第36話 謝罪
あの声が聞こえる――(遥斗の場合)
「いらっしゃいませ」
今日また僕はここにきてしまった。そしてそっと、中を見回す。……いない。あの女の人はいない――いや、いるはずがないのは分かってる。だって、とっくに死んでいるのだから。でも、この前、僕には、確かに見えたんだ。頭から血を流しながら、僕を見て……笑っていた。あの人が。
「どうかしましたか?」
僕の様子に気づいたマスターが、静かに声をかけてくる。すべてを見透かしているような口調に聞こえる。
「あの……今日は、鶯色のワンピースを着た人は……」
「さあ? そういう方は見てませんが」
「……そう、ですよね」
でも――あの時、マスターも確かに、あの女の人を見ていたような気がした。気のせいだったのだろうか。
(……やっぱり、気のせいだよな)
そりゃそうだ。幽霊なんて、現実には存在しない。しかも僕に微笑みかけて、声までかけてきたなんて……あるわけがない。幻だ。妄想だ。――そう思おうとしても、僕の心はざわついていた。子供の時と同じように、。また逃げてしまった。でも、誰だって怖いに違いない。怖くて逃げたくなるというもんだ。この世にいないはずの人が、血を流して僕を見上げて笑ったら……誰だって、きっと。
「今日は……少し、苦いコーヒーが飲みたい気分で」
「では、マンデリンなどいかがでしょう?」
「うーん、よく分からないけど……マスターのお勧めなら、それで」
「承知しました」
このマスターは――何だか掴みどころがない。静かすぎるその所作と、何もかも見えているような目。嫌な感じがするわけじゃない。
「ああ……そういえば」
「……ん?」
「もう何年も前になりますが。よく鶯色のワンピースを着た女性、うちにいらしてましたよ」
「えっ……」
「いつもあの窓際の、隅の席に座って。キリマンジャロを好んでおられましたね」
「……それで、その人は?」
「何年か前、交通事故でお亡くなりになったそうです」
「あ……」
……やっぱり。僕はあの女の人に、呼ばれたんだ。この場所に。生きていたときも、死んでからも。マスターは、どこまで知っているのだろう。いや、知っているはずはない。僕はあの事を誰にも言ったことはない。
「その女性が亡くなられた後に、主人がときどき顔を出されてましたけどね。……でももう、お見えにはならないでしょうね」
「どうして?」
「もう片が付きそうですから」
「どういう意味?」
「いえ…」
マスターはふっと目を伏せ、ゆっくりと彼女が座っていた席のほうへ視線を向けた。
あの女の人は、僕を……恨んでいるのだろうか。だから、僕の前に現れたのだろうか。僕は、ずっとこの罪を――答えのない問いを、抱えたまま生きていくのだろうか。……僕のせいで、死んだんだ。けれど。後ろから追突してきた車はスピード違反だった。僕は、悪くないはずだ。でも、違う。言い訳がしたいんじゃない。
(ごめんなさい)
本当は、ただそれだけを言いたかったのに。僕は、逃げた。だからきっと、怖いんだ。だから――見えるはずのないものが、見えてしまうんだ。
「大丈夫」
「……え?」
「きっと、大丈夫ですよ」
マスターは、コーヒーを静かにカウンターに置きながらそう言った。
「何のこと……ですか?」
「いえ。ただ、なんとなく……」
やっぱり、このマスターは……変だ。でもその言葉は、僕が今一番欲しかったものだった。なぜ、分かったのだろう。
会いたくないのに、見たくないのに、信じたくないのに。ここに来れば会えるかもしれない――そう思いながら、僕はまたここに来てしまう。
そしてまた、聞こえるんだ。どこからともなく、あの声が。
――やっと……会えたわね――
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらは短編連作となります。
この話は第11話「私の席」、第23話「この世の狭間」、第27話「消えた女性」と繋がっています。
またこちらの第1話「君の面影」、第4話「淡い想い」と関連があります。
合わせてお読みいただければ幸いです。
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