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終章 広がる足跡へ

 

 巫女であった竹神の系譜に取り祭祀に纏わる一通りの所作は覚えて然るべきこと。言葉真家に嫁いだオトの母も同じであった。教育は連鎖する。オトは母からその所作を教わりこれを用いる儀式を魔法的に解釈して新たな魔法を構築するようになった。それが、オトが得意とされた創作魔法である。数ある創作魔法の一つが魂器拡張以降に子を成した融合魔法の着想元であったことを示すとともに、別の創作魔法についてもここで解説せねばならない。と、いうのも二心同体、肉体共有しているララナとメリアの問題解決に役立つ魔法だからである。

 心を通わせることができたララナとメリアだが肉体を共有しているため片方しか表で行動できないという制限が生ずる。この問題をオトは解消しておきたかった。一つしかない肉体の主導権を握るのは一人のみと捉えるのが自然であるが、解決策を考え始めた頃は大きな問題点が二つあった。肉体を借りることにメリアが負い目をいだく可能性とメリアの狂気暴走による責任をララナが必要以上に引き受けかねない可能性。それらを残しておきたくなかった。狂気暴走は設計によるもの。これはアデルに確認を取って浮彫になり、解決策が狭まる一つの問題点として浮上した。対策の一つとして考えていた魂器外殻再生の手段を講じても魂の設計に依存したメリアの人格は復元されるだけなので危険性を除去できない。よって肉体共有に関してその対策では解決できないと判明した。一方、刻音を始めとして竹神家で受け入れられたことで継続的なガス抜きが可能となったため狂気には決着がついた。そこでオトは肉体共有に関して別の解決策へ切り換えることにした。それが、神を一時的に降臨させる儀式基にした創作魔法である。

 儀式の記憶や知識が目に留まったきっかけはといえば、超人的身体能力を発揮した少年や一つの肉体に穢れから成る別人格を有した少女など。話が広がりすぎるため固有名詞はあえて挙げないことにするが彼らの存在がオトにヒントを与えてくれた。ちなみに、それぞれに対してささやかなお礼が済んでいる。

 

 

「──『依代(よりしろ)』ですか」

 魂器内、闇の殻の中でメリアは首を傾げた。

 正面にはオトとララナが揃っている。オトは以前と同じように光の橋を渡って来た。ララナは少し異なり、肉体の主導権を握って闇に橋を架ける必要があるので特異転移でも飛んでくることができない。魂器内に現れたララナは霊体の一部に姿を象らせたものである。

 オトの説明によれば、依代を用いればララナと同時にメリアも外で動くことができる。

「そんなことができるなんて。どうしてもっと早くいってくださらなかったのですか。精神力の消耗も時間的負担も羅欄納さんに伸しかかっていたのですよ。肉体のあれこれだって……」

「メリアのおらんところで刻音が羅欄納に甘えまくってもよかったん」

「あ」

「私のことは気にしないでください。負担と考えたことがございません」

 と、羽毛のように柔らかいララナの微笑み。「魂を依代に移すため星の魔力などは生前と同じように持てますが、ゼロに等しい精神力を消耗できない、つまり、依代に移って時が経たなければ魔法が使えないとのことです」

「ネックがあるのですね」

 自然界からエーテルを取り込むことで自分が使えるエーテル、いわゆる精神力として蓄えることができる。相応の時間を依代で過ごさなければ魔法を使うことは難しく、長時間過ごしたとしても双剣萼のような消耗の激しい魔法や穢れ探知などは乱発できない。

「また、私の体を覆う障壁が依代にはなく防護力が低下します。それらの点を踏まえて、外で活動するか否かを決める必要がございます」

「精神力や安全性を取れば羅欄納さんの体を借りたままがいいということですね……」

 魔法を使えないなら魔物討伐の仕事はできない。精神力を蓄えるまで敵性分子と接触することのない安全領域で活動するのが無難だ。

「通常の肉体は命を削って魔法を使えます。依代の場合、その辺りはどうなりますか」

 メリアの問に、今度はオトが答える。

「依代は肉体の代りでね、精神力が足りん場合は依代がダメージを負って魔法を行使できる。ただし、依代の耐久力は紙程度やからメリアみたいに強力な攻撃魔法を放とうものなら一発で消えることになる。まあ、創造神アースのいうところの原始魔法、二〇属性以外を使うなら精神力消耗はないようなもんなんやけどね」

「星の魔力を使う双剣萼は本当なら消耗しないということですか。これも時化の設計のせいなのでしょうか」

「双剣萼に関しては世界に対する設計が働いとるんやないかな」

「『世界──』」

 声が揃ったララナと一瞥を交わしたメリアは、ともにオトの知識を頼る。

「細かい説明は追い追いするかも知れんが、簡単にいえば二〇属性の使用に精神力消耗が発生する設計やね。メリアは星の魔力とは別に緊縛の魔力、俗にいう死属性魔力を使って双剣萼なんかを使っとる」

「死属性は二〇属性の一つ。消耗が発生するのはそのせいなのですね」

 と、ララナがメリアを一瞥して、「星の魔力のみで行使できれば、依代を失うことなく魔法を使えましょう。ただ、私の感覚が確かなら、メリアさんが星の魔力による探知を使ったあとは消耗が著しかったように思います」

「正しい感覚やね。それがメリアに施された呪いの正体やから」

 初めて聞くことだがメリアには実感があった。

「無魔力個体の魔物と遭遇したあの日から薄薄感じていました……」

 星の魔力での魔力探知の消耗が激しいことを知ったメークランで既に死属性魔力を代用していた。メークランでは無魔力の魔物がおらず経験的に死属性魔力で事足りると考えるようになっていた。このフリアーテノアで無魔力の魔物との思わぬ遭遇をし、音羅を危険に曝してしまったのが苦い思い出だ。

「油断の言訳をしたいわけじゃないってことは理解しとるから肩の力を抜きなさいね」

「音さん……ありがとうございます」

「どういたしまして。呪いは星の魔力での魔力探知のみに働くからじつはネックが少ないね」

「時化はなぜそんな設計もとい呪いを」

「狂気暴走で一撃必殺するメリアなら魔物なんて敵にならん。メークランに無魔力の魔物が存在せんかったことからしても、考え方によってはノーリスクってことやね」

 創造神アースの狙いはメリアの人生上の大きなマイナスとなった投獄のきっかけの用意だろう。何もかも破壊する前提ならメリットしかない呪いだがメリアの望みと掛け離れている。

「ひとに掛けられるものばかりじゃなく、自縄自縛、思い込みの呪いもある。緋色童子の外見的特徴はそのままでも、メリアが狂気の正体を再認識したことで呪いはもう解けとる」

「そうなのですか。試しに、──あ、本当ですね」

 星の魔力で魔力探知を行ってみると見事に消耗がなくなっていた。「依代での活動を考えてくださったのは呪いが解けたからだったのですね」

「今のでより確実な証明ができたわけやから、狂気暴走についてももう安心していいね。狂気は正気の対義じゃないとはメリアにいったが、あえて別の言い方をするなら『欲求』だ」

 個性として受け入れた途端に呪いが解けるなどさすがに想像していなかったメリアは驚きと悦びに震えた。

「水を注す気もないが消耗の話に戻ろう。参考までに訊くが、メリア、星の魔法の消耗は昔も今もあったん」

「記憶が曖昧ですが、消耗がないと感じたことが。確か、神界宮殿を造ったときです」

「つい最近も料理しとるときに消耗せんかったことがあるはずやけどね」

 メリアは子欄に話したエピソードを思い出した。

「星の板を作ったときも、確かに消耗がありませんでした」

「双剣萼とか、別の魔法にその経験を活かせる可能性はあるね」

「あの板ほどに小さなものなら……。双剣萼もそうですが、感覚的に使ってきたので練習が必要だと思います。依代に消耗が発生したときそれに見合うかどうか……」

「せやね。やるとしてもまあまあ先のことやろうから、そのときが来たら改めて考えよう」

 魔法の使用で依代が失われた場合にも想定される事態について、メリアは言及したい。

「体から抜けた魂はどうなってしまうのですか。普通なら転生しますがわたしは現世に縛られると思います。この場でやりたいことが全く果たせていないのですから」

「魂が体から抜け出たいわゆる(はく)の状態やな。魄は自然魔力に汚染されるから当然対策する。俺が知っとる依代関連の儀式は飽くまで土台であって依代にメリアの魂を移すのは羅欄納の魂鼎の力。魂を移して実体を得る前に反射発動型返還魔法を施しておくことで依代消失時の問題をカバーする」

 創造神アースの魂を二分して生まれた二人であるから当然だろうか、

「音さんと羅欄納さんが揃えば魂の扱いすら容易いですね。もはやなんでもありのようです」

「思いつけば、ね。まあ、この手段についてはとある依代から着想を得て構築しとったから、使うのは四〇年越しになったな」

「わたしの自由をそんな前から考えてくださって……」

 意識を傾けただけでなく、単純計算で一万夜以上もの昔にオトがメリアの自由行動を見据えていた。

「魔法構築の正確性、肉体となる依代と骨格たる霊体の適合性を踏まえた最適化に微調整なんかが必要やったから、完璧に構築できたのはメリアと対面できたあと、とは、付け加えるよ」

「それでも、人間として生まれた音さんに取ってすごく長い時間のご思慮を。どこからどうお礼を申し上げていいか……」

「引籠りのおっさんの暇潰しみたいな思考に改まってお礼をいう必要はないよ」

 暇潰しというのは総じて暇なひとがすることである。四〇年も暇だったわけがあるまい。

「穴がないか、質問させていただきます」

「遠慮なくどうぞ」

「わたしの魂を手放すことで羅欄納さんが魂器過負荷症に陥る可能性はありませんよね」

「創造神アースの魂に余裕があるから問題ない」

「肉体的な問題はいかがですか。化神としての力で羅欄納さんは髪を白っぽく染めていると聞いています」

「創造神アースの持つ肉体変化能力は俺が持っとるから、羅欄納のそれはメリアの魂依存ってことになる。要するに、髪はもとに戻るかもね」

「……。羅欄納さんは、それでもいいのですか」

 髪に纏わる傷と悲しみを、メリアはその当時から知っている。

「オト様がいらっしゃりますから」

 と、彼女は躊躇うこともない。全てを承知の上で自由を与えてくれるのだ。

 なんという遠望。そして、なんという寛容。

 ……出逢ったのが、音さんと羅欄納さんで、よかったです、本当に。

 転生体がララナでなければ、夫がオトでなければ、こんな幸運に巡り合えなかった。

 設計に翻弄された人生が、このような世界に辿りつくとメリアは想像もしなかった。創造者たる時化とて想像できはしなかった。ララナに生まれ落ちたときには、運命が大きく好転していたに違いない。

「ここまでの受け答えから依代での活動に前向きと取っていいかね」

「はい。時間を奪うという言い方を羅欄納さん達は否定してくれましたが……それとは別に時間を失っていたとは思い直したのです。羅欄納さんと音さん、同じ場所に座って過ごせる可能性を考えたこともなかったのです。許されるのなら、その時間をください」

「勿論です。オト様もよろしいですよね」

「無論やね。善は急げ、依代へ魂を移して実体化をしてみよう」

「よろしくお願いしますっ!」

「じゃ、ひとまず準備してこよっと。またあとでね」

「はい」

 みんなの自由が保たれること、みんなと同じ場所にいて顔を合わせられること、大きな利点を前にしばし魔法を使えないことがデメリットとは感じない。メリアは、橋を渡るオトに手を振って見送った。

「これからは一緒にご奉仕できますね」

 と、ララナが微笑む。

 仕事人間な彼女のことであるから家事・掃除・炊事・外仕事などを指した言葉だろう。それがオトに対してであるのは言うまでもないとして、メリアは邪にも別のことを想像して顔が熱くなった。

 メリアはララナと向かい合う。

「音さんの身の回りのことは勿論したいです。クムさん達の領分もあると思いますが、その、夜伽は……」

 自分の言葉を振り返ってララナが首を傾げた。

「ん、なるほど。その、夜伽は私がオト様からいただいているような感覚で……」

「あ、な、なるほど……思わぬ意識の相違でした……」

 想起したことを赤面の沈黙に互いが察するところであった。

 メリアは改めて切り出す。

「わたしと羅欄納さん、どちらも受け入れたとはいっても音さんの体は一つです。対処に困らせてしまいそうでいまさら躊躇が……。羅欄納さんはどう考えていますか」

「一〇人であろうともオト様は隈なくお相手されます」

「ど、どど同時にっ──」

「ふぇっ、あの、飽くまで想定ですよ」

「それは解っていますが、一〇人で、だなんて(もはや悪魔の所業では……)」

「日常生活において皆さんと平等にお接しになるでしょう、と、いうことですよ」

「あ、そういう意味ですよねっ」

 何を勘違いしている。……わたしはなんて邪なのですか!

 自由行動を前に緩みきっている。気を引き締めよう。

 と、考えていたメリアに、ララナの呟きが届く。

「オト様なら夜伽も──」

「えっ」

 思わず反応してしまったメリアに、ララナが説明する。

「一〇人とはいいませんが、私はメリアさんと寝所をともにしても構いませんので、その場合オト様なら平等に応えてくださると思いまして」

「……」

 それはメリアも否定できなかった。表ではララナや娘を慈しみ、裏で竹神家を支えてきたオトが、闇の殻の中に惜しみなく月明りを灯してくれたことは誰より体感している。オトがメリアに心を傾けられたのはそうしていたことを咎めることもなく受け入れられたララナがいたから。さらにはメリアの魂をララナが救おうとしていたことも知っていたからにほかならない。ララナに取ってもメリアに取っても全てがうまくゆく道筋を考え、なおかつ竹神家全体としても纏まるように運びきったオトの計算高さや絶妙な接し方は疑う余地もない。

「少し話がずれますが、気づいていましたか」

「何をですか」

「誰より自らを知った上での自己愛はひょっとすると私やメリアさんの想いより深いのです」

「……夜月さんの、音さんへの好意のことですか」

「はい。しかし別人格たる夜月ちゃんの好意は間違いなく異性への感情なのですよ。振り返れば子欄ちゃん達も同じような感情に向き合ってきました」

「今の子欄さんは、普通の娘として接していますよね」

 気づいているか、と、いうララナの問に、メリアは答を出す。「音さんは、本物の感情すら説き伏せてきた、と、いうことですね」

「オト様が仰るにはひとを操ることに長けている。手に負えない相手から好意を向けられるようなこともなさらないということです」

 逆もしかりで、許容できる範囲でしっかりと包み込むことができる、と。時化が何万人にも害を及ぼしたとするなら、何万人でも包み込む資質があるのがオト、とは、贔屓目もあるが、

 ……音さんが羅欄納さんのことを蔑ろにすることはなさそうですね。

「躊躇う必要はございませんね」

 と、ララナも考えている。

 ……わたしは、本当に、お二人からたくさんもらっていますね。

 メリアが安心できるのは、オトとともにララナもいてくれるからだ。「羅欄納さんも、ひとを操ることに長けていますね」

「事実をいったまでのことです。オト様は、過去の想いを打ち破ってくださった方ですから」

「過去の想い」

「私の初恋は未来のオト様でしたから」

「──その感覚、少し、解る気がします」

 ここで出逢ったオトの記憶からが鮮明で、それ以前のオトとの触れ合いをすっかり忘れかけていた。今のオトに恋して、今のオトを求めている自分がいる。過去のオトと今のオトとで態度が大きく違うとは思わないのに、不思議だ。

 その不思議な感覚に対するララナの見立てはこうだった。

「ひととき、ひととき、オト様は私を真剣に想ってくださった。過去のオト様はそうではなかった、と、いうことではなく、ただただ、私がオト様のお心を感じていなかった、感じようともしていなかったのです」

「……わたしも、そうでした」

 受動性の塊のようなオトの記憶がぼやけるという事実が、オトと真剣に向き合っていなかった生半可な自分を照らし出している。オトの真剣さを知ったそのときこそ、オトに真剣になった自分を知ったときなのだ。そのときにはオトを忘れることができなくなっている。なぜならそれが自分の真剣さをも顕していて、それを自覚もしていて、設計に振り回された虚ろな感情ではなく自分自身の感情であるのだ、と、自信を持って言えるからだ。

 要するに、メリアはオトにうまく転がされていた。ここで心地よい息苦しさを与えてくれたように、メリアの欲求すら見抜いて先手を打ってくれる受動性なら立派な積極性ともいえる。パラドックスなオトの姿勢に搔き立てられる自分がいることもまたメリアは受け入れたい。

 そこで、メリアは一つだけララナに尋ねたいことがある。

「羅欄納さんはどうして、わたしに嫉妬しないのですか」

「どうしてとは」

「夫と裏で、半ば通じ合っていた女です。わたしは……それでニブリオを滅ぼしたのです」

 相手が女性だったわけでもない。アデルが自分以外と会う時間を作るたびに嫉妬していた。アデルが自分以外に心を砕いていると知るたび怒り狂っていた。そうして、抑え込めない衝動をニブリオにぶつけた。

 ララナが、答をくれた。

「情熱がある限り、無限に湧き上がってくるものが衝動です」

「……!」

「メリアさんは、オト様の衝動が枯渇すると思いますか」

「……」

「オト様の想いは家族に等しく向かっています。メリアさんに対しても同じですよね」

 メリアはうなづいた。

「オト様はきっと変わりません。老若男女、何人増えても家族に対しては変わらないのです。ならば、奪い合ったり啀み合ったりしてオト様のお心を煩わせるより、積極的に分ち合いたいと思います。それがメリアさんであることが、私は嬉しいのです」

 ……羅欄納さん、やはりあなたは素的です。

 輝きに目を細めるほかなく、成り代わることはできない。醜くも彼女に嫉妬してしまう自分を感ずるメリアの中で、

 ……わたしは、あなたのようになりたいです。

 その温かさへの憧れこそが優っている。無理のない自分らしい足並で、少しでも肩を並べられるように努力したいのだ。

「──、どうやらオト様の準備が整ったようです」

 ララナがメリアの手を握った。「愛の形はひとそれぞれです」

「──」

「メリアさんの嫉妬はオト様への衝動の証です」

 ……どこまでも眩しくて──。

 光の粒のようになって融けたララナの感触が両掌に残った。

 ……この手を汚すことは、もうしません。

 きゅっと手を握ったそのとき、体が浮き上がって橋を抜けてゆく。体を包む温かい感触は太陽の香りがした。

 闇の殻を抜けた途端、ヴァイアプトの明るさを感じて腕を翳した。そっと瞼を開いて、腕を下ろすと、すっかり見慣れた囲炉裏がそこにあった。

「お疲れさん」

「具合はいかがでしょう」

 二人の声が聞こえてメリアは振り向く。右手にオト、左手にララナがいた。依代に無事移れたのだろうか、と、自分の状況を確認する前にメリアはびっくりしたことに切り込む。

「羅欄納さん、その姿は……!」

 同性に思わず見蕩れたのは初めてだった。

「肉体変化で変えていたのは髪色だけではなかったようです」

 そう言ったララナは、見た者の心を解きほぐすような女神の微笑みであった。二〇センチメートルほど身長が伸び、虹色の髪も相俟ってメリアの想像を超えた美人を体現している。一目で彼女と判別できたのは、目差が変わらなかった。

「私語を差し挟めんときやったからスルーしたが、俺がその姿を最初に瞥たのは死後世界やったな……」

「死後世界は魂の世界。羅欄納さんの霊体はこの姿を取っていたのですね」

 メリアは一暼では足りず二度見し、そのまま釘づけにされてしまった。いつも無表情のオトがいささか感情を覗かせたようにララナから目を逸らしているのは麗しさゆえか。

「髪はそのままやと目立つね」

「オト様はお嫌いですか」

「結師ではないが特別に嫌いな髪はないよ」

「羅欄納さんが人目を引くと音さんが独占できなくて困るということですよね」

「さあね」

 はぐらかしだ。メリアは羅欄納と目を交わし、

「染めてもらったらどうでしょう。羅欄納さんの髪は素的ですが、せっかくのご夫婦ですからお揃いの黒髪にしてもいいかと」

「黄色人種の俺が虹色になると絶対似合わんもんね。羅欄納、どうする」

「子達が私とオト様を見間違ってくれたら面白いですね」

「いぃやこのおっさん面と間違ったら即治療やわ」

 オトが右手をひょいと振るうと、ララナの髪が生え際から黒く染まり──。

「っすごい、一瞬で……」

「妥協したくないからヘアメイクはそれでよろしく」

 結師の技術に劣らないのではないか、長い髪を活かした編み込みは複雑にして上品だ。

 ……絵画から抜け出たような気品。以前も可愛らしかったのですが。

「幼女なお前さんに惚れとらんくてよかった」

「幼女ではございません、と、最初から申し上げておりました」

「とはいえすごい成長ですね……」

「進化後ステータスが跳ね上がった鯉みたいやな。せめて身長を五センチほど分けてくれんかにぃ……」

「メリアさん、オト様も、私の話は囲炉裏で燃しましょう。今はメリアさんの具合を確かめるべきときですよ」

「そうやけど、なんかお前さんに嫉妬するわ」

 ……わたしも少し嫉妬してしまいそうです。

 メリアは妹ミントを思い出した。体格は妹のほうが姉だった、と。

「メリアさん」

「は、はい、気後れしている場合ではありませんでしたね」

 目差やら気品やら体格やらいろいろと学びたいが彼女の言う通り依代に移ったメリア自身を注視すべきであろう。

 ……さて、どうでしょうね……。

 両手の平・甲を確認する。ララナの体を借りていたときに増して赤い。これは、前世と変りない。鏡を見れば全身が赤みがかっているだろう、緋色童子の特徴だ。見慣れた肌色が変わるのは落ちつかなさそうなので呪いが解けたことと合わせて安心した。

「羅欄納さんの体のように自然に動きます。これはもう依代ですよね」

「ん。もとは平面的な紙やけど、魂魄を宿すと立体を成すようにしてある」

 指先まで細かくスムーズな動きができる。ララナが差し出した手鏡を借りて、メリアは自分の姿を確認した。先程確認した手のみならず緋色童子を象徴する赤い肌と眼、感情に呼応して色が変わる髪。

「すごいです。懐かしい……さわった感じとか色とか全部前世と同じです。やや重く感じる体を抜きにしたら、思ったより断然自然です」

「依代と霊体との微調整の賜物やよ」

 ぱちぱちと瞬きができる。わーっと口が開く。グー・チョキ・パーと指が動く。ぐるぐると首を回せ、ぐんにゃり前屈でき、ぱーっと開脚できて、ぴょんぴょ〜んっと跳べて──。

「はしゃいどるな」

「はしゃいどりますね」

「動作確認ですよ、動作確認、たぶん神経系とかそういうあれです」

 こほんと咳払いして、メリアは座布団に落ちついた。「こんなにいい体ができるなんて驚きました。音さんが調整してくださったのですよね」

「どこも違和感はないよね」

「はい、不思議なほどに。耐久力は紙という話でしたが精神力が少しでも戻れば日常生活に不便はなさそうです。こんなに自由な体が作れたのはわたしの体を隅隅まで知っていらっしゃるからですか」

「セクハラトラップか」

「い、いいえっ、その、ちょっと気になりますが……」

 この体で()()なのか、とか。

「可能やよ」

「はうぃ、何がですか」

「自分の胸に聞きぃ」

 ……見抜かれています!

 オトにその心構えがあって依代に十分な耐久力を与えていたということであろうから──。

「嬉しそうやね」

「嬉しそうですね」

「う、嬉しくないといえば噓で積極的に望んでいなかったこともありません」

「嬉しそうやね」

「嬉しそうですね」

「んう〜〜っ!嬉しいです、ごめんなさい!」

「『っふふふ』」

「い、いじめないでください……」

 にこにことしている二人には敵わない。

「可愛くてついね」

 何気ない言葉にどきっしたが、メリアは落ちつく。今は夜だ。興奮するのはあとでいい。

「音さん、羅欄納さん、……ありがとうございます」

「お礼をいうのが少し早いね。まだやることがあるんよ」

「え」

「ほら、手を重ねて」

 オトがララナとメリアに手を差し伸べた。ララナが左手に重ねて、メリアは右手に重ねた。

「これは何かの儀式ですか、その、音さんの家の」

「惑星アースの神話に描かれた結納には互いの魔力をやり取りする、って、いうのがある。契約的魔法効果があったことが窺えるが、今回は結婚の証ってところかな」

 思い起こせば遥か昔、アデルとの結婚行事は両神界のイベントとして盛大に執り行った。オトとのそれは居間に座った当事者のみで行う極めて小規模な儀式だ。

「一つ質問をいいですか」

「なん」

「羅欄納さんとは結婚式をしていらっしゃらないのですか」

 ララナもオトと手を重ねていることがそのような気づきを与えた。

「羅欄納の家族に挨拶したりはしたが式は挙げてないよ」

 メリアはララナとともに儀式を行えて光栄だが、

「……わたしと一緒に、やっつけ的に行っていいものでしょうか」

「その質問の答は先程伝えました」

 と、ララナ。与えられた機会に躊躇う必要はない、と、いうことだろう。

「メリアさんが先にいってくれましたね。私もオト様も、こうしてメリアさんと顔を合わせて話せることを幸せに思います。私個人としては、レイスちゃんの願いに応えてライトレスでの暴走を断行してくれたこと、私に絶望を教えてくれたことに感謝しています」

 どうしてと訊こうとしてすぐ思い至ったことを、メリアは彼女の口から聞くことができた。

「あの絶望がなければ手を伸ばすことや踏み出すことをどこかで躊躇って、オト様に、零れてゆく命に、背を向けてしまったはずです。過ちを正当化したいのではありませんが、こうして手を繫げる日へと辿りついたのは、紛れもなく私の望みです。そして、この現実がメリアさんの悦びとなり、永遠に続いてほしいと願わずにはいられません」

「羅欄納さん──」

 そっと手を差し伸べたララナと、メリアは握手した。決して手放さないようにしっかりと。

 もしも狂気が狂気だったとしても、彼女達はこうして受け入れてくれたのだろう。

 ……少し暑いですね。

 両手のぬくもりのお蔭か。囲炉裏のお蔭か。心地よく巡る熱に鼓動が高まる。

「じゃあ二人とも、俺の手のほうに魔力を集中させて」

 オトの言葉に従ってメリアは魔力を注ぎ、祈りを込めて瞼を閉じる。

 ……どうか──。

 握り合った手が、どちらからともなく密着した。

 ……どうか、この手が離れませんよう、お願いします──。

 貪欲と言われてもメリアは構わない。二人がいなければここに存在したかも疑わしい自分が二人の永遠を願って何が悪い。躊躇わず、怠らず、悦び勇んで祈りたい。

 ……そう、わたしに取って、お二人が神様です。

 創造神たる父ではなく、二人こそが。

 身を絆した関係を確かめると、夫婦の営みにも似た高揚感に快感を覚える。嫉妬を燃やして得た快楽でもなければ破滅的な達成感でもなく、この快感は躍る胸を満たしてゆく。

 と、

 ……月明り。

 瞼を越えて届くぼんやりとした燈を捉えて、メリアはおもむろに瞼を開いた。メリアとララナ、二人の手を支えるようにしていたオトの手に、ぽ〜っと丸い光が灯っていて、それを視ていると自然と吐息が漏れた。

 ……わたしが、ずっと、ずっと、求めていたものです。

 見えない鎖が融け落ちてゆくように、山程あった苦しいことが搔き消えてゆく。柔らかさが弾けて、オトの仕種に合わせて光をいだく。

 腕の中で、少しずつ光が治まって、

「……こ、これは──」

 心地よさに浸るとともに、形を成したそれを両腕で支え、やんわりとくるむ。「う、噓……こんなことが──」

「来年の誕生日は合同になりそうやな」

「ああ……なんということでしょう」

 小さな頃がメリアにはなく想像するほかないものの、腕の中の桃色ほっぺは幼い頃の自分と瓜二つであるのかも知れず。

「赤ちゃん……。これが、赤ちゃん……」

「魔法技術は前に伝えた通り。正真正銘、その子はメリアの子やよ」

 オトがメリアとララナの腕を交互に見て、「そちらはララナの子ね」

「生まれたてはやはり小さいですね」

「なんという可愛さでしょう……!」

 高くなりそうな声を無理やりに抑えた。ララナの腕にも小さな命が存ることを認めて感動が湧き上がる。立ち上がることも、ぴょんぴょん跳ねることもできず、上体を揺り籠のようにして動きを怺えた。ララナと目を交わすとますます興奮して、揺り籠に拍車が掛かった。

「いろいろと引っかかりそうな気はするが、竹神家の新たな門出を祝した贈り物、って、とこやね」

 オトがふわりと微笑む。「これで粗方の球技ができる人数になったわ」

「おや、オト様には球技普及の志でもござりましたか」

「運動はえらいから嫌」

 引籠り精神は変わらないようだ。

「早くも髪が生え揃ってきています。話に聞いていた成長促進の魔法ですか」

「念のためにね。俺達が揃っとって外は謐納が守ってくれるとはいっても、完璧な敵性対策はない」

 自衛手段はより多く確保したく、幼い子にもあるに越したことはない。

「音羅さん達のように、笑顔の素的な子に育ってくれると嬉しいですね」

「親の意のままはいかんがね」

「……そうですね、教育の押しつけはいけません」

 メリアは創造神アースから教育を受けた憶えがなかった。が、設計が教育の替りだったのだろう。植えつけられたそれは完全な強制だった。押しつけは子の成長を歪めてしまう。拗らせると悲観的になってつらいだけだ。

「教育については羅欄納さんに相談します」

「俺は除け者か」

「オト様は噓がお得意ですから子が素直に歪んでしまいます」

「俺みたいなのが増えたら厄介やしな、相談役は羅欄納が適任と認める」

 そうこう話しているうちに膝に載せてもいいほど大きくなった我が子である。

「まだ眠っているのでしょうか。口をふにゃふにゃさせて可愛いですね」

 片手が空いて、ほっぺや髪や額を触れる余裕が出てきた。「あ、指を握りましたよっ、ふふふ、可愛いですね〜、おはようございます〜」

「まだ寝とるよ。わーわー話しとったら起こすやろうけど」

「ん〜〜、早く起きてほしくなってきました」

 揺り籠も慣れた様子のララナが鼓動と合わせるように幼子の背中をとんとんしている。

「アクティブなメリアさんに合わせて、オト様、名前を決めましょう」

 相談役を任せなかったララナが名前についてオトをお伺いを立てる理由は四女鈴音の名づけが原因だろう。音羅や刻音と同じようにオトの名前を受け継いだように感ずる鈴音だが実際はオトの亡き恋人が由来であるらしい。

「俺の関係者以外の名前なら使っていいよ。俺か二人の名前のどっかを取ってもらえると個人的には嬉しいけどね」

「納月さん、子欄さん、謐納さん、納雪さんは羅欄納さんの名前から一字を取っていますね」

 オトが示した法則から外れた名前の子が鈴音以外にもう一人いる。「夜月さんの名前の由来はなんですか」

「絵本作家やよ」

 オトがどこからかひょいと取り出したのがその絵本。『こころのまほう』といい、著者には〔夜月〕と記されている。

「作品の内容から察するに魔法がひとのおもいそのものであることを、この『夜月』は知っとる。その点でも、俺と羅欄納は作品に共感したわけやよ」

「その名をつけたのは、夜月さんにおもいのある子に育ってほしかったのですね」

「ひとの心を勝手に読む子でもあるけどね、力があれば使ってまうのも惑い多き人間らしさ。人生に黒歴史はつきもんやし、支え合って生きられればそれでいいってことで」

 不器用かつ臍曲りの夜月はずっと変わらないかも知れないが、家族への想いを秘めていることも確かだ。その歩みが名に恥じない大成に繫がっていることを、親である二人が願い、見守っている。これからは、メリアもその和に加わる。

「と、名前を決めないと……。音さんとわたしから名前を取るとなると、メリアネ、メリネ、メリオト、オトリア、オトメリア、などなどですね」

「センスないね」

「ふぇっ」

 方式は音羅などと同じはずなのに一刀両断だ。

「決めました」

 と、ララナが先んずる。「『サラン』はいかがでしょう」

「どんな字を充てるか聞こうか」

「励み支える子、と、いう意味から、切磋琢磨の磋と、私の欄の字を取りました」

「なるほど、磋欄──、その名づけには、メリアの子の存在もあるね」

「はい」

 ……励み、支える。

 ララナの優しさが嬉しい。……それに引換え、わたしは自分のことで精一杯でした。

 ララナを見習ってもっと広い視野を持たなければ。教育方針を強制しないとしても、子へのおもいを籠めよう。

 ……お二人の子のように、また、羅欄納さんのように、優しく寛容な子。

 そんな子に育ってくれたら嬉しい、と、願いを籠めるなら、どんな名が相応しいだろう。

「(──。)わたしも、決めました」

「どんな名前」

「レイランです」

「ふむ。どんな字を充てるん」

「羅欄納さんのようにひとを強く支えられる魂を持てるように、と、いう意味を籠めて、羅欄納さんから欄の字をもらい、霊魂の霊を加えたいのです」

「メリアさん……」

「羅欄納さん、いいでしょうか」

「勿論です。ぜひ使ってください。オト様もよろしいですか」

「俺も構わんが、どうせ羅欄納から取るなら霊羅(レイラ)とか、納霊(ナミ)とか、響きのいい名前も──」

 難しい顔で別の案を挙げるオトにララナが笑顔で苦言を呈する。

「却下です。メリアさんの示した意から逸れます」

「俺の字が入っとらんのも……」

「メリアさんの願いをお守りになり、名にオト様の意をお吹き込みください」

 オトとは別の意味で一刀両断だ。

「まあ、否定する意図はないよ」

 と、オトが小さくうなづき、「磋欄と霊欄、……観れば名に似て双子っぽい顔やな」

「音さんの魔法は姿形にも影響しますよね」

「根本に親の遺伝子があるから大きく逸れることはないよ。狙ってそうなるわけでもないやろうし俺はその限りじゃなかったが、竹神は女系で母方の形質を引き継ぐ傾向がある」

 メリアとララナの顔形や目鼻のバランスが似ているから子どもも似た、と。

「音さんの遺伝子が共通していることも大いに影響していますよね」

「まあ、そうやね。双子ってのは同じ母親から生まれた子を指すから、家では最初から異母姉妹として扱ってこうね」

 外見というのは存外人生に影響するものだ。他者が双子と表すれば実際にそうでなくてもそのように振る舞わざるを得ないこともあるだろう。磋欄と霊欄がそれでいいなら問題ないが、それを否定したいときまで他者の見方を押しつけられては傷つくだろう。近親者たるメリア達は、きちんとした家族構成で接せられるよう実態から逸れてはならない。

「双子のようで双子でない。成長してくこの子らに合わせてしっかり教えてこう」

「柔軟・適切にですね。メリアさんもそのように」

「はい。……それにしても可愛いですね」

 黄色の髪に赤い肌の我が子と、灰色の髪に白い肌のララナの子。髪色・肌色違いの子を眺めて、メリアはその頰を撫で、同じようにララナも撫でて、むぐむぐと身動ぎする小さな気吹を包んだ。

「わたしと、みんなと一緒に、成長していきましょうね、霊欄さん」

 オトが服を着せて間もなく二人の子は抱えるのも大変な大きさになっていた。音羅と夜月の部屋の隣、二階南西の部屋を割り当てて布団を敷き、そうっと寝かせた。

 

 

 屋根に座して謐納は村を見下ろした。月明りの村は我が家と等しく平穏で、反面、魔物への警戒心が松明の動きに顕れている。

 隣に立った父が村を見渡している。

「妹が増えたようですね」

「なんで判る」

「外から捉えられませぬが……魔力反応です。母上方は部屋に」

「赤ちゃんの面倒はがさつな男がみられるもんじゃないからね。謐納、夜更かしせんと早く寝ぇよ」

「其は父上も同じかと。わたしは庭番がありまする」

「休むべきときは休みぃ」

「……」

 父が家中を守るという約束は、謐納が家の外を守っている限り果たされる。裏を返せば、庭番を休むなら父が表に出ることを許容しなければならない。そんな穴に、約束事を決めたあとになって気づいて謐納は不安にもなった。

「父上が寝所へ引き籠もることが必要です」

「理屈っぽく考えてまうのは俺も同じやから気持は解るけどね、心配無用やよ」

「では、何故こちらに」

「お前さんが寝とらんからやよ」

「……では、ともに退きましょう」

「信用ないね」

「ええ、ありませぬ」

「結構」

 父が差し出した手を取り、謐納は家に入った。「鈴音の姉上や夜月が明日にも留守です」

「寂しいん」

 姉妹全員が集まった。メリアが家族に加わった。先頃には下の子が生まれた。竹神家はなお賑やかになる。そう思っているから、鈴音や夜月の行動が水を注すようなものに思えて、謐納は歓迎できない部分もある。

「御したいのではありませぬ。が、父上などが認めようとも、和を乱すような選択をすべきではないとも考えておりまする」

「謐納らしいね。けど、それは間違いやよ。鈴音も夜月も家族の和を乱したくて外へ出るなんて言い出したわけじゃない」

 鈴音は観察眼を養うための旅だと言った。夜月は就職のための外回りだと言った。

「名目とは考えませぬか」

「害意がない行動に文句はいわんよ。独り立ち、一人旅、日帰り旅行に世界一周、家を出るのだって特別おかしなことじゃない」

「……」

 音羅以外の姉妹は一度家を出ている。動機はどうであれ、父の言葉は真実だった。

「みんなを想うあまり自分を害意にせんよう気をつけなさい」

「……幼いですか、わたしは」

「幼いね」

 自分は家族のためにこうしているから姉妹もこうすべき、と、マスゲームのような行動を強要するなら、鈴音や夜月から同じような行動を求められたとき反論してはならないということである。意見の押しつけだ。家族への想いを否定するかのような姉妹の行動に反感が湧いてしまうのはつまり、自分の立場でしか物事を判断できない。謐納は、自分の幼さに嘆息した。

「少しは成長したと自負しておりました」

「自信を持つのはいいことやよ。ひとの選択に異議で切り込むのもあり」

「考え方の違いを互いに捉え、公平な判断をせねばならぬということですね」

「そういうこと」

 鈴音、納雪と共用の自室前、謐納は父に会釈して別れた。

 部屋に入り、布団を敷き、横になった。全てを静かにこなしていた謐納は納雪の寝顔を眺めて警戒の緊張感がほぐれた。

「お父さんと話してたの」

「……姉上、起こしてしまいましたか」

「ううん、起きてた」

 窓際から年功序列。仄かな逆光に霞んだ鈴音を振り返って、謐納は口を開いた。

「出立前は気が立ちまするか」

「基本緊張はしてるけどね、わくわくしてる。家を出るとき、みんな感じたんじゃない。不安と解放感が両脚を突き動かす」

「……解放感はさほど」

「そっか。わたし考えたんだ、」

 鈴音がやにわに語った。「人柱を立てたのは死に掛けていたお父さんでもそれを一番助けたかったはずのお母さんでもなくて、周りにいたわたし達だった」

「……、同様に考えておりまする」

「結果、お父さんの逆鱗に触れた」

 五女まではみな同じだろう。忘れることのできない父の表情がある。

「お父さんを死なせてあげればよかった」

「……」

「そう思ったことだって何回もあった。お姉さんの行動を後押ししてしまったことも後悔したけど、何よりお父さんが怒らざるを得ないことを、あの場で食い止められなかった自分が悔しい。振り返れば振り返るほど、悔しくて、腹が立って、自分が執るべき行動はなんだったか見通せなかったことに気づかされて、それで、経験が足りなかったことも思い知った」

「それで出立したのですね」

「同じような後悔はしたくないから」

 鈴音を旅へと駆り立てている後悔は、謐納も感じている。

「父上が後悔の選択を続けておりました。わたしは幼きことです……」

「成長してる自分を褒めてあげなよ」

 そう言った鈴音が手招き。掛布団を上げてスペースを作った。「本当はしたかったんだ、こういうの。いわないだけで……謐納も苦しかったよね」

「姉上──」

「ほら、来て」

「……はい」

 何を棄てても救いたかった。その思いが、後悔を支えていた部分は確実にあった。一度は全てを棄てるかのような選択のもと救った命であるから、と、消極的積極性を糧にして選択していた部分もあった。謐納自身もまともに捉えていなかったその気持を、姉鈴音が優しく包んでくれた。

「頑張ったね、謐納。ゆっくりおやすみ」

「姉上……有難う、ございまする……」

 

 

 朝日が昇って炊事や洗濯、産業の音も村に響き始める。家内の物音は目覚めを心地よく促して、気怠い体を引き起こしてくれるようだ。

「ふぁ〜……、……ん?」

 三階北西の部屋、寝入った納月を遠目に背伸びをして、刻音は布団を畳んだ。起き抜けに魔力探知で家族の居場所を把握するのは、出先で魔物を警戒するのと同じように習慣づいた行動だ。早起きの子欄は調理の手伝いかメリアと一階にいるようだが、

 ……この魔力……誰だろう。

 使われていないはずの二階の部屋に知らない魔力反応が二つある。村民ではない。村外からの客人だとすると応対する家族の気配がないのはおかしい。

 ……盗人や魔物が横になってるなんてことないだろうけど、念のため確認しとこう。

 時を止めたら吹っ飛ばすか止めを刺す。ヒトを捕まえるにも魔物を斃すにも役立つのが刻音の魔法だ。二階に下りた刻音はその部屋をこっそり覗いた。すると、思わぬ三人目の姿が目に飛び込んできた。

 ……だ、誰だ、あ、ああの綺麗なひとは!

 見知らぬ横顔(?)に後退りし、トンッ、と、足音を立ててしまった。

「そちらにいますか、刻音ちゃん」

 ……この声。

 もし刻音の知る人物ならこう表すのは普通ではないと前置きした上で表現するが、驚くほどに大人っぽい。とは言っても声は同じであるから、刻音はそろそろと口を開いた。

「お、母ちゃ、ん?」

「はい、お母ちゃんですよ」

 ……か、可愛い返し。それに──。

「刻音ちゃん、おはようございます」

「(──優しい目。お母ちゃんだ、間違いなく。)おはようございます、お母ちゃん。いったいこれは……」

 変化について尋ねようと歩み寄ると、母の膝に載ったクムの姿が目に入った。

「クムさんもおはようございます」

「刻音様、おはようございます」

「……」

 母の脇に敷かれた二組の布団、そこにいる二人について触れずにはいられない。最初に探知したのがその二人だ。

「眠っているこの子達は……妹だ!」

「よく判りましたね」

「だって!」

 どこからどう観ても母に似ている。「あれ?でもこっちの子は……」

 肌が少し赤い。改めて母を観ると、やはり髪が黒い。

「こちらに座ってください。メリアさんの遊離とそれに伴う変化について手短に説明します」

「う、うん」

 母父共同の魔法でメリアが単独行動可能となったこと、メリアが遊離して母の肉体変化が解けたこと、メリアが妻・家族として迎え入れられた証として磋欄と霊欄が生まれたこと。母の横に座って刻音はそれらの事情を聞き、一言、

「お父ちゃん、手が早い……」

 そう呟いた。夫婦の営みが以前からあったとは知っていたが子どもができるとは。

 ……これじゃメリアお母ちゃんに──。

「嬉しくありませんか」

「……」

「霊欄ちゃんをみていくメリアさんに刻音ちゃんが甘える時間はないでしょう」

「……」

「一人の子を育てるというのは大変なことなのです。協力できますね」

「それは……」

 甘えられると思っていたから刻音はわくわくしていた。が、そううまくはゆかないということか。いや、

 ……お父ちゃん、こんなタイミングで子どもを作るなんて、刻への嫌がらせだ!

「オト様を困らせてもなりませんよ」

「そ、そんなこと、考えてませんよぉ、うん」

「信じています」

「う、うん。(……、恐いな)」

 威圧感があったのではない。信じてくれていることがはっきり伝わってきて絶対に裏切れないから、もし裏切ったら、と、想像してぞっとした。

 双子のようで双子でない磋欄と霊欄を見つめる。磋欄は母に似て落ちついた寝顔。霊欄は少しやんちゃそうで愉しげな寝顔であった。

「二人とも、夢を見ているみたいですぅ。まだ起きませんか?」

「長寝をする子なのかも知れませんね」

「納月お姉ちゃんよりぐっすりなタイプだと学園とか仕事とかちょっと大変そうですぅ」

「もう立派なお姉ちゃんですね」

「えっ、そ、そうですか」

「ええ。気持の問題ですから、自然と、と、いうのが存外難しいのですよ」

「あ、あの、どういうことですぅ?」

「妹の心配ができた」

「!」

「偉いですよ、刻音ちゃん」

「──、んふふ……」

 甘えたいのに、自立していることを母に認めてもらえるのが、嬉しい。

「刻音ちゃん、霊欄ちゃんの手に人差指を出してみてください」

「え?」

「ほら、こうして」

 掛布団の上に出ている霊欄の手。母に促されるまま指を出してみる。

「えっとぉ、これで何が……、んっ」

 にぎっ、と、指先が握られた。

 ……なんだろう、この感じ。

 握られた瞬間にぞくっとして、どきどきした。恋したようでそれだけでもない。霊欄の表情がどことなく緩んだ気がして、どきどきが治まるも秒針を刻むように何かが胸に響く。

「……可愛い」

 一言で表すなら、それなのだろう。母や納雪にも感じた気持を、初めて別の形で感じたようだった。放してくれないと動けないのに、放してほしくないような、離れてほしいような、もっと強く握ってほしいような、目まぐるしい気持が交錯して、ひととき、息を忘れた。

「刻音ちゃん」

「……はい」

「甘えてもいいのですよ」

 母の言葉を嬉しく感ずる一方で、刻音は、即答できなかった。

「自分が求められたことの悦び。何かしてあげたいと思う気持。──刻音ちゃんは、もう理解できていますね」

「……うん」

 たくさんの言葉とプレゼント。これからは、悦びを分け与えられる家族でなくては。

「磋欄ちゃんと霊欄ちゃん、刻が助けてあげたら悦んでくれますか」

「全てに手を貸してはなりません。ほどほどにですよ」

「難しいなぁ……」

 匙加減を覚えるのが姉ということか。母やメリアに褒めてもらえるなら選択肢は一つだ。

「わたし、なんとかやってみますっ。起きたら一緒に産湯ですよぅ」

「偉いですね」

「んふふ〜」

「そんな刻音ちゃんに、こちらを渡しましょう」

「ん?」

 居住いを正した母に促されるようにして刻音は座り直した。

 一枚の紙を取り出した母が、口を開く。

「三〇七五年五月二日、竹神刻音殿、改めて、卒業おめでとうございます」

「あ──」

 丁重に差し出されたのは卒業証書であった。

「ご卒業、おめでとうございます」

 と、クムも花咲く面で言った。

「クムさん、お母ちゃん……。もらっていいの」

「はい。刻音ちゃんの成長を認めるときだと考えております」

「クムもララナ様と同じ意見です。卒業証書、受け取ってください」

 母とクムがそう言うということは、二人に卒業証書を預けた父も認めたということ。

 ……。

 刻音は、体こそ母とクムに向けていたが、霊欄に指を握られたまま。

「お母ちゃん、クムさん、卒業証書、まだ預かっていて」

「受け取ったことにしてまた預ける、と、いう意味ではございませんね」

「刻、まだまだカッコ悪いから、霊欄ちゃんや磋欄ちゃんにカッコいいっていってもらえるようなお姉ちゃんになったら、と、思って」

「素晴らしい心構えです。刻音ちゃんの目標は夜月ちゃんですか」

 刻音はうなづいた。

「お母ちゃんに、クムさんにも、観ていてほしいの、刻、もっと頑張るから」

 恰好いい姉になりたい。妹の悦ぶことをしたい。母の信頼やクムの期待に応えたい。だから頑張りたい。

 ……きっと素的なお姉ちゃんになるからね。

 当てのない時を漂流しながら確かに秒針を刻んできたことを、刻音は指先の妹に感じた。

 

 

 みんなが起きてから味噌を溶けばよく、魚が焼き上がり、炊飯がじきに済む。

 母の体を借りているときより少し疲れやすいようだが一仕事終えてやはり愉しげなメリアを誘って、子欄はお茶を淹れた。

「メリアさん、お疲れさまでした」

「子欄さんもお疲れさまです。今日もお手伝いありがとうございます」

「どういたしまして」

 納月と二人暮しのときは家事・炊事・洗濯・掃除と家中の仕事をほとんど担っていた。母やメリアと仕事を分担しているから、家族が増えても負担が増えた感覚はほとんどない。

 台所で一服すると、躍る米を聞いて子欄は口を切る。

「そのエプロン、お母様のですね」

「あ、いつも借りていて……ごめんなさい」

「いいえ、外さなくていいですよ、責めているわけではありませんから」

 最初に見たとき、内心ではその限りでもなかった。「最初に見てしばらくしてから、メリアさんはお母様に認められているのだと察しました。そのエプロンは、わたしがプレゼントしたものですから」

「子欄さんが──」

「母は物持がいいので、お気に入りのボレロ同様に父に染め直してもらってずっと使っているんです」

 フリルが少し傷んでいるが、「ずっと使ってくれて、嬉しかったです。母が許すならメリアさんも使ってください。もともと父の目を悦ばせるために身につけてもらいたかったものなので、身につけるのが『妻』なら問題なしです」

「子欄さんは。つけなくてもいいのですか」

「だらしない父を持ったせいでしょうね、わたしは穏やかな関係が一番安心できるんです」

 しっかり者が嫌いということもない。父でも姉でも妹でもだらしないひとをついつい構ってしまう。穏やかな日常を崩し得る()()にわざわざなりたくはない。

「勝手気儘に世話を焼きたいから、結婚とか妻とかあるいは恋人とか、そういう束縛より血の関係に胡座を搔ける親子や家族の関係がいいんです」

 出口のない闇を彷徨うように発展とは逆行しているのに、堂堂巡りのような日常には生きるための栄養が確かにある。

「たぶん父と同じですね」

「音さんと」

「自分のやることが特別な発展に繫がらなくてもいい。みんなが穏やかに暮らせたらいいんです」

「子欄さんは、それで満足ということですか」

「はい、嬉しいですからね。これはたぶん、メリアさんも同じじゃないですか」

「……あまり考えていませんでしたが、そうですね」

 少し違うのは、メリアが父のために動けることだろう。父が穏やかに暮らせて、父が笑ってくれるように働けたら一番嬉しいはずだ。

「筋金入りの怠惰な父ですけど、これからもよろしくお願いしますね」

「はい、任せてください」

 力強い返事に躊躇はない。子欄の求める平穏も、メリアは築いてくれそうだ。

 

 

 八姉妹が一〇姉妹に増えて一三人家族だ。

 母とメリアの遊離の経緯を家族全員で聞き、次女納月より眠りの深い末子の目覚めを待たず出立の時間が訪れて、鈴音はリュックを背負った。

「じゃ、いってきます。不定期に帰ってくる予定だからよろしく」

 三和土に下りると家族総出で見送ってくれるから、鈴音は大黒柱に一つ苦言を呈しておく。

「磋欄や霊欄がだらけてたら真先にお尻叩くから覚悟してよ」

「全力でお尻を逃がすわ」

「怠けるつもりしかないね。お母さん、メリアさん、わたしの代りによろしく」

「『はい』」

 揃った返事がどこまで信用できるか。これまでの様子を観ると発破をかけることはないだろう。半信半疑ならぬ無信全疑の微笑で鈴音は玄関を出た。

「ワタシもそろそろ行かないとね」

 と、夜月もショルダーバッグを掛けて隣に並び、家族を振り返った。「ナユキ」

「はい」

「アンタも今日かられっきとした姉様よ。サランとレイランの面倒ちゃんとみなさい」

「任せてください。お世話します、いっぱい」

「へえ、ワタシの分もやってくれるなんていい心懸け。じゃあね」

「え、あ、いってらっしゃい」

「『いってらっしゃい』」

 自分は末子の面倒をみないとさらっと主張して追及の余地も与えず去る辺りが夜月らしい。

「わたしよりはすぐに戻るはずなのになぁ、夜月は場当り的だ」

 鈴音は改めて家族を一瞥、光明のような見送りの挨拶を背に受けて踏み出した。

 ……次の旅では何が見つかるか。

 小さな世界を俯瞰するためには、大きな世界を知るのが一番だ。大きな目的なんて最初からない。鈴音の旅はいつも無を求めている。何があるか判らないところへ向かうから、突然現れる何かに対する咄嗟(とっさ)の思考が磨かれる。夜月のような場当り的な対処ではなく、長い目で観て最善の策を一瞬にして練ることも、そうしてできるようになってゆく。

 ……わたしはまだまだみんなを俯瞰しきれてない。

 それぞれが何かを抱えていて、それを黙っていても一つに纏ったように観えた家族。それでいて鈴音の目線が竹神家には貴重だと父は言った。貴重というのは、単にレアリティが高いということか。あの父が、わざわざそんなことをみんなの前で。

 ……きっと、わたしの目線があとで大切になるんだ。

 いつのことなのか、父の意図がどこにあるのか、見当がつかない。が、鈴音はこの目を磨かなければならない。自分の後悔とそれを回避するための修練とも一致しているから、やらずにはいられない。

 惑星アースにおいてどの家庭よりも人間離れしながらどの家庭よりも人間性を求めている竹神家には、より人間性を求める目が必要であり、それが鈴音であるのだろう。

 ……さあ、行こう。

 次に帰る頃、もっと人間に近づけている。

 

 

 夜月と鈴音の背中が見えなくなるまで見送った一同。朝食を終えているから、みんながばらばらに行動する時間だ。

「じゃあ、わたしもそろそろ仕事に行ってくるね」

「ピィっ」

 と、外へ向かう音羅と肩に載ったプウを謐納が追う。

「同伴しまする」

「あっ、わたしも行きますぅ。いっぱい稼いで磋欄ちゃんと霊欄ちゃんが飢えないようにしないとですよぉ〜」

 音羅と謐納を遽しく追った刻音を眺めて、

「あ、わたしも今日は登園します、おかぁさん」

 と、言った納雪がララナの空間転移で惑星アースへと飛んだ。鈴音や夜月が外へ出ずとも朝はどたばたしがちだ。これからララナ、メリア、子欄は洗濯や掃除をするし、それが済んだら昼食、おやつ、夕食の支度もある。熟睡している磋欄と霊欄をオトに預けて二階の布団に寝かせたララナは、一階のメリア、子欄と合流、主婦業に着手した。洗濯を終えると自室で自習に取り組む子欄を見送り、メリアと二人きりになった。

 機織りが木洩れ日を彩る庭。明るい草花を目で撫でる。

「羅欄納さん、話したいこと、それと、聞きたいことがあります」

「なんでしょう」

「鈴音さんがいったことに近い、わたしが勝手に察したい機微、……音羅さんのことです」

 改まって切り出した様子だ。ほかの家族に聞かれるのが望ましいことではないのだろう。

「どのようなお話ですか」

「音羅さんが毒に冒された日のことを憶えていますか」

 謐納が討伐して窮地を脱したことなど、状況報告は当時に受けた。

「音羅さんは以前から魔物を怨んでいるようでした。魔物討伐の仕事もそうして進んで行おうとしていたのです」

「親友の花さんやそのパートナを失っているので、仇の同族たる魔物を許せない気持を消せないでしょう」

「……あの日の音羅さんは少し揺れていたような気がしたのです」

「と、いうと」

「子どものいる魔物が凶暴化していました。音羅さんはそれを観て撤退することに安堵したようでした」

「魔物の家族関係を思って討伐を躊躇っていたのでしょう」

 ひとと魔物では生態が違う。ひとの命を奪うのが魔物であるから、ひとは防衛のために魔物を討伐しなければならない。ララナ達が生まれる遥か昔からひとと魔物の関係は変わることがなかった。魔物から観れば弱肉強食。ひとから観れば防衛と討伐。生存行動を採った関係に感情が入り込む余地はなく、感情を差し挟んだ瞬間に音羅のような目を見ることとなり、最悪は身を滅ぼす。

「音羅ちゃんは魔物討伐を続けており、プウちゃんが現れている。それでもって気持は固まっており、揺れは一過性だった、と、推察できますが何か問題がございますか」

「一過性のことでも二度とないとはいえないと思いました。訣別したはずのわたしが未練を抱えていたように……」

「迷いが足を掬う前に、魔物への負の感情を固定するか、解消するか、あるいは魔物討伐の仕事を続けるか否か。音羅ちゃんの今後の方針を決めさせるということですね」

「はい。失ったあとでは取り戻せないものがあります……」

 似たような状況で音羅が再び躊躇わないようにしてあげたい。メリアがそれを言い出したのは過去に決着がついたから。

「音羅ちゃんの躊躇いはメリアさんの設計、本能や感覚神経の中核部分のようなものが働いてのこと、と、メリアさんは考えているのですね」

「その通りです」

 過去は変えられないように、音羅だからこその繊細な神経は変えるのが難しい。魔物討伐の仕事が危険を招くと解っていても有害な魔物の討伐を怠るのは怨みによって難しく、家族に資するための選択肢を手放すことも難しい。音羅本人が撤退を選択することは困難なのだ。ララナ達が何も対応しないままではリスクを回避できない。

「そこで一つ疑問があります」

 と、メリアが言った。それが、ほかの家族に聞かれたくないことの核心だった。「なぜ、音さんは音羅さんの躊躇いを放置したのでしょうか」

「……」

「過去の羅欄納さんやわたし、子欄さんや先日の夜月さんのように、本物の感情をうまく塗り替えたり、改めさせたりすることが、音さんは上手でした。音羅さんの命を脅かしかねない躊躇いを、なぜ、放置できたのでしょう……」

 信じているひとだから、疑いが湧いた。

「それは──」

「魔物を殺してほしくないからやよ」

「……音さん」

 ララナが答える前に玄関前のオトが言った。いつの間に現れたか、など、いまさらだろう。彼はそうしてどこにでも現れる。

「魔物を殺めてはならない、と、いうのは、」

 オトを振り返るもメリアが目線を外した。「ごめんなさい。わたしは、理解できません」

「謝る必要はないよ。それが普通やし、どっちかといえば羅欄納もそっち。そうやろ」

「はい」

「現実には避けられんことなんやから、俺の考えは理想論やよ」

 とうの昔に確かめた内心。魔物の強弱を問わず討伐すべきとしているララナである。オトの前でそれをしないだけでオトの方針に全面的に従っているわけではない。魔物討伐に関する教育方針もオトの内心を軸としてきたが、自らの考えで方針に従うか否かを娘に決めさせているからハンタとなった子がいる。音羅はその一人だ。

「俺は俺の意見を押しつけとるだけ。従う必要なんかどこにもないんよ、自らの行動に責任を持てるなら」

 音羅が躊躇ってしまったのは、魔物討伐における心構えが足りず責任を持ちきれていない。

「ひとはひとの形をしてなければ平気で殺せる。ひとの形をしとっても魔物と断ぜられれば法の盾を得て返り血を気にせん。厳然たる事実を無慈悲に踏み躙るのが討伐行為。さて、俺が魔物やとしたらお前さんらは俺を殺すん」

 内心は解っていたがオトが魔物であるはずがないから、もしもそうなったらという最悪の仮定は想像すらしておらず、いざ想像すると全ての時が止まったかのように思考停止した。

「沈黙が答。ひとは、自分の知合いや大切なひとが相手やと、魔物だろうとも躊躇う。それがどんなに危険か解っとっても、覚悟が一気に削がれてまう。なら最初から魔物討伐を認めん姿勢がいいと俺は思っとる。そうすれば、危険な目に遭っても逃げればいい」

 嫌なことや危険なことからは逃げればいい。彼らしい遁走主軸の論理だ。

「魔物にも心はあるんよ。死ぬことを嫌と思っとる。食べるために殺されることも、嫌やと思っとる。食料がひとというだけのことやよ。理不尽なようやけど、普通の無魔力や有魔力が自殺するなら魔物に食われればいい。自然環境も魔物の生態も崩壊せん程度のウィンウィンな食物連鎖になる」

「音羅ちゃんは自殺志願者ではございません」

「ん。だからあの学園を選んだんよ」

 第三田創魔法学園高等部。自主性を重んずる校風が音羅に根づいている。

「手を出してはならないのですね」

「そんな……」

「メリアは不服そうやね。子育ての終着点は手放すことなんよ。いきなりは無理やから順を追っとるだけ」

「しかし……」

 と、反論しようとしたメリアをオトが制する。

「子はいつまでも眠っとらん。頰を撫でることを拒否する日が、自らの意志で歩む日が、その手で大切な何かを育む日・摑む日・守る日が、必ず来る」

「……」

「そのあとも、ずっと守るつもりなん。それは、本当に子を想ってのこと。それは内向きの、自己愛にとどまっとるんやないの」

「っ……」

 息を吞んだメリアに、オトが微笑みかける。

「俺は失敗ばかりやよ。この失敗から、お前さんは学べる」

「音さんの失敗から……」

「憶えなさい、メリア。親に成るということは、授かった命の未来を祈ることやよ」

「未来を、祈ること──」

「自らの足跡を辿らせまいとしたことさえ足跡を追わせることになった。うまく教育できとると自己満足を得たところで子は必ず予想の枠を跳び越えて駆けてく」

 方針を押しつけてもその方針に従わないことを認める。それがオトのスタンスだ。行動する本人が自らの意志に従っている限り、また、それがオトの拒絶する行為でない限り、否定しない。オトが許容できない行為は極めて少なく、ララナや娘がそれに触れたのは軽いものを含めても数えるほど。

「わたしは、過保護でしょうか」

 メリアが目を泳がせた。「構いたくて仕方がなくて、いっそ抱き締めていたいのです」

「ゆっくり成長して、そのときが来たら俺の言葉を思い出してくれればいい。親は、子に育ててもらうんやから」

「わたしが、霊欄ちゃんに育てられるのですか」

「そう。俺からすれば、ひとが思い通りにならんってことは娘から教わった。あの子らは逞しくて、強くて、想像以上になってく。だから祈れるんよ、あの子達なら大丈夫や、って」

「……今は難しくても、いつかは」

「保証する。羅欄納は」

「勿論、保証致します」

 笑うときも、泣くときも、一所懸命な娘を観てきた。立ち上がったあと、前を向き直り、ときに後ろ向きでも歩もうとする娘を観てきた。だからララナは思う。最初は頼りない歩みでもやがて目を見張るような意欲に満ちてゆくと。その歩みを信ずることもできたと。

「最初から信じなくてもよいのですよ。疑いながらでも、試行錯誤でも、祈りは届きます」

「音羅さんのもとにプウさんが現れたように」

「はい。認識の誤りを受け入れた夜月ちゃんのように」

「霊欄ちゃんも、みんなのように、立派に、逞しくなるのでしょうか」

「最初に祈ってあげられるのは誰でしょう」

 霊欄の生みの母はメリア。ララナがどんなに母として接することができても変わらない事実が関係を変化させていることもある。だからララナは霊欄のことをあえて祈らなかった。

「……わたしが祈ります」

 と、メリアが顔を上げて言った。「過度な心配もしないように、頑張ってみます」

「少しずつ、頑張りましょう」

「はい……」

 まだまだ不安が尽きないだろう。芽生えた不安は深い思い入れが根源であるから、全てをなめらかに受け入れてゆくこともできない。けれども、彼の目差を受け、ひとを信ずることができた彼女なら、大丈夫だ。

 ……音羅ちゃんについては観察しなければ。

 必要なら窮地に陥らないよう手助けする。また毒に冒されて大切なひとの幻覚でも見ようものなら苦しみが増すばかりだろう。

「あ、そうです、オト様はなぜそちらに。お耳を煩わせましたか」

「いや、羅欄納に一つ頼みがあってね。あと音羅、んで、可能ならメリアも」

「わたしもですか」

「ん。ちょっと惑星アースに行きたい。できりゃ早いうちに」

 ララナはメリアと目配せ。オトが時間を急かすことはそれほど多くない。

「音羅ちゃんの同行は絶対条件ですか」

「ん」

「理由を伺います」

「魔物討伐に関わること、とか、深い意味はないよ。ただ、急ぎは急ぎ。よろしく」

 家の中に戻るオトを二人で見送った。掃除や昼食の準備を前倒しにすれば時間を作れるので音羅が帰るであろう正午過ぎに出発できる。

 体を動かしたあと三〇分以内に蛋白質を摂取すれば超回復に繫げられ、蛋白質の吸収を助ける炭水化物を適度に含めてバランスのよい食事を摂れば疲労回復や睡眠の質を高めることができる。モカ村のヂドリは立派な卵を産むのでこれを利用した玉子料理と生野菜・茹で野菜・蒸し野菜、豆腐、玄米を用意して、帰還した三姉妹に加えて納月や子欄にも振る舞った。

 惑星アース時間正午過ぎ、オト、メリア、音羅を伴ってララナは空間転移した。留守の家に置いてゆくのが忍びなく、ララナとメリアは眠りこけた磋欄と霊欄を抱えている。

 オトが指定したのはララナの育った魔地狭陸南部丘陵エリア、中でも狭大陸中部の森林エリアを見下ろす北部西寄に位置する聖本邸である。

 ……目的地がこちらとは。

 森林エリア内の東西に展開した石柱が散見できる門前は孤独の日常を思い起こさせる。

「大きな門だね」

 と、音羅が自分の何倍もある門を見上げて、門柱に気づく。「表札が〔聖〕だ。ママの家、なのかな」

「事実上の孤児となった私を育ててくれた義父母の家です。音羅ちゃんとメリアさんは初めてですね」

 寝ているが磋欄と霊欄も初めての訪問だ。

 インターホンで執事とのやり取りをしてオトが戻った。

「羅欄納は俺の目的を感じとるんやないかな」

「はい。……」

 惑星アース上において平日の今日、邸内にないはずのない魔力反応が細い糸を辿る火のような微弱さで存在する。執事の声に落ちつきがなかったことも、推測を裏づけた。

「お義父様が、床に伏せていますね」

「お祖父さんが病気ってこと」

「いいえ」

「……じゃあ──」

 執事の応対を受けて義父の部屋に入ると、音羅も察したであろう状態をララナは目にした。

 

 書斎をかねた義父の部屋は、読書家であることを裏づけられないような少ない本と、必要最低限の生活雑貨が置かれている。

「──、隠居したら部屋のものはなるべく片づけないといけないからね」

 

 いつかの義父の部屋より荷物がない。ララナの目に留まったのは、がら空きの本棚。残っているのは、義父自身が大好きだと言って麗璃琉や瑠琉乃にも読み聞かせをしていた絵本のみ。

 ベッドに横になった義父に、責務を担える力強さはなかった。

「お義父様……」

「……羅欄納ね、おかえりなさい」

 と、迎えたのは義母である。腰こそ曲がっていないが杖を突いている。「五〇年ぶりね。その腕の子は。それから、そちらの方方も」

 歩み寄って迎えた義母が、そちら、と、一括りにしてオトを見落とした(?)著しく大人びたララナを見落としたならともかくオトは初めて会った日からほとんど変わっていない。

 ……お義母様、やはり眼が。

 義母は活動的なひとだった。ひとの顔と名を覚えるのは勿論、遠くにいる知合いを見逃すようなこともなかった。ララナはオト達と合図して、磋欄、霊欄を含めて順に紹介を行った。メリアの遊離についても少し説明すると、義母が変わらない内面を示した。

「──家族が増えて嬉しいわ」

 と。「メリアさんも妻として、羅欄納と一緒に音さんを支えてちょうだい」

「は、はいっ」

 レフュラル領である魔地狭陸では重婚ともいえるオトとメリアの関係を義母が受け入れているのは、五〇年前、挨拶をしたあの日からオトが時折状況を伝えていたからであった。オト曰く、メリアとの関係がうまくゆくか不透明であったため義父母との接触をララナ達には伝えなかった。メリアとのあいだに子ができた今日がうまくゆいたと判断するに足る到達点だった。それから間もなく聖本邸を訪れたのは義父の調子が芳しくないと判っていたためである。

 

 

 竹神家のルーツの片側たる家を門からずっと観て回っていた音羅は、何よりも母の両親に興味があった。がらんとした部屋に絵本『こころのまほう』を見つけてつい駆け寄り、母が、それから自分が、この家のひとびとと繫がっていることを認めた。

 関わったご老体がことごとく活動的で、一〇〇歳を待たずに亡くなった相末学を含めても若若しかった。一〇〇歳を超えた学園長や緑茶荘の管理人にしてもそうであったから、絵本から目を離して年相応ともいえる老いらくの祖父母を振り返ると心做しか緊張した。杖を突いて立っている祖母はまだしも寝姿の祖父には目を向けることも躊躇い、興味を持ったことに罪悪感を覚え、活動的な眼を休めることを口実に床を視ていた。

「音羅さん」

 呼ばれて、音羅は目線を上げた。

「なんですか、お祖母さん。──」

 音羅は祖母と見つめ合う。母に親しい目差が胸に融けて、言葉を聞かずとも祖母の伝えたいことが判った。

 話しかけてあげて。

 ……磋欄(さっ)ちゃんと(れい)ちゃんはまだ寝ている。

 この場で話せる唯一の孫。音羅はベッド脇へ歩み寄り、膝をついて目線を合わせ、祖父に呼びかける。

「初めまして、お祖父さん……」

 眠ってもいないのに自己紹介できなかったのが祖父だ。音羅の声に応えないのは、唇が乾いているからか、言葉を選んでいるのか。しばらく音羅を目で捉えて微笑むと、衰えた認識を発する。

「ああ、祖絹(そきぬ)さん、ご足労を……」

「そきぬ、さん──」

(私の実母です)

 と、母から伝心があった。

「お久しぶりですね。ぼくは、元気です」

「お祖父さん、わたしは音羅です、孫ですよ」

 緊張で頰が強張ったか、声を発してみると音羅のほうが言葉に詰まった印象だった。「解りますか、初めまして、です」

「祖絹さんが音羅さんなんですね、不思議です。羅欄納に似ていて、ああ、不思議ですねえ」

「お祖父さん、……」

 弱弱しく差し出された手を握って、音羅は口を開けなくなってしまった。祖父は確かに息をしている。だのに、縁起でもないことを考えてしまう。

 ……わたし、また……看取ることになっちゃうのかな──。

 一つ一つが脚を挫くような衝撃だった。慣れることはできず、予感した祖父の終りにも言葉を失わざるを得ないと察している。

 見送りたくない。生きていてほしい。身勝手だろうか、そう思った。

 ……ママもきっとそう思っている。

 祖父母の存在をまともに知りもしなかった音羅が言えた立場にはないだろうか。きっと叶わないと知っていても、身勝手でも、皺の深い手を握ると手放しがたい。みんなと永遠に生きたい。そのような願いを。

 

 

 義母がララナ達に歩み寄り、小声に抑えることもなく話す。

「わたしのように眼だけならいいけどね、退任して気が抜けたのかしら」

 祖絹はララナの実母。義父は面識があったというから、

「見間違えているのでしょうね……」

「あなたと音羅さんもよく似ているものね。羅欄納、社長秘書になってくれない」

 義母らしく速やかな要望だった。

 義父から聖産業を引き継げそうな者は何人かいるが、義母が務めていた社長秘書の席は空いているのか。

「社長は瑠琉乃ちゃんですね。お義母様もお義父様と同時期に」

「今もいろいろ頭を使っているわたしと違って情けなくも燃え尽きちゃったみたい」

「私達の養育や人材育成、社会貢献に至るまで懸命に走り続けてきたのです。娘として、一親としても、誇りに思います」

「ありがとう。いますぐ眠ることもなく、徹夜することもなく、いい最後を迎えられそうよ」

「……何か、やり残したことはないのでしょうか」

「それを今あなたに頼んだわ。後任者が仕事をしなかったから」

「落第したのですね」

「大声ではいわないけど、そう」

 と、義母がはっきり言った。無職で引籠りのオトに頼まないわけだ。

「誰を選出したのです」

「瑠琉乃の婿よ」

「一部交流はともかく書類が似合いませんね」

 縁故を排除した人事の見直しが必要だろうが、ララナにはララナの務めがある。

「心苦しいのですがほかを当たってもらえますか」

「解っていたわ。あなたは転職しない」

「痛み入ります……」

「秘書探しはわたしの最後の務めね」

 瑠琉乃の婿であるから、落第でも穏便に済ませたかったのだろう。

「お義母様」

 と、オトが口を開いた。「そろそろお暇します」

「そうしてくれると助かるわ」

 杖がわずかに震えている。長い時間立っているのがつらいようだ。義父ほどではないが義母も体力が落ちている。

「では、失礼します」

 義父母に会釈してオトが先に退室、続いてメリアも退室した。

 

 

 人間とは、なんと残酷な生き物だろう。必ずやってくる死というものをその身でもって他者に知らしめているというのに、優しく穏やかで痛痛しいほどに強い。

 廊下に出たメリアは、壁に寄っていたオトを見つめた。

「霊欄、預かろうか」

「……抱っこして差し上げたいのですよね」

「そんなおっきい子、腰がしんどい」

「はい、どうぞ」

「要らんのに」

「っふふ」

 天邪鬼の抱っこが可愛く、その腕に収まった霊欄がまた可愛い。ついさっきまでは死にゆく者を繫ぎ止めたいと切迫した気持でいたのに、

「……」

 不謹慎なほど感情が切り替わる。親として誇れることだろうか。人生の最後、みんなに誇ってもらえるような存在に──。

「メリア」

「……はい」

「呪いが解けても恐がる気持は解るよ。ひとはその感情の行き違いだけでいくらでも争って、傷つけ合ってきた。でも、それを恐れんといて」

「ですが……」

「狂気に抗うようにララナが戦争に突き進んで、」

 オトの唐突な振返りにメリアは耳をそばだてる。

「黎水がそれに強い懸念をいだいて、メリアがそれに応えてライトレスを破壊して、罪の意識と自戒を強く持った羅欄納に、俺はであった。しつこいくらいに羅欄納が俺に踏み込んでこんかったら、ダゼダダはもう滅んどったよ。ライトレス滅亡は確かに大きな罪で多くの悪神やあの戦いに関わったひとの咎めもあるやろう。ニブリオ滅亡にも同じことがいえる。が、メリアがきっかけで起きたあの出来事がなければ、俺は故郷を失っとった」

 諭すように、訴えるように、見つめる目差は変らず柔らかな光でメリアを包む。

「やから、湧き上がった感情に素直でおってほしいと思っとるんよ」

「音さん……」

「おかしな方向に突き進むんなら、俺や羅欄納が絶対止めたる。音羅達にも止める力がある。やから、素直な心を疑うのはやめて。それは、俺みたいな噓塗れへの第一歩やよ」

 オトのような噓塗れになら、なってもいい。そうは思うも、罪悪感を覚えるような感情の切替りに一つ一つ立ち止まっていたら(ゆだ)りそうだ。

「音さんは茹ったりしないのですか」

「俺には熱が足りんから沸点にも達さへんよ」

「それならいいのですが……」

 いうよりオトは繊細で機微に聡く言葉をくれる。茹る前に水を注して適温にしてくれる。

「ねえメリア」

「はぅっ」

 急接近した彼が、

「一つ、お願いを聞いてください」

 と、殊勝な物言いをした。

「お願い、ですか」

「ん。メリアにしか頼めんこと、──」

 高鳴る胸にどぎまぎしながら、メリアは耳打ちを受けた。

 

 

 義父の手を握って放せないでいる音羅の背中をララナは撫でた。ついこのあいだ去りゆく者の手を握っていたことは本人から聞いたことだ。

「行きましょう」

「……ママは、もういいの」

「……お祖父様もお疲れでしょうから、音羅ちゃん」

「……、うん」

 優しい子である。「お祖父さん、また来ます。来ますから、元気でいてくださいね」

「祖絹さんもお元気で」

「はい……」

 皺の鳴るような細い手を摩擦で痛めぬように放し、なお手放せぬ距離を握るようにして、音羅が立ち上がった。

 ララナは、義母を振り返った。

「お義母様、……お別れです」

「ここは、あなたの家よ」

「同じ職場とはいえ長年働きづめでした。同じ時間を過ごしたくございませんか」

「……そうね、わたしにはまだ時間があるだろうから」

 ずっと傍にいたい。

 ……お義母様。お義父様……。

 ここから神界に連絡する術はない。お見舞に来れば、短い憩いを奪う。

「麗璃琉ちゃんは、帰ってきていますか」

「分散投資をしない子よ」

 リスクがあっても一極集中の投資をして自分が一番ほしいものを得る。だからといって親の言葉や存在を軽んじているのではなく、遠くから壮健を祈っているような子だ。

 ララナは、元本を死守する。

「私は人間社会から退いた身です」

「そうね。羅欄納、音羅さん、──さようなら」

「さようなら……」

 深くお辞儀をして、ララナは音羅とともに退室した。

 ……磋欄ちゃん、最後まで起きませんでした。

 一度は義父母と話してほしかった。納月に優る眠り姫だ。

「話、充分にできた」

 と、訊いたオトに、ララナはお辞儀した。

「お蔭さまで最後の挨拶を済ませることができました」

「最後……」

 音羅が首を傾げた。「また会いに来てあげようよ。悦んでくれるはずだよ」

「遠慮しましょう。お義父様は自らの意識の中でわずな余暇を過ごしています」

「祖絹さんとわたしを勘違いしていたのは、そのせいなんだね……」

「お義父様はお義母様と暮らし、また、その時間をお義母様が大切にしています」

「……。わたし達が押しかけたら、お祖父さん達の大切な時間が……」

 五〇年ものあいだ往き来しなかったのは、ララナに取っては結婚挨拶が別れの挨拶だった。その内心をオトは察しているかと思ったが密かに義父母と交流を続けていた。

「オト様はなぜ私達をこちらへ導いたのですか」

 義父母と深い関わりのあるララナが同伴すればよかっただろう。音羅とメリアを同行させた理由はなんだ。

「おじいさんとおばあさんの気持が解るような気がしてね」

 オトは、ほかに語らなかった。

 ……末子の磋欄ちゃんと霊欄ちゃんにも意味があったのでしょうか。

 メリアを連れてきたのはララナの中にいた彼女との和解を伝えるため。音羅は義父母に取って初めての孫という立場ゆえ。ならば、磋欄と霊欄は末裔だから、と、考えるのが妥当だ。レフュラル裏国出身の父を持つ義父に磋欄と霊欄を見せるということはメリアとの和解を形として見せるにとどまらず、レフュラル裏国の血脈が絶えていないことをも示す。生まれたばかりの末子と立派に成長した音羅の姿を重ねてもらえれば末裔たる者の着実な歩みまで読み取ってもらえる。オトはそのように考えていたのだろう。しかし──。

「お義父様が、今を生きているときに、見せてあげたかったです……」

「後悔が湧いて間違いに感ずることがあったとしても、過去の選択に救われた心はあるよ」

「(オト様……。)私は、この出あいに意味があったと思いたいです」

「意味ならあります」

 とは、メリアが力強く言った。「ひとの命を残酷に奪ったわたしには本来与えられることがなかった大切な思いを、こうして形にさせてもらえたのです。とても尊い運命を授かったのだと誇りに思います。それが無意味だなんてことは、決して、ありません」

「わたしもそう思う」

 音羅が微苦笑する。「お祖父さんやお祖母さんの目はパパやママみたいに優しくて、ほんの短い時間しか会えなかったのに忘れられそうにない。そういう気持を、未来のひと達に託していけたら──、生き続けていける」

 失われゆく義父母の時間を未来に繫げられたことを、メリアと音羅の言葉が証明した。

 ……娘である私こそが、一番に繫がなければなりませんのに。

 じつの親のように接してくれた義父母が、生みの親のいる場所へ確実に近づいていることを感じて、ララナは怺えようのない感情が込み上げていた。それは、不安であり、焦りであり、メリアがいうように誇りでもあった。

 ……そう、──オト様はきっと、お義父様方の気持をこう酌み取ったのですね。

 自分の遺した未来を()たい。

 義父母のおもいを、ここに揃った存在こそが顕している。間違いと後悔を繰り返して刻んだ足跡は、オトとの出逢いに始まり磋欄や霊欄という末裔をこの世に生み出し、また多くの足跡を広げてゆく。足跡を辿れば必ず家がある。音羅達の家になることが親としての役目であり、ララナの望みだ。それが義父母のおもいを体現することにもなる。

「オト様、帰りましょう」

 オトの魔法で瞬く間に木炭が香る。改めて、祈ろう。「さあ、みんなでおやつの時間です」

 

 

 執事の報告を受けて、聖広美はベッド脇に腰を下ろした。

「羅欄納達が帰ったわ。少しは元気が出た」

「ああ、君がいてくれるなら、ぼくはいつだって元気になれる」

「あげられる元気はもうないわ」

「そんなことはない。ぼくはいつだって君に本気だよ」

 ずっと真剣だ。聖毅の想いは、真似しようと思ってもできない。

「わたし、一気に老けそうね」

「君は若いままだ。ぼくは、ずっと君を愛している。君に愛されて、ぼくは、元気だ。この世は不思議だね」

「不思議、……そうかもね」

 五〇年前の聖毅の言葉を、聖広美は今日になって振り返り悟った。その悟りを不思議という言葉に置き換えれば、答が曖昧になって実態に即した認識にもなろうか。

「化神たる羅欄納にはわたし達の及びもつかない過去が潜んでいるのね。預かった日、重圧を感じたのもうなづける。幼子を預かる重みとは別に、得体の知れない重みがあったわ」

 事実として、星を滅ぼした危険な神を宿し、聖家の子を危険に曝した。前世の推察材料がなかったのだから予感が重圧の正体と断定できるはずもないが、孫音羅、磋欄、霊欄を見て、聖広美は初めて会った気がせず、不思議と馴染んでいた。

「ぼくはもっと不思議な気持だよ」

「もっと」

「そう、もっと……。過去は過去なのに、今なのかも知れないね」

「……あなたの言葉でなければ世迷言と流したわ」

「ぼく自身が理解できないことだからね。だから、不思議なんだ」

「そうね」

 聖毅がララナの実母を知るがゆえに得ているであろう感覚を、聖広美は同じくすることができない。持ち得た体験の違いで異なる感覚は、いくら願っても通わない。

「……孤独はふとやってくる」

「ぼくを愛して。君を放したりしない」

「とっくに知っているわ」

 時の滞るような広い部屋。老いても心の逞しい聖毅に、聖広美は頰を寄せて子守唄のように囁いた。

「こんにちは、毅さん。元気をあげる」

 

 

 闇が広がる行先には燈が必要だ。家族の灯す柔かな燈が背中を照らしてくれる。影を広げるとしても、勇気を与えてくれる。皆を照らす太陽が存り、命を育む海が存る。海の底には確かな大地が存り、太陽の恵みが皆に等しく勇気を与えてくれる。

「いつよの君に奉るは手末(たなすえ)の慈しみか──」

 オトは(まなぶた)閉づ(と )。刃羽薪と首なし武者を傍らに、合はせた(あわせた)諸手(もろて)が軋む。

 

 

 

──「共に歩む者」 終──

 

 

 

 

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