第8話 睨む女
どうしてこんな事に――(透の場合)
僕がそのカフェに入ったのは偶然だった。彼女と約束していたのだが、休みの日だというのに仕事が入ったとドタキャンされた。ここ最近、こんなことが続いている。もう、そろそろダメなのかもしれない――そんなふうに思っていた。
そんなことを考えながら歩いていて見つけたのが、このカフェだった。川沿いに佇む小さなカフェから漂うコーヒーの香りに誘われたと言ってもいいかもしれない。予想通り、ここのコーヒーは旨かった。コーヒー通の彼女にも教えてあげたいと思った。僕がコーヒーを好きになったのは、彼女の影響もある。彼女の部屋にはさまざまな種類のコーヒー豆が常備されていた。それを彼女がブレンドして淹れてくれる。初めて飲んだとき、コーヒーとはこんなに旨い飲み物だったのかと改めて思った記憶は、今でも鮮明に残っている。彼女をこのカフェに連れてきたら、さぞ喜ぶだろう。彼女はいつか自分でカフェを開きたいと言っていた。それは、こんな感じの店なのではないだろうかとふと思った。
しかし、その彼女をこの店に連れてくることは、ついに叶わなかった。それでも僕は今でもここを時おり訪れる。もう、10年になる。
あの日、約束していた彼女は、僕が初めてここに来た三日後に死んだ。投身自殺だった。その知らせを受けたとき、僕は呆然とした。意味が分からなかった。彼女が何か悩んでいたという話を、彼女の口から聞いたことはなかった。だから正直、その事実が信じられなかったし、打ちのめされた。
彼女の身に何があったのか、誰も知らなかった。どうして彼女は死んでしまったのか――その疑問を抱えながら、僕は10年という歳月を過ごしてきた。
あれは夏の終わり頃だっただろうか。仕事が休みで、息抜きがてらこのカフェへ足を向けた。折しも突然の夕立に遭い、小走りで駆け込むと、軒下で見知らぬ女性が雨宿りをしていた。このカフェでは見かけたことのない顔だったので、きっと偶然通りかかり、夕立に遭遇してしまったのだろうと思った。
店に入るとき、僕は特に考えるでもなく、彼女に声を掛けた。
「ここのコーヒー、美味しいですよ。特にキリマンジャロはお薦めです」
僕の言葉に動かされたのか、僕がカウンターに腰を下ろすのと同時に、一足遅れて店内に入った彼女は店の隅の窓際の席に座った。店主が水を運ぶと、彼女がキリマンジャロを注文する声が聞こえた。僕は振り返り、軽く会釈をした。彼女もそっと頭を下げた。さっきは殆ど顔を見ていなかったが、改めてその顔を見て僕は驚いた。
その女性の顔は、あの死んだ彼女ととてもよく似ていた――。
ただ、歳はずっと上のようではあったが。
それから、何度かカフェでその女性の姿を見るようになった。あの女性もここのコーヒーのファンになったのだろうか。
僕はここに来ると、いつも決まってカウンター席に座る。だが、その女性がいる日は、背中に視線を感じるようになった。僕はできるだけ振り返らないようにしている。どうしても死んだ彼女の顔と重なってしまうからだ。僕には、その顔が僕を睨みつけているようにしか見えない。
悩みを聞いてやれなかったこと、救えなかったこと――もしかして、今も恨んでいるのだろうか。
(怖い……)
正直、そう感じている。
彼女の遺体と対面したとき、それは比較的綺麗にされた後だったが、飛び降りた直後の彼女の姿は実に惨いものだったらしい。それでも綺麗に処置されたのだろうは思ったが、血の気のない顔は紫色に膨れ上がり、もはや生前の面影などどこにもなかった。「違う!これは彼女じゃない!」思わずそう叫びそうになったのを辛うじて堪えた。僕には、背後の席に座っている女性が、そのときの彼女の姿に見えてしまう。
(頼むから、そんな怖い形相で僕を見ないでくれ)
僕は思わず、そんなふうに祈ってしまう。
あのとき、声など掛けなければ良かった。
今さら後悔しても遅い。
僕の唯一の憩いの場所だったのに。
そんな思いが次から次へと浮かぶ。
それから、僕は外から店内の様子をうかがい、あの女性がいないことを確かめてから入る癖がついてしまった。しかし、時々、見えなかっただけで、僕がカウンターに座った途端、女性が化粧室から出てくることがある。
目が合うと、女性は微笑んで会釈をする。僕も同じように返すが、僕には女性の顔が笑っているようにはどうしても見えない。
僕は、怖くて仕方ないのだ――。
終
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こちらのお話しは第4話「淡い想い」・第6話「離れられない」と繋がっています。
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