魔法で戦いますか、武器で戦いますか」
「最初に学んだのが徒手格闘だったので、それが一番いいです」
「立ち回っているあいだにどこかにぶつけるかも知れませんからカメラは預かりましょう。撮影のタイミングで渡します」
「メリアさんは魔法で戦うんですね」
「ええ」
魔法での接近戦ならできるが剣術や体術とは別物だ。負媒を使えば膂力や速度で圧倒できるが魔物より危険な存在になっては本末転倒である。
魔導カメラをメリアに渡して音羅が確認する。
「魔物を斃したらわたしが撮影、と、いう流れでいいですか」
「可能なら複数斃して帰りましょう。角は余裕があればで構いません」
「前の守りは任せて、メリアさんは魔法に集中してください」
「はい。音羅さん、くれぐれも気をつけてください」
戦う前から気弱になる者もいる。音羅の気力を疑う必要はなさそうだ。積極的に魔物と関わったか否かはともかく、戦う気持があるならなんとかなる。
二〇分ほど歩くと、川辺に屯する魔物を確認できた。右手には馬車の行き交う街道がある。木陰に入った音羅が魔物で練習撮影をして魔導カメラをメリアに渡した。メリアは早速魔法による先制攻撃を仕掛けようとしたが、音羅が幹に手をついたまま動かない。
……、音羅さん……。
「……」
「大丈夫ですか」
「……」
反応がない。気を失っているとか、気後れしているとか、ではない。その眼に宿るのは、明らかな嫌悪だ。同時に、何か別の感情が滲んでいる。
魔物に何かしらの因縁があるのだろう。魔物を前に立ち止まっては死の危険がある。
「音羅さん、こっちを向いて聞いてください」
「……、はい」
掌を翳して誘導した戸惑いの眼を、メリアは見つめる。
「今はただ愉しみませんか」
「……、戦いを」
「魔物がひとびとを害することは世界の常識で揺るがぬ事実です。一体の魔物が無抵抗なひとびとを傷つけて回ることもあります。一体斃せばその危険性を一つなくせる。ひとの生命や財産を守れるのは、とても嬉しく、愉しいことです。そう思いませんか」
「そう、ですね……」
心に響いたという顔ではないが、「ここでやらないと無職ですからね」
音羅の動機は人間社会では当り前のものなのだろうか。
「音さんや羅欄納さんは無職でも気にしないと思います。なぜ就職したいのですか」
「母はわたしが支えないと。それに、父と違ってわたしは家に引き籠もっていたらダメです」
「駄目ですか」
「はい、ダメなんです」
どうダメなのかは曖昧だが、ララナを支えるという明確な動機があるならいいか。魔物を見る音羅の表情から察するに引き籠もると考え込んで気が晴れなくなるのだろう。
「では、気を引き締め直して。わたし達の手が届くときは向こうの手もこっちに届きます。躊躇はいけませんよ」
「はい、頑張ります」
少し話したら気が紛れたか、魔物に向かって駆け出した音羅である。メリアはその背中を見送って状況観察と魔法に集中した。
結果から言えば魔物討伐に苦労はなかった。リカランスの粒子をメリアが慌てて撮影するほど音羅がばったばったと魔物を消滅させたのだ。拳や蹴り、淀みない派手な立ち回りに対してメリアの魔法は先んじて魔物の角を折って回収するのに使うのみだった。
両手に角を抱えて戻った二人は当然のように試験をパスし、正式なハンタとして仕事を請け負うことが認められた。確保した角の数と撮影内容に応じて報酬が増えるようで、メリアが見積もった最低限の仕事と裏腹に最大限の報酬を得ることができたのだった。粗を挙げるなら、メリアが撮った写真がピンぼけばかりだった。音羅ではなくむしろメリアのほうが最低限の仕事をできていなかったともいえるが、それは報酬に影響しなかった。
──いや〜、オトも完璧だったがここまで素早く試験をクリアできるとはね。
とは、受付男性の感嘆である。仕事の結果よりオトがハンタになっていたことにメリアと音羅は驚いたのだった。引き籠もっていながら収入を気にしていたとは、と。
短い家路で、音羅が口を切った。
「パパ、必要なら魔物討伐もやるんだなぁ」
独り言のようだった。それに突っ込むのもどうかとは思うも、メリアは音羅に一つ質問することにした。
「音羅さんは魔物討伐が必要と思いますか」
「そうですね……、メリアさんがいうように、危険な目に遭うひとがいるなら、ですね」
魔物は斃す。一般的なその考え方を音羅は少し疑っているよう。危険な魔物を見定めるべきという考え方は魔物と足枷だ。音羅が危険な目に遭わないよう見守る必要がある。
家に到着すると、三和土から框を上がって居間の横座と面する。そこにオトが変らず座っていた。
「首尾はどうやった」
「パパのことだから解っていそうだね」
「合格やろ。ま、相手が小物やしメリアもおったから当然として」
オトが湯吞を仰いでから、「俺がハンタになったのはお金目当やないよ」
「そうなの」
先回りの応答に音羅は慣れた様子である。
「じゃあどうして」
「ハンタにならんと出入りが許されん場所があるらしくてね」
「音さんは何をお考えですか」
と、メリアも尋ねた。魔物討伐の仕事を中心としているハンタが入場を許されるということは相応に危険な場所ではないか。
木尻に座った音羅と鍋座に座ったメリアはオトの応答を聞く。
「暇潰しできるような場所があれば観て回りたいと思ってね。俺も神界は初めて住むし、こうして家もできたんやから散策しんともったいないやろ」
「ハンタになってまでパパが外へ出る様子はあまり想像がつかないな」
「買物はお前さんやメリアにもできるやろ。俺は俺で愉しみたいの」
「愉しみたい気は解るけれど」
音羅が難しい顔。「どうせならお金を稼いでママに楽させてあげようよ」
「嫌やね、金のために働くなんて俺はごめんやわ」
「だったら好きなことをして稼ごうよ」
「嫌。色褪せる」
「ああいえばこういう。そういうの、本当にダメだよ、パパ」
穏やかな音羅がにわかに怒りを見せた。「嫌なこともやらないと生きていけないんだよ」
「自分一人で抱えすぎとるか周りを気にしすぎたせいやろ」
と、オトが煽るような細い目。「自分の考えをひとに被せんな」
「……そんなだからいつまで経っ、ん……」
声を荒げかけた音羅が途中で強引に口を閉じて、立ち上がって、声調を戻す。「お風呂いただきます」
「ゆっくり癒やしんさい」
「……ありがとう」
微苦笑の音羅が浴室へ向かうと居間に静寂が香った。メリアは窺うのみで言葉を発しなかったが、
「いいたいことはないん」
と、彼が言うので、応えた。
「音羅さんは何かを秘しています」
「解っとるよ」
「なんとかしてあげないのですか。苦しそうで、こっちまで……」
「生生流転。世に伸され・流され生きるのが生者の修業」
「わたしは死者です」
「じゃ、お前さんがお前さんの考えでどうにかしなさいよ」
「娘の苦しみを取り除いてあげたいと、音さんは思わないのですか」
「思わんね」
目差は優しいのに、心は厳しい。「苦しみなんてのは生きる上でつきもんやろ。親だからといちいち手出ししたら子はそれに慣れきって終いには甘える。それがいいとでも」
「それは……。吐き出す場所がないまま、その……」
「音羅と少し似とるな」
「……被せてしまっていますか」
「ん。お前さんと一緒にするな。音羅は、お前さんと、ましてや俺と、同じ選択をするほど弱くない」
メリアは少し心がざわついた。
「それが過信であったら。一歩間違ったら……!」
「もしものときは止めるが、過信でもなく、そうはならん。あの子は羅欄納の子やから」
「──」
過信の一言でそれを否定できないのは、誰より彼女に苦痛を強いた身だからだった。それはひょっとするとオトも同じなのかも知れない。
「話したくなったら話すやろう。俺はそれまで待つよ」
オトらしいといえばそう。ララナのことは無論信じているが、生前に子を得られず親としての経験がないせいかメリアはやはり音羅が心配だ。過保護だろうか。
「魔物の討伐をしたがっている。それは、音羅さんの本心なのでしょうか」
「必要とあらばやるやろう。心ここにあらずでも」
「それで幸せなのでしょうか」
「義務感と幸福のあいだにシフォンが下りる」
シフォン。ミントが教えてくれた透き通るような生地にそんな名前があった。見通せるような場所にありながら隔たれている。触れているようで隔たれている。そういう意味だろうか。
「……。わたしが、音羅さんに魔物討伐を強いてしまったのかも知れません」
「あの子は正義感が強いからね」
と、オト。場所が離れていてもメリアと音羅の様子を観察できるのだろう。
ひとびとの生命・財産を引合に出して魔物討伐を愉しめるとしたメリアは、問題を掏り替えていただけだ。正義感を煽って音羅に行動を強いてしまった可能性がある。
試験合格により、音羅は望み通りの仕事を請け負うことになるだろう。このままで、果して望み通りか。
「ところでその魔導具は」
「あ、」
首に掛けたままの魔導カメラだ。「今後の仕事で使うだろうと貸し出されたものです」と、それを横に置いたメリアは、少し話を変えた。
「音さんのときはどんな試験だったのですか。わたし達は魔物を斃して角を持ち帰りました」
「水牛もどきの」
「はい」
「試験内容は同じみたいやね。無視したけど」
「え」
窓口によればオトは完璧に仕事をこなしたそうだが。「どういうことですか」
「水牛もどきの角の上位互換的なもんを持っとって有害指定されとる魔物がおったからそれを斃した。加えて、効能が相乗する漢方的なものを持つ植物型の有害指定を道中始末してそれも届けた。仕事としては四〇%にも満たんやろうけど、角を何千本も持ち帰るより効率がよかったし安全確保もできたよ」
「──そこまで気が回りませんでした。音さんは先回りがお得意なのですね。薬の配合は既存している様子でしたし……」
「俺のは既存じゃなくてその場でテキトーに考えたレシピやけどね」
「っえ」
「ハンタ協会のほうで効果が実証されて合格、って、流れね」
……先回りのレベルが違いました。
魔力配合で薬の効果は変化する。角で作る薬の魔力分析を行ったオトは魔法学的見地から効果的な薬をただちに考え出して、有害指定の魔物のみ斃して材料を調達した。オトの考え方を曲げることなく業務内容の上を行く完璧な仕事だ。が、曰く四〇%未満、オトは満足な仕事ができなかったと考えている。
「音さんはどんな仕事なら完璧とお考えになりますか」
「小さな市場で業務内容も性急じゃないから重要性も需要もお察し。やから、己の考えでどれだけの結果を導き出すかが試験の意図やろう」
……それは少し考えすぎでは。
「手に入れた材料をより効率的に確保する方法を考えて調合実験と薬効データを提示、協会を通じて安定供給の実績を挙げて救われたもんが現れ無償提供できるようになって薬を必要とされんほど自然免疫を広げて薬が不要になったら完璧やね」
「個人の職責を完全に逸していると思います。見込みが行きすぎです」
「枠に嵌めたがったり憶測や想像を否定したがったりするもんの多くは知識や社会に縛られた凡人やよ。斯くいう俺も引籠りの平平凡凡人やけど、考えるもんがおらんければ永遠に始まらんこともあるかも、とは、思う」
考えて動いて成果を得られないこともある。成果を得るまでの思考はしかし当然考え始めなければ得られないのである。
「……やっぱり、あなた樣はすごいのです」
「拝むような字を充てるんやないよ」
「見えない文字を捉えないでください」
「恍惚の表情に出とるわ」
「ごめんなさい。でも仕方ありません。わたしは本当にすごいと感じたのですから」
「そうでもないよ。手段を選ばん殺戮者に違いはないし」
薬が必要なくなれば完璧と締め括ったオトをメリアは立派だと思った。
「自己保存本能に付け込んだ商売を重く観て、薬が必要ない社会を追求する。考えが及びませんでした。仕事をするのにこれでは気が抜けています」
「それがいいよ」
オトが認めたのはメリアの視点である。「音羅のこと、観とってくれたんやろ」
「ほとんど、何も解っていないと思います……」
魔物への嫌悪感の正体が摑めていない。音羅がオトに垣間見せた怒りの原因にも想像がつかない。そんなことでは観ていたとは言えない。
「羅欄納や俺に音羅の過去を聞けば一発やろうに、訊こうともしてないやろ」
音羅の決断については知っている。が、音羅個人の過去を詳らかに聞いたのではない。
「音さんの真似になってしまいますけど、音羅さんから話してくれたら最良と思います。信頼されているということですから、わたしも踏み込んでいいと自信を持てます。今はきっとそうではありません」
不躾な言葉を押しつけて無神経に立場を主張して強引に心を引き出したようなものだった。打ち解けて語り合うような、過去も曝けるような仲とは程遠い。
「そこにおらん俺のことを訊いたりはするのにね」
「ふぇ、っごめんなさい」
「いいよ。表のない俺を知るための対等な行為やから」
変なところで寛容だ。
「わたしは信頼されるようなひとではありません。昔より慎重に、歩み寄りたいです」
「慎重かね」
「昔に比べれば」
「そうやね。その気持があればいつか解り合えるよ」
オトが淹れてくれたお茶を飲んで、メリアは一息ついた。
西日が木木に埋もれた頃、音羅がぼんやりとした顔で浴室から出てきて、夕食となった。オトの作ったものはどれも美味で音羅の目も一時的に覚めた様子だった。慣れない戦闘に疲れたか自室へ向かう音羅の足取りが危なっかしくて、メリアは脇で支えて送り届けた。
部屋を出ようとしたメリアは、すっかり眠った音羅の寝言を耳にした。
──いい加減に、して……。
隙間の扉。覗いた遠くの寝顔が険しかった。悪夢だろうか。なんの。想像がつかない。
いっそのこと彼らから過去を聞いてしまおうか。そう思ってしまうくらい、メリアは音羅に早く手を差し伸べたかった。
──七章 終──