一五章 救われた海
果てなく彷徨っていた。見下ろしても見上げても、振り向いても、何もない闇を。
疲れ果てても消えることができなかった。全てが報われなくても未練を断ち切れば心は軽くなるだろう。生来の荷すらなくなるかも知れない。頭で解っていても、心は過去を裏切らなかった。疲れ果てていたのは、心ではなく体のほうだった。休めば、また闇を彷徨った。どこかに抜け道があると信じて。
……アデルさんに、会いたいのです。
身勝手にもほどがあった。それを解っていても衝動が治まらない。体は心に正直だ。勝手に動き出す。
彷徨うことさえ彷徨っていた。本当にそれが自分の意志なのか。問うことさえやめていた。
自分の意志なら正しい。自分の意志でないなら正しくない。その二択では片づかない。正否で片づくなら理屈で全てが終わる。それで全てが終わるなら、とうに荷はなくなっている。荷は何より理屈と遠く、荷だというのに片づけることとも遠いのだ。
彷徨った。
永遠に凍える闇に海はなく、影もなく、時化からは守られているようでもあった。
何千・何万という夜を経たのだろうか。考えたくもないが瞬きほども経っていないということはなかろうか。彷徨っているつもりが彷徨ってすらいなかった、などということは(?)そんなことを思うほどに彷徨っていた。時の感覚がなくなって、丸く閉じた燈のない部屋を歩いているだけのような気がしてくる。
……疲労させて、現世への未練を棄てさせること。それが、ここの役割ですね。
永遠に照らされない世界。暗雲のように裂けることもなければ、泣くことも、怒鳴ることもない。二回も振り返れば自分がどこを向いているのか判らない曇天の凪のようだ。迷路であればよかった。出口があると判っているだけで気が休まる。ここは、信じたところで出口などないのだろう。信じなくなった途端に開く出口など断頭台に等しい。
過去を棄てることで全てが好転するなら、断頭台にも足を運ぼう。けれどもそうではない。好転などせず心は時化となるばかりだ。闇の中の道は一向に摑めないのに、心が起こす荒波の向かうところだけは判然としている。それゆえに手放せず、忘れられず、信ぜねばならない。
……わたしは、わたしのまま、生まれ落ちたいのです!
そうでなければ、最愛のひとと二度と会えない。忘れてまで生まれ変わって、何になる。未練を棄てることは、過去を否定することではないのか。どんなに汚れた過去でも、どんなに薄汚い未来しかなくても、手にした悦びは本物だった。嘲笑われるような観察の眼に曝されているとしても、どうしても、もう一度、やり直したいことがある。勇気がなくてできなかったことを、今度はやり遂げたい。
そう願っているうちに、一つの闇の殻、その中の小さな闇へ押し込められていた。光を感ずるたび浮上を試みた。けれども何かが邪魔をした。さしづめ、闇の殻に置かれた檻だ。小箱のような小さな小さな檻。自らの意志で出ることができず彷徨うこともできない闇の檻だ。
……いつまで、こうしていたらいいのですか。
動けず病んでゆく。彷徨い続けたことが災いしたのか。闇の殻に押し込められたのは罰か。なんの罰だ。ただただ求めているだけなのに、ひととして当然の感情をいだいているだけだというのに、罰を受けなければならないのか。
縮まった体を慰めるように意識を閉じて、眠るようになった。
どれほどの時間か計ることはできない。闇に融けた体が、心を弱らせてゆく。
……わたしは独り。
独りでいるしか道がない。誰とも会うことはできず永遠に檻の中。
そんなふうに考えることが増えていたときだった。檻の感覚が遠退いていることに気づき、ふと影を感じ取った。
(私は、独り。この世に、独り──)
……そう、独り。独りは、寂しい。どうして、わたしは独りなのです。
そうせざるを得なかったから(?)
荷を負わされていたから(?)
問うこともやめていた彷徨う理由。鏡のような影を感ずるたび、応じた。メリアは、それを最初こそ自答と考えていた。それは違った。
(私は、姉です。姉です。姉なのです。荷物にはなれません。しっかりしなくては)
姉。自戒するほど姉という立場を意識したことがメリアにはなかった。影は、明らかに意志を持つ何者かだった。
影は懸命であった。つらい経験を経ながら、芯の通った強い存在感があった。まるで、太陽のように輝かしく、身を焼き尽くすような勢いで辺りを照らしているようにも感ぜられた。
……どうしてそんなに頑張るの。わたしは独り。ずっと独りなのに──。
掛け離れていても憧れることはある。もしも自分がそうなれていたら別の未来を手繰り寄せることができた、と。
メリアは、浮上のきっかけを作る。
……わたしはメリア。誰より狂気に染まり、深い孤独を知っています。
(……私は、聖羅欄納といいます)
……羅欄納さん……ひとに頼りなさい。孤高は孤独そのものなのです。
(私は、独りではございません。あなたには、負けません)
(……)
ララナは、メリアの言葉を悪魔の囁きのように捉えていたようだった。ひとに甘えるより先に己が逆風を浴び、ひとに頼るより先に率先して動き出したい。そんな考えの持主だった。責任感が強く、情に惇く、ひとが受けるべき傷も自らが負うべきと過剰なまでの庇護欲をもって暴走してゆく。
そうしてララナが暴走するほどに檻が広がってゆくことをメリアは認識していた。赤色に始まり黄色の光を感ずることも増えた。それはなぜか。言うなればメリアは海底にいた。浮上すれば浮上するほど光を感ずる。檻が広がるのは閉ざされた岩礁から少しずつ這い出ているようなもの。
……外へ出られさえすれば、アデルさんと会えます。
ララナとの偶発的な交流は意識共有と表するには希薄なものだった。一方的に話すことも一方的に話を盗み聞くこともできない。それはメリアとララナ、どちらにもいえることのようだった。それがなぜなのかメリアは察していた。メリアが浮上する一方でララナが沈んでいるとき、要するに互いの距離が近づいたとき初めて意識共有が発生するため普段は交流できない。
メリアは檻の広がりを感じている。ララナが幾度となく沈むことで檻が広がる、と、いうと少し違う。メリアは一定の浮上を維持してそこからさらに檻を限度として浮上する。対してララナは沈下と浮上を繰り返す。ひとは水中で浮き上がるもの。メリアとララナの意識もそれと同じだ。
……この闇を堪えれば、いつか海面へ出られます。
そのときには人格交替できる。肉体を手に入れられる。
……そうすれば、アデルさんと……。
アデルへの熱と野心めいた浮上精神が絡み合って心を支えているようだった。
そんなメリアの考えを知る由もなく、ララナが沈んでくる。
(私の何が間違っているのです。悪神に許される命乞いなどないのです)
(独りは孤独。孤独は這い寄る。あなたは正義を成し孤独を知らないつもりでしょうけれど、それは大きな間違いです。真の正義は群れず、常に孤高です)
(私は、孤独ではございません)
(……)
一進一退。ララナの浮上を認め、意識共有の途絶を感ずる。
……しかし着実に優位に運んでいます。
ララナの心が次第に沈下を覚えてゆく。数多の悪神を悪と断ずることで正義を成しながら心のどこかで疑問が擡げているのだろう。背後に這い寄る絶望が見えていないだけ。あるいは、自分の放つ光に搔き消されて目の前すら見えなくなっている。が、気配を感じてはいる。孤独ではない、と、いう主張は相反する心境を否定しているに過ぎない。理想的現実と真逆の狂気を捉えたときララナは自身の正義を全否定することになる。
ララナの沈下の頻度と深度が増していることから、海底へ引き摺り込んで檻へ閉じ込めることも機が熟せば可能だろう。そのときこそメリア浮上のときだ。
そうして影たるララナの沈下を観察していたメリアはあるとき、闇の中に何かの気配を感じた。
……わたし以外の誰かが、この空間にいるのですか。
気配といっても形があるわけではない。見ることはもともとできないし、触れることもできない。ただ、確実に、檻を隔てた向こう側にララナとは異なる気配を感じた。森の奥の木陰にひっそりと咲く花のような気配だった。
(そこにいるのは誰ですか)
とは、メリアではなく、向こうから声が掛かった。(初めまして、わたしはレイス、黎い水と書いて、レイスといいます。あなたの名前はなんですか)
ララナの妹。亡くなったときララナが沈んでいたが。メリアはその名に自分と同じような悪意を感じて共感すると同時、ぞわっとした。
……まさか、黎水さんの魂がこの闇の中に。だとしたら──。
ララナが何者なのか、メリアはようやく知った。……羅欄納さんは、魂鼎なのですか。
自身の体内で複数の魂を管理するのが魂鼎の力だ。メリアの父たる創造神アースが持っていたその力をなぜララナが持っているかと言えば、合理的な解釈は一つしかない。創造神アースがなんらかの形で死亡し、ララナの主たる魂になったということだ。が、だとしたら、
……わたしの意識があるのはなぜですか。
メリアはてっきり自分の魂がララナに転生したのだと思っていた。ララナは自分の転生体であり、肉体はメリアのものに等しいとも思っていた。どうやら実相は違う。ララナは創造神アースの転生体であり、メリアは創造神アースの魂鼎の力によってララナの肉体に留め置かれているに過ぎない、異分子だ。
……だとしたら、わたしの浮上による人格交替は、肉体強奪になってしまう、のでは。
前世である自分には多少なり肉体の主導権があってしかるべき、と、メリアは浮上を目論んでいた。その考えが通らないとしたら──。
(あの、勘違いだったらごめんなさい。誰も、いませんか)
(……います)
つい、と、言えばそうだ。ふとメリアは答えていた。(メリアといいます。あなたは、黎水さんというのですね)
(はいっ。メリアさんは、いつからここに)
(……判りません。気づいたらいました。少なくとも黎水さんよりは先だったのでしょう)
黎水が亡くなったことをここで感知していた時点で、この空間、闇の殻の先住者はメリアである。同時に言えることは、魂鼎の力でララナの肉体に収まっているならあの無限の闇から抜け出したのはまさしく偶然であった、と、いうことだ。
……未練が消えていないことも裏づけになりますね。
彷徨ったかどうかも疑わしくなるほど彷徨い続けたあの闇を抜けるには、通常、未練を棄てるほかない。アデルに対する未練が全く消えていないのだからメリアはあり得ない方法で脱出していたことが窺え、それが魂鼎の力だったというなら全く疑問が残らない。なぜならあの無限の闇は創造神アースが創り出した空間で、抜け道を作れるとしたら創造神アースをおいてほかにない。おまけに、魂鼎の力でララナの肉体に収まっているということは、
……わたしは、創造神アースの魂に便乗して転生したのですね。
新参の、それも幼い黎水の意識を感ずるというのに、あれほど陰湿な設計を仕組んだ創造神アースの意識を闇の中に感ぜられない。それも、便乗的同時転生を裏づける要素だ。恐らく、創造神アースが未練を棄て転生を選んだ。その魂が持つ魂鼎の力に引き摺られたメリアは偶然にも転生できてしまっただけのことだ。魂を管理する魂鼎の力に奇しくも保護されたメリアはその未練が失われぬまま転生できた。
……皮肉ですね。
闇の中に意識がないということは、自我がないということ。要は、記憶がない。時化たる創造神アースが記憶を失ったというのに、その創造神アースに生死すら弄ばれたメリアが記憶を持ったまま転生した。これは、何かの罰か。それとも、祝福なのか。ともあれ、創造神アースが陰湿な設計を引くことはもうないのだろう、と、安心することはできた。創造神アースの転生体であることを踏まえてもララナは陰湿さと縁遠そうだったからだ。それゆえの危うさも観えてはいたが──。
……このまま進んでいいものでしょうか。
狂気。メリアも御し難いこれを、意図してララナに伝えていた。御し難い、と、伝えたのではなく、メリアが這い寄る孤独そのものであると誤認させていた。そうすれば沈下した彼女を檻に閉じ込めたとき浮上を諦めさせられると考えていた。それは、大きな間違いだった。そも、自然の摂理ともいえる浮上を妨げることはできないし、仮にそれができてもララナ本人が狂気に吞まれる危険性がある。そうなれば、メリアとララナ、前世・現世ともども狂気に屈服してしまうことになる。それはまるでメリアが創造神アースの設計を勇んで受け入れたかのようではないか。心外だ。心底、心外だ。
(何か、考え事ですか)
(あとのことを少し考えていました)
少しなんて規模ではなかった。ララナの人生の終りまで考えていた。苦悶した前世を無駄にするかのような馬鹿な思考だった。
(わたしもいろいろ考えていました)
黎水が視ていたのは別の点。(お姉さんのこと、どうやったら守れるのか、って……)
(守る……。羅欄納さんは、誰の助けも必要としないほど強いですよ)
幾度とない沈下にめげず浮上してゆく彼女の眩しさを、闇の殻を隔てても感ずる。意識共有ができなくても、遠く離れていても、その眩さが届いている。却って沈めてしまいたくなる。なぜあなたが影なのか、と。なぜあなたが肉体の主導権を握っているのか、と。嫉妬だ。哀れな感情をメリアが迸らせてしまうのは、ララナの前世などではなく創造神アースの力に半ば助太刀されて転生に至り拾い物の現世を踠いているからだろう。
メリアの見方に黎水がうなづいた気配があった。けれども、首を横に振るような気配もあった。もしや黎水は気づいているのか。眩いばかりのララナの、孤独を。
(お姉さんは、いつしか根や葉に毒を蓄えた花みたいに本当は弱いひとだから、どうにか助けてあげたいんです。力は足りないと思いますがわたしでもできることはあると思います)
(……あなたは、真に強いひとですね。この闇、孤独の世界に怯んでいないのですから)
(スコールのあとも太陽が励ましてくれます。わたしも一人の弱い人間だから、太陽を見習いたいと思っているんですよ)
……それを、強いひとというのですよ。
自分が弱いと察したときから劣等感が生まれる。劣等感が真心を奪い、ひとへの親切を偽善に変える。孤独と劣等感と偽善がメビウスの帯となって、あったはずの交流と真心と親切を余さず消失させてしまう。同じような感情の円環を巡ってメリアは嫉妬の権化となった。
黎水が語りかけた。
(メリアお姉さんはララナお姉さんのことをとてもよく知っているんですね)
(……え)
(弱いところまで、まっすぐ視てくれていると感じました。わたしと一緒に見守ってくれたら嬉しいです)
……わたしは、そんなふうではありません……。
黎水は幼い視野でメリアを観ている。
……。
それでも、その幼い信頼と、偽物だとしても太陽に程近い眩さを秘めた少女の強さに、メリアは感じたことのない温かみを感じた。
そのときから、しばしば黎水との交流があった。メリアは自分の過去をぽつりぽつりと、黎水は花売りの生活を愉しげに。沈むララナを感じながら話したときもあった。
あるとき、黎水がメリアにお願いをした。
(メリアお姉さんのことを、ララナお姉さんは狂気として捉えています。ひょっとするとそれがお姉さんを助けることになるかも知れません)
特有の視野狭窄は、ララナにもあるだろう。それでいて賢い子だ。黎水にも、その特徴があった。
(わたしは這い寄る孤独、狂気を人格化したもの。羅欄納さんにそう誤認させたことは確かですが、それによって羅欄納さんを助けることができる、と、いわれてもピンと来ません)
(お姉さんには痛い目に遭ってもらいます)
じつの妹が発したとは思えぬ方針だったが、そこには情愛が溢れていた。
(お姉さんは……ひとの命を軽んじています。花を摘むみたいに簡単に摘み取ってきました。それが自分の手を汚すことだと解っているのに見て見ぬふりをして、足までどんどん汚して、握った花が腐ってその身を黴が覆い尽くしても気づかないふりを続けるつもりなんです)
(……羅欄納さんは、賢いです。最高効率で目標を成し遂げようとしています)
(そんなお姉さんを観ていたくはないんです)
繰り返す殺戮に目を瞑ったララナは、大切な者を守り育てることだけを考え、最終局面で圧勝を果たす道を築いている。対するのが悪神総裁ジーンであるとメリアや黎水にも漏れ伝わってきた。強大な相手に油断はできなかったことだろう。そのために氷漬けにしたものがあるとララナは気づいていない。それこそが、ララナのウイークポイントだ。それに気づいているなら、相手が悪神とて弓を引くことはできなかった。
(──。チャンスは一度です。お姉さん、どうか、手を貸してください)
(……。……いいでしょう)
気の迷いでしかないかも知れなかった。掌を返すような安請け合いになる可能性を棄てきれなかった。しかしながら太陽を見習う少女の眩さにメリアは憧れていた。凍えを撥ね退けんと抗いたがっていて抗い遂せなかった過去があって、広大な海を照らす眩さは信ぜられた。
……設計に従って滅びたのがわたしなのです。
必然が蓋然であるなら、わずかに残った可能性を。微微たるそれを摑み取れたなら設計を覆すような奇跡だって起こせる。犠牲はなくとも進歩するために痛みが伴うことは多い。失敗のリスクを乗り越えて空間転移を手にしたアデルのように、ときには身内を危険に曝すことも、決断には求められる。
(わたしも、弱い。だからこそ約束しましょう。羅欄納さんを守ると)
それがどんな結末を招くかなど、そのときは知る由もなかった。
時化の引いた絶望の設計がどこまでも続いていることに気づいたのは一二英雄とジーンの決戦直後、魂鼎の力で魂を破壊された黎水が別れを告げた瞬間だった。
(お姉さん、お願いを聞いてくれてありがとう。これで、お別れだね)
メリアはなんと答えていいか判らなかった。ララナに教訓を与えることに、お礼を言えばいいのか。
ひとときを置いて届いた黎水の言葉は、鮮烈であった。
(わたしは二度死んだ。あなた達に見放されたから。いつか、お姉さんが、救われる日が来るといいね)
(……──え)
(黎水さん、あなたは──!)
業の深さか、幼さゆえか、悪意にも似た策謀が逃げ道のない状況へ二人を追い込んだ。
闇が、震えている。
ララナの、これまでにない沈下を感じた。
……黎水さんは、わたしと同時に羅欄納さんとも話していた……!
メリアとララナ。「お姉さん」と称してどちらを呼んでいたか一つ一つ振り返れない。だが間違いなく、ときに黎水はメリアとララナへ同時に話しかけていた。そうでなければ、ララナが先の言葉の直後に沈下を始めるわけがない。黎水は、教訓を与えるため自らの魂を犠牲することでララナを傷つけるとともにメリアの負の感情を煽った──。
仰ぎ見ると、その姿が初めて見えた。どす黒い闇に吞まれるようにして眩さが搔き消えた一瞬の、瞬間的視認だった。
……あれが、羅欄納さん──。
なぜ闇に吞まれたか。メリアは判っていた。誰よりそれを感じて死をも招いた。ララナのそれはまだ薄いことも察している。
……黎水さんとの約束を、ここで果たさなければならないのですね……。
ララナを闇に落とし、閉じ込め、絶望を憶えさせなくてはならない。ひとの命を奪った罪の意識を徹底的に叩き込み、もう二度とその手を汚さず済むように。ほかならぬ黎水が拙いお手本を見せてくれた。
……手加減などしてはなりません。
争いを好まない。そんな気持を塗り潰さなければ、たださえ追いつめられているララナを、それでも浮上しようとするララナを、海底に引き摺り込むことなどできない。
狂気に染まれ。染まって、悪になりきれ。そう念ずると、メリアは口を開いた。
(これが、あなたの真実。あなたは殺戮者)
現実を突きつけ、二度と浮上できないほど傷つけてやれ。
(目覚めたとき、あなたは真に全てを失っています)
闇の中、目が合ったことをメリアは感じた。ララナの沈下が極まった。メリアを押し出すかのように、逃げ込むように海底の檻にララナが沈んだ。
暗がりながら、ぱっ、と世界が光った──。神界ライトレスは暗闇だと聞いていたが、錯覚か、光に包まれているようにメリアは感じた。
……海水牢。永遠の闇。殻。檻。ここは、なんと明るい場所。
絶望を教えるなら、その景色を胸に刻まねばならない。そこにあったモノがなくなることを知らねば、絶望などしようもない。目を逸らすことなどできないほど、確実に見えているものを消してしまうべきだ。光があるならなおのこと。神界ライトレス。その光を消す。
ララナの仲間か。迫る影を魔法弾で牽制するとメリアは渾身の力を解き放った。
……全てを滅ぼせ。
分け隔てない破壊を、神界ライトレスに与えよう。現れた二振りの巨大剣、双剣萼が星の全てを破壊してゆく。
何を支えとすることもままならない荒れ狂った世界でただ一人、迫る無精髭がいた。
……このところの、羅欄納さんの沈下の原因。
ララナと対立し、批判していたという男性。双剣萼の及ぼす圧力と大地の鳴動、それから破壊の影響を躱す身のこなしは並外れている。
メリアが浮上し、肉体の主導権を握っていることを察していないからか、無精髭が言った。
「それで本当にいいのか」
「……」
宇宙空間へと解き放たれてゆく大地の破片を足場にして迫る彼を、魔法弾で幾度となく狙い撃ちにする。
……いわれるまでもない。
悪いに決まっている。ララナは取返しのつかない罪を、メリアは二度目の大罪を、負った。いいことなど何もない。最悪の選択肢だった可能性のほうが断然高い。
……わたしは、どこまでいっても、そんな役割。
黎水と出逢った瞬間から、設計による必然が手繰り寄せられていたかのように、蓋然から漏れることもなく、奇跡は起きない。が、命を懸けた黎水の眩さを信じよう。蓋然だろうと必然だろうと今は甘んじて受け入れる。その先に波の花の欠片ほどでもいい、奇跡が見つかったなら大嵐だろうと過積載の荷であろうと受け入れたことを誇れるではないか。ささやかな希望すら絶望に変えるような設計であるなら、今度こそ消えればいい。
……わたしは、羅欄納さんの強さを信じる。
海底に吞まれても太陽の眩さが闇の殻を打ち破って浮上することを、あるいは海の底からでも世界を照らすことを、確信している。狂気たるメリアにはできないことを彼女ならできる。そう、確信している。
「(だから……、)邪魔立てしないでッ!」
星を既に半壊させ、なおも破壊し続ける双剣萼。その頭上に、もう二振りの双剣萼を形成、彼を宇宙の端まで吹き飛ばした。
「これで、……これで、終り、です」
精神力が切れて、息が詰まるような苦しさと肉体の疲労を感ずる。肉体の主導権を本来持ち得ないことを示すように、意識が闇に引き摺り込まれてゆく。
……でも、役割は果たしましたよね、黎水さん──。
星の崩壊は止まらない。罪が、生まれた。メリアに肉体の主導権を奪われ、失ったものの大きさをララナが知り、策謀は見事完結する。
……眠く、なってきました……。
全てに前向きとはゆかない。でも、久方ぶりの体の震えが充実感を証明している。
幻視か。闇の中に、月のようなささやかな光が見えた気がした。
──もう少しお眠りなさい。いつか必ず、あなたに救いがある。
……わたしには必要ありません。ですから、どうか羅欄納さんを──。
黎水ならきっとそう言うだろう。
狂気と争いが全てを奪ってゆいた。世界を守り育むことができるのは、海のような優しさと厳しさだ。そこに黎水のような光があれば恐れるものはない。海にはなれなくても、ララナのような影になれなくても、メリアは彼女のように存りたい。
しかしあえて挙げるなら、必要なものがあったのだろう。それは空のような無限の抱擁と、闇に住まう者に優しい月明りだ。闇路を彷徨うことが定められていたメリアの憧れは太陽の眩さだったが──。
……、ここは……。
海底の檻でも、闇の殻の中でもない。仄かな狭苦しさは、布団の重みだ。振り返った過去に震えた心が現世の時間に落ちつく。トリュアティアから帰ってきたのだ。自分の家に。
……温かい。
瞼を開ければ求めた景色があるだろう。しばらく香りに身を委ねた。
いつかのように影になりたいと願っていたわけでもなく影の位置にいる。檻から掬い上げてくれる手があって、ここにいる。
(羅欄納さん、交替します)
(もうよろしいのですか)
(一夜が終わっている頃です。いま抱き締められるべきは羅欄納さんです)
(朝で構いません。オト様のことですからメリアさんを最優先とお考えのことでしょう)
自分以外のことを第一に考えてどこまでも譲れるひとだ。それはララナの生まれ持った優しさであるが、
(充分、譲ってもらいました。闇の中でも今は独りではないと解っていますから)
(以前を思えば気楽です。手放した時間を取り戻してください)
とは言っても、メリアの持時間はゼロ。手放したのは設計に惨敗した結果だ。
(トリュアティアの眩しさは負担でした。闇が落ちつきます。交替を、お願いします)
(……。解りました)
メリアに不利益があると認められなければララナが譲ることをやめない。メリアとしては、噓でも演技でもなかった。
(羅欄納さん、今日もありがとうございました)
手放した時間はララナのほうが多い。黎水との時間も、オトとの時間も、ひとに尽くすために手放せてしまった。メリアがララナに手放させたら、星を滅ぼした意味がなくなる。罪の意識は、本来の彼女の優しさを取り戻させるためのきっかけであって、自己犠牲を強いるものであってはならない。毒になった余計な特効薬をメリアは取り除いてゆきたい。
どんなにつらい過去があっても、土台に正義があるなら、狂気が治まるなら、歪んだ価値観や感情を正すための荒療治も必要だとララナは考えていた。
──お姉さんは悪いひとじゃない。望む世界に戻してあげたい……。チャンスは一度です。
黎水の求めにララナは応じた。妹の望みを叶えたい。そのような純粋な気持だけではなかった。狂気暴走によって星を滅ぼすことがメリアの本意に反するものであるなら、大罪が戒めとなり狂気を御することができるようになるという人格矯正手段とは無論考えていたが、軍師たるララナは星を滅ぼす力を至高の武力とも見込んでいた。対人戦における切札としてメリアを観ていたのだ。仮に仲間が敗れて手の打ちようがなくなっても悪神総裁ジーンがメリアの力に及ぶとは考えにくく星を滅ぼす中で片がつく。そんなふうにも考えていた。
ララナの思惑とは全く異なるところに、黎水の真意があった。黎水の狙いが成功したかといえば、半分は成功、半分は保留といったところであった。現代まで続いた保留は成功の足掛りとなり、先頃結実した。
黎水の犠牲がなければ、メリアの心に寄り添って話すことなど到底できなかった。
(おやすみなさい、羅欄納さん)
(おやすみなさい、メリアさん)
愉しみにしている誕生日会の準備がある。メリアにはゆっくり休んでもらいたい。
「おかえり、羅欄納」
「ただいま戻りました。申し訳ございません」
オトの気持としてはメリアを抱き締めていたいだろうこのとき、表に出てしまったララナとしては謝らずにはいられなかった。
「もう少し独占欲を高めてほしいね」
「暴走致しますがよろしいですか」
「どうぞ」
「申し訳ございません」
「謝っとらんと受け取りなさいよ」
そうは仰りましても、と、反論したくなったララナをオトが制する。
「メリアの気持を味わっとるね。理解を深めなさい」
「……」
譲ってもらうことに負い目を感ずることがある。譲られるたびに、メリアがこのような気持でいた。
「メリアさんは私の性格を知っています」
「その上で譲ってほしくないんよ。羅欄納が自由にしていいはずの時間を奪うのが嫌やから、アデルとの訣別にも乗り出したんやと俺は思っとるよ」
「オト様や娘に不誠実と考えていたからです」
とは、メリアから聞いていたが、羅欄納の耳には捉えられない声がオトには聞こえる。
「その理由に潜めた理由がいくつもあるだけやよ。言葉が言葉通りの意味しか持たんなら、ひとに心は必要ないね」
「オト様はお優しいです」
「それはない」
と、言えるオトに悪意があったか。基本的にない。悪意に観えるとしたら、ララナ達に不都合なことを言い出したときくらいで、その裏には家族を守る真意が必ずある。
「考え事を致しましょう」
「刻音の誕生日会のことやね」
準備にもそれなりに時間が掛かるので、定番の役割がそれぞれにある。主役は準備には参加せず、誕生日会でみんなに囲まれるのが役割だ。新たに加わったメリアには既に着手してもらっているようにケーキなどの料理を作ってもらうほか片づけに参加してもらう。新たに考案することが難しくなっているレクリエーションは盛り上げることに長けた音羅、納月、夜月が担当、そこに調整役の鈴音も含めた面子から司会・進行役を出すことが多い。
「今回からは撮影者を動員致します」
「カメラ撮影ってことなら納雪やね」
「普段から私のあげたカメラを使いこなしているので不足ないかと。念のため、夜月ちゃんに補助をお願いします」
「夜月は撮られる側で撮る側の技術はないと思うけどね」
「撮られる側の気持なら竹神家の誰より知っています」
オトは写真嫌いであるし、ララナも写真を撮る習慣がなかった。写真好きといえる娘は納雪しかいないので撮影者として適任。モデルとして撮られ慣れている夜月は被写体のエモーショナルな部分を捉えて納雪をアシストできるだろう。
「司会・進行役がスタンダードに場を温めてケーキを投入します」
「摑みと顔面パイまでの段取りを説明されとる気分」
「バラエティの観すぎです」
「音羅に毒されたよ」
「最初はオト様がご覧になっていたのですよ」
「ぐうの音も出ん。その点、村にテレビがないのは助かる。プレゼントはどうする」
「オト様は準備なさりましたか」
「まずはみんなで予算を決めようと思って」
オトが誕生日会に参加しない方針を発していたためみんなで予算を話し合うことができていない。贈り主が張り合うようなことになると気分を台無しにしかねないので、プレゼントに金額差がつかないようにするのがコツだ。
「みんなで一つのもんを用意する手もあるが、どうしようかね」
惑星アースでは、ゲーム機や趣味の高級品などを家族で贈るということがある。ゲームをやらず高級志向もない刻音には、そういったものが当て嵌らない。
「刻音ちゃんは旅慣れしていますから実用品も視野に入ります」
「趣味は恋愛、みたいな子やからね、愉しませることが最重要やな。形に残りにくい実用品は思い出にもなりにくい。一方で、形に残らんくても思い出になりやすいもんもあるね」
「誕生日ケーキですね。特に音羅ちゃんは毎年のケーキをよく憶えています」
「音羅の場合は食べ物が好きってこともあるけど、その通り。ケーキの中でも誕生日のは格別やからね」
自分のために用意された特別感。暗闇の中で蠟燭の火を消す高揚感。切り分けて味わう共有感。一つのケーキにいろいろな感覚が乗っかって愉しさがどんどん膨らんでゆく。
「一時の愉しみや思い出作りだけでなく、自己肯定感を育む意味合でも大切ですね」
「色褪せるから難しいことは忘れようね」
「夜月ちゃんがデザインしたケーキをメリアさんが作ることに決まっております。プレゼントまでケーキとなると重複です。いかがなさりますか」
ケーキを豪華にするとインパクトがあって切り分ける共有感が増すが主役の特別感を損なうことにもなるのでバランスが大事だ。
「ああ、そうやった、これを預かっとったな」
オトが枕許から拾ってララナの目の前にぴらっと。
「こちらは、ケーキのデザインですね。メリアさんから聞いていたものと違うようです」
「修正案らしい。トリュアティアに飛ばす前、夜月に渡されたんよ」
「──夜月ちゃんには希しい趣向ですね」
「ようやく家族の和に馴染んだんやろう。目が逞しくなったよ」
思い込みを振り返り、自分の意志を見つめ直していた夜月。自分のことを素直に語る子ではないので、先頃の家族会議のような場でもなければ結論を語ることはないだろう。その分、確実に行動で示す子だ。刻音の視野狭窄を認めつつメリアの暴走を止めるため一役買ったことが夜月の結論。すなわち、オトの妻としても家族としてもメリアを迎え入れ、オトに対しては父として接し、独自の距離感で姉妹を支える。
「ケーキのデザインにも顕れています」
詳細は当日まで控えておくが手間の掛かるデザインだ。これは決してメリアの手を煩わせたいのではなく、刻音の誕生日を祝う気持と家族全員を尊重する意志だ。
「メリアにこれ作れそうなん」
「材料集めが大変そうなので私が買出しを行い、試作まで確実に仕上げましょう。本番はメリアさんの腕に委ねます」
「できるか否かを訊いたんやけど」
「メリアさんならやってのけます」
「今から教えないかんことが多そうと解った。よろしく頼むわ」
「はい。話を戻してプレゼント選びです」
「それなんやけど夜月のデザインにヒントをもらった。──、ってのはどう」
「なるほど。その案で参りましょう」
オトからの密かな説明を受けてララナはうなづいた。ケーキのあとにプレゼントを贈る流れになる。ので、ケーキのデザインとセットでプレゼントの意味が深まることだろう。これも当日まで内容は秘密だが、娘に通達して準備を急がないと間に合わない可能性がある。多くの連絡は子どもの連携力を高めるため夜月の伝心を頼ることにし、ララナは朝になったら予定通り買出しに向かうことにした。
刻音達が追ったことも幸いしただろう、メリアが無事に戻った今、オトが心配しているのはララナのことだった。
「メリアが精神力を使いきっとったみたいやけど、大丈夫なん」
悪神討伐戦争末期、全てがなくなった空間で感じていた体の重さ。あれをより重くしたような感覚が今はある。
「朝までには動けるようになってみせます」
「頼もしいね」
「いつでも頼っていただけるように。姉女房ですから」
年上を意識することは全くないのだが意地を張るにはいい名目だ。「しかし驚きました。音羅ちゃんがメリアさんの魔法を打ち破るとは……」
「メリアじゃないが全身全霊やな。双剣萼──、星の魔力を用いた攻防一体の魔法やけど、刻音の魔法で一時とはいえ止められたこと、夜月のアシストで音羅の攻撃が強化されたことも幸いしたやろうな」
「計算された陣容ですね」
「音羅達が臆しとったらタイミングを逸しとったことも考えられるし、停止中の双剣萼でさえ止めるのは困難やったやろう。アデルを求めたメリアの気持とメリアを連れ戻したい音羅達の気持は、後者が勝った。負担割合は音羅が五、刻音が三、夜月が二ってとこか」
「夜月ちゃんの負担が思ったより多いですね」
音羅を魔法で運ぶだけなら一にも満たなかっただろう。
「音羅が貫いた部分から鎮静魔法を掛けて双剣萼の消滅を手助けしたんよ」
「星の魔力で形作られたものが一点集中で貫いただけで崩壊したことに違和感を持っておりましたが、得心がいきました」
トリュアティアの帰途、メリアから報告を受けていたが夜月がそのような働きをしたとは聞いていない。不器用な姿勢が目立つ夜月だが、魔法の腕は確かだ。本来ならほかの魔法が通用しないほど強力な双剣萼を、音羅が貫いて脆くなった部分から鎮静魔法で狙い撃ちにすることで効率よく崩壊に導いたのだ。刻音の時空間固定の魔法で停止させたことで夜月の狙い撃ちが正確性を増したことも窺える。
「と、なると、双剣萼が貫かれたことこそが不思議にも思えます。星を滅ぼすほどの魔法、その片割れを音羅ちゃんが……」
星を半壊もしくは破滅させるほどの力が音羅にあるとは、ララナは思えない。
「さっき少し触れたけど、タイミングの問題やよ。加速しきって圧力を生ぜさせた双剣萼なら防御性能も高まるが、刻音の魔法で停止するくらいには無防備な助走段階やった。それでも硬くはあるけどね」
「双剣萼が加速しきる前だったために刻音ちゃんでも止められたのですね」
意図せぬ暴走状態に陥ったとき止めてもらうため、メリアは危険な魔法の情報をオトに伝えていたようである。それをララナが知らされなかったのは、メリアの暴走時に助ける術が事実上なく知る必要がなかった。
「まさしくタイミングの勝利だったのですね。もし間に合わなかったら……」
「『民の信仰のもと、オレとともに動ぜぬ中子』」
「それは」
「頂点の象徴たる力、の、詠唱文。それでもって敗北してメリアの思い通りになっとったよ」
音羅達が追いつかなくても、アデルがきっぱり突き放すことでメリアは戻ってきた、と。
「私は思います。刻音ちゃん達にも負けたからこそ、メリアさんは戻ってきてくれたのだと」
「さぞかしメリアの心を引き寄せたやろうな。双剣萼を打ち破ってくれるとまでは思わんかったから俺も驚いたし」
「オト様も」
「何万回もいったが──」
「『計算なんかできん』ですね」
「刻音達の気持が届けばいいな、とは、思ったよ」
いざというときは助けに入る予定でいたのだろう。が、オトが助けに入るまでもなかった。娘は強く育っている。
「手を離れてく……。そのまま、置いてかれそうやな」
「ええ──。しかしそれは、とてもいいことです」
永遠の時があっても、一人一人の成長は止まらない。小さく幼かった音羅や納月や子欄も、ララナとオトが親となった頃より年を取って大きくなった。未成年組も立派な大人になってゆく。その片鱗を双剣萼打破で確かめられた。家庭教師だったララナとしては親の役目と仕事の役目が重なって、親として得た成果のほうをより嬉しく思う。
「手放す勇気が私達にも必要なのです。親とは、そういうものです」
「……そうやね」
手放すまでは、溢れんばかりの想いを両腕で渡す。手を離れた子が同じようにひとびとを想えるように。
「刻音の誕生日を過ぎたら、全員集まる日は少なくなるかもな」
「家族全員のイベントとしても、しっかり営みましょう」
「ん、腰痛めん程度に頑張るとしよう」
テラスの邸宅──竹神邸の隣家──の台所を借りたメリアがララナの指導を受けて本番のケーキを作るのと併行して、分担通り部屋飾りやレクリエーションの作成を行った。甘えん坊の刻音に準備作業が見つからないよう、仕事に連れ出したり構ってあげたり、と、家族総出で奮闘して──、刻音の誕生日当日、三〇七五年五月一日を迎えた。
居間に集まった竹神一家は、司会・進行役の鈴音に手を引かれて現れた刻音をクラッカで迎え、驚き半分悦び半分の主役を持て成し、余興たるレクリエーションを終えた。
(場が温まってきたね。お母さん、今です)
と、鈴音のアイコンタクトを受け、ララナはヴァイアプトへ密かに合図、一瞬の間を作る。
「あ、あれ、ヴァイアプトさん、燈を消しちゃいました。調子が悪いですぅ?」
「これはね、調子が悪いわけじゃもごっ──」
噓がつけない音羅の口を謐納が背後から塞いでいる。
……ごめんなさい、音羅ちゃん。少しの辛抱ですよ。
今だけは燈が必要ない。ララナは刻音の前にケーキを転移させた。立てられた四本の蠟燭がほんのりと刻音の表情を照らし出す。
「っこ、これって、誕生日ケーキ……!」
「『誕生日おめでとう!』」
「──」
みんなの声に刻音が目を潤ませて、「わ、解っていたけど、うちって、家族、多かったんですね……」
「マジでいまさらね」
と、夜月が皮肉っぽく笑う。「ま、アンタが生まれたときは父様と母様とオトラ姉様くらいだったし、ほかの姉様達からはばらばらにしかプレゼントが届かなかったし、ワタシのことはすっかり消してましたし」
盛り上がりに水を注すような夜月の言葉に刻音が却って高揚している。
「このケーキ、一種類じゃない……、一一種類の、アソートですね」
「一一。なんの数字でしょうかね、刻音さん」
と、納月に問われて、刻音が即答した。
「家族全員……メリアお母ちゃんも含んでの、家族全員の数ですぅ」
「ご名答。メリアさんもお母様の中で祝いの言葉を斉唱してくれたでしょう」
「うっ……ぅ」
「あら……、ちょっと盛り上げすぎました」
首を垂れた刻音の零した雫が蠟燭の火を一つ消した。
「……このまま、時が、止まったらいいのに」
「『……』」
「ずっと、このまま、みんなで一緒にいたいですぅ……」
……刻音ちゃん。
消えた火の分だけ幼くなったかのように呟いた刻音に、ララナは寄り添おうとした。
「ワタシは御免ですわ」
と、再び水を注したのは夜月であった。「ずっと一緒にいるから大切さに気づけない……。そんなことも、あると思うわよ」
「……夜月お姉ちゃん」
「アンタみたいに思わないわけじゃないけど、それで満足したくもない。もっと上があると思うもの」
「もっと、上?」
「無限説よ。ワタシは、アンタや父様のこと大嫌いだけど、もっと嫌いになれるかも知れないから」
……本当に、不器用ですね。
みんなが知っている。夜月のそれは愛情表現だ。
「アンタの気持には限界があるのかしら」
「……ううん、ないですっ、全然ないですっ」
「じゃ、時を刻みなさい。そうしたら、少しはマシな態度を執ってあげましてよ」
「夜月お姉ちゃっんぎゅっ!」
「だからそう抱きつこうとするんじゃない、まったく……」
夜月が刻音を押し戻したところで、ララナは手を合わせた。
「改めまして、刻音ちゃん、お誕生日おめでとうございます。先の一件、私もオト様も姉妹のみんなも、勿論メリアさんも、誇らしく思っています。生まれてきてくれて、立派に歩んでくれて、本当にありがとうございます」
「お母ちゃん……!」
毎年のように観ている感動の涙に、大きな成長があった。「刻……お母ちゃんの役に、立てましたか」
ララナは、確とうなづいた。
「ひとを想い、傷ついて、頼もしくなりましたね。今の想いを忘れないよう、蠟燭の火を心に焼べましょう」
「……はいっ!」
ここに闇が迫ることはなく、身を小さくしてまで燈を灯すこともない。いま消えた燈は刻音の成長を刻んでいて、誰の目にも明らかに、家族を包んだ。
……いい意味で消える燈もあるんだな。
お互いの顔が見えない暗がりで拍手を重ねると、音羅はそんなことを考えていた。すると、パチッと火花を散らせて小型のプウが膝に載って、
……わたし、前向きだね──。
ふいに笑みが溢れた。
「誕生日って、自分のじゃなくても生まれたときを思い出しますねぇ」
と、納月は隣の鈴音を相手に話した。
「お姉さんは、どんなこと思い出すの」
「暗闇ですかね」
「暗闇」
「悪いもんじゃないですよ。今と同じ感じです」
誕生に際したかように、ひとを祝う気配が満ちた暗闇。そこには抱擁する両腕があって、柔らかさが融け合っている。
「わたしは不出来ですから、もう誰からも求められることはないと解ってますが、ここだけは違う。自分の還るべき場所だと思えるんですよ」
「夜月とは違うけど、お姉さんもお父さんを嫌いなんだと思ってた。違った」
「鈴音さんも肌で解っていることです。嫌いでも、拒絶するようなもんじゃないんですよ」
母を顎で使うような父が納月は嫌いである。父に唯唯諾諾の母も嫌いだ。けれども全てが嫌になることはない。グータラな父はたまにいいことを言うし、母のいいところを挙げたら切りがないし、何より、不出来な自分を見守ってくれる両親を一方的に嫌えない。両親の一面が嫌いなのはその一面に理解が追いついていないだけだ。
「嫌いってのは、自分にいってるもんなのかも知れませんねぇ」
「だね」
もやもやする気持を消せない自分だとか、やらかした過去に苦悶する自分だとか、消したいほど嫌いな部分と向き合うときが必ず来る。両親への嫌悪もそれと同じだ。
誰にでも一つはあるいいところ。それを認めればいい。両親もメリアもそれが普通にでき、納月はなかなかできないから自分の内面すら処理しきれていない。
「夜月さんがいったことでいいことといえば無限説とやらですね。それを当て嵌めれば、嫌なところだって際限なく増えるわけですから、何個処理不能になっても気にするこたぁないってことですよ」
「ぶれない部分があればね」
そういうことだ。
刻音にはそれがある。夜月にも、ある。
ヴァイアプトが光を発すると、刻音と同じアソートケーキがみんなの手許にある。一台一台ホールで作って切り分けたものだ。
「どれも綺麗ですね」
と、子欄が一ピースを小皿に取り分けた。
謐納も一つ、取り分けた。
「この雪花のタルト、納雪をモチーフにしておるよう」
「それぞれがわたし達をモチーフにしているそうです。夜月さんは粋なことをしますね」
……うむ。
そこにも、夜月の目線と想いが顕れている。……よく観ておるものだ。
「デザイン案より綺麗だわ」
と、夜月が鼻を鳴らした。「メリアさん、ワタシの機嫌を損ねるのが上手ですわね」
「このデザインはおねぇさんが考えたんですよね」
アソートケーキの中心にちょこんと載っているのが納雪をモチーフとしたタルトだ。「刻音おねぇさんの誕生日なので、こっち、白黒のケーキを中心にしたほうがよかったような気がします」
「解ってないわね、ナユキは」
「解っていませんか」
「アンタはちっちゃいでしょう。ワタシ達みんなで守ってあげるって意味よ」
「あ──、そこには必要ということですね、刻音おねぇさんが」
「飽くまでトキネもだけどね。アンタも土台のほうになれるよう頑張りなさい」
「はい、頑張りますっ」
納雪には夜月が素直なようである、とは、船上でも判っていたか。
……家族が、纏まった。
明日には鈴音が旅立つ。夜月も就職のため逗留を視野に外を回る。その前に、みんなの気持が一つになったのは、両親が用意したこの家とメリアの存在があったからだろう。
……此がメリア殿であろう。
よく塗り変わる髪色を示すような虹色。デザインの時点で、不気味にならないような繊細な仕立てになっていた。
「お父様にベタ惚れなメリアさんかと思うと、可愛らしいですよね」
「ええ、さに思いまする」
謐納は子欄と微笑む。して、「いずれも美味」
「はい」
悪目立ちするところがあっても、どれかと一緒に味わうと一体感を持つ。
「ほんにわたし達を象徴するかのような味わい」
デザインした時点で大方の方向性をつけていたであろう夜月。試作で方向性を形にした母。その形を本番で再現することができたメリア。
……じつに素晴らしき菓子です。
ララナとこっそり交替してもらって、メリアは居間を見渡す。
ほんの少し前まで、ここは、居心地がいい席とは言いきれなかった。ケーキを食べ進めるごとに笑顔が増え、──ようやく膝を崩せた。
「みんなも納得のできみたいやね」
「音さん……。音さんは、いかがですか」
「与えられたもんに対して文句をいうと」
「わたしも、羅欄納さんも、音さんにそうしていただきたいと考えています」
結婚する以前、オトがララナに冷たく接することは多かったらしい。音羅が生まれて良好な関係が築けたあとしばらくしてぶり返したような冷遇があったが、じつのところララナは結婚以前を振り返って懐かしんでもいたようで、
「羅欄納さんがいっていましたよ。冷たい態度の音さんも素的だと」
「皮肉」
「だとしたら、お二人はとうに別れていらっしゃるかと」
「蔑称的呼称が愛称や勲章にもなる由縁やよ」
ストーカ。オトがララナをそう称するのは夜月の愛情にも似通っている。
「羅欄納さんは極めて前向きです」
「曲解な気もするけどね」
「いい曲解もあると思いますよ」
その結果は明らかだ。「音さんは羅欄納さんを信じてここにいらっしゃる。そうして、わたしもここにいられるのだと思います」
「今があるのはあの子のお蔭やね」
それが解っているから──。
「なんか話したげやね」
と、先回りのオトだった。「心残りがまだあるん」
「……はい。あとで、お耳を貸していただけますか」
「ゆっくり聞かせて」
「……はい、お願いします」
再びララナと交替して、メリアは光の橋から闇の殻を仰いだ──。
一夜ではまず食べきれない大きなケーキを音羅や納月がぺろっと食べ終えたタイミングで、鈴音が声を張った。
「みんなケーキを味わってるとこだけど、この辺りで、みんなから刻音にプレゼント!」
「プレゼントっ……!」
刻音はケーキ皿をいったん置いた。……お母ちゃん達の部屋にあったんだ。
みんなの入退室を待つと、長女音羅を先頭に姉妹の列ができた。
「はい、刻ちゃん、ハッピーバースデイ!」
「ありがとうございますぅ。プリンですね」
「うん、アースで買ってきたんだ。わたしが大好きなミルク、香りを愉しめる紅茶、売上第一位のカスタードの三点セット、それのプレミアム版だよ」
音羅が勤めていた山田食品運送の傘下企業が製造するもの。プレミアム版は素材から厳選された個数限定品だ。
「わざわざ買ってきてくれたんですね」
「気合も注ぎ込んでおいたから一緒に食べてね」
「なんだか物凄く元気になりそうです。ありがとうございますっ!」
「いい返事だね」
「音羅お姉さん、喋りすぎ」
と、鈴音が手を叩いた。
「あ、次次いかないとつっかえちゃうね」
音羅が次女納月に番を回した。
「刻音さん、法被バース〜!」
「法被は生んでませぇんっ。けど、ありがとうございますぅ、って、これは?」
「白物といえば米、米といえばわたしです」
……さすが納月お姉ちゃん、変わったチョイスだなぁ。
ダゼダダ出身者なら嫌いな者はいないだろうが、誕生日プレゼントで小袋の玄米をもらうことはなかなかないだろう。ついでに納月の早口もプレゼントされた。
「ロウ層を取り除いて諸諸の有害物質を基準値以下にし高いレベルで安全性を確保した上で栄養価は維持しつつカロリ・糖質ともにオフの優良玄米に合わせてこっちもどうぞ」
「えっ」
レトルトシチュ。「納月お姉ちゃんがシチュをくれるなんて……!」
「がめつい姉みたいな印象を拡散しないでくださいよぉっ」
「あいや、お姉ちゃんシチュ大好きだから……」
お気に入りの商品を買い溜めしておく納月。「一人でこっそり食べているくらいだからくれるなんて……」
「だから印象拡散しないでとっ」
「あ、で、でも、嬉しいですよぅ、ありがとうございますぅ」
「素直に受け取ればいいんです、うんっ」
「あはは……。(ひょっとして布教かな)」
納月のようなナイスバディになれるなら夜ご飯のあとにこっそりシチューライス、と、いうのも悪くない提案なのかも知れない。
……腰回りの運動をしながら、ね。
本人が言うほど太くない納月だが、運動云云は促さないのが吉だ。
「刻音さん、おめでとうございます」
と、次は子欄が手渡し。「わたしからはこれを」
「ありがとうございますぅ。(なんとなく解ってきた……)」
子欄からもらったのは激辛カレー。みんな、自分の大好きなものをくれる──。それにしても、だ。
「〔辛さ一〇倍〕って、刻に食べられるかな……」
「大丈夫です、誰でも初心者の頃があります」
「入口は中辛くらいじゃないですかっ?」
苦笑で尋ねた刻音に対して子欄が深刻な顔を見せた。
「刻音さん、胸に刻んでください。中辛などカレーではない、と」
……変に頑固っ!
「甘口なら許しますが」
……変に寛容っ!
普段物腰柔らかで優しい子欄は、カレーのこととなるひとが変わる。……たまにはいいか。
裏でみんなをサポートしている子欄に頭が上がるのは無礼が服を着て歩いているような永久無職の父くらいのものだろう。
「じゃ、次はわたしね」
と、鈴音がくれたのは、
「……コンパス。これ、いいんですか」
一緒に旅をしていた頃、鈴音が使っていた方位磁針だ。大きな川の中も、深い森の中も、鈴音と一緒に旅をした古びた方位磁針は、謂わば鈴音の相棒である。
「新しいのを買ったから大丈夫。そっちはあげる」
「でも……大事なものじゃないですか」
「物事を俯瞰できないとき、せめて行先や展望だけでも、って、考えるきっかけになる道具だからね」
「先を見据える道具ですよね」
必要なものは自分で調えるよう言った鈴音が初めてくれた実用品。
「刻音は存外道に迷ったりしないけど、よかったら持ってて」
「……はいっ、いただきますぅ」
「見劣りしますが」
と、謐納が前に出て、ドッと、一振りの刀を置いた。
「へ……?」
「収めてください、刻音」
「……へ?」
「……言葉足らずでした。此は豆腐しか切れぬ模造刀です」
「あ、そうなんですね。(真剣とばかり……)」
まさか今から剣術稽古でも始まるのか、と、刻音は気後れしてしまった。
「朝一番、または、気の乱れたときに振れば落ちつきましょう。おめでとう」
「ありがとうございますぅ。(刻に使えるかなぁ)」
脇にずらすため一度持ってみたがなかなか重い。朝一番、と、いうのは難しそうだがシチュやカレーの流れでダンベル替りの活躍に期待が掛かる。
「心して受け取りなさい」
と、突っ慳貪にお洒落な袋を渡したのは無論夜月である。中身は、
「あ、なんかすごい服っ。これ、夜月お姉ちゃんが?」
「ほかに誰がいるのよ。村にいると感じないけど、この辺りって一応赤道近いから通気性のいい夏仕様よ」
「さすがはお姉ちゃん。考えられていますね」
「いつまでも父様の作った服を着てたら可能性が狭まりますわよ」
旅中も父の用意してくれた服を刻音は使い回しており、今日も変らずだ。
「自分できちんと選ぶことね」
「そうしないといつまで経ってもカッコよくなれませんか」
「自分のスタイルを確立して初めて第一歩を踏み出せるのですわ」
「自分のスタイルか……。ありがとうございますぅ、これを着て、頑張ってみます」
可愛い服が好きであろう父が作りそうにないオーバーオール。刻音も目に留まったことがないが、動きやすそうで仕事に使えそうだ。
姉妹の中では最後となる納雪がそっと出てきた。
「これがわたしからです、おねぇさん」
ちんまりと差し出されたのは写真で、刻音と一緒に納雪も写っている。
「すごく素的です、笑顔の刻音おねぇさん、おめでとうございます、お誕生日!」
「んふふ〜、ありがとうございますぅ」
レクリエーションの一つだった座布団取りゲーム。納雪と取り合った座布団の上でぎゅっと抱き合って「これはダメですか」と声が揃ったときのショットだ。これは父が撮影したものでなかなか躍動感があって見映えがいい。
「受け取ってもらえますか。おねぇさんの思い出に、一緒にいられたら嬉しいです」
「訊くまでもなくずぅっと一緒だよぉ納雪ちゃぁんっ」
「おねぇさん……!ありがとうございますっ」
写真のようにぎゅっと抱き締め合うと、お互いの熱に一層頰が緩んだ。
と、不意に、目と鼻の先にぽっとお椀が現れた。宙に浮いているそれの中には、
「蕎麦──、と、いうことは、これはお父ちゃんから?」
「村で育てた蕎麦の実をもらって石臼で碾いて──」
「作ってくれたんですかっ」
「蕎麦打ちなんて腰痛いし無理」
「えぇ〜」
「それなりの歳なんやから勘弁して。水をヴォダニィに用意させて、クムと糸主と刃羽薪に打たせて、切るのと茹でるのは俺がやった。ちなみに盛りつけは結師と織師やからみんなからの贈り物でもある」
「それは素直に嬉しいっ!」
父の脇、蜜柑山に集った微笑の分祀精霊と目を交わす。
「茹でたてのザル蕎麦、いえ、わんこ蕎麦に観えます」
「早く食べてよ」
「ケーキの直後なんですけどぉ」
「じゃあ遠慮なく俺が──」
「食べますぅぅ!」
離れてゆこうとするお椀をキャッチして、つるっと一気にいただいた。「んむんむ……あ、思ったより軽い。蕎麦の香りが濃いのに爽やかですぅ」
「うまかろ」
「ユズと塩っぽいですね」
「シンプルにね」
「お父ちゃん、ギフトのみんなも、ありがとうございますぅ」
「『どういたしまして』。次、お母ちゃんからね」
「……お母ちゃん」
納雪を放して、お椀を置くと、刻音は母を向き直った。
「私からは二つ。片方はメリアさんから預かった品です」
「メリアお母ちゃんから?」
「まずは私の分を」
「うんっ」
「改めて、お誕生日おめでとうございます、刻音ちゃん。はい、どうぞ」
「ありがとうございますぅ!むむっ……?」
母からのプレゼントは、どさっと音を立てそうな大きなもので、膝許に現れた。
「蜜柑の詰め合せです」
「一目瞭然ですよぅ」
蜜柑山より体積のある段ボール。蜜柑海とでも表そうか。
「安心してください。味は太鼓判を押します。全ての果実が小ぶりにして鮮やか、濃密かつ芳醇な味を顕にした蜜柑オブ蜜柑、謂わば蜜柑の神の揃い踏みで風邪予防に有効な──」
……お母ちゃんの蜜柑愛はお父ちゃん愛に近いなぁ。
「──、刻音ちゃんの健康を守り、勇気あるチャレンジも着実な前進も支える活力・気力・体力を養ってくれること請け合いで──」
「わ、解りましたぁっ、ので、お母ちゃぁんっ」
「なんでしょう」
「家庭教師な講義をストップしてくださぁい……」
「おや、祝辞だったのですが」
……愛が深すぎますぅ。
が、「(それがお母ちゃんだなぁ。)蜜柑いただきますっ、嬉しいですよぅ」
「っふふ、悦んでくれたならよかったです」
母はまこと海のように思考を巡らせていて全てを語れば長くなる。そんな母が可愛くて大好きな刻音である。
「そして、こちらが最後ですね。メリアさんから預かった品です」
「わっ……」
蜜柑海の上にぽっと現れたのは、服(?)
「ワタシの配慮を台無しにしてくれやがりますわね」
と、夜月がやっかむのも無理はない、フリルがたくさんの可愛いスカートだった。
刻音は立ち上がって腰に当てるが、
「丈がちょっと長い……?ドレス?」
「スカートでしょ、ハイウエストの」
「高い腰?」
「胸の下辺りで止めるのよ」
「あ、それならぴったりですぅ」
「ティアード作りでシルエットとボリュームも際立つ火に油を注ぐようなアイテムね」
「可愛くて刻ちゃんにぴったりだよ」
「進歩の足枷ですわ」
音羅と夜月の意見は正反対だが、刻音は小躍りである。
「嬉しいですぅ、メリアお母ちゃんが似合うものを選んでくれたってことですよね〜っ」
「はい」
と、母が笑みを深めた。「たくさん選んで一着に絞り込んでいました。気に入ってくれましたか」
「もっちろんです!お出掛けにも私服にもドキドキできそうですよぅ、んふふ〜」
「刻音ちゃんの悦び、メリアさんにきちんと伝えておきますね」
「はいっ」
明日、自分からもメリアに直接伝えよう、と、刻音はスカートを抱いた。膝許や脇に置いたものは家族が好きなもの。刻音だったら、自分が好きなものは好きなひとにしか渡せない。
……みんな、みんな、わたしのこと──。
悲しくて泣くことは数えきれないほどあってそのたびに視野が狭まってゆくようだった。今日という日は嬉しくて、怺えられない。これから歩む時の長さを示すように胸がすいて、決して広くない居間に、家族という宇宙を感じた。
ぱんっと鈴音が手を打った。
「会も酣。ここらで刻音から締めの一言をいただこうか」
「締めの一言って?」
「今の気持。考える必要はないよ」
……今の気持、か。
微笑みの母に、メリアの微笑みが重なる。
……最初、本当にひどいことをいってしまった。それからも、ずっと、ひどかった。
素直な気持を伝えるなら、飾ることはない。暴走する視野狭窄は母に似て止めようもなく、そんな刻音を家族はとうに知っていて、それでもお祝いしてくれた。
「みんなからのプレゼント、すごく嬉しくて、ケーキもおいしかったです」
「刻音まで食いしん坊になったみたいだ」
ほかの誰が食いしん坊かなんて指し示すまでもない。鈴音のツッコミで笑う家族一人一人に刻音は目を向ける。
「部屋の飾りがすごく綺麗で、ケーキもおいしくて、みんながいてくれて、プレゼントも海みたいに大きくて、まだドキドキしています。これまでもみんながお祝いしてくれたけど、今回はみんな一緒で、大人数で、今は表にいないメリアお母ちゃんも確かにここにいて──、これまでで一番の誕生日になりましたぁ。今年もありがとうございますっ!」
居間に入ったときは何事かと驚いた。みんなの声や雰囲気に包まれているようで胸の高鳴りが止まらなかった。明日はいつもの家。お祝いがケーキの味やプレゼントと一緒にじんわりと届いて、どこかへ行ってしまうことはない。いつもの家もまたそうっと包んでくれる。
みんなのお祝いが、拍手が、胸を高鳴らせる。甘い感情は、何度吞み込んでも、何度でも零れた。
この五〇年超に取り取りの出来事があった。それらを共有してきたララナが自身の操る特異転移と同様に取り零してしまった疑問がある。創造神アースの施した設計はあらゆるモノを縛り、ときに設計者の魂にさえ不測の事態が起きた。悪神総裁ジーンによる魂の両断。両断された魂のうち片方が記憶もなくメリアの魂を保護する形でララナとして転生。そしてもう片方、未練を棄てて転生した魂がその魂の性質を大きく引き継いでオトとして生きたこと。だが、そうして生きてきたはずのオトの性質に疑問が生じていた。オトと創造神アースの人格は別物とした上で、かつてララナが示したように全ての未練を手放すことで転生することができた経緯からオトは現世への執着がないはずであった。踏み込んで説明するならそれは設計による魂の性質なので逃れることができないものであるはずだったのだ。オトと創造神アースのあいだでは約三五年前に理解し合ったが、であいの当時にした真偽混成の話にまで遡ってララナが自力で理解の起点を見出すのは難しい。別の点から気づかせることをオトは考えているがもう少し先のことになる。
自らに匹敵する〈高次元〉の存在の創出とそれらと現存するモノとの挿げ替えを意図して創造神アースはこの世界を創造した。初期のテストケースが第三創造期の存在、アデル達だ。彼らに数多の設計を超越させることが高次元の存在の創出という目標に適うことにほかならなかった。アデルとメリアに焦点を当てればどちらかが設計超越すればいいと創造神アースは考えて灼熱の大地や時化と忌まれるに至る過酷な設計を施し、ときには直接手を下した。判明している中で重大なものを取り上げるならアデルは妹を妻とし、メリアはアデルへの愛憎に縛られる設計があった。よって、部分的な設計超越を成し遂げたのが先の訣別であり、現存の森羅万象に取って望ましいことではないがアデルとメリアが高次元の存在に一歩近づいたということだ。そしてメリアがさらに設計超越する日は近い。それはオトとメリアのおもいが合致するがゆえに必然であるとオトは観ている。
家族が愉しげに雑談する様子を眺めて、オトは甘い果実を口に運んだ。
(──。メリアを、解放したのだな)
(テキトーに、とは、答えた)
創造神アースとの遣り取りはオトに取って情報収集をかねた暇潰しである。
(星を潰されたのでは役目を果たせぬ。貴様は、あのアデルをも超えたようだ)
(あのイケメンを超えられる男はおらんよ)
(進むか滞るかが境界。最上級格神程度で満足するのでは我の望みには程遠い)
メリアとの訣別を選んだアデルだが全ての設計から解き放たれたわけではない。アデルやメリアが察したように人生の大事な選択において今昔不変の世界を生きていることもそう。重大な設計は複数あって、アデルが超越したのは飽くまで一部に過ぎない。俯瞰する存在や弄ばれる駒などとアデル達が表現した相関図を抜け出すには重大な設計を全て超越しなければならないが、そこまではできないだろう。何より、個個を縛る設計とは別に〈摂理〉がある。これはより多くのモノを広く支配している世界に施された設計で、これを超越することは並大抵なことではできない。
咎めることはない。多くの者が摂理を外れず歩んでいる。それが秩序というものだ。奇しくも、際立った摂理超越を誰もしていないことで世界が存続を許されているのだから摂理超越しないことを咎める者こそ現存世界の敵だ。
多くの設計を超えた者は大いなる成長とともに異常な争いを招き、摂理に従って歩む者には認識できない世界で生きてゆかなくてはならない。どこへ進もうとも誰もおらず胸の潰れるような果てのない足跡を刻まねばならない──。
(我が示したこととはいえ、よもやこれほど早く貴様が設計超越を導く側に到達しようとは考えもしなかった。自発超越ですら、さしもの彼奴が一五〇〇星霜も掛かった)
(暗示や他称ばかりでは困るな)
(貴様に告げる必要はあるまい)
(知っとるからね)
設計超越した存在はどんな形であれ世界に名を轟かせた。頂点の主神アデルでも惑星アースでは名が知れ渡っているとまではいえない。一方、遍く世界に広まった名がある。ほかでもない大戦の主謀者、悪神総裁ジーンだ。彼に「悪神副総裁」の設計があったことは同じく設計であるアデルの初期記憶により明らかだ。その彼が「悪神総裁」となりそれ以前まで危うい均衡を保っていた善神と悪神の勢力図を塗り替え、果ては全世界に宣戦布告した。そんな設計は、全くなかったのである。
(何がジーンをそうさせたのか、は、さておき)
(貴様の話に戻ろうではないか。なぜ、メリアを救えると考えた。設計に縛られ魔物どころか罪なき者すら星ごと滅ぼした愚かな娘など、貴様は好かぬだろう。魔力環境の破壊、貴様の論理ならば生けるモノ全てのおもいを踏み躙り消し去った大罪人だ)
メリアがメリアであれば構わなかった、と、ざっくりと言っては解らないだろう。創造神アースに理解できるような理屈でオトは答える。
(善心のメリアなんて表現もあったかな。それを引き出せさえすればよかったんよ)
(狂気を水に流したのだな。だがへばりついたヘドロは消えぬぞ)
(俺の前に設計なんぞ無意味やから)
(ヘドロも浄化できよう。なぜなら貴様は魂の無関心に縛られておらぬ)
魂の性質を超え、オトは執着している。
(が、俺だけかね)
(察しておろう)
誰に創られたのでもない創造神アースにもそれは起きていた。不測の事態がそれだが、オトの転生体となったことにとどまらない。
(会いたいか、息子と妻に)
(対面を絶対とは考えておらぬ。創造神として我が棄てたもの、人間としての生はどのようなものだったか)
創造神アースは振り返りたくなった。無慈悲で理不尽な争いを望んだはずの創造神アース、未練を棄てたはずの創造神アースが、人間としての人生を思い出したいと願っていることが不測の事態といわずしてなんだというのか。
(絶望した貴様が立ち直ったのだ。その支えとなったものがあるいはわたしをも変えたのだとするなら、それを知ることが我として必要であるのかも知れぬ)
(一人称を固定してくれへん。ややこしい)
(無意味と看過するほど貴様は愚かではあるまい。我とて過去ほど経緯を無駄とは思わぬ)
停滞しているアデルにも過去を引き摺っていたメリアにもオトは伝えなかったが、創造期から幾分か成長した創造神アースは経緯を無視する存在ではなくなっているのである。
(いいよ、お前さんの後世かつ前前世であり俺の前世である人間について調べよう)
創造神アースの人間転生時の家族は一長命と一長命の母。二人から話を聞き、創造神アースに伝えればミッションクリアだ。余裕があれば知人を捜してもいいか。
(暇なときでよい。赤黒い饅頭も一向にくれぬしな)
(忘れとった)
(薄情な、五〇年超経っておるのだろう)
(物欲)
(噴火してよいか)
(ダメ)
(なぜメリアの暴走は許された)
(女尊男卑やから)
(女たらしめが)
(男が嫌いなだけやよ)
自分を含めてもそうであるからオトは揺るがない。(暇ができるまで待っとって)
(忙しいようだな)
(いろいろとね)
執着が増えると未練も増える。未練が増えるとやりたいことも増える。そこに創造神アースの願いを加えてもいい。一つ一つ叶えてゆかなければ望むだけで終わってしまう。そうして創造神アースの願いを叶えることが歪んだこの世界を正す正攻法であり、近道である。
(また話そう)
(うむ、ではまた年を跨いでな!)
(根に持っとるようで)
(貴様が伝染したようだ)
(一理)
かりんとう饅頭をあげる気がない。
賑やかな誕生日会だった。
光の橋が架かっていて、闇の殻が体を成していない。ララナが一齣ずつ状況を伝えてくれて、誕生日が和やかに終わったこともしかりだった。メリアは会に参加している心地で一緒にお祝いできて、刻音にもそれが伝わっていることが解って、こんなに温かい潮流があっただろうか、と、瞼を閉じて、じわじわと湧き上がる狂気を胸に感じた──。
闇の中に初めて来たオトが教えてくれたことはいくつもあった。メリアの狂気は狂気ではない、と、いうことはもちろん大きな事実であったが、去り際にも、
「あ、それからもう一つ」
と、切り出された。
「ほかにも何かお気づきの点が……」
「ほかの異名もしかりではあるが、ウオイキャのアナグラムには別の意味もあると思うよ」
悪意の潜んだ名。そうとしか思えなかったメリアが「碌な意味はないと思います……」と呟くと、オトが微笑んだ。
「俺は、お前さんにはぴったりやと思ったよ。──」
名にはいくつかの意味ある言葉が潜んでいて、メリアはその一つに辿りついてそうとしか思えなくなっていた。オトは、別の見立てをしてくれた。創造神アースに言われてもきっと信じなかった。オトの言葉だから吞み込むことができた。
闇の殻を仰いでいると、オトとの出逢いを思い出す。過去に何度か逢っているはずなのに、ここでの出逢いを思い出す。過去の彼がぼやけて思い出せない。海底から仰ぐ星は美しく、飛び出したらより一層だった。
日が替わる、とは、惑星アースでの表現であるらしい。メリアは日が替わる頃「交替です」というララナの言葉を受けて、光の橋を渡って布団の中。双剣萼が打ち破られた日のように、離れがたい腕に包まれていた。
「わたしにはあなたが必要なのだと、今日も必ず思います」
「遠くにいながら過度な熱を浴びれば突沸が起こる。お前さんに必要なのは、無限の抱擁と程良い熱やね」
「いい喩えですね。……」
空と月明り。戦闘狂のアデルに二役をこなす器用さはない。
……わたしは、大きく間違えました。
オトの延命に際して間違ったララナのように、メリアもオトの気持を踏み躙る選択をして、受け入れてくれたオトに縋り甘えていた。アデルや麗璃琉と対峙して、予想しなかった敗北にメリアは辿りついた。否、それまでに何気なく選んできたことの全てであの完敗を選ぶことができた。
「昔は感情的に動くだけでした。わたしの狂気が羅欄納さんの人生や人格に悪い影響を及ぼしたのと同じように、わたしは羅欄納さんからいい影響を受けていました。敗北することで吞み込めることがあるだなんて、実際に吞み込めるだなんて、思いもしませんでした」
「刻音達にも負けたね」
「よもや双剣萼が打ち破られるとは……」
誕生日会の最中、メリアを慮る娘がいたことをララナが教えてくれた。娘の立場からすれば父の妻としてメリアを受け入れるのは難しかっただろう。メリアの努力があってこそだとしてもそれだけではきっと八姉妹は受け入れられなかった。双剣萼を打ち破るほどの強いおもいをいだける子だからこそ上辺だけでなくメリアを受け入れることができた。
「やってみるまで、意外と解らんもんやよね」
「ええ」
「羅欄納に悪い影響を及ぼしただけでもないからね、時化に感謝せんとな」
「……」
メリアは目を丸くした。意識共有を絶ったことからも察せられる通り、オトは創造神アースに対抗する姿勢でいたはずだ。
「どうして感謝を。口が悪いようですが、元凶に感謝すべきことは一つもないと思います」
「メリアのいう悪い影響がなかったら、羅欄納は俺に手を差し伸べることができんかった」
狂気は衝動。自分の意志で煽っても簡単に奮い立つような単純さだ。
「わたしは、黎水さんとの約束を破りました。それも二度も」
「魂器拡張直前と、アデルに会いに行ったとき」
「はい……」
あれらは、致命的な悪影響を及ぼしかねなかった。惑星アース上での急浮上は星を破壊するような暴走と紙一重だった。アデルとの謁見も同じ。どう取り繕っても隠せない裏切りをメリアは繰り返していた。
「惑星アースでのことは俺に対する救いの術がなくなった羅欄納が沈下したことで、押し出される恰好やったんやろ」
「アデルさんへの感情が暴走していたことは否めません。羅欄納さんの弱みに付け込んだ、哀れで阿漕な情念でした。そのくせ、黎水さんとの約束をねじ曲げて守ろうとしていたのです。羅欄納さんの体を奪いその先で──」
「勧めようとしとったんやろ、悪魔の手段」
「……」
メリアはうなづいた。
──私は、恐いのです……。
──オト様との因果の糸が、──!……そんな、そんなこと──!
──斯様な世界に、オト様をお引き止めして、私は、本当に、幸せなのですか。
孤独なオトを想い続ける彼女には決して選べない手段を、メリアは採ろうとしていた。生きてさえいれば変わるものがあるかも知れず、と、自分の願望を二人の人生に被せていた。ララナの意識がない中での暴走が、どんな悪影響を生じたか判らない。
「わたしは……邪心に寄りすぎていました」
「好きな気持は誰にも止められん。あの子の選択も、メリアのそれも、とどのつまり、不甲斐なくて弱っちい俺の皺寄せを食っただけやよ」
彼はどこまで包んでくれる。
「アデルさんや麗璃琉さんと会ったのは。明確な裏切りですよ。アデルさん達が受け入れたなら、わたしは、羅欄納さんの肉体を奪ってトリュアティアに移っていました。そんなことまで受け入れられると仰るのですか」
「俺の魅力不足を嘆きこそすれ、メリアを責める筋合はないね」
「……アデルさんと、夜をともにしても」
意地の悪い問掛けだ。暴走してしまいそうなほど、メリアは自分が嫌いになりそうだった。
なのに、彼は腕を緩めない。
「心が通っとるならいいやん」
「羅欄納さんの体ですよ!」
「羅欄納も許すよ」
「っ」
彼の声音は穏やかで、蜜のようだ。
「俺が拒否する理由はない。そうじゃなかったら、俺も羅欄納もメリアを受け入れたりせん、って、まだ伝わってない」
「……伝わって、いました。だから、すごく、試したくなります」
どこまで許してくれるのか。刻音の視野狭窄はメリアに取って我が事に等しかった。
「(刻音さんと違うのは……)わたしは、狡いのです。深手を負わないように音さんの気持を下調べしているのですよ」
「俺だってアデルから過去の話を聞いて情報収集した。俺達のそれは歩み寄りやよ」
背中と頭を抱き寄せて、柔らかく締めつける腕。メリアは息苦しさにとろける。
「狂気を否定したい。その気持も解るが、そろそろ肯定タイムに入ろう。俺に取って大事な要点だけ伝えるよ」
「……なんでしょう」
「理屈っぽい思考で感情を雁字搦めにするあの子を衝動的に押し出してくれたのはお前さんが生まれ持ち育てた狂気やよ。それで失敗することがあっても俺を救って結びつけた。娘の教育のため、自分の望みのため、仕事と家庭に邁進できた。メリア自身が生身で接してくれたことでいえば俺達が手を焼いた刻音にその存在で変化を与えてくれた」
……わたしの存在で──。
「さらには、双剣萼を打ち破る娘も生まれ育っとった。それで大きな果報があった。羅欄納を介していい影響があった。無論メリア自身に、そして俺にもだ」
生まれ持った狂気と、知らず知らず育った狂気をもってメリアは自分の存在を否定してきたが、
「もう、狂気を否定せんでいい。それを持って俺達の家に住むことを、生きてくれることを、誰より、何より、感謝するよ。ありがとう、メリア」
「──」
彼がそう考えていることは最初から判っていた。言葉として聞くとじつに快い。だが、流されてはならない。肯定タイムを享受してはならない。心の一部、とろけない部分までメリアは全部曝したい。
「星の崩壊によって羅欄納さんにある種の救いを齎すことができたとは思っていますが、音さんに待つことを強いて自分の感情を優先しました。仰るように羅欄納さんがいい影響を受けていたとしても、わたしは黎水さんとの約束を破り、羅欄納さんの音さんへの想いを無視した行動を執ってしまったのですよ……」
嫌いになってほしい。突き放して罵倒してほしい。そうしてくれなければ甘えて、縋って、また苦しみを強いてしまうかも知れない。それなのに、
「その背を押したのが俺やけどね」
黎水のようにそうしてくれた彼は、揺るがなかった。腕を緩めることもなく、否定の言葉を見事一蹴してくれた。
「ああ、どうして……、どうして、そんなにお優しいのですか……!」
「俺の狂気に従っとるだけ」
「……んぅ」
罪の意識を先回りで制することが彼は上手だ。
メリアはもう、否定を零せなかった。
「暴走するなら何回でも俺が止める。アデルを忘れられんくてつらいなら家族総出で助ける。嫌いな設計図があるなら何億年掛けてもぼろぼろにしたる。そうすればお前さんは何に囚われることもなく心ゆくまで俺達と歩める。不満はある」
「あるはずが、ないのですよ」
「今を、黎水は夢見たんよ」
姉が救われるこのときを。
「……、悦んでくれるでしょうか」
「微笑む海も、煌めく太陽も、大好きな子なんやろ」
香りが高まる。
「この感触も、この匂いも、忘れることができそうにありません……」
気づけば虜になっていた。
「それも創造神アースの設計が影響してのことかもね」
「そうなのかも知れません」
飛び込んだら深入りして後戻りできない。彼が示したように狂気は狂気ではない。メリアが摑みかねたように、植えつけた本人も正体を知らず正しく表現できなかったものだ。
「前後不注意は指摘するかも知れんが、メリアや羅欄納のそれなら俺は拒絶する必要がない」
「寛容なのですね」
「生まれ持った設計は自分の中核。そろそろ、心構えができたんやない」
「はい」
「ならば、受け入れなさい。あなたの愛すべき個性を」
否定することはない。どんな不器用な想いも受け入れ、受け止めてもらえる。幾度となく棄てたいと考え、呪いもした狂気が、メリアの本音と一致した。
……わたしの、個性……!
泥塗れでも、彼がいるならこの世界は美しい。これからは包んでもらうだけではない。くすぐったがりの彼を知っていても、正面から抱き締めたい。
「にゅあぃ!いきなりはダメやってばっ」
「っふふ、我慢してください」
既に体が暴走している。「これからもどうぞよろしくお願いします」
「ずっとこの家におってね」
「っ悦び勇んで──」
彼は寂しがりだ。背中を押すことが、待つことが、どれほど大変なことだったか。息が止まるほど、時を忘れるほど、メリアはお願いの声に応えた。
──一五章 終──