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五章 善悪戦争

 

 通商条約を言い出したアデルとしては主神ジュピタに丸投げするのは忍びなく、トリュアティア運営をスライナに任せて各神界主神からニブリオ滅亡やジーンなどに関わりそうな情報を聞いて回った。第三創造期の神も第四創造期の神もアデル以上にジーンに詳しい者がおらず、神界ライトレスに関しても既知の情報にとどまった。そうするうちにも各神界は星の魔法に抗する心構えをし、着実に軍の総合力を高めた。

 トリュアティアに戻ってまともに眠った翌夜、スライナの奨めでアデルは休暇を取り、海水の搬入で訪れていたメリアと久しぶりに会話する機会を得た。

 メークランほどではないが、以前に増して雨が降るようになったトリュアティアの夜。メークランと似たような構造の神界宮殿。アデルの私室のベランダから数数の河川と水源が目に入る。水質・環境改善のため調査員が植えた緑が随所に根づき、長年続いた荒地の影はない。

 一人では成し得なかったその大地を眺めて何を思うか。アデルは、隣のメリアから感想を聞きたかった。

「お前もメークランのため、民のため、懸命に環境の整えてきた。皆の生きるこの大地を、お前はどう思う」

「アデルさんにはみんなが、みんなにはアデルさんがいなければ、空間転移を手に入れることができず、メークランに辿りつくこともできなかった。みんなの思いが芽吹かせた素晴らしい土地だと思います」

「うむ。メークランを視察したときオレも同じように思った」

 海底に築かれた広大な都市には今ではトリュアティア製の列車や魔導車が走っている。メリアが関わった都市開発事業が将来性を持ち、成功していたからこそ車の走行スペースが確保されており、民が自由に愉しく暮らせる環境を整備できた。

「メークランの民もお前やミントを必要とし、お前やミントも民を必要としている。いい循環だ。ほかの星星も主神と民がいて、立ち塞がった問題を解決し、星の成長を助けたのだろう。ニブリオも例に漏れない。皆、さぞ無念だったろう……」

「……、責任を感じていますか」

「感じているとも」

 ニブリオが狙われることはおろかキョウダイに敵性分子が増えるとは思っておらず、その疑いを掛けることになるともアデルは思っていなかった。

 ……悪神のキルアやジーンは最初から敵性分子と認識していたが。

 弟妹と連携すると言いながら自分が主導したトリュアティア発展の歩みを思うとキルアやジーンも同じように民を想って行動しているはず、と、思いたくて(姉弟妹と連携する)とも内心では思っていた。創造の頃に植えつけられた敵視が正しいのか、ジーンを敵性と見做せ得る情報を得た今だからこそ、アデルは慎重に見定める必要がある。

「戦闘以外オレは何も知らなかった。とは、お前が海水牢にいたのを目の当りにしても思ったがな、今またそう思う。オレが早くに気づいてさえいれば防ぐことができた滅亡やも知れぬ」

「それは、できなかった」

 メリアが断言のように言ったが、「そう思うしかないではありませんか……」と、消極的な意見であった。

「そうなのだがな」

 と、アデルは返すも、闇に背を預けて話していた頃とは違う。「自分を過信しないが侮る積り(つも  )もない。オレが止められたはずの滅亡、救えたかも知れぬ仲間と歩み。それらが確実にあったのだ。お前のようには考えられぬ」

「なら、ここから全力で守る。それがアデルさんのやり方ですね」

「うむ。ニブリオを滅亡に追いやった悪神を、討伐する」

「頑張ってください。応援しますね」

「うむ。……」

 早くやれ、と、尻を叩かれたようだった。気心が知れているというのは、ときに、やりにくいものであった。

 アデルはその夜のうちにスライナと会議し、ニブリオ滅亡に関わった悪神の討伐を提案、意見の一致を確認すると、連携神界全体にこれを共有、全体としての合意を得た。

 ここまで来たら、もう止まれない。悪神が誰でも、キョウダイでも、仲間のうちに潜んでいたとしても、民や仲間を傷つけた報いを受けさせる。戦神として決着をつける。とうの昔に決意した戦いを、アデルはその夜、直視したのである。

 

 

 神界ライトレスの空間座標が判らずジーンどころかキルアの所在も摑めず時間が過ぎると、トリュアティアや連携神界各地が発展・人口増加を観た。

 ……嵐の前の静けさ。

 兄の語りのみでもララナはそれを感じた。それが語り手、神界の歴史を築いてきた兄自身の実感であることはすぐに語られた。

「ニブリオ以降、滅亡させられる神界もなく一二年が過ぎ──、事態が動いた」

 

 

 メークランから緊急連絡が届いた。

〔メークランに悪神と思しき

軍勢の急襲。

ジーンらしき者の目撃あり。

至急支援願う。〕

 主神ジュピタの葉書だ。

 こうした緊急事態時、各主神は襲撃された神界に支援部隊を送り込むとともに治める神界の守りを固めることになっている。一方、アデルは支援部隊とともに出撃する方針である。

 アデルはカノンを呼び、トリュアティア防衛の任を与えた。

「論ずべきことはない。お前の思うままに民を守れ。いいな」

「はい!」

 槍を携えてうなづいた青年に、初任務で疲れ果てていた頃の面影はいい意味でない。今やアデルに次ぐ戦闘能力を身につけ、仲間の信を得た立派な戦士である。

「アデルさん、気をつけて」

「うむ。トリュアティアを頼んだぞ」

 支援部隊を引き連れたアデルはただちに出発、ジュピタを経由しメークランに到着した。

 神界宮殿前は変化を感じなかったが、普段穏やかな水面が陽光を激しく煌めかせている。魔力探知を掛けて判ったのは混雑した個体魔力の動きである。一つ一つが善神か悪神か特定できないほど入り乱れている。少しずつ減ってゆくのは、命を落とす者がいる。

「敵は都市だ。警戒して進め」

「『はっ!』」

 アデルを先頭にして海へ飛び込む。海水は数メートルで途切れてその下に空気の層ができている。息ができる広大な海底を能動的に動けるよう広い道路や線路が整備されているメークランの都市。その至るところに武装した人型が入り込み、無防備な民を襲っていた。

 度重なる魔物の進入から民や町を守ってきた猛者を支援部隊として連れてきたが、人型の敵を前に気後れした者が多いようだ。

 ……スライナの策が活きそうだな。

 戦いでは逡巡が死を招く。スライナから教わっていた策に従って、武装した人型を俯瞰し、海底に降り立つまでにアデルは指示を出す。

「お前達は民を神界宮殿へ避難させよ。オレが道を拓く」

「『はっ!』」

 アデルは左手で作った小型魔法弾を右手指先で弾きつつ着地と同時に前進もし、武装した人型を一つ一つ確実に撃ち抜いてゆいた。

 ……負媒だ。

 人型を撃ち抜いた瞬間、その体内に宿る邪悪さ、負媒を感じた。あと何千人いるか知れないが、この人型は、間違いなく悪神だ。

 ……やはり、ジーンかキルアなのか。

 祭が始まると告げたキルア。警戒せよと姉のように優しく接しながら裏では襲撃の準備をしていたということか。それか、ジーンが独断でキーリア・アシエントを動かして襲撃に及んだのか。どちらにせよ、

「者ども。お前達の相手は力なき民か。それになんの意を見出したか、答えよ」

 横転した列車の上に立ち声高に訴えたアデルは注目を集めた。その隙に、アデルの連れてきた兵や他神界から集まった支援部隊が路地裏から民を救助してゆく。

「狂気に身を委ね弱き者に牙を剝く脆弱な者どもよ。オレこそが戦神、神界三〇拠点頂点主神アデル・トリュアティア。お前達が崩すべき最大の障壁と憶え置き、ほかに目を遣るはいたずらに死を招く愚行と知れ」

 そのときからアデルは自分から目を離した悪神を狙い撃ち、一歩も前後退できないよう釘づけにした上で、手招きした。

「掛かってくるがよい。惰弱の存在がここから生きて帰ることは万に一つもない。一矢報いんとする気概ありし者は敬意をもって葬ろう」

 微動だにできない悪神。支援部隊が視界全ての民を救出したことを確認して、アデルは両手を振り翳した。

「脆弱にして気概もなき愚かなる者ども、そこに朽ちろ」

 悪神の頭上に小型の魔法弾を形成、心臓目掛けて落下させ、一秒足らずで二〇〇〇を超える兵が死に絶えた。その足許には、既に犠牲となった民が横たわっている。

 ……皆の者よ、間に合わず、すまぬ。

 連絡が届いて駆けつけるまでの時間に、犠牲が出ることは判っていたこと。

 連携神界の主神として守れなかった民に祈りを捧げる前に、やるべきことを速やかにやる。支援部隊をサポートして建物内から民を護送する傍ら、隠れて隙を窺っていた悪神を討伐し、アデルは町中を駆け回った。

 ……どこだ。

 ジーンが目撃されたとの報告があったが一向に見当たらない。大混乱の続く海底都市では魔力反応が多すぎるのか。ジーンの個体魔力を見つけられない。

 ……いや、違う──。

 ──こちらの状況に停滞を感じたときは敵の術中にあると考えられますわ。

 戦神であるアデルは軍全体を指揮する能力を生まれ持っていないが、スライナが雑談ついでに話してくれた内容をふと思い出して直感が働いた。

 ……術中。この停滞は、まさか陽動。

 アデルは連れてきた支援部隊に先んじて神界宮殿へ向かった。

 ……そうだ。わざわざ都市を狙う必要はない。

 星の魔法を用いればメークランを滅亡させることも容易な敵が都市を襲ったのは、防衛側の目を引くため。メークランの兵が民を守るべく出動し、支援部隊も都市に集中することを狙った陽動。そうして、神界宮殿の守りを手薄にさせる。真の狙いはその先、統治機関として機能する神界宮殿、並びに、そこにある何か・誰かだ。

 ……なぜすぐに気づかないのだ。

 戦闘に集中してほかに目が行かなくなってしまう、根からの戦神もとい戦闘狂であった。

 ……メリア──。

 海底を蹴り、一歩で海面を突き抜け、神界宮殿前に躍り出ると、アーチを抜けて駆け込んでゆく影を垣間見た。

「(あの外套。)止まれ」

 昼間の陽光を吸い込みそうな黒は、アデルの知るジーンのものに相違なかった。立ち止まることなく神界宮殿に侵入したジーンを、アデルは全速力で追う。

 敵性分子もといジーンはニブリオに恐怖を刻んだ。次は、一神界の主神に刻み込むつもりなのだ。

 メリアの個体魔力が私室にあることを探知するやアデルは地を蹴って、神界宮殿の外壁伝いに一九階南東、彼女の私室のベランダに跳び込んだ。

「メリア、しゃがめ!」

「アデルさん──!」

 ほぼ同時、部屋の扉が開いてメリアに迫るジーン。

 ……させるか!

 アデルは絨緞を摑み上げてジーンの足を掬って部屋の外へ押し返しながら地面に手をついてメリアの足下の床を突出させた。しゃがんでいたメリアがベランダに跳びはねてアデルの背に回ると、着地したジーンが衝撃を受け流すそぶりもなく前進して今度はアデルに迫った。

「邪魔をするな、アデル」

「断固却下だ」

 ジーンの袖から飛び出した暗器を叩き落としてその両手首を抑えつけると、

 ……魔力を感ぜぬ。

 魔力潜行中に魔法を使うのは困難だ。手加減ではなく、魔力探知によって発見されないようにしていたのだろう。全力で魔法を使えるようすぐにも魔力潜行を解くであろうジーンに先手を打つ。アデルは叩き落としたばかりの暗器を蹴り上げてジーンの腹に刺すや膝で押し込み、さらに腰を一蹴して横転させた。

「ぐっ!」

 本棚に突っ込んだジーンにアデルは止めを──。

「アデルさん、避けて!」

「っ!」

 ばたばたと乱れ落ちる本の奥からジーンが暗器を投擲していた。景色を歪ませ一直線にアデルの心臓を狙った暗器は、メリアの注意喚起によって空を裂いた。壁を突き抜けて空の彼方へ消えた暗器の軌道に爆風が起き、煽られたアデルとメリアが起き上がったときにはジーンの姿が消えていた。

「取り逃がしたか。暗器に星の魔法を込めるとは……」

「アデルさん、大丈夫ですか」

 駆け寄ったメリアを抱き寄せて、アデルはベランダに出た。海面を観察すると穏やかになっており、続続と神界宮殿に避難する民の姿があった。ベランダの塀には外へ向かって跳んだ痕跡があり、空間転移の余光が宙にあった。

「撤収したようだな。ひとまず、やり過ごしたか」

「アデルさん、ほっぺた、怪我しています……」

「問題ない。お前こそひどい怪我だ」

「かすり傷です」

 爆風で倒れたので二人ともそこかしこを強打していた。アデルは本当に問題ない。メリアは右腕を骨折しているようでまともに動かせそうになかった。

 平気を装った妻を医務室に運ぶもアデルは治療を見届けず、メリアの警護を強化するよう手配、各神界支援部隊を再編成して避難・救助活動を促して宮殿・都市警備に従事させた。ジーンの撤退に合わせて都市を襲った悪神も撤退する手筈だったのだろう、残党と遺体が残らず消えていた。言葉通りなんとかやり過ごしたといったところだった。

 被害は甚大であった。後の調査で明らかになったことであるが、二三万人ほどの海底都市は半壊、七万人超が死亡、八万人が重軽傷を負った。メークランは都市機能がほぼ停止、ひとびとの生活基盤が失われてしまった。

 それをまだ知らないアデルは宮殿一階で支援部隊の指揮を執るさなか、治療を終えたメリアが連れてきたメークラン所属調査員の報告に飛びつくこととなった。

「回遊神界ライトレスの空間座標が判明しました!」

 ジーンを始め多くの悪神が空間転移したことで、魔力探知と分析ができたとのことだった。怪我の功名。ただし、向こうは回遊神界で、同じ軌道をなぞることはまずない。このあとどれほど同じ場所にとどまるか判らず、追撃するなら今しかなかった。

 アデルはただちに行動を決めた。

「速やかに転移するぞ」

 今まさにやってきた他神界からの追加支援部隊二〇〇人超を神界ライトレス侵攻部隊として編制・統率して、アデルは魔導装置のある一一階へ走る。と、医務室近くから様子を窺っていたメリアに引き留められ、不安を耳にした。

「嫌な予感がします。ライトレスが回遊しているということは、撤収させようとしたときには設定した空間座標にライトレスがなく、みんなが撤収できなくなる危険性があります」

「今ならジーンは手負いだ。星の魔力を用いる彼奴だけでも討たねば犠牲が無駄になる」

「機会を待つべきです。次にライトレスの空間座標が摑めたら、今回の分析と合わせて空間座標の割出しが恒久的に可能になるでしょう」

「割出しは確実ではないようだな。オレがジーンを討つのとどちらの確度が高い」

「それは……」

 ジーンを討伐できる可能性のほうが高いのである。

「任せておけ。キルアが空間転移してきたことからも向こうに撤収手段があることは明らか。神界ジュピタと同じく、一度でも向こうの神界に渡ることができればその者を識別してメークランでも撤収魔導の座標を正確に調整できよう」

「そうなのですが……」

「それとも何か、討ち損ずるどころかオレが討ち死にするとでも」

 メークランの撤収魔導が正確にアデル達を捉える確率が高く、アデルが死ぬ可能性は低い。今は何より、急襲の主謀者であるジーンを討伐することが先決である。

「ジーンを討伐すれば、ある種の内輪揉めは終わる。斯様なくだらぬ争いをするために連携神界を増やしてきたわけではない」

「知っています。だからこそ慎重になるべきといっています」

「お前の消極性を否定するつもりはないが、今回ばかりは話にならぬ。黙っていろ」

 メリアはアデルの一喝に黙った。けれども、魔導機構の台座に乗ったアデルの出撃を見届けるに当たって、言わずにはいられなかったらしい。

「本当にいいのですか、ジーンさんを討伐して」

「当然だ──」

 アデルは即答だった。罪深き弟より大切と言える民や仲間、そして妻メリアがいる。

「お前を狙う輩は誰であろうと滅ぼす」

「アデルさん──」

「お前を傷つけんとした彼奴を許さぬ。お前がいったい何をしたというのだ。お前は、ジーンに狙われるような悪行を成したというのか。答えよ」

「……」

 叱られた子のように俯くメリア。

 目に入れても痛くはない。俯いていてほしいわけではない。

「もうよい。オレはお前を守ると決め、お前の守る民をも守りたいと思ってきたのだ。お前も民も、傷つけられてしまった。町もひどいありさまだ。これ以上、ジーンに罪を犯させてはならぬ。そうであろう、メリア」

「アデルさん……。はい、そう思います」

「うむ」

 アデルは操作盤を操る兵に指示を出して転移魔導を起動させた。「すぐ戻る。安心して待つがよい」

「きっとご無事で」

 一言のやり取り。空間転移が発動して、アデルと数十名の部隊が先行した。

 アデル達が飛び出した先、転移の余光が照らした仄かな景色は、仲間の顔であった。

 ……何も見えぬな。

 まるでいつぞやの闇。おまけに、重力に従って落下している感覚があった。

 どれだけの高さから落下しているか知れない。アデルは皆に着地の心構えをさせて、耳を澄ました。第二、第三の転移魔導で上空に現れた侵攻部隊と、その度に飛び散った転移の余光がわずかな頼りとなって、足場を確認して着地することができた。第四、第五の転移魔導で現れた侵攻部隊の一部が光属性魔法で地上を照らすと広い視野を得た。

 黒一色の大地は痩せているとも肥えているともつかず、動植物が見当たらないことからひとが住みつきそうにない場所とは判断できた。

 神界ライトレス。

 光のない広大な土地をアデル達は手探りで探索した。ここに帰ったはずの悪神の魔力反応はなく、負媒の気配も皆無であった。

 それからアデル達は、何日も闇を彷徨った。

 照らせる闇には限界があった。照らせぬ闇の中から不規則に悪神が出没した。襲い来る悪神をことごとく討伐したアデルが正常な精神を保つ一方で、侵攻部隊が烏合の衆と成り果てるのに時間は掛からなかった。遠望できぬ闇の中、隙を衝かれて深い傷を負う恐怖。鼓膜にこびりついた悲鳴。神経を痙攣させる怒号。何度も味わう痛み。心身とも、病んでゆいて。

 闇に蝕まれた心にアデルの鼓舞は届かず、各各の思考能力が極限まで低下したとき、辿りついた村で侵攻部隊は最悪の末路を辿ることとなった。

 少ない燈を置いた村。その周りを囲うように警備についている悪神を見て、侵攻部隊の誰かが叫んだ。

「キーリア・アシエントの兵だッ!駆逐しろぉっ!」

 その声に背中を押されたように、多くの善神が悪神に襲いかかり、村へ雪崩れ込んだ。

「待て、追うな」

 アデルは侵攻部隊に停止を命じた。が、抑制のない声量で叫ぶ善神にアデルの声は届かず、無抵抗な民にまで武器を振り翳し始めた。

 ……止むを得ぬ。

 分別がついていない者に目的は果たせない。戦には、名分があっても正義などない。民は守るべき存在。敵性分子の民であっても味方の民と同じように扱うべきである。民の代りに傷つくために兵がいる。戦において傷つくべきは兵だけなのだ。

 民に襲いかかった仲間の兵をアデルは一人残らず魔法弾で撃ち殺した。一人また一人、撃ち殺した。暗い、暗い、戦場。アデルを敵と見做して反逆する善神が現れた。アデルはそれらも殺した。戦のルールを見失った味方など敵も同然だ。

 二〇四人。

 支援部隊として派遣された仲間の兵を、アデルは皆殺しにし、その中で襲い来る悪神も一人残らず殺害した。

 味方だったはずの善神が民を蹂躙してしまった。力のない年寄(としより)を嬲り殺し、男を集団で痛めつけ、女・子どもを物のように扱い、歪んだ正義を達成した。

 アデルが救ったのは、年端も行かぬ少女だけだった。その子すら善神に汚され、救いの手を差し伸べたアデルから怯えた目差で逃げようとし、途中、恐怖のあまり気を失った。

 ……どこで、間違った──。

 メリアが止めたのはこういう事態を想定していたのか。

 ……違うだろう。

 メリアは神界ライトレスに関する知識がない。

 ……容赦せぬ、か。

 アデルのその心が、正気を失った味方にまでは完璧に働かなかったことは、民の被害の大きさを観て明らかだった。小さな村だ。警備の兵も多くはなかった。二〇四人の善神が束になって襲いかかった。正気を失っていたとは言え、一瞬の壊滅だった。アデルに逡巡がなければ、暴走した部隊を殺すことを躊躇わなければ、民を救えた。

 ……この少女が傷つくことも、なかったやも知れぬ。

 善神の暴走のさなかだろうか、村の燈が消えていた。重い暗闇に伸しかかられたかのようにアデルも首を垂れかけた。

 ……この少女を、安全なところへ連れていくまでは──。

 小さな村の、たった一人の生き残りだった。悪神であろうと、民は等しく尊い。民のために戦う一人の兵として、アデルはその命を失うわけにはゆかなかった。どこでもいい。その命を守れる同胞のもとへ連れてゆかなくてはならない。その一心で当てもなく闇を彷徨った。どんな道をどれだけ歩いたか定かでない。立ち止まったのは、唐突に道を塞がれた。

「これより先は行かないでください。主神アデル」

 闇の中にも映えるような銀髪の女性だった。

 魔力の強さから察するにキーリア・アシエント所属かつ上位の悪神であろう。

 アデルは、抱えていた少女を女性に渡した。

「悪神ですね」

「オレの率いた兵が村と民を襲った。すまなかった」

「誰に対し、何に対し、頭を下げていますか」

「その少女は、唯一の生き残りだ。治療をしていただきたい」

「戦神たる自らの信念に感謝し黙して踵を返してください。その先で何者と遭遇しようとも、決して危めないでください」

「承知した。……」

 一主神として、一指揮者として、アデルは兵の暴走を食い止められなかった。守れたはずの民を守れなかった。女性にお辞儀して、踵を返し、滅びた小さな村に戻った。

 ここで自害してしまおうか。

 それがいい。

 民に違いはない。メークランの民に手を出されたからと言って悪神の民に矛を向けるべきではない。同じ被害を与えるなどという理屈で戦をすれば、無抵抗の赤子を無慈悲に殺めることを正義と認め、先の少女の痛みが善神の正義だとも認めてしまう。アデルの信ずる正義は、そんなものではない。

 ……だというのに、なぜ、迷ったのだ。

 正気を失った味方と傷つくべきでない民。二者を天秤に掛けたアデルの心は、葛藤に押し潰された。まだ殺していない。まだだ。まだだ──。そのように躊躇して、結果、民を見殺しにした。この惨状を想像すれば、予測すれば、迷うことなど何もなかったというのに。

 なぜだ。なぜ殺せるのだ。

 ……オレ達は、仲間ではなかったのか。

 志を同じくし、民を守るために結束していたのでは。一枚岩ではない寄せ集めの部隊と頭では解っていたが、心が折れた者の暴走に歯止めが掛からないことを、少女を蹂躙した善神を目の当りにするまでアデルは真の意味で理解してはいなかった。

 ──黙っていうこと聞けよ、下劣な悪神の分際で!

 泣き噦る少女を殴って黙らせた善神が手を緩めることはなかった。

 ……下劣は、オレ達、善神のほうではないか。

 気を失うまで恐怖させて傷つけた。あんな善神が仲間か。正気を失えば仲間も敵だ。そう断じて処理すべきであった。下劣な行為を許容したように感ぜさせてしまったのだとしたら、仲間意識などなくしたほうがいい。あの少女に追打ちを掛けたのはほかならぬアデルだった。

 ……。

 月も星もない暗闇の村に転がる肉塊、肉塊、肉塊──。アデルは、その中から民を探し、選り分けて、星の魔法で大地を掘り起こし、一人、一人、丁寧に埋葬した。

 ……すまぬ。すまぬ……。すまぬ……!

 一人、一人、その手で、埋葬した。

 神界ライトレスで眠らぬ日日だった。アデルも、とうに正常ではなかった。

 全ての遺体を埋葬し終えた頃か。アデルは意識を失った。

 それでも追いつめてくる意識があった。重い、重い、両手。剣を握るよりもずっと重くて、冷たい両手。手首から肩まで腐ったかのように少しずつ落ちてゆく両手。黒い大地に沈んで消えてゆく両手が、夢とは思えないほどリアリティに塗れて、いくら水で洗い流しても冷たくなって、重くなって、黒いまま、何度も、何度も、腐り落ちて、消えてゆいた。

 ……何度腐り落ちようと、許される判断ではなかった……。

 目が覚めたときにはトリュアティアの私室だった。スライナ曰く、トリュアティアを出発して一七夜が経っていた。メリアとミントが父ハエトノタに頼んでアデルを神界ライトレスから連れ戻すことに成功した。空間転移の魔法を有したハエトノタが、その足でジュピタを経由してライトレスに渡ってアデルを捜し出したのである。

 仲間意識に敗北したことは忘れることもできないが、アデルは主神として皆の現状が気になった。ベッド脇の椅子に座っていたスライナに顔を向ける。

「大事ないか」

「メークラン以外の三〇拠点は作戦上襲撃対象外なのでしょう、静穏を保っています」

 と、答えると、スライナがアデルの心境を推察する。「ジーン様がメークランを襲撃してくることはアデル様も予想外だったのでは」

「メークランかどうかはさすがに。だが、ジーンが襲い来ることはお前も予想していたことだろう。現実となれば対応する。それがオレの役目だ」

「そうですわね。……」

「何かいいたげだな」

「一方では、ほっとしているのかと思いましたわ」

「──そうだな」

 何を指しての安心か。頭のいいスライナのことであるから、アデルの心理を、ずっと前から察していたのだろう。

 ……既知の敵性分子であること。

 その相手が事実敵対したこと。弟が敵になったという側面もあるのにおかしな話だ。精神が追いつめられて気が狂った善神のようにアデルもおかしくなっていて、惨い葛藤の中で、安心している──。

 アデルは、率いた支援部隊の経緯をスライナに伝え、意見を求めた。

「オレの選択は間違っていた」

「軍神ではありませんから脆弱な兵の精神に聡くありませんわ。異常を来した兵がどんな愚行を犯すかなんてそれこそ想像もできない。斯くいうワタクシも耳にした状況までは……。ハエトノタ様がアデル様を発見したところは、犠牲者の墓所だったんですわね」

 許しを乞える立場ではなく謝るほかなく、民に祈る方法しか思いつかなかった。

「アデル様が手を下さなくても、派遣してくれた主神方が暴走兵を処刑します。どんな状況であれ、無抵抗の民を戦に巻き込んではならない。そのルールを皆さん理解しています」

「……」

「自分一人なら起きなかったことといいたいんですわね」

「戦神たる由縁だ。戦のルールは守る。民は巻き込まぬ。戦えぬ民のために戦うのが兵であり戦神。民を標的とするは賊に等しき卑賤」

「ワタクシもそう理解しています。支援部隊は兵として未熟だったと納得できませんか」

「オレが戦神でなく軍神であれば、兵の心理も巧みに操ることができたのだろうな……」

「ひとを操るなんてアデル様らしくありませんから無理ですね」

 解っている。

 あの場の責任者は間違いなくアデルだった。不祥事が起きたのなら責任を負うとともに、同じことを起こさないよう対策を考えなければならない。自分一人の戦闘に長ける戦神であっても、アデルは発生した戦闘に無責任を決め込めない。

「アデル様。ワタクシを差し置いて対策を考えられるとでも思ってますか」

「そうとは思わぬが」

「不得手の分野はワタクシに丸投げしてください。責任さえ負ってくれればワタクシが対策を立てます。失敗を招いてしまった仲間意識に尻込みしてしまう気持は理解しますが、ワタクシ達は、そうしてここまでやってきた。一度の失敗でこれまでの全てを否定することは、ほかでもない、アデル様についてきた配下(ワタクシ達)への冒涜ですわ」

「……」

 スライナの厳しい物言いは、信ずる正しき主神像にアデルを引き戻した。

「お前達を冒涜する積りなどない。尊ぶがゆえに結束したく思う。そんな仲間で存りたいと思い、オレもお前達が誇れる主神で存ろう」

「はい。それでこそ、アデル様です」

「うむ」

 笑顔の知恵者の叱咤は、横っ面を引っ叩いたように効いた。アデルは重い体を起こした。

「っと、アデル様、まだ動くのは早いですわよ」

「気は随分と軽くなった。ハエトノタに礼をいってくる」

「止めても聞きませんわね」

「ああ、聞かぬ」

「カスガ様に付添いをお願いしますわね。用を持たせます」

「了解した」

 スライナの溜息など知らぬふりでアデルはカスガとともにメークランに向かった。

 スライナがカスガに与えた任務は破壊された公共交通機関、主に列車などの代替をトリュアティアで用意して搬入する用意があるとメークラン神界宮殿の事務方に伝えること。それに合わせて、トリュアティアへの海水搬入を一時保留して、メークラン復興を待つ。

 政治も本来は主神の仕事だが、トリュアティアにおいてはスライナが担っているのでよほど目に余ることがない限りアデルはスライナの考えを支持する姿勢である。海底都市が半壊、人的被害も甚大だったメークラン復興にアデルも前のめりであるから、スライナの名代たるカスガの仕事も了解している。

 ハエトノタに会って礼を伝えたアデルは、書類申請を済ませたカスガと空間転移室の前で合流した。

「わたしはトリュアティアに戻りますが、アデル様はどうしますか」

「オレも用は済んだ」

「じゃあ、メリアさんにもお会いになったんですね」

「ああ」

 その応答は、噓だった。

 カスガと一緒にトリュアティアに戻ると、アデルは休息を摂った。普段意識しないが一人の部屋はがらりと殺風景である。

 ……このざまを、メリアには見せられぬ。

 休息を奨めたスライナが去り際に言うには、ジーンの襲撃はメークラン以降確認されていない。休めるうちに休んでいざというときに備える、と、いうのはあらゆる仕事に共通する自己管理だがアデルは気が急かないでもない。ジーンの心次第でいつでもどこでも急襲できる。今度はトリュアティアの番かも知れないし、数多ある辺境神界の一つかも知れない。アデルがジーンを捕らえていれば起きなかった襲撃が起こり得る。素知らぬふりはできない。

 ……事を担うために、今は休まねばな。

 ここまで疲労したのは初めてで快復がいつか判らない。アデルはひとまず眠ることにした。

 瞼を閉じると体を感ずる。ベッドの柔らかさがその重さを引き立てている。

「アデル様、無理はしないようにとスライナさんにいわれたのでしょう。このダンベルは取り上げさせていただきますよ」

「余計なことをするでない」

 いつの間にかやってきていたアクセルがダンベルを取り上げて、サイドボードに置いた。

「困ったおひとです。そうまでして戦いたいのですか」

「体がなまっている気がしてな」

「極度の疲労感です。治癒魔法でもどうにもならないものですから安静にしてください」

「治癒術者としての見解か」

「はい。アデル様でなければ話すこともできないほどの状態だと自覚してください」

 それは言いすぎではないか。反論しようと思ったアデルだが、アクセルの見解を心配とも受け取った。

「下手をすれば死ぬのか」

「はい」

「ダンベルを動かす程度でもか」

「はい。ドクターストップというものです」

「ならば、仕方ないな」

「雅量であらせられますね。こちらをどうぞ」

 タブレット。「自然由来の睡眠導入剤で、襲撃を思い出して眠れないメークランのひとびとに届けたものです。アデル様にも、今はこれが必要かと」

「ありがたく使おう」

 心は随分と軽くなっていた。来たるとき、その心に体がついてゆかなくては主神の本分を遂げることも難しかろう。緑に育てられつつある水で、アデルはタブレットを飲んだ。

「お休みください、アデル様。よい夢を」

「うむ、感謝する」

 タブレットの効果は覿面で、アデルはすっと眠りに落ちた。

 

 闇の中でメリアが引き止めた。

「アデルさんは恐ろしくはなりませんか。自分の力が招くかも知れない未来が」

 メリアの消極的な姿勢を、アデルは否定しない。

「与えられたまやかし。そんなものがわたし達の未来を作るのです。わたし達はそんな未来にしか生きられない。それを生きている、と、いえるのでしょうか」

 ……さあな。

「わたしの想いを受け止めてくれるひとと生きていきたいのです。わたしは操り人形などではありません。みんな、きっとそうでしょう。なのに……」

 ……与えられたものを知ることから始めるべきだろう。

「アデルさんは理解してくれないのですか」

 ……違う。選び取るべきものが狭められているだけで、選ぶのは自分だ。

「理解して、くれないのですね」

 ……己の意志で取捨選択ができるといっているのだ。

「選び取れるものがあればいいですね」

 どういう意味か。

「また会えたら、そのときは、受け止めてくださいね──」

 闇の中で微笑むメリアが、いやに心に残った。

 ぶつ切りのような夢だった。ところどころ言葉が飛んでしまって、繫がっていないように感じた。だが、微笑みに潜むメリアの感情をアデルは漠然と読み取っていた。潜んだ感情が何か判ればすぐにも状況を打開できた。アデルは、その機を逸した。

 否。

 その機を、ことごとく逸してきた──。

 

 瞼を開く。心を軽くしてくれる明るい部屋には、ひとを明るくする天使の笑顔があった。あえていえば天使は比喩ではないので間違っても色男なアクセルではない。

「あ、起きられましたね、アデル様」

 紅茶を運んでいるのは、翼を畳んだエノン。「ゆっくりお休みになれましたか」

「西部門はどうした」

「今日は非番です。気になって仕方ないんですけどね」

「戻ればよかろうに」

 アデルは差し出された紅茶を飲んだ。「お前は仕事人間ならぬ仕事天使だ」

「皆さんそうなんじゃありませんか。スライナ様、カスガ様、アクセル様、カノン様。アデル様に惹かれて集まった皆さんは揃って働き者です」

「オレがいなくとも、トリュアティアは安泰だな」

「そんなことをいってはアクセル様が説教しに飛んできますよ」

「仲間に恵まれているといったのだ」

 それで説教を受けるならそれはそれでいいだろう。与えられた力を役立てても多くの無知を思い知らされてきた。創造神アースに与えられたものを選ぶ知恵すらないほどアデルには何もない。欠如した全てを、仲間が補い支えてくれる。

 ……うむ、そうだ。それこそ、仲間ではないか。

 凶行に及んだ善神の心を全否定することはできない。悪神による不規則な襲撃に精神を磨り減らされることは、光溢れるトリュアティアにも起こり得る。目の前でトリュアティアが滅亡しようものならアデルも正気ではいられないだろう。

 ……ゆえに、支え合わなければ。

 アデルは、そう思った。

 支え合う。

 自分の行動と照らすと、凄まじいまでの食い違いがあった。

 ……オレは、逃げていたな。やるべきことから。

 夢にメリアが現れた理由を、アデルは、そう理解した。

 紅茶を飲み干したアデルは、メークランに赴くべくベッドを立ち上がったが、

「アデル様!」

 突如翼を広げたエノンに突き飛ばされて、アデルは床に転がった。

 直後ベランダから飛び込んできた影にエノンが紅茶のカップを投げつける。それを避けた影が床のアデルに飛びかかろうとした。エノンが低空飛行で影を捕らえて壁に押えつけ、影が被ったフードに手を掛けた。

「顔を見せてもらいます」

「エノン、退がれ」

 影の袖から暗器──。アデルは床を突出させて壁を作りエノンを脅威から遠ざけ、立ち上がりざまに影に突撃、暗器の覗いた腕を蹴り潰すと同時に突出させた床の一部をさらに突出させて影の首を捕らえた。

「これで動けまい、ジーン」

「ジーン、様。アデル様の貴弟の」

 エノンが剣の柄に手を掛けて目を見張った。

 壁に追いやられたジーンのフードを剝いで、アデルは顔を確認した。

「なぜここに来た」

「己が胸に訊くがいい」

「……」

 ジーンが睨むようにアデルを見つめ、

「相変らず摂理のままか、アデル」

「どういう意味か」

「やはり認識できぬ、か。お前はだから愚かなのだ」

「貴弟でもそのような仰り方は──」

「エノン、退がっていろ」

 エノンが前に出ようとしたので制した。ジーンを止めるのはアデルの役目である。

「無知であることは認めよう。その上で、お前に問う。お前は斯様な襲撃を、賢いと思っているのか」

「愚行だ。が、お前にはそう観る資格もない」

「そうだな。ライトレスの村を襲わせてしまったのは、オレの責任だ」

「大人しく首を差し出せ。さもなくば、」

 背中の壁を押し破ってジーンが外へ飛び出した。「貴様の心臓を潰す」

「(民を狙う、と。)逃がすか」

 壁の穴から跳び出して高速落下の背中を追うも、

 ……おかしい。

 メークランのときと様子が違う。神界宮殿はおろか町の中にも混乱の様子がない。魔力反応が入り乱れて判別不能になってもいなければ、悪神らしき邪悪な気配もなく、消えゆく魔力も見当たらない。敵性分子として捉えられるのはジーンの魔力のみ。

 着地すると休むことなく遠ざかる背中。小路に入ると、立ち止まった弟とアデルは面した。

 酒場の賑わいが届く静けさ。

「ジーン、お前の目的はなんだ」

「トリュアティアの主神ゆえ、お前を水に還す」

「頂点主神を狙ったという意味に捉えてよいか」

「お前一人が首を差し出せばいい。易いものだろう」

「そうだな」

 アデルは素直にうなづいた。「オレなどいなくともトリュアティアは存続する」

「潔いことだな。気味が悪いほどだ」

「誰が潔い。妥協的選択と捉えた経緯もあって確信に至ったことだ。それに、」

 アデルは首を横に振った。「オレはやることがある──。今、皆の口に入るつもりはない」

「抗う思考が少しは芽生えたか」

 創造神アースに対しての意識なら最初からあったように思うアデルだが、うなづいた。

「吞み込めぬさまざまなことに抗おうと今は思っている。お前はどうだ、ジーン。オレ達は、手を取り合えないのか」

「役目を棄てるに等しい主張だ」

「可能性を棄てたくはない」

「気の毒なことだ。養分もない純水のような考えを未だ持っている」

「……」

「お前がそうしているあいだに、誰がどれだけ苦しんでいたか、考えたことはあるか」

 ジーンは知っていたのか、それとも、気づいていたのか──。アデルは気づいた側だ。

「そのためにも、オレは生きねばならない」

「死という償いもあるぞ」

「オレには当て嵌まらぬ」

「傲慢だな」

 ジーンを転移の光が包む。「次に相見えたときは口を開く暇もなかろう」

「一つ答えろ。お前の譲れぬものはなんだ」

「同じだ、お前とな──」

 転移の余光が小路を乱反射して、ジーンの姿が消えた。

 ……民、仲間──。

 大切なもの。譲れぬもの。失えばあとには退けぬもの。奪われれば、気が狂うほどの絶望のもと全身全霊で抗う。

 ジーンは、もう止まらない。

 それでも止めることを考えるなら、どのような手が残されている。戦神として迎え撃つだけでいいのか。

「アデル様!」

 翼で飛んできたエノンと、駆けつけたカノンを迎え、アデルは思考を中断した。

「ジーン様はどこへ」

「転移した。挨拶といったところだろう」

 冷気に包まれた夜の小路から出て、カノンが意見する。

「向こうは回遊神界の性質を利用して襲撃し放題ですね。こっちから打って出られないもんなんですか」

 その思考が最も危険なのだとアデルは嫌というほど体感した。

「お前はトリュアティアの兵。存在意義は仲間を守ることにある。敵地に攻め入ろうなどと考えるな。いいな」

「でも、いつ襲撃されるか知れないんですよ。それでは後手だ。アデルさんもそれを解っていたから侵攻したはず」

「しかしライトレスの環境は善神のオレ達に取って地獄に等しい」

 悪神が邪心の増幅によって力を増すように、善神は正心の増幅によって力を増す。逆に、悪神が正心を、善神が邪心を増幅すれば力が減退する。アデル率いる侵攻部隊の正心を狂わせ邪心を煽る戦略をライトレスの悪神は見事に実行していた。対して術中に嵌まった侵攻部隊を守ってしまったからアデルは村民の悲劇を招いてしまった。

 アデルは、二度と仲間を手に掛けたくない。

「カノン。お前が正心を保つと信じているが、ライトレスへの侵攻だけは許さぬ。納得しろとはいわぬ。聞き入れてほしい」

「アデルさん……」

 会釈したアデルに、カノンが反論することはなかった。「解りました、この話はなかったことに。アデルさんを困らせたいわけじゃないし、おれは、トリュアティアを守りたいから兵になったんです。殺しに行きたいわけじゃない。納得もしましたから安心してください」

「世話を掛ける」

 神界宮殿に戻ったアデルを、スライナが待っていた。仕事のカノンと非番のエノンを見送ったスライナが、アデルに耳打ちして私室に招くと思わぬことを切り出した。

「──ジーン様の処刑を決定しました」

「何を、いっている」

 さすがのアデルも言葉を詰まらせた。「なぜ、お前がそんな話をする。誰の入れ知恵だ」

「知恵はワタクシの専売特許です」

「一層理解できぬ。お前が命を軽んずる発言をすると。それも()()だと。誰の裁定だ」

「アデル様の与り知らぬ政治ですから首を突っ込む必要はありません。カリスマに汚れ役は不似合ですわ」

「汚れた姿はお前にも似合わぬ」

「立場と心が一致しているとは限りません。ときに非情な決断が必要です」

 言っていることは理解できる。ジーンの処刑を決めた者が重要だ。

「お前が処刑を決定したと」

「ワタクシとキルア様で決めました」

「いつ、キルアと会った」

「ハエトノタ様がライトレスに渡った際、ワタクシもついていきました。アデル様の発見を見届けてキルア様との接触を図りました」

 あの闇を越えて無事接触できたのである。奇跡のようだが、アデルにはない能力がスライナにはある。

「回遊神界の悪神総裁に選ばれたキルア様はハエトノタ様と同じように空間転移を自ら行うことができてしかるべきと推測して探索しました。ライトレス探索もかねて町内の憩いの場に入り込めば居場所を聞き出すのは簡単。予想以上に治世がよく捜索が捗りましたわ」

「お前の行動力には驚かされるが、治世、か……」

 闇に閉ざされた神界にも平穏があった。あの小さな村も、きっと、アデル達が訪れるまでは平穏そのものだった。

 消極的な思考を遮るようにスライナが話を進めた。

「キルア様を呼び出してジーン様の処遇を決めました」

「何に対する処遇だ。処刑とは、穏やかではない」

「ニブリオ滅亡の主謀者。命でも足りない罪ではありませんか」

 それが真実ならば。

「スライナ。ニブリオは──」

「これを折衝といいます」

 スライナがアデルの言葉を遮った。「一〇〇%納得できなくても両者が妥協することのできる着地点、事態に折合をつける節目を作ること。それが折衝、政治的駆引のことですわ」

「規則正しいことだな。お前の譲れぬものを手放してはいないか」

「手放してません。あの日あなたの示した覚悟の重さでトリュアティアの知恵と存らんことをワタクシは選んだ。どんな形でも、守るべきものを守れるなら手段を選びませんわ」

「スライナ……」

 彼女自身が口にしたように決断をした、と、いうことだ。

「ジーン様の手でニブリオは滅びた。これが事実。キルア様が処刑を執行します」

「あの呪いか……」

 命ある者が瞬く間に息絶えるキルアの呪い。ジーンは空間転移でライトレスに戻ったはず。キルアは今日にもジーンをライトレスの闇に還すだろう。

「どちらへ」

 部屋を出ようとしたアデルをスライナが引き止めた。「いうまでもありませんが決定は覆りません。悪神総裁であるキルア様に、副総裁のジーン様が逆らう術はありません」

「ニブリオ滅亡はジーンの仕業ではない」

 アデルはスライナを振り向いて告げた。「ジーンは濡れ衣を着せられたのだ。ほかならぬオレに……」

 アデルは真の主謀者を知っている。ジーンを疑ったときから視野には入っていた。

 ……、……メリア……。

 アデル、ジーン、メリア。この三人だけが、ニブリオを滅亡させた星の魔法を使える。負媒の痕跡からジーンを疑ったことに偽りはない。が、その頃からずっと疑問もあった。ジーンがニブリオを襲った理由だ。それを特定すべくアデルは先程ジーンに問うた。ジーンはアデルの問に対して、民や仲間を守りたいと答えた。それすなわち、アデルと志が同じだということ。手段は多少違えど、目指すべき結果は恐らく同じである。従って、アデルがやらないことをジーンはやらない。アデルは民を襲わない。ジーンも民を襲わない。ニブリオの滅亡に説明がつかない。

 そこにメリアへの容疑を加え、ジーンの言葉を取り上げたら状況に説明がつく。

 ──貴様は、創造神アースのいい手駒だな。

 ──やはり認識できぬ、か。お前はだから愚かなのだ。

 手駒が、創造神アースの思う通りに動く箱庭の人形という意味なら、アデルは創造神アースの掌の上で踊らされ、笑い者にされていただけの愚か者という意味になる。アデル自身、薄薄それを感じていた。男として、主神として、「メリアを愛する存在」を運命づけられていると。メリアのこととなると感情的判断しかできなくなる。兄妹間での関係は人間的価値観と相違ないのにメリアの感情に応えたことがそう。頂点主神の仕事であるトリュアティア存続や連携神界に資する選択が主体でなくなることすらある。感情と容疑に揺れながらメリアを信ずることに決めたアデルを眺めて創造神アースは高らかに嘲笑したことだろう。思い通りだ、と。

 ……だが、オレは、やはりメリアを疑いたくはない。

 同時に、感情に流され民を蔑ろにする自分を、拒絶したく思うのだ。

 ゆえにジーンの志を否定できない。単身で乗り込み民を殺すとまで言って見せた覚悟を、それでいて猶予を与えてくれた優しさを、どう疑えばいい。天使であるエノンがあの場にいて、聖裁による即死の危険性を視野に入れないはずがない。そんな中で訴えた姿をなぜ疑える。あれこそが正しい仲間意識だと、支え合いだと、痛いほど解るのだ。

 メークランを襲ったジーンと悪神軍は、創造神アースが送り込んだ精巧な偽物だろう。対峙したときからそう推測していたが、メリアを疑わずに済む決定的な要素と捉えて安堵していたアデルがいた。

 ……そんなオレでは、メリアを、止められぬ。

 

 ──また会えたら、そのときは、受け止めてくださいね──。

 

 あれはただの夢か。違うだろう。アデルは、メリアと海水牢で再会してからずっと猛烈なアピールを受けていたのに、彼女の内に潜む感情に気づこうともしなかった。

「アデル様。もう遅いんです」

「濡れ衣を着せた弟の死など受け入れられぬ」

 そんなことをするくらいなら、アデルは主神などやらない。

 スライナがアデルの前を塞ぐように佇んだ。

「だったらどうするんです。ニブリオ滅亡はジーン様の仕業と誰もが信じている。それこそ、真の主謀者が首を落とされでもしなければ、事は治まりません。ジーン様よりも重い存在を、その手で殺めることができますか、アデル様」

「──やはり察していたのだな」

 アデルは、涙を溜めたスライナの肩に手を置いた。「お前をそこまで追い込んだのも、オレだ。無知なオレが、いや、愚かなオレが、悪い。メリアを庇うオレを観て、お前はその筋でトリュアティアのために知恵を絞り、キルアとの折衝を考えてくれたのだろう。充分だ。メリアはオレが──」

「いけません。メリア様を殺めてはメークランとの通商条約が破棄されてしまいます。トリュアティアはまだ肥沃とは程遠い土地なんです」

「知恵者とは難儀なものだな。そういう建前もすぐ浮かんでしまう」

「事実ですから」

 噓だ。ミントを主神に推挙すれば済む。ニブリオ滅亡の主謀者がメリアなら処刑されるべきはジーンではない。トリュアティアとメークランの通商条約維持に向けた働きかけはメリアの死後でも十分可能。アデルよりずっと先を考えてトリュアティアに尽くしてきたのだからスライナがそれを知らないはずがない。アデルが悪神の民を見殺しにしてしまった事実を消せない今、無実のジーンを処刑したなどという事実が積み重なれば、設計でしかなかった善神・悪神の対立を現実のものとして決定づけてしまう。

「もういい、オレを庇うな。守るべき海は、もうないのだから……」

 ジーンの容疑を晴らし、メリアを問いつめて真実を明らかにする。

「洗いざらい白状させてくる。皆とここで待っていてくれ」

 ニブリオにあった負媒の痕跡について疑問が残っており、メリアの犯行である確証はない。メリアを問いつめれば全てが済むだろう。彼女に真実を隠すつもりはないのだろうから。

「引き止めません。しかしアデル様、少し立ち止まって聞いてください」

「……、うむ」

「灼熱の大地、設計、駒──、ワタクシ達は大いなる矛盾の中を生きてるのかも知れません」

 引き止めるつもりはない。その言葉に噓はなさそうだが聞き流せるような軽い話でもなさそうだ。

「どういうことだ」

「自らが創った世界で設計を認識しているのでは、元来の意味での俯瞰などできようはずもありません」

「お前のいう『元来』がどういう意味かはよく解らぬが、灼熱の大地は間接的に、いや、時の精霊の配置などにおいて直接トリュアティアに干渉した」

 全てを仕組んだ企画者として創造神アースは俯瞰もとい傍観するにとどまらない。

「お前がいいたいのは、注意しろということだろう」

「灼熱の大地、設計、駒、それらが導き出す未来──、ニニアクゥイト・オヌオブテズ・ジュピタ、ハエトノタ・ヤノワイ・モリフ、ダハイシワ・オリツ・トタ──、いいえ、もっと根本的な部分に、矛盾の正体が隠れてるように思います、稚拙で強かな、静かで妙な……」

「彼らの名を挙げた意味も解らぬが確証はないようだな」

「ひとの知識は樹状に育つという話を知ってますか。土があって、根があって、幹があり、枝葉ができ、根が強く張ると幹が太くなり枝葉も増え、大きく育つ。経験も同じようなものです。ワタクシがここでいいたいのは、ワタクシ達そのもの。不本意ながら、アデル様を創った灼熱の大地は土や根に当たる存在でしょう。と、なると、アデル様は幹、ワタクシ達はそこに連なる枝や葉、あるいは花や実であると考えられます」

「これら話の行きつくところはどこなのだ」

「結論として、ワタクシ達はいくらでも切り落とされることがあり得る、幹でさえ根を活かすため伐ることがあり得る、と。以前の言い方に戻すならまさしく駒、使い棄てが可能です」

「不快な比喩だ」

「ええ。ワタクシがこんな考え方をするような知識や思考回路を与えた存在が比肩するもののない厳酷な熱線を容赦なく発している。ワタクシを同行させてくれませんか」

「戦闘ばかりがトリュアティアを守るのではない。全体を観て、必要な指示を出せ」

「……どうか、足許に注意を」

「うむ」

 スライナが示唆したのは創造神アースの直接介入による状況一転。もとから警戒していなかったのでもない。それでも、注意深く存れ、と、促してもらえたのだからアデルには充分なお膳立てだ。立ち止まった分、急いでメークランへ向かった。

 昼のメークラン。彼女が目指す眩いばかりの太陽が、限りない海を光で満たしている。

 普通の魔力探知では感じ取ることができないが、眼前に佇む神界宮殿に星の魔力を感ずる。スライナは、トリュアティアと同じ性質の神界宮殿を有するメークランに訪れたときから、メリアが星の魔力を有すると推測するに足る認識を蓄え、アデルを試してきたに違いない。

 そんなスライナの心にも鈍感だった。メリアだけではなく多くのひとの心を裏切った。アデルは、そのけじめをつけたい。

 メリアの個体魔力は、海水牢にあった。

 門番を通して正式に神界宮殿に入場すると、アデルは地下への階段を進んだ。物思いに耽る己を許さず、階段の途中に設けられた看守詰め所で話を聞き、メリアが来ていることを確認、さらに階段を進んだ。海水が抜かれて誰も溺れることがない地下牢は文字通りの役割を担い、罪を犯した者が何人か収容されている。

「メリア」

「……。アデルさん」

 格子が切られたままの牢にメリアが入っていた。海水があれば再会のときとほとんど同じ恰好だ。牢の奥、隅のほうでこちらを向いてはいるものの、微笑して瞼を閉じてしまった。

 アデルは牢の外からメリアを見つめた。こうしていると惹かれてしまう自分を感ずる。真実を聞き出すつもりが締めつけられるように痛む胸に負けてしまいそうで、それを理由に真相を伏せ、ともに暮らしてゆきたい、と、偽りでもいいから志をともにしたい、と、それが彼女であったら至福だ、と、逃げ道を作ってしまいそうになる。これが設計だとしても、そうして想う心は噓ではない。噓ではないから、もう庇ってはならない。庇えない。

「お前は一瞥して笑ったな。あのときも、今日も、いや、ずっと、微笑みかけながら、お前はオレの愚鈍さに苛立っていたのだろうな。救いようのない操り人形だと嘲笑いたくもなったことだろう」

「糾弾する覚悟ができましたか」

 言葉に応えないメリアを、アデルはなおも見つめた。

「お前を海水牢から出したかった気持も、お前に応えたい気持も、お前と子を成そうとした気持も、お前がそれを求めてくれた気持も、それに悦んだ気持も、全てがある。操り人形ゆえの感情と切り棄てるには、全てが惜しい。あまりにらしくなく、らしすぎる。棄ててしまえばけじめを楽につけられよう。だが、オレはそんな自分を誇れぬ」

 らしくない自分を全て切り棄てても、メリアを一人の民として失いたくないと思ったことに噓があったとはいえない。

「生まれたときから、いいえ、創られた(とき)から仕組まれた道でした。わたしはそれに従う」

「そうだな。オレだってそうだ。途中までは確実に、そうだった。お前を庇い、ニブリオ滅亡の罪を背負い、あるいはともに破滅の道を歩むことに吝かでなかった。お前とは離れがたい」

 離れがたいが、失いたくない民が、妻が、途方もない罪を犯したのだとしたら、その罪が奪われてはならない民と民の暮らす星を奪ったものだとしたら、選ぶべき選択肢がない自分であるべきだ、と、アデルは結論した。

「いらっしゃった目的を問います」

「お前を、処刑する」

 メリアが微笑み、瞼を開いた。

 微笑み返すことなどとてもできず、目的を果たすためアデルは口を開いた。

「お前を救う。そのためにも、オレは、お前を、この手で海に還そう」

「ありがとうございます。やっと……、受け止めてくれました」

 メリアは、ずっと、それを望んでいたのだ。一方で、涙ながらに語る。

「わた……、わたしは、死にたくない。あなたと、離れたくない……、でも許されない。罪のないひとを手に掛けてしまいました。逃れるにはあまりに重い罪でした」

「ああ、逃れさせぬ。オレが裁く」

 そのための力を、アデルは持っている──。

 メリアが、迸る魔力を解放した。

「受け止めてください。わたしの気持も、原罪も!」

 メリアの魔力が太く長い鞭のように伸び、アデルを叩き飛ばした。

 ……速い。そして、強い。

 隣の牢を突き破って弾丸のように暗い海中へ押し出されたアデルはメリアが海に飛び込んだのを気配で確認して、牢へ海水が流れ込まないよう穴に障壁を施した。

 未だどんなものか不明だが呪いが抑制されるなら海中戦が有利だろうと考えたのも束の間、ぬっと現れた魔力に追いつかれた。鞭というよりは、触手に近いか、しなやかに湾曲して勢いをつけて振り回された五本のそれが迫り、四本目と五本目を躱せずアデルは海底に叩きつけられた。魔竜やマンモスもどきの比ではない打力、水の粘性抵抗を意に介さない乱打、海の藻屑となれと触手が物語る。逃げ惑う海洋生物と巻き上がった砂の奥に捉えたのは慈悲すら感ずる微笑み。逃れられぬ死がベールの形で漂うように泳ぎは優雅だ。

 ……あの闇に生まれたときからずっと、お前はその狂気を抑え込んでいたのだな。

 己の信念や心をもねじ曲げて他者を傷つけることで満たされる。創造神アースに植えつけられた原罪、無比の狂気を、メリアはアデルに止めてほしかったのである。

 ……情けないな、オレも、お前も。

 箱庭の人形だ。創造神アースには勿論、狂気に気づけなかった自分にも、狂気に負けたメリアにも、アデルは怒りが湧いた。

 ……ここでやられては、なおさら情けない。

 触手に砂ごと絡み取られたアデルはぶん投げられ、海底三〇〇メートルから海上一キロメートルまで物の数秒で急上昇した。水圧・気圧の変化で噎せそうだが、休む間もなく海を割って追撃が現れた。

 ……星の(もり)。触手と変わらぬ巨大さ。

 長さは身の丈の、太さは腰の、それぞれ五倍はあろう、返しのついた銛のような星の魔法。突き刺されては一溜りもない。紙一重で避け、返しを足場にして、服を濡らした海水を振りきって上昇、太陽を背にしてアデルは海を俯瞰。その直後、影が掛かった。

 ……海の中の気配が囮とは。

 星の銛と海中に強い魔力反応を残してメリア本人は海の拘束を振り払うようにして銛の陰から跳躍しており三本の剣を上空から差し向けていた。比喩でもなんでもなく鋭く伸びた刃先は振り向いたアデルの首と腕と脚を正確に狙っている。

 ……緩急と切換えが絶妙だ。

 最初に到達する首狙いの剣をガードで受け流して逆さまになり残り二本を躱した。ガードを介して剣の一部を突出させ、足の甲を掛けると同時に銛に突き立てて支点とし、メリアへ飛びかかる。

 ……反応も早い。

 もとの形状に戻して振り抜いた剣を瞬く間に回避された。それから星の剣、銛、網、板、無数の攻撃と妨害を叩き斬って接近できたのは海抜二〇〇〇メートルのところであった。互いに宙を浮く星の板を足場として、空を衝き雲を裂く剣戟と相成った。

 ……思えばおかしな話だ。

 戦う姿を観たことがなく性格や姿勢からも狂気が潜んでいることなど思いもしなかった頃に、メリアを自分より強くなる存在としてアデルは認識していた。夫婦になることさえ知らなかったあの頃なら最も注視すべき相手だったというのに、アデルは感情的に結論して安心しきっていた。見通しが甘いにもほどがある。

 ……お前に悪質な設計が隠されていることに気づくべきだった。

 五秒に満たない数百の攻防は星の板を血に染めなかったが、唐突に巨影が二人を見下ろす。

「っふふ、次はどう切り抜けるのだ」

 空を覆うような、星型に交差した触手が振り下ろされた。星の魔法を纏わせた剣で触手を両断して切り抜けたアデルに対して、メリアが打ち据えられて板ごと急速落下を始めた。

 ……狂気よ、上から物を言い自らを潰すとは。

 ほんのわずか覗いた隙を見逃さずアデルは板の裏を蹴り、振り向きざまのメリアの銛をいなして剣で胸を突き刺した──。

「このまま逝け、メリア」

「っふふ、──捕まえた」

「む……」

 まるで痛みを感じていないかのようだった。これが抑制のない狂気か。剣が深く刺さることも流血することも厭わずアデルを抱き締めるメリアの両腕はその細さに反して凄まじい膂力なのだ。星の魔力を用いることもなく戦神のアデルを逃さない腕力は、まさしく呪われている。

「っぐ」

「悲鳴を挙げるのが早い。わたしがいったいどれだけ待っていたか。わたしはあなたを待って血を流していたのだ。悲鳴も挙げずに待っていたのだ。それなのに──」

 アデルは、骨が何本も持ってゆかれた。

 息の触れ合う間近。血を吞んだ渦潮のような眼が笑っている。

「──待たせたあなたが悲鳴を挙げることを許されるのか。許されるものか」

「っふ、ふふふふ……」

「愉しそうでよいことだ」

「ああ、そうだな、オレは戦神だ、これほど血湧き肉躍る強敵が現れたのだ、愉しいとも」

 狂気の眼は射抜くのみでひとを殺めそうだ。アデルは慄えることもなく笑って対した。

「ただな、最も愉しいのは、オレ自身の愚かさだ。滑稽と思うよ、本当にな。お前をここまで追いつめていることを、目の前にしてようやく明確に認識したように思うのだ」

「であるならゆっくりと、わたしの腕の中で息絶えるがよい」

「狂気よ、お前ではない。オレは、メリアにいっている」

「大きな間違いだ。わたしがメリア、狂気こそが本性。そして、これも──」

 メリアの両腕にさらなる力が加わる。アデルの体は圧死寸前で堪えているが、

 ……何をした。メリアの魔力が異常に膨張している。

「何もおかしいことはない。誰にも認識できないのだ」

「なんのことをいっている」

「わたしは生まれながらに誰にも悟られることのない邪な心」

 それを推測できなかったならメリアを裁こうとは考えなかった。

 ……邪な心。

 メリアの口からそんな確信的な言葉を聞いてなお裁きたくない気持も湧いている。なぜなら彼女が言った通りアデルは悟れなかった。しかしもう真実から遠ざかる選択だけはできない。

「そうか、やはりお前は──」

「悪神だ」

 そう、それがアデルとの決定的な違い、キルアが特例と表した理由だ。

 善神の治めるべき神界に送られ、神界三〇拠点の一つを治める宿命にありながら、邪な力を司る悪神、それがメリアであった。

 ……邪悪な気配を感じない。

 他者には感ぜられず、周りは善神しかおらず、救いを求められない罪へメリアを追い込むための設計だ。全ての発端は創造神アース。ニブリオに邪悪な気配が残されていたのは、創造神アースの仕業と観て間違いない。アデル達を混乱させ、ジーンを貶め、善神・悪神の対立を確立し、アデルとメリアの関係を自身らで拗らせさせる。それら全てを意図したのだ。

 ……ああ、なんという父だ。どこをどう取っても同情の余地もなく疎ましく厭わしい。

 けれどもアデルはこうも思う。創造神アースの愚かさを察しながらメリアのSOSを拾えなかった自分も笑えるほどに愚かだと。

 だからこそ、メリアの腕の中で死ぬわけにはゆかない。

「密かな負媒の力と、星の魔力を掛け合わせ、ニブリオを滅亡させたのだな」

「納得がいったか」

「ああ、ニブリオの惨状に関して一定の納得をした」

 魔力の強さが魔法を単純に強くする。メリアには強大な魔力が備わっていた。狂気を解放するとその魔力が爆発的に高まる上、負媒によって拍車が掛かる。星が持つ力の一端を用いる星の魔法をそのような強大な魔力で揮えばニブリオで起きた滅びの現象に説明がつく。

 これがもし勝ちの目のある戦いなら星を滅す力を持つメリアを超える隠し玉を持っていなければならないが今のアデルにそんな戦闘能力はない。確かめなければならないことがまだ残っていて、裁くと宣言しながらも決定的な決意を未だ握っていないのだ。

「狂気よ、訊いていいか」

「遺言として聞き入れよう。なんだ」

「ニブリオを滅亡させたとき、お前は何を思った」

「愉しかった。何もかもが弾け飛んでいく様子はトリュアティアの年初(ねんしょ)祝雨祭(しゅくうさい)で観る花火のように儚く美しかった。愉しいものはすぐに終わってしまう。滅亡もそう」

「なぜハブ神界のジュピタを狙わなかった。連携神界でもニブリオを狙った理由はなんだ」

「ただただ羨ましかった」

「選別理由は羨みと」

「一歩進めば窒息の苦難を与えられた要衝に対して辺境神界の空気のなんと澄んだことか」

「辺境神界とてそう変わらぬ。オレ達との連携がなければ魔物への対抗もままならなかった戦力的脆弱さがそうだ」

「力は磨くこともできる。魔物には同士討ちもあろう。知恵を使って流浪の民となり力を磨けば生き残ることは容易な自然環境を与えられている地が多い」

「戦闘にも適性がある。成長速度にも差がある。全てをお前の基準で考えるな。ただ、確かに連携神界は自然が豊かだ。お蔭で多くの神界三〇拠点で食が充実した。トリュアティアでは植物、メークランも殊に畜産物において恩恵を受けておろう」

「数ある連携神界の中でニブリオは最も緑が深く人口が多かっただけでなく食料生産が総じて高かったとしても選別理由にならないか」

「なるだろうな……」

 豊かな世界を滅ぼす悦び。それが狂気の結論と受け取るなら納得だ。ここまで聞けば、皆が理解・納得できるだけの真相には辿りついただろう。が、まだだ。

「これでオレを納得させられると思うのか」

 遠かった海面が、近づいてきた。剣で突き刺されたメリアの体は彼女を縛る海への激突によって致命的なダメージを受けるだろう。口も利けなくなる。

「──本音を、本心を、オレに聞かせろ」

「少し、(ねた)ましかったのだ」

「羨みではなく、妬み。何にだ」

「トリュアティアはいつも海水とともに求めていた、──」

 

 

〔ひとは欲す。

 木木や花、其の種子を。

 ひとは欲さぬ。

 意を見出せぬ其を──。〕

 

 

「──メークランにわたしが開発した()()がたくさんあった。だが海水で手一杯だった。ほかにたくさん渡したくても、交渉は決裂してしまった。水は恵みとして大きすぎたのだ。ニブリオとの通商条約では木材を運び込む予定だったのだろう」

「トリュアティアには届かず、失われてしまった」

「木材に紛れ込んだ植物の種やキノコの胞子がトリュアティアに根づけば、トリュアティアは感謝する。そんな幸運が、条約の平等性によってメークランには許されなかったのだ。理不尽ではないか」

「それゆえ憎らしかったと」

 通商条約の交渉は概ねカスガが行っており、メリアとカスガのあいだで種苗のやり取りを交渉していた。アデルはメリアの意図を酌み取れず水の恵みに満足して種苗の受取りを拒否していた。個個の取引の等価性が保たれていればいいという話ではない。神界の規模に応じた全神界との取引の平等性を保つ必要があった。トリュアティアで第二に不足した木属性魔力、すなわち植物のやり取りをメークランとは控え、別の神界、例えば、滅亡した二ブリオなどから輸入することでバランスを取った。

「最終決定権を持つオレの責任だ」

「当然だ。主神として配下の責任を全て負う。アデル、そんなあなたが愛おしい」

「光栄なことだ……」

 いくつか、アデルは納得した。ニブリオ滅亡は自分の責任もあったのだということ。それから、メリアに植えつけられた狂気もまたメリアなのだということを。

 ……狂気でありながらオレを想っているのだから。

 あるいは消極的なメリアも、ニブリオに妬みをいだいて、狂気の解放を積極したのかも知れない。狂気の抑制と同様、解放もある程度自由に行えることが証拠である。極端な言い方をすれば、メリアの心には善神の性質と悪神の性質、二つが共存している。正心のメリア、邪心のメリアといったところだ。が、どちらも一貫して、一つの性格を有している。

「お前は、オレを愛してくれるのだな」

「当然であろう……」

 それこそが存在意義とでも言うように、アデルへの愛を植えつけられたのである。その愛に踠き、苦しみ、罪を犯すメリアを観察して高笑いした者が確実に一人いる。

 ……笑い者にされるのはつらかっただろう。

 それを察しながらもアデルを想わずにはいられなかった。それがメリアだ。アデルだって、メリアを想ってやまない。その気持に、共感できないはずもない。

「メリア、お前の葛藤も、ここで終りだ。よく頑張った。よく、待ってくれた──」

「っふふ。はい……」

 アデルはメリアを抱き締め返し、背中から狙い撃った。その一点に、メリアの魔力の穴があった。そこを狙い撃つことで、メリアの心臓とともに自身の心臓をも撃つことになったが、構わない。

「……、……離れたく、ありま、せん……」

「安心しろ。離れぬ、放さぬ、絶対に……」

 ぐったりとしたメリアをアデルは抱え直す。全身の骨という骨がぼろぼろだが、放さない。

 メリアの魔力が形作っていたものがいつしか消えて、落下が加速してゆく。絶命するが早いか、海面にぶつかって死ぬが早いか、どちらにせよ、アデルはメリアとの死を選んだ。

 ……けじめだ。

 灼熱の大地や時化に吞まれることに等しいとしても、本望だ。

 ……これだけは感謝しよう。オレは、愛する者と心を確かめ合えたのだ。

 父にはきっとできない。自分らしい終り方だ。アデルは、小さく笑った。

 落下の体感。水面に身を剝ぎ、沈む音が心臓を圧迫して、

 ドッッッッ!

 アデルはやにわに目を覚ました。隣に息絶えたメリアがいて、唖然として数秒固まった。

「な……。馬鹿な、なぜ、オレは──」

 ほうけたアデルの頰を、

 ビタンッ!

 平手打ちにしたのは、アクセルだった。

「申し訳ございません。メリア様までお救いできませんでした」

「──なぜ、助けた……!」

 アクセルに摑みかかったアデルを、カスガが横から止めた。

「らしくないですよ、アデル様。そんなことは訊かなくても解ってるでしょう!」

「……」

 アデルは、顔を上げ、そこが、まだメークランであることに気づいた。海水を輸出しているため最初に訪れたときより広がっている神界宮殿前の陸地だ。息絶えたメリアとは反対側、アデルの隣にはアクセルとカスガがいて、複数の治癒術者も佇んでいた。メリアにも治療は施されたが、救えなかった。

「……傷心の中、申し訳ありません」

 と、カスガが報告するのは、「トリュアティアが、現在、悪神に襲撃されてます」

「な、に──」

 ジーン。いや、ジーンはそんなことをしない。だとしたら──。

 言葉を失ったアデルに、アクセルが述べる。

「メリア様を救えなかった咎め、後日改めて伺います。今はどうか、トリュアティアに戻り、救ってください。わたしの手にアデル様ほどの武力はございません」

「……、……」

 アクセルの治療で傷は癒えているが、息が苦しい。

「カノンさんとエノンさんがスライナさんの指揮下で防衛の要となっていますが、劣勢です」

「……、……」

 息が苦しい。

「アデル様──」

「おのれ……」

 アデルは起ち上がると、皆を見下ろす。「カスガ、アクセル、オレとともに戻れ。ほかの者はオレの名代としてハエトノタにメリアの訃報を届けろ」

 命令すると同時に駆け出し、空間転移室から空間転移した。

 経由したジュピタの空間転移室でトリュアティアの負傷兵と出会した。命からがらアデルを呼びに来たのだろう。宮殿まで侵攻された旨を伝えてくれた兵は足を捻挫し、腕を骨折していた。魔導機構の調整役に兵を預けて、アデル達は先を急いだ。

 トリュアティアの空間転移室に転移した瞬間、耳を劈くような爆発音が轟いた。頑丈な神界宮殿が足下から微振動している。アデルは下階(かかい)へ急ぐが、地上に近い階層へここ一一階から足で向かっては時間が掛かる。

「カスガ、アクセル、窓から飛び降りろ。その後、カスガは宮殿二階で防戦しているカノンとエノンに接触、宮殿から兵を退け。アクセル、一階医務室に集中している負傷者を退避。星の動きを待つな、急げ」

「『はい!』」

 階段の窓から外へ飛んだ二人を目で追わず、下階から急接近する気配を探知したアデルは七階の踊り場で止まった。防衛線であるカノンとエノンを突破した存在が間もなく現れた。毅然と佇む姿はジーンのそれだ。個体魔力もそうとしか感ぜられないがアデルは認識を疑った。

「いい加減、化けるはよせ、創造神アース!」

「っはははははははは、お前という奴はなんと鈍いことか」

 ジーンの像が歪んだかと思うと、闇に包まれてその姿が別のものへ、個体魔力もジーンのものから別のものへ、創造神アースのものへ変わった。

「予測通り成長したな、褒めてやろう。メリアを殺して目を養ったか、我が息子よ」

「ふざけるな……。お前は、いったい何を考えている」

「察せられないのはお前が愚かゆえだ。と、ジーンに何度いわせたか。あれはわたしの言葉でもあるのだが停滞の胸には響かぬか」

 アデルは創造神アースに摑みかかるが、軽く弾かれて逆に壁に押さえつけられた。

「ここはあえて親といっておこう。親に敵うと思うとはなんという思い上がりか」

「黙れ。お前を親と選んだ積りはない」

「選べぬ身では仕方なかろうな、哀れんでやろう、かわいそうに、愚かで鈍い我が息子」

「なぜジーンに化けて襲う。ニブリオの負媒の痕跡は捏造であろう。ジーンを貶めて何が愉しい。オレ達をどこまで足蹴にする積りだ」

「貴様の罪は消えぬ」

 創造神アースの目に闇が宿る。「貴様は貴様の責任を知ったのだ。罪もしかり。貴様は趨っているのだ、他者を責めることでな」

「解ったような口を叩くな」

 息が苦しい。アデルは、創造神アースの腕を押し退け、剣を抜いた。

「なぜ、メリアを独り追いつめさせた……、なぜ、メリアを死に導いた。オレを成長させるためなどとはいわせぬ。お前は、己の欲望を満たすために、オレ達の世界を、民を、仲間を、蹂躙したいだけだ!」

「だとしてどうするのだ。親であるわたしを侵略者として、その手で滅ぼすか」

「メリアやジーン、ニブリオやメークランの民、多くの命を貶めた罪を命でもって贖え」

「不遜にも断罪か。面白い。やってみよ」

 星が動くほどの時が経った。息が苦しい。

 ……容赦はせぬ!

 剣を構えるや光速で揮って七階全域ごと創造神アースを横薙ぎにした。寸時覗いた景色は空の彼方まで両断され、少しずつ沈んでゆく神界宮殿によって覆い隠された。

「捉えた積りか」

「ふんっ」

 天井が迫る。創造神アースの像は正面にあったが、アデルは後方に手を伸ばし、「それ」を摑むや前に引き倒して剣を突き立てた。

「っ!」

「あ、でる、さん」

 ……メリア、だと。

 アデルが引き倒して剣を突き立てたのは、いないはずのメリアだった。

「ふっ」

 その口許に嘲笑。

 気づけば、アデルは壁を突き破って外に投げ出されていた。

 ……虚像か。

 メリアの幻を見せ、アデルの隙を誘ったのだろう。どこまでも卑劣な父だ。怒りに、拍車が掛かる。が、意図せず投げ出されたアデルは町の様子を俯瞰できた。

 ……冷静になれ。皆は、避難できている。

 物理的に干渉できる悪神軍だが役割を果たすには彼らを率いた創造神アースの集中が必要なよう。今は町に凶行を見ず、兵の先導で民は宮殿から遠退くように避難している。

 ……カノンもエノンも、オレのことをよく理解している。いい先導だ。

 アデルは手加減ができない。やるとなれば本気しか出せない。

 宮殿を向き直ると、余裕綽綽の創造神アースが迫る天井も気にせず宮殿内に佇んでいる。

 ……散れ、我が父よ。その創造者気質が、お前の欠点だ。

 宮殿で働く仲間、町に暮らす民、その全てが神界宮殿にいないことをアデルは個体魔力で把握した。一人一人に想いをもって接しないような創造神には決してできないことだ。その上でアデルは星の魔法を全力で揮った。神界宮殿を造ったときのような生易しい地殻の変質や再構築ではない。神界宮殿を丸ごと圧縮し、創造神アースを閉じ込め、さらには、花火玉のように打ち上げた。黒い軌跡を描いて空に消え失せた神界宮殿だった球体は、アデルの意志で回遊神界の如く宇宙を進んでゆく──。

「何も観ることのない闇を彷徨うがいい」

 

 創造神アースが撒き散らした戦火によって、メークランのようにトリュアティアも甚大な被害を被っていたが、その多くは箱物に対するもので、人的被害は思いのほか少なかった。それが創造神アースの意図したことか、それともカスガ達の伝達で皆の避難が速やかに行われたからか、カノンやエノンを始めとする多くの兵の努力の賜物か、はたまた兵全体を指揮していたスライナの策あってか、本来なら救えぬ命がアクセルの治療で救えたからか、あるいは、そのどれもであったのか。アデルは、仲間や民については前向きに捉えることにした。

 ……全ては、皆のお蔭だ。

 

 その後、創造神アースがトリュアティアに現れることはなかった。

 後始末は相応に大変であった。メリアを殺害した経緯を噓偽りなく連携神界に伝え理解を得るもメークランの民の反感は厳しいものがあった。町の大半を荒らされていたトリュアティアは復興に時間を要し、メリアの葬儀にも顔を出せないほどアデルは忙殺された。

 同時期、不穏な噂がアデルの耳に入っていた。神界ライトレスにアデル率いる善神の軍が現れ、ジーンの妻子を殺した、と。アデルはスライナを通じてキルアと交渉、ジーンに弁明したが聞き入れられることはなかった。

 ジーンはアデルを知っている。トリュアティアを襲撃に訪れることもなかった。

 接触を持とうとする動きもなく、悪神討伐戦争が勃発、ジーンが亡くなるまでアデルとの関係は変わることがなかった──。

 

 

 メリアの心を裏切り続けていた過去の兄。死をも共にし、離れず、放さない、と、メリアと約束した過去の兄。

「つまるところ、オレはメリアをまたも裏切り生き残っていた、と、いうことだ」

 長く背を向けていた兄が、哀しく微笑んでいた。

 

 

 

──五章 終──

 

 

 

 

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