第5話 彼女
恋する思い――(啓介の場合)
「いらっしゃいませ」
「マスター、俺、いつものやつ」
俺は警備員をしている。今日は夜勤明けだ。このカフェに来るのはいつも夜勤明け、ちょうど帰り道にあって何となく入ってみた。コーヒーは絶品。モーニングはトーストとゆで卵という定番メニューだが、厚めのトーストの焼き具合は抜群だ。以来、この近くの警備の仕事が入ると、朝はここに寄るようになった。
「最近、彼女さんとはどうですか?」
「うーん、最近、夜勤が多くてあんまり会えていないんだ」
「そうですか……」
そう返事をしたマスターが一瞬、安堵したかのように見えた、気のせいだろうか。
「……?」
俺と彼女はちょうど1年くらい前に知り合った。とても可愛い子だ、初めて会ったのは電車の中、何度も目が合ったのが切っ掛けだ。
彼女は恥ずかしがり屋で、一緒にいてもあまり俺と目を合わさない、俺としては可愛い彼女の顔をもっと見ていたいのだが、最近、目が合うと彼女はすぐに視線を外す。夜勤続きであんまり会えないからもしかすると怒っているのかも知れない。近いうちにゆっくりと時間を取ってあげなければと思う。
俺には苦い過去がある、昔付き合っていた彼女が目の前で電車に飛びこんだ。俺は何とか、彼女を止めようと手を差し出したのだが、彼女はその俺の手を払って仰け反る様にしてホームから後ろ向きに落ちた。
その後、俺は警察の取り調べを受けた。でも俺は彼女の体に触れてはいない。俺は彼女を何とか引き留めたかったのに―――あの時の彼女の恐怖の表情が俺は忘れられない。彼女の体が宙に舞ったとき、俺を見た彼女のあの目が……。
あれいからもう、2度と彼女など出来ないと思っていたが、人間とは忘れる生き物なのだろうか。否、俺は決して忘れていない、あの彼女の断末魔と駅構内に鳴り響いたけたたましい警笛の音を。それでも、こうして俺は新しい恋をしている。しかも彼女が死んでから既に3人目だ、どの女性とも長く続かないのはやはり、彼女の事が尾を引いているのかも知れない。
今度こそは穏やかな恋を育みたいと考えているのだが…。
「最近、身の回りで変わった事は起きていませんか?」
マスターの不意の質問に俺は顔をあげる。
「変わった事?特にないけど?」
「そうですか……なら良いのですけど」
「何だよ、それ、気になるなあ」
「いえ、ちょっと、お疲れになっているように見えたもので」
「そう?やっぱり夜勤続きだと自分でも気づかないうちに疲れているのかな」
そう応えた時、マスターがチラッと窓際の方に視線を走らせた。俺はゆっくりと振り返る。窓際には年配の女性が1人座っていた。品の良さそうな婦人だ。
「何?あの女の人が何かあるの?」
「あ、いえ、そういうわけではありません」
「そう?」
「今日は真っすぐお帰りですか?」
「うん、まあ。ちょっと彼女の様子を見てから帰ろうかなとは思っているけど」
「……そうですか」
実は、そうゆっくりもしていられないのだ。この時間だとうまく行けば、彼女の乗る電車に間に合うかもしれない。最近、タイミングが合わなくて彼女と会えない事が多い。だから、余計彼女の機嫌が悪くなるのだ。
電車の中で彼女を見付けると俺はそっと目配せを送る。彼女は嬉しそうに微笑み返す。そのたった何分かの時間を俺達は楽しんでいる。満員電車の中で身動きは出来ないが心は繋がっていると感じる事が出来る。とても温かい時間だ。
彼女もきっとその事に安心感を持っている筈だ、俺にはそれが分かる。
「あ、俺、もうそろそろ行かなければ」
「あ……でも、もう少し」
「何?」
「新しいコーヒー豆が入ったのですよ、とても美味しくて。サービスしますよ」
「ホント?あ、ダメダメ。今日こそは彼女に会わなければ!でないと来られちゃうよ」
俺の言葉にマスターは目を伏せる。がっかりしてるみたいだ。
(断って悪かったかな…)
でも仕方ない、俺と彼女は勤務時間が合わなくてデートもままならない。こうやって俺の帰る時間と彼女の出勤時間の電車が合うわずかな時間でも俺達には大事な時間なんだ。
「じゃあね、マスター」
終
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