第6話 離れられない
苛つく現状――(真央の場合)
まさか、こんな事になるなんて。
これは正に晴天の霹靂。或る日、突然、自分の命が終わりを遂げるなんて、誰が考えているでしょう。
その日の朝も、私は普通に家を出ました。まさか、それが最後になるとは夢にも思わずに――。
ビルから落ちて行くとき、下を歩いていた中学生の男の子は私を見上げました。駅前で時々見かけていた男の子だったと思います。その子は私が落ちていく真下にいました。高い所から人が落ちる時、大抵は途中で気を失っているという話を聞いた事があったように思いましたが、私は地面に叩きつけられる直前まではっきりと意識があったのです。そして、確かにその男子中学生と目が合いました。何しろ、私はその子の上にまとも落ちたのですから。
(危ない!避けて!)
思わず心の中でそう叫んだのですが、それが声になる事はありませんでした。
落ちた時、グシャッという音を聞いたような気がしましたが、定かではありません。その瞬間、私の体は宙に浮き、私は地面に伸びている壊れた私の躯を見ていました。一瞬、何が起こったのか分かりませんでした。下敷きになった中学生の男の子も同じように倒れていました。頭から真っ赤な血を流したその男の子は弱々しく息を吐きながら私を見ました。それと同時に、私の体はその少年の方にまるで吸い込まれるように向かって行ったのです。
そして気が付いたら私はその男の子の背に乗っていました。否、乗っていたというのは正確ではありません、へばり付いていたという方が正しいでしょう。
私はすぐに離れようとしました、でも体は全く動かせません。その少年は血塗れでとても気持ちが悪い。早く離れたい、そう思ったのですが、自分の体なのに思うように動かないんです。
どうしてこんな事になったのか、そもそも、私は何故ビルから落ちたのでしょう。何かがあったような気がするのですが、どうしても思い出せません。記憶があるのは落ちていく瞬間からです。
あれからいったい何年が経ったのでしょうか。時間の経過はとてもゆっくりのようで、とても速いようにも感じます。あの日から時間の観念が無くなりました。ただ一つ分かったのは、どうやら私は死んだのだという事です。
今も私は自分の意志では動けないままです。私の体はあの少年にくっついたままなのですから。この少年が行くところに私はついて行く、いえ乗っかっているのだからついて行くと言うより連れられて行く、という方が正しいでしょう。そうこうしているうちに私はある事に気が付きました。――この少年も、死んでいる事に……。
私が殺した事になるのでしょうか。でもこの少年は自分が死んでいる事に気が付いていないようです。それからも毎日、学校へ通い、家に帰っていました。周りから見えていない事にも気づいていないようです。どうしてなのでしょう。あまりにも突然の出来事だったからでしょうか。
私は何度も少年に話しかけましたが、少年は無反応です。でも私の姿は視えているように思います。とても嫌そうな顔をして鏡を見るのです。私にはそこに何も写って見えないのですが、少年には何かが視えているようです。私はどんな風に見えているのでしょう。少年が血塗れで頭も割れていて、とても気持ちが良いとは言えない姿に私に見えてるように、私もまた落ちた時のあの躯の姿のまま、少年の目に写っているのかもしれません。いびつに歪んだ首、飛び出した目玉……ああ、思い出したくもない。
もう、何年、こうやって彷徨っているのでしょうか。これはきっとこの少年が自分の死を自覚していないせいだと思えます。ただ私は、こうやって現世を彷徨っていれば自分が何故死んだのかが分かるかもしれないと思っていました。でもいつまで経っても変わらないこの現状に少し苛立っています。もういい加減、私は成仏したい。
成仏して生まれ変わりたい――。
そういえば私には生前、恋人がいました。あの人はどうしているのでしょう。私が死んで泣いたでしょうか。こうやって彷徨っているのだから自分の身内に会いに行ったりできても良いのに、私の体はこの少年の背から離れられません。だから、どこへも行けない、死んだのになんて不自由なのでしょう。
でも一ヵ所だけ、私の好きな場所があります。それが今いる、このカフェ。この前を通った時、私はここのコーヒーの匂いに魅せられました。そして、気が付いたらこの中にいました。どうやら、よほど強い想いがあると伝わるのかこの少年の心も動くようです。この香りの中にいる時だけは、とても落ち着いた気分になれます。
忘れていましたけれど、私は生前、とてもコーヒーが好きだったように思います。いつも私がブレンドしたコーヒーを彼に淹れてあげていた記憶が少しだけ蘇りました。
いつか、こんなカフェをやりたいとあの人によく話していた事も。
でも、その彼の顔はまだ思い出せない……ずうっと霞がかかったままです。
兎に角、私はこの少年から離れたい。もう死んでいるから疲れる事も無いのに、
(ああ……疲れた)
そんな風に感じてしまう私がいます。
「おーい、少年、君はもう死んでいるんだよ」
そう叫んでみても、少年にも他の誰にもその声は届かない。
やっぱり私は離れられない―――。
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらのお話しは第2話「曖昧な記憶」と結びついています。
また第3話の「忘却の人」の伏線を含んでいます。
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今後ともよろしくお願いします。