一〇章 直情
胸に刻まれた思い出はいいことばかりでもない。その一つがトラウマの出来事だ。
……大切な瞬間、か──。
霧のように捉えがたく岩のように重い荷物を軽くするためには、何にも代えがたく捨てがたい思い出が必要であった。
たった一つのものに依存するほかなかったとして、それを咎められるような立場に追いやられたとしたら、どこへ不満をぶつければいいのだろう。たった一つのもの、拠り所だった父に拒絶されていることを解っていても受け入れられない環境をどのように吞み込めばいい。どうにもならない感情が巡り巡って同じ答に行きつく。今こそ母を頼ればいい、と。その母も不満の原因たる存在に体を貸して二日置きにしか表に出てこず、遠い。
刻音はもうすぐ一三歳、人間でも、神でも、未成年である。四歳を目前にして家を出て自立したのだから孝行娘と自負してもよかっただろう。ときどき甘えさせてもらえればいいので自負の必要はなかったが、父に拒絶され母に十分に接せられない今、刻音は何かの形で存在意義を示さなければならない気がした。
……刻、ずっと独りなのかな。
生まれた頃は誰しも幼い。
「何やら初めての様相ですね」
「べたべたか……」
と、いうのは母父の反応。刻音は母の体温を感じつつ父に頭を撫でられて、始終笑顔であった。
「刻ちゃんはとっても甘えん坊なんだ。ひっつきぼぼして可愛いなぁ」
とは、そのときには何人もの妹を観てきた長女音羅の言葉だった。
愛でてくれる家族に囲まれて、刻音は大きな思い違いをした──。
生まれて間もなく高等部進学を果たすのは竹神家の子の普通で、刻音も例に漏れなかった。竹神家の普通が普通ではないと刻音が気づいたのは魔法学園に通ってすぐのこと、ではなかった。世間の普通から大きく外れて、竹神家においても普通ではない。それが刻音だった。
学園に通い、夏の休講期間が明けて、刻音はようやく一つの認識を得た。
「みんな刻のことを避けている気がするんですぅ。お父ちゃ〜ん、なんでですかぁ」
「揺すらんと、自分で考えぇよ。なんのための登園なん」
夜闇が遮られたダイニングを燈が照らしていた。
「そんなこといわないで教えてぇ、お願いですぅ」
「無駄に間延びした口調が遠因やろ」
「まのび?えんいん?」
「原因は別のところにあるってこと」
「それを教えてほしいんですよぉ」
「揺ぅすぅんなぁ。お母ちゃんにでも教わりぃ」
「もぉ〜、お父ちゃんの意地悪ぅ。苛めても甘えてあげないもんっ」
「そんなこたぁ黒糖片ほども求めとらん」
呆れた様子の父であるが刻音を大好きなのだ。スキップの刻音はキッチンの母を訪ねた。
「ねっ、ねっ、お母ちゃん、刻、みんなのこと大好きなのに避けられているみたいです。なんででしょう?」
手際よく料理をする母が応えた。
「前にもいいましたが、相手を理解することから始めましょう、と、いうことです」
「それならやっています。例えば──」
挨拶はきちんとしているし、話をしたり登降園を一緒にしたりもした。刻音は体験と実感を伝えたが、母の応答はところどころ耳に入らない。
「*********を*****、どのようにすれば*********のかを考えましょうね」
「う〜ん……」
多くの生徒を指導する母の言葉はひどく簡単で、幼い刻音にも理解できるものだった。だからこそ、耳に入らなかった──。
「そんなだからワタシはアンタが⁑⁑*なのですわ」
と、いう誰かの言葉も、耳に入らなかった。
少し時を遡る。
登園数日目、刻音は一人の女子生徒にハンカチを拾ってもらった。
「はい、これ。置き忘れてたよ」
「ありがとうっ」
「じゃあね」
「うんっ」
笑顔で手を振る女子生徒を刻音も同じようにして見送った。「いいひとだ」とか「ハンカチ忘れなくてよかった」とか思えばいいところであった。刻音はそうではなかった。
そこから数日、刻音はハンカチを拾ってくれた女子生徒堂山知代を追いかけ回す生活を送り──、夏の休講期間が迫った。
母父と長女音羅が揃うダイニングで、夜食そっちのけで刻音は相談した。
「──でね、入寮していない生徒は寮の中へ入れないみたいだし、夏休みに入ったら会えなくなっちゃいます。家を教えてっていったんだけど、『遠いから』って。外は危ないから刻を遠出させたくないんだぁ。知代さん、優しいぃ」
「で」
と、テーブルに突っ伏した父が反応。「お前さんはその子と会う約束を取りつけられたん」
「あ、そういえばはっきりとは。そのあと知代さんはほかのみんなに呼ばれたみたいで、てんやわんやで降園しちゃいましたから」
「それ、アンタが***********ですの」
と、誰かが言ったが刻音は音羅を向き、
「ねぇねぇお姉ちゃんはどう思います?どうしたら知代さんと一緒にいられるんだろうっ」
「そうだね……」
箸を置いた音羅が、「逆に、わたし達の家に呼んでみたらいいんじゃないかな」
「無理いうね」
と、言った引籠りの父に音羅が反論する。
「花が来るのは平気なのに」
「お前さんの親友やから。刻音と知代さんはどうなん」
父の問に、刻音は自信満満、
「勿論親友ですっ!」
と、答えたのだった。
「***、コイツ……」
と、いう声はやはり耳に入らなかったが、
「もう少し見守りましょう」
と、いう母の言葉は聞こえ、
……お母ちゃん、誰と話しているんだろう。
刻音には、声の主が見えなかった。
翌日、一学期の終業式を終えた刻音はクラス違いの堂山知代を訪ねるべく席を立った。廊下へ出ると、母父譲りのウサギの耳が堂山知代のいる遠い教室の声も拾っていた。
「──あんたもいい加減突き放せばいいんだよ」
「それは……無理だよ」
……知代さんの声だ。
声を聞くと足取りがぴょんぴょんする。
「そんな態度でいるからダメなんだって。嫌いなら嫌いってはっきりいってやんないとバカには判んないからさ、ね?」
「そうかも知れないけど、傷つけるかも知れないし……」
……知代さん、誰かに付き纏われて困っているのかな。
それなのに相手の心を慮っている堂山知代に、刻音は一層心惹かれたのだが──。
「傷つけるって、あんたはもう傷ついてんじゃん。このままだとあんたが潰れちゃうよ……」
「うん……」
心底困っている声色。
……刻には、そういうの、話してくれたことなかったな。
クラスが違って気軽に話せる距離ではないから心配させまいとしていたのだろう、と、刻音は考えた。だからいつも通り、
「知代さぁん、いますかぁ?」
と、教室を覗いた。教室には、堂山知代しかいない。待ちに待った休講期間前とあって気の緩んだ生徒の話し声や物音が響いていたが、刻音が声を掛けた瞬間、しんとした。
「刻音さん……」
堂山知代の目は疲れきっていた。
刻音は駆け寄ろうとした。が、
「ごめん、来ないで」
「……え」
「……」
「風邪か、何かかな」
刻音は手を振った。「大丈夫、大丈夫、刻、頑丈だから移ったりしないもん」
「そうじゃない、そうじゃなくて……」
堂山知代が起ち上がり、通学鞄を抱き締めるようにして、刻音のいる戸口とは別の戸口へ足を向けた。
「ごめんなさい、もうわたしの********!」
「え、今、なんて……。あれ?」
刻音の前から、声とともに彼女の姿が忽然と消えて、「刻、誰と話していたんだっけ……」
誰もいない教室を見渡して、刻音は踵を返した。
……みんな、帰っちゃったのかな。刻も帰ろう。
休講期間は、母父と姉音羅と過ごしてあっという間に過ぎ去って、休講期間明け、誰もいない始業式を終えた。刻音はようやくみんなに避けられているような気がして、家族に相談した。母の意見が、途中から耳に入らなかった。
「避けられていることを受け入れて、どのようにすれば受け入れてもらえるのかを考えましょうね」
「う〜ん……」
幼い刻音にも理解できる言葉だったからこそ耳に入らず、「あれ……刻、一人で何を……」
台所で棒立ち。そのときは、
「ううん、違う……」
ふと、気づいた。
「お、お母ちゃんが、いない……、どこに行ったの……?お母ちゃん……!」
調理器具をそのままに母の姿が消えていたことに、気づいた。
「お、っお父ちゃん!お母ちゃんが消えました!」
慌ててダイニングに戻ると、希しく上体を起こした状態の父が呆れた目だった。
「ホントに消えたん」
「ホントだからこんなにびっくりしているんですぅ!」
「じゃあ、俺と並んでそこの鏡を見てみぃ」
「うん……?」
言われた通り、刻音は鏡を見た。ダイニングと台所のあいだに置かれた綺麗な鏡は、母が父を、父が母を、それぞれ観るために置かれている。
「あれ……」
鏡越しに、料理をする母の姿が観えた。「え、あれ……でも、確かに消えて──」
「そんなだからワタシはアンタが大嫌いなのですわ」
「ねぇ、お父ちゃん、これ、どうなっているの。刻、どっか、変……?」
「変といえば変。らしいといえばらしいな。今さっきの夜月の声、聞こえとらんやろ」
「やづき……って、誰?」
「……まったくもって重症やな」
父の目差は、呆れを通り越して何か別のものになっていた。
「そうか、お母ちゃんは鏡に閉じ込められているんだ!壊せば戻ってこられる!」
「アンタ、それやったら本気で怒られますわよ」
誰かの声がすると、振り翳した刻音の右手は空中で固まってしまった。
「あ、あれ……金縛り?それに、誰かの声がする……心霊現象?」
「勝手に幽霊にしてんじゃないわよ……」
「夜月ちゃん、放してあげて」
と、音羅が誰もいない空間に向かって声を掛けたから、刻音はますます混乱した。
「お、お姉ちゃん、誰と話しているんですか?ここにホントに誰かいるの……?」
「刻ちゃん……」
「お姉ちゃん……」
哀れむような音羅の目差に、刻音は怯えてしまった。どうしてそんな目で見られたのか、全く解らなかった。
「刻音、座りなさい」
と、父に言われて、刻音は右手が動くことを確認した。
「……さっきのはお父ちゃんの魔法ですか」
「聞こえんかったか」
「……」
無表情の父に促されると、発言の余地もなかった。向かい合った父は無表情の上に無表情。壁に向かっているかのような虚無感を覚えた。話すこともなく時間が過ぎてゆいた。
ふと、刻音は景色の変化を感じた。正面の父、左斜向いの母、右斜向いの姉音羅に加えて、左隣に、
「……やっと見えましたわね」
「……、……夜月お姉ちゃん──、」
目にして、口に出して、その存在を思い出した。「いつから、いたんですか?」
「……。父様説明してやって。ワタシは説明途中で引っ叩く自信がある……」
五女夜月の物騒な言葉に、父がうなづいた。
「もう少し我慢しとって」
「このアホが理解できたなら我慢しますわ」
「解った」
……どういう、ことなんだろう。
いなかった姉夜月が突然現れたこと、その前には母が消え、鏡越しに現れたこと、さらに、その状況を自分だけが理解できていないらしいこの空気に、刻音は震えるほど恐怖していた。
「刻音、よく聞きぃよ」
「う、うん……」
「お前さんは、自分が嫌なことを全部、棄てられるらしい」
「……どういうことです?」
「お前さんの感覚としては、こういう言葉が耳に入らんくなるんやないかな。例えば、『受け入れられない』とか、『嫌い』とか」
「……聞こえています」
「じゃあ、『俺は刻音を********』とか、」
「っ……」
「『俺は刻音が⁑*』は、どうかね」
「聞こえなかった……。なんで?」
「自分に向けられた言葉、って、解ったからやろうね」
「……さっきの、刻に、なんていったんですか」
「例えば、と、伝えたことと同じやよ」
「!」
受け入れられない。嫌い。父は、そう言ったのか。刻音は全く聞こえなかった。
「さっきの言葉、お母ちゃんを鏡越しに見る前に聞いとったら俺の姿も消えとったやろうな」
「……それ、っそれは刻が……、自分の嫌なものを棄てられるから?」
「ん。禁止ワードとそれを発したアカウントをフィルタで除去しとるような感じやな。耳を塞いだり目を閉じたりって状態を自分の認識に落とし込んどるらしい」
そのせいで、ひとの言葉が聞こえなかったりひとの姿が消えるという現象を体験した、と。
「どんな感覚なのか他人には知りようもないことやけどね、お前さんは学園に通い始めて毎日のようにいっとったな。今日も空席が増えた、って」
「……刻の眼が見えなくなっていただけってことですか?」
「だけ、じゃないね。刻音が嫌なことをいわれたか・されたか、──」
「じゃあ、そのひと達が悪いってことなんですよね?」
「みんながみんな、お前さんを一方的に悪くいった、って、お前さんは思うわけね」
「だって、何も悪いことなんてしていないです」
「お前さんに取っては、やろ」
「刻が嬉しいことしかしていないつもりです」
それは、母や音羅、それから、ほかの誰かにも、教わったこと。常日頃注意していたことだから間違いない、と、断言できた。
「刻、好き好んで嫌がらせなんてしないし悪口なんていわないです。みんなのこと、大好きだから──」
「大好きなら、なんでも押しつけていいってことやね」
「押しつけてなんていないもんっ。みんな、刻が好きだから助けてくれるし、守ってくれるんですぅ。だから刻も助けたいし、守ってあげたいんですよぅ。それって、おかしいんですか」
「おかしくはないよ」
とは、音羅が言った。「それが一方的な気持じゃないなら」
「……どういう意味?刻は、みんなに──」
「好かれとらん。嫌われたんよ」
と、父がはっきり言ったから、刻音はぞっとした。
「そんな……なんで……刻、悪いことなんて何もしていないのに……!」
「そうやね、もしかしたら、俺のせいかもね」
「お父ちゃんの、過去のこと?」
父の疑惑については、登園前に何度も聞いていた。
「そんなの気にしないです。刻は刻だもん。それにお父ちゃんはすっごく優しいもん。昔に悪いことしていたとしても今は違いますぅ」
「そうやね、それが正しい。でもね、今の俺を知らんひとは納得せんやろ。それに、今もって引籠りの俺を疑わんのはある意味不自然でもあるからね、反論こそ不自然・邪道って理屈は成り立つよ」
「それはそうかもですけど……」
「父様」
夜月が口を開いた。「その理屈、第三での貢献で半分は崩されてますわよね」
「第三での貢献……?」
「わたしの通っていた学園でのことだね」
と、音羅が言った。「……パパがいなかったら学園、いや、ダゼダダ全域も、ひどいことになっていたと思う」
「そんなことが……」
刻音は、父の疑惑を学園で聞いたことがなかった。その理由は、疑惑の後ダゼダダのひとびとを守ったからなのだと聞き、納得した。
「お父ちゃんは悪いこと以上に、いいことをしたんですね」
「余計な過去をぺらぺらと」
「〈宝石〉とか〈流星〉ってのも同人の奇跡と囁かれてますし、誘導こそ余計でしょう」
夜月が鋭い溜息。「甘ったるい庇い立てなんてせず改めてはっきりと『トキネが嫌われた』っていえばいいんですわ」
「っ……。お父ちゃん……」
夜月の言葉が真実なのだろう。父が口を閉じた。
母でさえ一瞬消えた。父と音羅だけが最後まで消えなかった。それはどういうことか。
……お父ちゃんも、音羅お姉ちゃんも、刻に優しいから、消えなかった。
母が消えたときのように、姉夜月は、刻音が生まれてすぐに消えていた。その原因は、
──アンタなんて、一生大嫌いですわ。
刻音の嫌がることを言った。
「文句ひとつで存在消されちゃたまったものじゃないけど、母様は母親として苦言の一つくらい許されましてよ」
「私は構いません」
「お母ちゃん……」
微笑みの母は、本気で気にしていない様子だった。「どうして……。刻だったら、大好きなお母ちゃんに見てもらえなかったら、悲しいよぉ……」
「だそうです、オト様」
「ちょっとは変わりそうやね」
母父が何を話しているか、耳に入ってはいるものの理解できない刻音であった。
「お父ちゃん、なんのことです?」
「さっき刻音はいったな。『悲しい』って。お母ちゃんは『構わん』といったが結果論やとは解るやろう」
「……お母ちゃんも、悲しかった──」
「刻音ちゃんを傷つけるようなことをいうのはつらかったですよ。しかし、刻音ちゃんが、何もかもを見失って、聞くことをやめて、棄て去ってしまうことのほうが、私はつらいのです」
「刻は、お母ちゃんも棄てたんだ……」
嫌なことを言われただけだった。それだけで、無意識に棄てていた。それが、相手に対してどれほどひどい姿勢だったか。
「ひとの痛みが解ったなら改めるのがよいでしょう」
「ひとを理解するところから始める、って、ことですか」
「無論、憶えのない罵詈雑言に心を痛め気を配る必要はございませんが、自身が発端なら。夜月ちゃんのことをずっと棄てていたこと、もう気づいていますね」
「……」
拳を握ったまま黙っている夜月に、刻音は目を向けることもできなかった。
「刻ちゃん」
音羅が刻音の後ろに立ち、椅子ごと、そっと夜月へ向かわせた。「いうことをいわないと始まらないよ」
「……、うん」
生まれてすぐにその存在を消した。否、無視し続けていたから、刻音は夜月が恐かった。家族の膳立てがあって、なんとか口を開くことができた。
──ごめんなさい、夜月お姉ちゃん……。
謝って許してくれるような姉ではなかった。
──アンタは、アンタを好きなひととだけいなさい。ワタシはアンタが大嫌いですわ。
そのとき刻音は、夜月の存在を消さなかった。無視することを、意識的にやめたのである。そこに姉夜月がいることを忘れないようにして、ずっと暮らしたのである。
一方で、刻音が声を掛けても夜月は返事すらしなかった。それは理不尽な無視を吞み込んだ夜月の学習と実践だった。姉妹らしく仲良くしてほしいなどと頼めるわけがなく、刻音は夜月の態度を受け入れた。
それで刻音が大きく変わったかと言えば、じつのところ、そうではなかった。困らせていたのが自分であることを振り返って堂山知代に謝罪するも、当然のように拒絶されてしまったからだろうか。優しくされるとついそのひとに付き纏ってしまい、同じような謝罪を卒業するまで繰り返していた。一つ成長したのは、卒業まで誰の声も聞き漏らさず、誰の姿も消さなかったこと。いつかの式のように誰もいない卒業式ではなかった。
「──そういえばお父ちゃん、アレの理屈、前は聞き忘れていました。どういうことだったんですか」
声が聞こえなかったり姿が消えたり、普通では考えられないことが刻音の体感としては現実になっていた。
「ああ、あれか」
受け取った卒業証書を眺めて父が言った。「魔法やな」
「刻の?」
「対象型暗点固定、略してアンテンもしくはアンコとでも称しとくか」
「餡子はちょっと……アンテンは、舞台とかを暗くする、暗転?」
「字は違うが、体感としては同じようなもんやろうな」
「それで、そのアンテンって?」
「前に理解した通り、嫌な言葉やそれをいう相手を消えたことにする。瞬間的に発動して永続する。この世から消すわけじゃないから精神力の消耗が少なめで長持するのが厄介やな」
「……あ、お母ちゃんや夜月お姉ちゃんが見えるようになったのは精神力切れですか?」
「鏡越しに現実を直視した結果、魔法に傾けとった集中が切れて魔法が解けた形やから、精神力切れとは違う。あのとき、気が動転しとったことは憶えとるやろ」
「うん。じゃあ……」
そこに鏡がなかったら。「また誰かが消えたときは鏡に映さないと……」
「そうせんでもいいよう現実を自分の眼で観なさいよ。これはそのときまでお預けやな」
「あ……」
卒業証書を丸筒に入れて隣空間に収めた父が、
「渡される日を迎えられるよう刻音は旅に出るらしい」
「……え?」
流れるように突拍子のないことを言われて、刻音は目を丸くした。「旅?誰と?どこへ?」
「独りで、どこへでも、好きなところへ、どうぞ」
「……はい?」
テーブルに置かれたリュックが、父の手で押し出された。
「あ、あのあのあの、まじですか」
「まじですよ」
「えぇっ、なんでなんでっ。卒業したらやっと家でゆっくりできると思っていたのにっ!」
「結師が髪を梳いてくれて、糸主が掃除してくれて、音羅お姉ちゃんが髪を洗ってくれて、お母ちゃんが三食とデザートを作ってくれて、夜月お姉ちゃんに文句いわれて快適やもんね」
「文句は要らないけど快適ですよぅ!」
夜月がいなければ、と、思える立場ではないが、ほかの家族とは極めて離れがたい。
「刻音様、外の世界は広いですよ」
と、頭に花を咲かせた小人クムが蜜柑山の陰から顔を出した。「刻音様はもっともっと恋していいんですわ」
「こ、恋です?」
「そうです、恋ですっ!」
「こ、恋……!」
オムジコムジハートを作ってにっこりのクムに刻音は指ハートで関心を伝えた。
「刻音様を愛するひとが家族の皆様だけでなく必ずいます。そんなひととの出逢いを諦めるように家に引き籠もりますか」
「でもでも、お父ちゃんは家に引き籠もっているのにお母ちゃんと出逢えたんですよね?」
「奇跡ですわ」
「その言葉を軽はずみに使うんやないよ」
父が苦笑。「まあ、クムがいうことも間違いではないな。まだ知りもせん俺を捜して旅しとったお母ちゃん……羅欄納がおったから、子であるお前さん達にもあえた。それは決して俺が引き寄せた出来事じゃないんよ」
「お母ちゃんみたいに、刻が出逢いを引き寄せることができるってことですか」
「ん」
と、父がうなづくと、クムが身の丈ほどもある蜜柑を掲げた。
「うんしょっ。刻音様、どうぞ」
「ありがとうクムさんっ」
熱してもいない蜜柑が、とても温かい。
「刻音様」
「うん」
「クムは、たくさん、たくさん、旅をしました」
「クムさんが。どうやって……?」
「風に流されて、漂うように」
「思うようなところへ行けそうにないですね」
「はい。何千・何万、嫌なことがありました。でも、その先に、今がありました」
「……」
「今、クムがどんな気持でここにいるか解りますか」
「……うん」
刻音を想いながら言葉を発し、消されてしまった母がいた。クムは、母より前に、そうなっていた。
──泥塗れになって枯れてしまいます。それでも、ひとから光を奪いますか。
ひとから何かを奪っている自覚がなかった。今もってクムの比喩を理解しきれたとは言えない。当時の刻音は嫌な言葉だと受け取った。クムが思いやりであの言葉をくれたことを、今の刻音は解っている。
「クムさん、ごめんなさい。ちゃんと謝ったこと、なかったです」
「悪いと思っているなら、うんっしょ、うんっしょおぉぉふやぁんっ……!」
クムがリュックを押し出そうとして全く動かせず足を滑らせて転んだ挙句、何事もなかったかのようにリュックの隣に立ってぽんぽんと叩いた。
「旅を始めましょう。クムは、刻音様が大きく成長する姿を望んでいます」
「──、あんまり身長は伸びなかったから、横に伸びるしかないです」
「それはそれで興味深いですが」
「えへへ、解っています。ひととして、大きくなれってことですよね」
「はい」
「……お父ちゃん」
「ん」
多くを語らなくても、通じ合っている。
「刻、旅してみます」
そのときは前向きだった。留守にしていた母や姉に同席してもらって旅の話を改めて決めた刻音は、父の用意してくれたリュックを背負ってクムのいうような恋を目指して、あるいは、母父のような出逢いを求めて、旅をした。
結果は、当然のものだった。刻音は、学園在籍時から大きく成長していなかった。夜月曰く尻軽で惚れっぽくてアホのように尽くしてしまう。だから、家族のように優しい相手と出逢えたと思っても最後には不気味がられてしまう。生徒時代とやや違ったのはきちんと拒絶されたこと。相手の言葉を聞き届けて、気持を受け止めて、きっちり拒絶された。一方的に好きになって嫌われて嫌な言葉を言われたら存在ごと消えたことにしていた頃は、自分の都合でひとの気持をなかったことにする冷血そのものだった。
……今は、そうじゃないのにな。
嫌いと言われたら大人しく引き下がることを覚えた。好きと言って受け入れてもらえなければ自分に気持が残っていても忘れるようにした。冷血の時代と比べて、大きくなれた自信があった。歩みは遅くとも少しずつ前へ進めている自信もあった。ひとから奪わず、自分もなるべく傷つかないように──、新たな恋を探し続けてきた。
疲れ果てた。
恋をすることを諦めた。
その矢先、両親が神界へ移住したとの知らせが入った。
疲れ果てた心を癒やしたくて、母父や姉や、あまり会えなかった妹に会いたくて、モカ村を訪れた。現ダゼダダから失われつつある、自然とひとの生活が一体化した世界がそこに広がっていた。元気な子どもが遊び回っていて、大人が懸命に働いていて、自然がそれらを見守っている、優しい世界が広がっていた。
……いい村だなぁ。
刻音は一目で気に入った。母父が気に入ったであろうことも察すれば、姉妹もきっと気に入るだろうことも。
初めて観た三階建ての我が家に少しだけ緊張した。旅の終りを報告し、これからはここで暮らすのだ。そう思うと、特別な展望があった。旅を勧めてくれた父やクムが、わずかな成長を認めてくれるだろうか。母や姉妹は、受け止めてくれるだろうか。
いい未来とは決まっていなくても、引き寄せるには行動あるのみ。
そう考えていたのに──、
「おかえりなさい。刻音さん、ですね」
「……、……誰ですか」
母と瓜二つの外見をした何者かに出迎えられた。話に聞いていた第二夫人テラスリプルか、と、思ったのは一瞬。刻音は察した。
「お母ちゃんを出して。いるんでしょう」
「羅欄納さんは、わたしに体を貸してくれています」
「解っています。だから出してくださいっていいました」
「……まずは、わたしの話を聞いてくれませんか」
「(お母ちゃんと同じような、強い目──、)ひとまず、聞きます」
「ありがとうございます。こっちです」
囲炉裏を囲む席。横座脇の蜜柑山はサンプルテを思わせてそこはかとなく安心感があった。が、鍋座に謎の人物が座ったことに不安と怒りが湧き立った。そこは母の席だ、と。
名はメリアというらしい。創造神アースに創られ、主神として働き、星を破壊し、想い人と別れて転生し、母と肉体共有することとなった。おおよその流れを聞くに、刻音が生まれたときには母の体の中にいたということで、いまさら出てゆけるはずもないが、
「お母ちゃんに会えないのは嫌です」
刻音は、思うままに口を開いていた。我が家で、やっと少し、甘えられるはずだった。まさか他人が居座っているだなんて想像もしなかった。今だけは他人と接したくはなかったのに、なぜ今なのか。
押しに押して母との交替をメリアに聞き入れさせた刻音は見慣れた白髪の母に飛びついて、父の溜息を聞いた。
……もう、いいんだ。お父ちゃんに受け入れてもらえなくても。
母が撫でてくれるのは、きっと哀れみだ。
……気持悪い。噓つき。そんなこと、いえた立場じゃない。
碌に成長していないばかりか退化してしまっている自分を感じている。つらい過去を語ってまで受け入れてもらうことを本気で考えているひとに、悪口を言ってしまった。
……わたしって……なんて、小さいんだ。
好きになっても、好かれるはずがなかった。恋が叶うはずがなかった。生まれた頃に体感した家族の優しさに、刻音は、思い違いをしてしまったのだ。自分は、愛されてしかるべきだ、と。自分が好きになったら相手が好きになってくれないはずがない、と。
……気持悪い?噓つき?それは、わたしのほうだ……!
相手の心を無視して迫って嫌なことを錯覚のような魔法で拒絶して真実から目を背けたまま次こそ本当の恋を、と、浮ついて、自分だけ傷つかないようにして誰とも生身のやり取りをしてこなかった。正真正銘、気持悪いのも、噓つきなのも、刻音だった。
──一〇章 終──