第20話 記憶
会いたい人と恐怖の中の人――(真央の場合2)
(私……あの人を知っている)
カウンターの男性を見て、私はそう思いました。私の中にある、かすかな記憶が呼び覚まされるような不思議な感覚。
私は、自分が死んでから何年経ったのかさえ分からないのです。死んでからは、時間の経過が生きている時とは違うように思います。真っ暗闇の中にいるかと思えば、いきなり目の前が開けたりする。その間にどれくらい経ったのか、まるで見当がつかないのです。
でも、目の前に懐かしい人がいる。私は、そう感じました。
どこかの部屋にいる私が浮かびます。私は誰かに話しかけているようです。
「ねえ、このコーヒーはどう?」
そうだ、私はコーヒーが大好きで、いつもいろんなコーヒー豆を買い置きして、それを自分でいろいろブレンドして淹れるのが好きでした。
彼は、それをいつも美味しそうに飲んでくれました。その彼の姿が、今、こちらに背を向けて座っている男性の姿と重なりました。
(あの人だ……)
あの人が、私の好きだった人だと思いました。私と彼は、結婚の約束をしていたはずです。なんだかあまりにも遠い日の出来事で、記憶がはっきりしないのですが……。
彼は私が突然いなくなって、どう感じたのでしょうか。泣いたでしょうか。あれから何年経ったのか――よく分からない。もう彼は、私のことなど忘れてしまったでしょうか。
「私、ここにいるよ」
私は、そっと呼びかけてみました。すると彼がこちらを振り返りました。私の声が聞こえたのでしょうか。死んでから、ずいぶんと彷徨っていたように思いますが、私の声を聞いてくれた人は1人もいません。でも彼の眼はやはり私を捉えてはいませんでした。やはり……見えてはいないようです。
でも、間違いない。私がコーヒーを淹れてあげていたのは、この彼です。
彼の笑顔や、一緒にいた時間が私の中を駆け巡ります。とても楽しかった時。一緒にいる時間は、いつも満たされていました。
忘れていた懐かしい記憶が、私の中に蘇りました。
(私はここよ、お願い。私を見て。気づいて)
そう思った時、彼が私の方を見たように感じました。でも、どこか怯えたような顔をしています。視えているのでしょうか?だとしたら、どんなふうに? とても気になります。
そしてまた、何かが私の頭の中に浮かび上がろうとしています。さっきとは違う光景。
(あれは……屋上?)
彼を見て、生前の他の記憶も蘇ろうとしているのかもしれません。
ビルの屋上にいる私。あれは、私が働いていたオフィスのあるビルの屋上のようです。目の前に見知った人がいます。でも、顔がはっきりとは分かりません。分かるのは、私がその人を知っているということだけです。本当に、何もかもがはっきりしない。でもこれは、きっととても大事なことなのだということが分かります。
頭がガンガンする。もう痛みなど何も感じないはずなのに、思い出そうとすると、あの「落ちていく時の感覚」が蘇るのです。体が宙に浮いて、地面に叩きつけられる瞬間。いえ、正確には、私が叩きつけられたのは地面ではなく――少年、なのですが。
その少年とは、今もずっと一緒にいるのですが、意思の疎通はできません。こんなに近くにいるのに。
でも、今は頭に浮かんだことを整理したほうが良さそうです。私は屋上から落ちる前に、誰かと一緒にいました。あれは――誰だったのでしょう。
――私は、君を大切に思っているのだよ――
ゾワッとした感触と共に浮かぶ言葉。その男は、確かにそう言いました。
その男は……そうだ、最初はとても優しかったように思います。私はその男をとても信頼していました。でも、いつの頃からか、その人は私を特別な目で見るようになりました。私は、それがとても不快だったのです。男の顔が浮かぶようで、浮かばない。もしかしたら、私が死んだのはその男に関係があるのかもしれません。
「気持ち悪い……」
ああ、そうだ……あの言葉を放ったのは、私です。私は、自分が死んだ原因が分からないから、未だにこの世を彷徨っているのではないかと、最近思うようになりました。
だから、それさえ思い出せば、きっと私は新しく生まれ変わることができるのではと。私は、自分がなぜ死んだのか分からないから、この世に未練があるのではないかと思うのです。それとも、この私と一緒にいる少年が、自分はもう死んでいることに気づいてくれれば、一緒にあの世とやらに行けるのかもしれない、とも思っています。
また、頭の中に誰かが浮かぶ。落ちていく私を見ている男――そして、誰かの声が聞こえます。誰かの叫ぶ声。あれは女性の声でしょうか? 記憶が呼び覚まされるような感覚。はっきりと浮かび上がる男の顔。
あの男は―――。
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらのお話しは第6話「離れられない」と繋がっています。
また第2話「曖昧な記憶」、第10話「誕生日」、第14話「罪の意識」、第16話「消えない光景」と関連があります。
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