第32話 何もしていない
悪いのは俺じゃない――(遼一の場合)
暗闇が怖い──あの事故を目撃して以来、私には現実には存在しないものが見えるようになった。
ただの幻だ。それは分かっている。でも、暗闇の中に立つあの影が、私を睨んでくる。毎日毎日、あの女性の影が、私の後ろに現れる。幻にすぎないはずなのに、だ。本当に幻なのか? 本当に、いないものを見ているだけなのか?最近では、そうとは思えなくなってきている。
……でも私は何もしていない。ただ、見たことを黙っていただけだ。恨むなら、あの付きまとっていた男を恨めばいいじゃないか。なのに、なぜ私のまわりをうろつく。近頃じゃ夢にまで出てくる。
あの女性が電車のライトに照らされた瞬間の映像が、何度も脳裏に浮かんでは消える。繰り返し、繰り返し──そのたびに、女性は怯えたように、私を見る。……でも、あんな状況で私に何ができたというんだ。あれは、本当に一瞬の出来事だった。女性の縋るような目が私を見て、私がその目から視線を逸らしたその瞬間には、もうあの女性は宙を舞っていたんだ。電車が入ってきたのは、ただ運が悪かっただけじゃないか。
それに、私はあの男のことを何も知らない。名前も、素性も。あの男が直接、女性を突き落としたわけでもない。なのにどうしろと?何ができるというんだ?
──でも。
落ちた原因があの男にあるのは明白だ。私は、二人の会話を聞いていたのだから。
* * *
「いらっしゃいませ」
「やあ……」
「どうしました?ずいぶんお疲れの様子ですね」
「マスター、前に話した幽霊の話……覚えてる?」
「ええ。よく覚えていますよ」
「実は……私は、その幽霊に心当たりがあるんだ」
私は、以前ホームから線路に落ちて死んだ女性を、目撃していたとマスターに話した。もう1人で抱えていることに、耐えきれなくなっていた。だからといって、身近な人には話せない。黙っていたと知られたら、なんで助けてあげなかったんだ、って非難されるかもしれない。結局私は、自分の保身を優先してしまっているんだ。それでも、誰かに救いを求めたかった。肩の荷を下ろしたかった。──そういう、狡い男なんだ、私は。……ただ、それを認めたくないだけで。
「そんなことがあったんですか」
「でも、私を恨むのは筋違いだと思わないか?私は何もしていないんだ」
「そうですね……でも、恨んでいるわけではないのかもしれませんよ」
「じゃあ、何だ?」
「助けてほしいのでは?」
「助けてほしいって……もう死んでるんだぞ?どうしようもないだろ。死んだ人間に、何をしてやれるっていうんだ?今さら生き返らせるなんて魔法みたいなこと、できるはずもないし」
「自分の死の真相を伝えたい誰かがいるのかもしれません。ただの事故ではなかった、と。それを伝えられるのは、あなただけだと思っているのでは?」
「私だけ……」
「ただの憶測ですけどね。何となく、そんな気がしただけです」
そう言われて、あの時の女性の目が頭に浮かぶ。あれは睨んでいるのではなく、何かを訴えていたのか?助けなかった事を恨んでいるのじゃないのか……?
あの日の、あの縋るような目──あの女性だって、きっと分かっていなかった。まさか、あんなことになるなんて。
そりゃそうだ。あんなふうに自分の人生が終わるなんて、ほんの数秒前まであの女性も思ってもいなかったはずだ。自分の身に起きたことを、一番信じられないのは女性自身なのだろう。
「そうだな……あんな簡単にこの世から去ってしまうなんて、思いもよらなかっただろうしな……」
私のその言葉に、マスターは特に何も言わなかった。
「コーヒー、冷めますよ」
「あ、ああ、ありがとう。……ここのコーヒーは、相変わらず旨いな。そういえば、私はいつからこのカフェに来てたんだっけ? ずっと前から来てた気がするんだが、何だかそのへんがはっきりしないんだよ」
「さあ、いつでしたかね」
マスターは意味ありげに微笑んだ。
──何もしていない。それこそが、私の罪だ。ここを出たら、警察に話そう。私が見たことを、すべて。今さらどうなるか分からない。無駄に終わるかもしれない。それでも、それが私にできる唯一のことだ。唯一、楽になれる方法だ。
やっぱり、私は狡い人間なんだ。でも、仕方ない。それが、私なのだ――もう、認めるしかない……。
「ご馳走様、マスター」
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらは短編連作となります。
こちらのお話しは第14話「罪の意識」と繋がっています。
また第5話「彼女」、第7話「視線」、第12話「疑惑」、第19話「偶然」、第22話「私を殺した男」、第28話「足音」と関連があります。
合わせてお読みいただければ幸いです。
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